陣地にて

 街外れの森。ひっそりとたたずむ木こり小屋。窓のそとに見える空は、深い群青に沈みゆく。紅の残照に照らしだされる鱗雲だけが、青い空にぽっかりと浮いていた。

 リタを引き連れ、自らの領域に戻ってきたハインは、抜け目なく陣地をあらためる。魔力の流れに異常がないことを確認してから、ドアを開いた。

「ただいまー!」

 リタの声に反応して、慌てた泥棒のように騒々しい物音が立つ。真っ暗な室内へ、ハインは俺だと声をかける。

「っ……あ、あぁ。なんだ、ハインか。おかえり、ハイン。それにリタも」

 ハインは指を鳴らし、卓上の燭台に火をつける。部屋の隅で小さくなっていたのはウラだった。ウラは抜きかけたナイフを収めるが、我にもあらずの様子だった。

「……だいじょぶ? ウラさん」

「あ、……ありがとう。大丈夫だよ、問題ない」

 ぶち模様の犬人は、震えていた。ハインはウラに視線をやり、声をかけようとする。

「ウラ――」

「大丈夫だってば! ぼ、ぼくも戦える、蒼紋兵だって倒せたでしょ!」

 目をぎらつかせ、ウラはまくしたてる。ハインは何も言えなくなり、口をつぐんだ。 重くのしかかった沈黙に、いや、とハインはをあげる。

「……食事の話、だ。煮炊きするから、手伝ってくれないか」


 ルオッサが飛びだしてから、ハインは城下の情報収集に戻っていた。兵の食糧や、呪文起動に必要な宝玉をどこに蓄えているか調査した。だが一部の古代の遺物アーティファクトを除き、流路をつかむことはできなかった。カブを洗いながらウラに成果をたずねるも、商人の数は確かに多いが、その数はケルンエヒトの規模から考えれば少ないほどだった。

 ハインは夕食の支度をしながら、小屋を囲む結界に神経を張り巡らす。異常はない。だが、ルオッサを探すよう頼んだダンも戻ってこない。

 ――ルオッサ。

 時折、ルオッサは狂犬ではない、普通の少女に似た顔を覗かせる。そこからみえるルオッサ――ロスコー・ドラウフゲンガーは、過剰に誇り高く高慢ではあるものの、同時に敬虔けいけんで繊細な人物だった。

 ハインはルオッサを仲間に引きこんでから、片手間にルオッサの情報を集めていた。当初は目星こそあれ確証は得られず、ふたりきりになればあの物言いなこともあり、よほど本人に占術や自白呪文コンフェッションをかけて確かめようかと思ったものだ。

 いま思えば、信頼を損なう呪文しゅだんに訴えなくて正解だった。ドラウフゲンガー事件でルオッサはボロを出し、そこからナズルトーの戦役に出陣した督戦隊副官に繋がった。そうして、病弱な兄を持つクライナードラッヘ家の長女として生まれるも、疎まれてドラウフゲンガー家に売られ、最後は戦場に捨てられた鬼才の略歴は明らかになった。

 ……公平ではないな、とハインは思う。ルオッサの略歴が分かったからこそ、彼は止水卿の許しを得てこの局面まで同伴できた。だが、自分はなにも明かしていない。ルオッサは自分をただの犬人ではないと、初対面で見抜いていたのに、だ。

 ルオッサは問うた。――なぜ自分を、こんな戦さが近い局面にまで連れてきた、と。

 たしかに面妖な存在ではある。拒絶すれば這い寄り、世話を焼けばするりと逃げる。人狼のくせに猫じみた、常に意識させる魅力のある――

 そう。ルオッサは子供だ。出会って一年以上も経つというのに、成長の兆しもない。恐らく、狼人病の変身に養分を取られ、成長が止まっているのだろう。

「……子供、か」

「えっ、なに。どうかしたの、ハイン」

 隣でカブの皮を剥いていたウラが、挙動不審にききかえす。

「いや……なんでもない」

「え、いまこどもって……そういや、ハインって子供いないよね。もうけっこういいトシなのにさ。まあ、ハインはぼくらとは違うしね」

「……そうだな」

 ウラはようやく、少しだけ元の人懐こい笑みを浮かべた。このあどけない、まだら模様の犬人も、十を超える仔の父であり、サーインフェルクでは今もその半分が生き残っている。犬人は年に何回も激烈な発情期を迎え、その度に犬猫のように仔を産む。竜人ドラコの加護なきサーインフェルクでは、一度のお産が全滅に終わることも少なくない。だが、それでも犬人は殖える一方だ。

