二章 矛盾破綻

悪夢の螺旋

 夜半。物音が聞こえて、アントンは目が覚めた。

 真っ暗な室内。それなのに天井がはっきり見える。ぼんやりとした意識に、物音が忍びこんでくる。何の音だろう、とアントンは首を巡らす。

 絶え間ないその音は、衣擦れにも似ていた。

 少し行っては休み、少し進んでは休み――近寄ってくる?

 べたり。

 濡れた手で床を叩くような音。アントンの胃の腑は縮みあがる。けれど、動けない。全身が石になったように、目しか動かせない。

 床からベッドへ、手が伸びてくる。赤黒い血にまみれた子供の手が、がたがたと探るように世話しなくうごめく。その手が縁をつかむと、顔が現れる。

 緑がかった皮膚の、腫れあがったように膨らんだ顔。死して腐乱し変色した皮膚、漏れて滴る腐った脳髄、白く濁った眼球。あまりにも変わり果てたその顔は、たとえ親族だろうと識別できまいに、アントンにはそれが誰か分かった。

 乾いてしわだらけになり、白濁した眼球で自分を見るのは――自分が初めて殺した友達、ハンス。農奴の子として生まれ、冥獄よりもむごい扱いに安堵していた少年。

 その腕が、自分の首をつかむ。あまりの力に腐った肉が破れ、骨が喉に食いこむ。ハンスだったものの顔は、苦しみあえぐ自分をじいっと見つめている。

 苦しみのなかで、アントンは天井に誰かがはりつけになっていることに気がついた。

 それは、ホルガーだった。自分がまだ、世界はドラウフゲンガーの村だけと思っていた頃の兄貴分。裸のホルガーは泣き叫ぶ。その腹がひとりでにぱっくりと裂けるや、おびただしい流血とともに臓腑が落ちてくる。湯気立つ青いきも蠕動ぜんどうする細長い腸、脈動する心の臓が。アントンのあえぐ口へ、熱い血と消化物が入る。

 ハンスだったものはさらにきつく首を絞めあげる。もはや窒息を待たず、頸をし折るつもりらしかった。ホルガーだったものは、いつの間にか笑っている。気狂いのように笑いながら、皮と筋肉が剥がれ、頭蓋骨のみになる。

 べきり。自分の骨が折れる感触がした。


 急に体が動くようになり、アントンは宙を泳いだ。両手両足が空を切り、ようやく彼は目覚めている自分を見出す。

 全身はびっしょり濡れて、冷えきっていた。窓からは月明かりが差しこんでいて、室内は存外に明るかった。激しい呼吸音にあわせて、頭のなかがずきずきする。

「夢か……?」

 自分の顔をなでる。冷たい脂汗で手がびっしょりになる。室内は蒼い月光に照らし出され、そこかしこに黒い暗がりがあった。その影のどれかに、先ほどの腐乱死体が隠れているような気がしてならなかった。

 ……ここ最近、眠りが浅い。毎日の仕事で体はひどく重いのに眠れない。そしてやっと寝つけたかと思えば、これだ。

 寝直そうと思ったが、こう凍えていては眠れるものも眠れない。何か温かいものが欲しかったが、この時間ではメイドも眠っている。アントンはあきらめて起きだすと、厚着をして外出の支度をした。散歩でもすれば、マシになるかもしれない。

 ふと、ベッドの柱にかけたベルトに目が行く。そこには大小の刃物が収まっている。そして、街中とはいえ夜に出歩くのは物騒かと思い、彼はベルトを腰に巻いた。


 アントンは黄銅の騎士の屋敷をこっそりと抜けだした。ちら、と館をふりかえると、見慣れている昼の姿とどこか違和感があった。どことはわからないが、恐ろしかった。

 ケルンエヒト東部にある、黄銅の騎士の館。アントンはこの館に部屋を貰っていた。とはいえ、屋敷の主である黄銅の騎士は週に二、三回帰ってくればいい方で、帰ってきても用をすませばさっさと出ていくのが常だった。メイドたちは、一度だけ食事を用意したことがあるとか、ベッドにホコリが積もっていても気づかれなかったとか、そういう四方山話よもやまばなしで暇をつぶしていた。だからアントンがやってきた日には、やっとまともに仕事ができるとメイドたちは喜んだものだ。今では貴族生まれの執事さえ、アントンに伺いをたてる始末だった。