 ハインは空を仰ぐ。いつしか残照は消え去り、空は深い藍に染まっていた。

 あのとき、俺は答えた。おまえもひとりの少女だ。どれだけ拒もうと、おまえにも善性がある。それゆえに俺はおまえを信じる――と。だが実際は、こういうことかもしれない。あの仔を守れず、育てられなかった自分は、代わりに幼子を救いたいと願っている。だから、児戯でなく本当に自分を謀殺できるルオッサに目を奪われた。庇護される者は無力でなければならない。だがルオッサは子供でありながら無力ではなかった。その矛盾に混乱し、その正体を知りたいと思った――ありうる話だ。

 かつて、草人アールヴたちの若き女主人、フェルゼンは言った。幼子には幼いなりの意志があり、それを摘みとってはならないと。そして同時に、大山のように揺るがぬ意志で仕えつづける草人の覚悟に、重圧さえ感じていた。

 犬人には、仔を成してさえ意思の薄弱な者が多い。否、それは人間であっても同じ。ならば、どこで幼子と成人は分かたれるというのだろう。そもそも、はたして自分は成熟しているといえるのだろうか――。考えれば考えると、ルオッサがどちらなのか、自分が判定することさえおこがましく感じた。耳にタコができるほど聞いた、「青い」という師の声が聞こえるようだ。

「おみず、このくらいでいい?」

 不可視の腕で水を汲んできたリタは、尻尾を振って言う。

「ああ、大丈夫だろう。五人分もすまないな、リタ。今日は干し肉も入れてやるぞ」

「えっホント! やったー! じゃあ、わたしも皮むき手伝うよ」

「皮を剥くって――《術師の手メイジ・ハンド》で?

 り、リタ。気持ちは嬉しいけど、それだけは勘弁して……」

 苦笑いするウラに、むぅとリタは黒い唇を膨らませる。《術師の手》は自分の意思で動く透明な腕を創り出す呪文だが、制御はかけられた本人の技量による。リタは以前、リンゴの皮むきで突発的な鎌鼬を無数に発生させ、平和な晩餐を恐怖の渦中に陥れたことがある。これには普段は寡黙な止水卿も頭からスープをかぶったまま、静かに「二度とするな」と食事中の《術師の手》を禁止したものである。

「前科者はつらいな、リタ。

 ――よし。だいたい仕上がったな。ウラ、薪を取りに行くから、ついてきてくれ」

「あっ、うん」

 戸外に出て、肉眼で周囲を警戒する。小屋のまわりはハインの陣地と化しており、魔術的にも物理的にも隠匿されている。その陣地の内はハインの耳目がくまなく張り巡らされているも同然であり、本来なら肉眼と《透視》の結果が異なるはずもない。だが、相手は魔術国家である。用心にこしたことはない。

 ハインとウラは前日に割っておいた薪を集め、藤蔓ふじづるで束ねる。鉈を手に蔓を集めるウラを見て、ハインはいい頃合いかと思った。意を決し、彼はそれを口にした。

「ウラ、言い忘れていたが――よく蒼紋兵を倒してくれた。危ないところだったよ」

 ウラは硬直し、ハインを見た。その顔は蒼紋兵のように青褪めていた。ウラは手をぎこちなく動かしはじめ、鉈を振るうが、うまく切れない。

「……ごめんね、ハイン。ぼくがダンくらい出来がよければ、わざわざ敵を案内するようなこともなかったのに」

「そんなことを言うな。おまえも好きでこんな仕事をしているわけじゃないだろう。おまえは十分にやっているよ」

 何度も鉈を叩きつけて、蔓はようやく切れた。そのほつれた断面を、ウラはじっと見つめている。

「……止水卿も同じことを言ってたよ。ハインはホント、よく似てるよね。

 卿には、何度も行きたくないって言ったんだ。ロンもパテンも――ガルー姉さんも死んだ。今度こそ、ぼくの番だって。

 ……結局、この作戦が終わったら契約を解いてくれるって言うから、来たんだよ。それでもすごくなやんだし……やっぱり、ぼくなんかが来るくらいなら、契約違反で死んだほうがマシだったかもしれない。

 ぼくには向いてないよ。今まではだましだましやってたけど……もう限界。

 ハイン……迷惑をかけたら、ごめんね」

 その、今にも押しつぶされそうな顔に、ハインは言葉につまった。

 ギエムリョースリの兄弟たちは、かつてサーインフェルクで好き放題にふるまっていた。といっても、彼らが特別に悪名高かったわけではない。ただ五人ひとそろいで珍しく、目立つ集団だったにすぎない。……要するに、彼らは見せしめにされたのだ。止水卿に強制され、契約で雁字搦がんじがらめに拘束されて、否応なしに卿の手足として働いた。知恵の指輪を与えられ、多少の肉体強化を施されても、中身は臆病で刹那的な犬人のままだ。たしかに彼らの戦果は、卿の魔術師としての力量を知らしめただけではない。同じ犬人からは、栄えある犬人の誉れと呼ばれることもある。だが――現実はどうだ。

 ハインは胸を痛め、ゆっくりといたわるように言った。

「なら、どうあっても生き残れ。ダンも解放してくれるよう俺からかけあってもいい。……兄弟で余生を過ごすのも、悪くはないだろう」

 だがウラは、卑屈に笑った。

「ダンは死ぬまで働くよ。姉さんが死んでから、ダンは様子がヘンなんだ。まるで、なにかが取り憑いたみたい。……でも、ありがとう。気をつかってくれて。ハインはがついてるわけじゃないのに」

 首輪と聞いて、ハインは目を落とした。それを悟られないよう、彼は命令を下す。

「……しばらくは、この小屋を拠点に活動する。ウラ、おまえは明日から、伏竜将のそれぞれを調べてくれ。連絡役にリタを付ける。……リタがいれば、情報を命懸けで持ち帰る必要もない。自分の安全を優先して構わない」

 ウラは、はっとしてやつれた顔をあげ、すがるように言った。

「ダメだよ……ぼくが臆病風に吹かれたら、何をするか分からない。リタを見捨てて逃げるかもしれないんだよ!」

「……構わない」

 ハインは断言する。その耳がひくひくと動く。ウラはそれでも抗弁する。

「それに、その仕事はルオッサの担当じゃないか……」

「ルオッサも参っているようでな。情報の裏付けが欲しい。ウラ、おまえならできる。――おまえは、一人前なんだから」

 なおももごもごと口ごもるウラに、ハインは力強く、何度も繰り返し言い聞かせた。そうしてやっと、ウラは折れた。「……わかった」

「すまない、助かるよ。皆にはこれまで通り、物流を追っているていでやってくれ。

 ……伏竜将としては、黄銅の騎士とハイヌルフばかりが目立つ。今日、ようやっとイレーネという新入りを見つけたが――もうひとりいるはずなんだ」

「フェルンベルガーとかっていう? 演説や資料に名前が出てるって聞いたけど……ずいぶん古株のやつだよね。前の、ラインハルト王の頃から仕えてる魔術師だっけ。だいぶ年食ってるんじゃない?」

 ハインは首を振る。

「いや。こいつは別人だ。本物のフェルンベルガーは、ナズルトーの大戦役でアイヒマンともども戦死している」

 ウラは薪の山をかつぎ、眉根を寄せる。

「別の誰かが、フェルンベルガーになりすまして伏竜将になってるってこと?」

「フェルンベルガーは先王派だったからな。それに、伏竜将は血花王が自分に忠実な将軍として創設したものだ。仮に生きていたとしても、彼を任ずるとは考えにくい」

「……詳しいね」

「止水卿の調べだ。俺の手持ちじゃない」

 ハインも薪をかつぎながら言う。耳元は見えなかった。

 

 とっぷり日が暮れた頃、ようやくダンは戻ってきた。ダンはやや不機嫌だったが、しっかりと仕事はこなしていた。鍋はちょうどよい塩梅に煮えており、みなで食事をとることになった。