 そんな人気のない屋敷から抜けだすのは簡単だった。アントンは春に備えて剪定を終えた庭園を抜け、ケルンエヒトの雑踏へ向かう。

 昼と違い、夜更けともなるとまるで人通りがなかった。半分の月は街路をあかるく照らしだすが、そこここに真っ黒な闇がとぐろを巻いている。狭い通りを抜ける鋭い風が、屋根を揺らしてはアントンをあおる。冷たい風に体は冷えるが、どことなく、アントンは心が安らぐのを感じた。

 十字路に差しかかり、アントンは立ち止まる。

 月は傘を背にまばゆく輝き、彼を青白く染める。前後左右、どこにも人の影はない。

 誰も自分を見ていなければ、おれも誰も見ることがない。誰とも出会うことがない。――それがなかなかどうして、心地よかった。

 と、屋台を探すんだった。夜通しやっている店があるはず。市場へゆこう。

 ――そう、角を曲がろうとした時だった。

「なにしやがる!」

 叫び声、打撃音。アントンは声なく飛びあがり、後ろを振り返った。細い路地から飛びだした木箱が転がり、勢いを失い、最後にぱたんと蓋が落ちる。一瞬の静寂。

「何を……おい、やめろ!」

 甲高い叫びに、揉みあい壁が砕ける音。

 そして――くぐもったうめき声、滴る液体の声。

 それらを聞き、アントンの胸は早鐘を打ちはじめる。目の前が赤くなってくる。

 しんと静まりかえった空に響く、滴る水音。流血だ、と彼は確信した。

 どうすれば、どうすればいい――とまどいとは裏腹に、足は歩みだし、駆けだした。彼は何かに急きたてられるように、その狭い路地に近づき、なかを覗きこんだ。

 そこでは、食い詰めた浮浪者がダガーを手に、小さな人影ふたつともみあっていた。その男の顔には青黒い斑点がいくつもあり、あきらかにやせ衰えていた。

 その顔を彩る、鮮血の赤。月にさえ隠れた暗がりにありながら、彼にはそこだけが鮮明に、赤く光っているようにさえ見えた。

「ガキのクセに……! もう許さねえ、二度と見れねえ顔にしてやる」

 ウソだろ、とアントンは青褪める。相手は物陰で見えないが、片方がもうひとりをかばっている。兄弟か。身の丈はまだ子供だ。なのにあの男は、身勝手にも――

 がたん。アントンは凍りつく。さっきの木箱――!

 ぎろり、と病んだ男の視線がアントンを射抜く。

「なんだ、てめえ。おま、お前も俺を馬鹿にしにきたのか?」

 まずい、どうすれば、このままじゃ――

「全部、この病気が悪いんだ……俺は悪くねえ! どいつも、こいつも……!」

 アントンは釈明しようと口をぱくぱくさせるが、何ひとつ声が出せなかった。

 ちがう、ぼくは、おれは――

「お前から、ハラワタをぶち撒けてやる!」

 白刃。その煌めきが、彼の視界を埋め尽くす。


「やめッ――!」

 起きあがったアントンはがむしゃらに腕を振った。なにもかもが空を切り、次には無意識に身構えた。

 ――ちゅんちゅん、と雀の声。

 恐る恐る目を開くと、そこは自室。黄色く色づいた朝日が、窓から差しこんでいる。

「夢か……」

 アントンは脱力し、溺水から引き揚げられたように、浅く、速く息をくりかえした。

 ひどい悪夢だった。あまりにも鮮明で、血の臭いすらまだあるかのよう。

 そのとき、遠くから鐘の音が聞こえてきた。時刻を知らせる、教会の鐘。

「……え? やっべ!」

 もう、とうに城に出ていなければならない時間だった。アントンは枕元のベルトを巻くや、あわててベッドを飛びだした。階下に走り降りると、ふたりのメイドが話しこんでいた。メイドのひとりはアントンを見るなり、急になにか思いだした顔になる。

「あっ、アントンさん」

「なに! ちょっと急いでるんですけど!」

「寝坊は今更じゃないですか。ほら、昨日の洗い物。ちょっと遅くなりそうなんですけど、いいですか?」

 洗い物? なにか頼んだっけ? 「大丈夫! それよりなにか、食べるものある?」

 メイドは顔を見あわせ、片方は眉をひそめた。先に声をかけた方が、これしかないですけど、とテーブルの上を指さした。

 アントンは黒パンをくわえて館を飛びだす。むごむごと飲みくだし、喉につかえて胸を叩く。雑踏はすでに芋を洗うような人混みで、アントンは間を縫うように走る。顔をあげればもう城は見えているのに、急いでいる時はそれが遠い。

 大路を抜け、吊橋を渡り、門番にからかわれるのをかわして城に駆けこむ。

 やっとのことで大広間に入ったが、途端に彼はぎょっとした。普段は人もまばらな広間に、みっちりと人垣ができていた。みな兵士で、非番の者さえ招集されている。

「こっちだ! おいアントン!」

 囁くようなハインの声が、静かな広間に響く。辺りを見回して、最前列でハインが自分に手を振っているのを見つける。

 そちらにこそこそと端を通って向かうと、開口一番に罵声とゲンコツをもらった。

「バカヤロ、こんな大事な時に遅れて来るんじゃねえ」

 ごめんと囁くが、いいから話を聞いてろとハインは打ち切る。

 集められている兵士は、アントンも顔馴染みのものが半分ほどで、残りは知らない顔ばかりだった。中には浮浪者に近いやつれた者や、青い顔に黒いあばたをこさえた病人、小人や犬人さえおり、傭兵というにはどうにも質が悪かった。

 黄銅の騎士は魔剣で床を突く。その甲高い音で耳目を集めると、魔剣を両手で支え、朗々と声を張る。その威厳にアントンは惚れ惚れしたが、その内容は前が抜けていてよく分からなかった。どうもケルンエヒトに密偵が潜りこんでいて、それを炙りだすために増員をかけたらしい。

「――以上。貴殿らの働きに期待する。ハイヌルフ、イレーネ。貴殿らから補うべき事項はあるか」

 隣のハインは首を振る。そのとき、黄銅の騎士の陰から、白い聖女が一歩前に出る。

「状況についてはなにも。ただ、わたしどもの行いはすべて神意にもとづくものと、あらためてここに宣言します。主の善意を愚弄する奸賊かんぞくには、ことごとく主の御心を知らしめねばなりません。御父の御言葉が理解できない賊ならば、ことも必要でしょう」

 貼りついた笑みを深めて、イレーネは下がった。その丁寧な言葉はつまるところ、怪しい者は殺してもよいと言外に言っていた。傭兵の中には、お墨付きを得てほくそ笑む者すらいた。アントンはそんな傭兵に、イレーネにも胸糞悪いものを覚えた。

「可能なかぎり、捕らえた者は我らにあらためられる状態で持参せよ。さもなくば褒賞は与えられん。以上、解散」

 そう、黄銅の騎士が釘を刺す。舌打ちをした者もいたが、一団はぞろぞろと城外に出たり、持ち場に戻ったりしていった。

 黄銅の騎士は魔剣を鞘に収め、アントンの方に歩み寄る。

「あっ……その、おれ……」

「アントン。昨日は惜しかった。だが、あの使い魔は貴重な転移術式を消費して逃走したとおぼしい。おそらく、次はなかろう」

 ぽかんと口をあけて、アントンはハインの顔を見た。

「おまえのおかげで、敵の奥の手を削れたんだと。お手柄だ。褒められてんだぜ」

 そう、ハインは目を合わせず、にやっと笑った。

 アントンは嬉しさのあまり足踏みして、ありがとうございます、と顔を輝かせた。

「だが、時間はもう少し守るようにな」

 喜んだのも束の間、自分まで釘を刺され、アントンは気まずく頭を掻いた。

「分かればよい。さあ、忙しくなるぞ」

 黄銅の騎士はそのまま歩きだす。ハインとアントンもそれに従う。

 そのときふと、視界の端にイレーネが映った。聖女は小さな人影と話していた。

「おい、ちょっと待ってくれよ、聖女サマよ」

 半ばつっかかるように話しかけているのは、ヘルテフースだった。アントンはその顔に見覚えがあった。確か走り使いとして雇われている、オルゼリドとかいう小人だ。

「どうされましたか。わたしになにか、ごようでも?」

「お前さんにはねえ。あるのは、その背中の業物だ」

 アントンはそれを聞いてはじめて、イレーネの背中に見慣れないものがあることに気づいた。それは古めかしいこしらえのレイピアで、装飾はないに等しい。十字になった鍔にダリアの花に似た細かな彫り込みがある程度で、燻し銀に近い光沢を放っていた。アントンのレイピアよりもさらに小振りで、イレーネのような小さな子供にようやく釣りあうものだ。だが、いくら地味でも、昨日はなかったはずだ。