 けれどテーブルには――ひとり、足りなかった。

「あのヤローは影も形もないぜ。通りはおおかた確認したし、盛り場にもいくつか入ったけどよ、ちっともだ」

 玄米とカブの粥をすくいながら、ダンは言った。

「そうか……。ルオッサのやつ、ここ最近は気まぐれを起こさなかったのにな」

「おめえが甘やかすからだろ。自分は参謀だっつうのを真に受けてよ、あれもこれも許しすぎだ。いくら頭が回ってもな、アレはガキだろうが」

 ハインは反論しなかった。まさしくその通りだったからだ。

「それで、ダン。城の方はどうだった」

「……ああ。えらく厳重な警備だったぜ。盗み聞きさせてもらったが、どうも昼から増員がかかったらしい」

「――そうだろうな」

「あんだけやらかしたんだ。警戒されねえほうがおかしい」

 リタ以外の全員に《不可視》か《擬態》をかけ、ハインらは諜報活動を行っている。《擬態》する先は個人に任せていたが、まさかルオッサが死人だと言っていた相手が伏竜将とは思わなかった。おそらく、ルオッサも予想外だったに違いない。

「サーインフェルクの誰とも分からないとはいえ、一度に厳重にされてしまったか」

「いや。連中、お前を名指しにしてたぜ」

「なに?」

「止水卿の“黒犬”だとよ。おめえ以外に誰がいるかよ。おおかた、魔術の腕でそう思われてんだろ」

 身をのりだしたハインだったが、眉根をよせて座りなおす。ダンの言うことも一理ある。一番あれこれ嗅ぎ回ってきたのは自分だし、事実として止水卿はろくに弟子を取っていない。真っ先に疑われるのは自分だろう。

 ……だが、その上で腑に落ちない点がある。昼の一件では、ハインもルオッサも、黄銅の騎士に顔を見られていない。それなのに一足飛びに自分を疑うのは、直感的に違和感がある。あちらからすればサーインフェルクが第一の仮想敵だとしても、ウォーフナルタや止水卿以外の密偵が入らないとはかぎらない。

 だから、もし。あの一瞬で自分が疑われたとするならば、それはルオッサの正体に感づかれたせいだろう。あの時、ルオッサはがらにもなく憔悴していた。獣化もせずあれほど取り乱すルオッサは、久しく見た覚えがなかった。

「――なるほど。ダン、助かった。ほかに気づいたことはあるか?」

「ほかに……そういや、城にはあの青い兵がいなかったな。侍従どもは蒼紋兵ブラス・クリーガーって呼んでたけどよ、あいつらもよく分かってねえ感じだった。気味悪がってたぜ」

「ダンも? ぼくがぼんやりしてたのかと思ったけど、街でもほとんど見なかったよ。聖女とかいうやつにふたり付いてるだけで」

「ウラ、おまえもか」

 ナズルトーの戦い以来、蒼紋兵はベルテンスカの兵力として度々見かけるようになった。しかし、それがなぜケルンエヒトでは見かけられないのだろう。

「明日、できる範囲で調べとくよ。……それの秘密が分かれば、早く帰れるんでしょ」

 ウラがそう言うと、テーブルの下からリタが顔を出す。

「あっ、明日はいっしょなんだよね! よろしく、ウラ!」

 あいまいに笑うウラを見て、ダンの匙が止まった。ダンはがたりと席を立つ。

「ハイン、ちょっとツラ貸せ」

 リタが不思議そうに小首を傾げる。大きな足音を立てて出ていくダンに、ハインは肩をすくめる。「ここじゃ言えない話らしいな」とつぶやいて、彼は小屋の外へ出た。

 戸口に出ると、軒下でダンは懐から黒い実を取りだし、噛み砕くところだった。

「ハイン、おめえもやるか」

「いや。煙草けむりくさ以外に魅了されたくないんでね」

 ダンがクチャクチャと木の実をしがむ隣で、ハインは煙草に火をつける。

「……ハイン。ウラにリタをつけて、なにをさせる気だ」

 ハインは煙草を深くふかし、紫煙を吐きだす。

「ただの俺の目だ。ウラはひどくおびえている。情報の持ち帰りを厳命しても、いざという時にはできないかもしれない。本人もそれを恐れているんだ。だから――」

「おめえ、

 その低い声に、ハインは隣のダンを見た。ダンは糸切歯をのぞかせ、今にも唸らんばかりだった。ハインはまだ長い煙草を落として踏み消し、

「ウラだけじゃない。リタも含めて、全員を疑っている」

「てめえ!」

 ダンはハインの襟首をつかむ。だがその目を見るや、舌打ちをして手を離した。

「……分かってくれ。ナズルトーからずっと、どこかから情報が漏れている。今回もどこかで漏洩が起こるはずだ。ここで間諜を見つけださなければ――次の戦さには、勝てない」

「ウラがそんなことをすると思うか! あいつは、おれたちのなかで一番、臆病でへっぴり腰で――」

 吠えかからんばかりだったダンは、不意に殺気を失い、うなだれた。

「……やさしい、やつなんだ。俺を疑うのはいい、おめえも仕事だからな。

 だがよ、ウラなんかより、真っ先に疑わなきゃなんねえ相手がいるんじゃねえのか」

 ハインは吸い殻を拾おうとした手を引っこめ、そのまましゃがんだ。

「……本人の意思と関係がない可能性もある。知らぬ間に耳目を盗まれているのやも」

「それなら、一番怪しいのはおめえだろうが!」

「刻印の不活化は卿に確かめて貰っている。偽称開門はナズルトー以来封じているし――そもそも、ナズルトーで奇襲作戦が漏洩したのは、俺が刻印をこじ開ける前だ」

 ダンはハインがのらりくらり、長々と答えるのにうんざりし、「違う」と吐き捨てた。俺を説き伏せようというのは、お門違かどちがいだと言外に言うように。

「俺はな、ハイン。っつってんだ。ナズルトーの時もそれからも、あのを連れてくと言った、あの日からだ。俺からすりゃそれ以来、おめえはあのガキの言いなりだ。

 俺は止水卿にゃ逆らえねえ。そういう契約だからな。だがな、。今までは昔のよしみで目をつむってきたがよ――この際だから言わせてもらう。あの薄気味悪い人狼のガキの命令を受けるのだけは、金輪際、ゴメンだ」

 ハインはじっと耳を傾けていたが、ダンの声が途切れると、しずかに耳を伏せた。彼は分かっていた。ハインが蹴ったルオッサの献策はいくらでもあったし、ダンはしょっちゅういがみあう自分とルオッサを一年以上も見てきたはずで――なにより、ダンたちは止水卿から自分に従うよう命令されている。自分に逆らうことは、とりもなおさず卿に逆らうことだった。

 だから、ダンの言いたいことは、字句通りではないのだ。

「すまないな、ダン。俺はいつも身内に甘い。分かったよ。ルオッサも洗っておこう」

 そう言われて、気まずい顔をしたのはダンの方だった。

「……分かってくれりゃ、それでいい。

 あのガキは不愉快だが、実害はねえ。愛想は悪いがよ」

 空にはいつしか、いくつもの星が昇っていた。ハインは吸い残しをしまおうとして、もう一度火をつけた。

「ルオッサが嫌味な奴だとは分かっているんだがな――俺はどうも毒されてしまった。女に贈り物をするなんて、いつ以来のことか」

 ピクルスのことか、とダンは呆れた顔をする。

「好きにしろ、物好きめ。そんで、取って喰われちまえ。――ひとつ、忠告しといてやる。俺を伝書鳩にすんじゃねえよ。おれだってカミさんにゃ膝ついて手渡ししたぜ」

 ハインは「ああ」と相槌してから、妙な空気に気づいた。

「なにか勘違いしてないか?」

「違うのか?」

「からかおうとは思ったが――。そういえば、あいつに物をやるのは初めてか……?」

 ダンは大仰にため息をつき、肩をすくめる。

「昔から言うだろ、触らぬ神に祟りなしってな。変なもんに優しくすると、懐かれてえらい目に遭うぜ」

 吸いきった煙草を揉み消し、ハインは鼻で笑った。

「それなら、もう遭っているさ」

「……馬鹿かよ」

「ああ、馬鹿だよ。何年、俺と仕事をしているんだ。

 そうだ、ダン。ついでに聞いてくれ。明日は城の諜報を俺と代わってくれるか」

 小屋に戻ろうとしていたダンは、いいけどよ、と向き直る。

「何すりゃいい。秘術師じゃねえんだ、空を歩いて街中を見るなんてできっこねえぞ」

「この三箇所を調べてくれ。人通り、呪文のにおい、死角の広さ。それだけ分かればいい。《魔力探知ディテクト・マジック》のワンドは使ったことがあるな?」

 羊皮紙と手のひら大のもみの枝を渡され、ダンは羊皮紙を開いた。ダンは面食らってハインを見る。それはケルンエヒトの地図の写しで、郊外にみっつの丸印があった。

「おい、ハイン。こりゃあ――」

「ああ。。俺が潜りこんでいると知られた今、同じ場所に居座るのは危険だ」

「……あいよ。他のやつには他言無用だな」

 ハインはフードを被りながら、うなずいた。

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