「それをどこで手に入れた? 答えろ」

 いつもは人間にゴマをすってばかりの小人が、いつになく詰問する。

 だが、対する聖女はどこ吹く風。

「ともだちから、いただいたものですよ。これがなにか?」

……ね。そいで、その友達はどこのどいつだ?」

「――それを知って、どうするのです?」

 白い聖女の声が、にわかに白刃のような鋭さを帯びる。すると小人は、剣呑剣呑、とおどけてかわす。

「なに……そいつは行方知れずのオレの相棒が、後生大事にしてたモンでね。

 お前さんがオレの相棒を知ってるんじゃねえかと思っただけさ」

 そう聞き、イレーネは興味を失ったようにもとどおりの声――慇懃いんぎんな声音に戻った。

「あなたの旧友だったのですね――は。わたしからは、なにももうしあげるつもりはありません。ただ、正気をうしなっていたとだけ、おつたえしましょう」

 イレーネはそのまま「ごきげんよう」と一礼し、背を向ける。

「おい待てよ! そんなことは分かってる、まだ話は終わってねえ!」

 かみつく小人に、イレーネは立ち止まる。

「この剣をいただいたのは、昨日の夜、あなたが会った子ですよ」

「……なんだと」

 小人は言葉を失う。そういうことかよ、と呟き、手を握ったり開いたりする。

「おい、アントン! なにボサッと立ってんだ。さっさと巡回に行くぞ!」

 後ろからの声に、アントンは現実に引き戻される。今行くと答えるが、その小人が妙に気になった。宮仕えの小人というだけで印象に残っていたのもあるが、何か――

 その小人は外に出ようとアントンの方へ歩いて来るなり、目を丸くして飛び退いた。

「おまっ――そうか、どこかで見覚えのある顔だと思ったら……」

「え……? オルゼリド、さん、でしたよね。おれが何か?」

 オルゼリドは答えず、そそくさと脇を通りすぎる。

 その時。

 誰に命ぜられたわけでもなく、アントンの腕が、小人のくびに伸びる。

「おい、早くしろっつってんだろが!」

 ハインに頭をはたかれ、アントンは我に返った。オルゼリドは足早に立ち去っていく。

「おれ、いま……?」

 彼は、自分が何をしようとしていたのか理解できずにいた。頭に血が昇ったような、夢うつつになったような――不可解な感触だった。頭に霧がかかり、判然としない。

「アントン! きいてんのか!」

 大声を浴びせかけられ、ようやくアントンは気がついた。彼の目の前でがなりたてるハインにも、自分が置かれている状況にも。


 アントンは本日三回目のゲンコツを頂戴して、ブーブー文句を垂れながらハインについていった。

「最近、おかしいぜ。アントン、ちゃんとねてるか、食ってるか?」

「うるさいなあ、もう謝っただろ!」

 素直に答えないのを見て、ははあ、とハインは訳知り顔になる。

「さては、昨日も夜更けに出歩いたな? そんな時間があるなら、ちゃんとナイフを研いどけってんだ」

「なっ――出歩いてねえよ! それに、ハインには関係ないだろ!」

「あるぜ、おれぁ師匠だからな。夜遊びは楽しいけどよ、厄介ごとに巻きこまれるぜ。夜に出歩くのは、おてんとさまの下を堂々と歩けねえ連中ばっかだからな」

 アントンはすぐに言いかえそうとしたが、言葉に詰まった。

 たしかに、自分もそういう連中には違いなかったから。

「……だから、誰が師匠だよ! それで、今日は昨日のやつらを捜すってわけ?」

 急に変わった話題を気にもせず、そうそう、とハインは相槌を打つ。

「おれとおまえで密偵スパイをあぶりだすんだ。もう昨日みたいに、取り逃がしたりしねぇ」

「ハインと、おれで? 相手は犬人だけど、秘術師ウィザードなんだろ。瞬間移動とか透明とか、そういう魔法を使うっていう……そんなのどうやって捕まえるのさ」

 ふっふっふ、とハインは自分の目尻をとんとんと指差し、得意げに鼻を鳴らした。

「こちとら秘術師の数じゃ負けてねぇ。相手の作戦タネが割れてりゃ、対策できるんだよ」

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