異端審問

 時はやや前後する。

 黄銅の騎士は幼子を連れケルンエヒトの門をくぐる。それは商人のために開かれた、特別な裏口だった。彼は衛兵に金貨を握らせ、他言無用と言いくるめた。――実際のところ、金貨よりも物を言うのは、彼の悪名なのだろうが。

 互いに間を空けて雑踏を進み、ヴァイセルシュタイン城に至る。城門でなく北側の水路へ向かうと、整然と組まれた煉瓦の前で立ち止まる。そして少女が追いつくと、彼は何事か呟いた。

 その合言葉キーワードに反応し、音もなく壁の一部がかき消える。

 ふたりが通り抜けるや、背後の外光は唐突に消える。人間の目ではめくら同然の暗闇を、黄銅の騎士は迷いなく進む。しばらくゆくと、ひとりでに明かりがともった。

 燭台の光に目を細めて、少女はその部屋を見まわした。そこは倉庫のようだった。所狭しと物資が並ぶなか、黄銅のは手頃な木箱をテーブル代わりに引き出し、小さな丸椅子を棚から下ろした。

「座りたまえ」

 鎧の擦れる音とともに、黄銅のは窮屈そうに坐した。長大な魔剣は床につかえるのか、ベルトから抜いて両手で保持する。赤目赤髪の少女はどさりと腰を下ろすと、尊大に脚を組んで頬杖をついた。仏頂面で騎士を見上げ、めつける。

「これはこれはご丁寧なことで。酒の一杯、菓子のひとつも勿体ない客というわけだ」

「当然ではないか。貴殿が客となるかどうか、それはこれから決まることなのだから」

 兜のなかから黄銅の騎士は目を光らせる。

 少女はその返事に満足したのか、にやりと不遜に笑う。

「よく言うものだ。城内に誘い入れておいて、今更、こちらに拒否権があるとでも?」

 騎士は、不意にその眼光を弱める。

「……早合点は困る。私は、貴殿をおとしいれるために招いたわけではない。ただ――」

「ただ、何かね。たしかに、かつて私は貴様を手引きしたが――あの日、あの一時いっときの取引で貸し借りは精算済のはずだ。

 何をこちらに期待しているか知らぬが、今や我々は敵同士のはずだがね」

 辛辣に少女が事実を並べると、騎士は「これは手厳しい」とつぶやく。

 あいわかった、と彼は魔剣を膝に寝かす。それは瞬時には抜剣できない姿勢だった。

「単刀直入に言おう。殿、我らにくみせぬか」

 多少は調べているようだな、とルオッサはこぼす。ぶらぶらと揺れる汚れた足が、止まる。低い声が、意を決して問いただす。

「……イレーネはどこだ」

「無論、貴殿が友に会えるように取りはからう。後は何が入用かね。金なら都合する。……貴殿は、実利を望むようには思えないが」

 だん、と握りこぶしが振り下ろされる。狼牙を覗かせ、ルオッサはすごむ。

「イレーネはどこだと聞いている」

「……そうくな。これも取引の内だ。対価と報酬、その交渉が済まねば応じられん」

 ルオッサは深く、これみよがしにため息をつく。そして「煙草はないか」と不躾に言い放った。あいにく、と答えられ、

「フン。では土地を寄越よこせ。領土とそれを受けるに値する地位だ。……ことが済めば、伏竜将とやらに任ぜられるのも有りだな」

 黄銅の騎士は、動揺したらしい。即答とはいかなかった。

「それは……我らが王に仕えたい、そういう意味に取れるが」

「そうとってもらって構わんぜ。出せるのか、出せねえのか。さあどちらだ」

「……確約しかねる。ほうずる封ざないは王の意思であり、私の手に余ることだ。

 だが……血花王は血筋や家名に依らず、実力でもって家臣を取り立てておられる。貴殿の才覚と功績如何では、ない話ではなかろう」

 あっそ、とルオッサは特に落胆もせずに言った。

「じゃ、とりあえずカネでいい。前金代わりに、金貨百枚以上の値が付く宝石をくれ」

 一瞬の間の後、彼は承知したと答えた。だが、どこか腑に落ちない様子で沈黙する。

「なにか?」

「……いや。身売りにしては安いものでな」

 ルオッサは、口角をひん剥いて笑う。

「おいおい。それをオマエが言ってどうする。冷酷無比な“首狩り将軍”はどうした。おやさしいこって」

 黄銅の騎士はだまりこくった。兜の奥の表情こそ見えないが、ルオッサには透けて見えるようだった。

「じゃァよ。ひとつだけ要求させてくれや」

「……何だ」

「止水卿の犬、“黒犬のブラックドッグ”ハイン。その命、アタシにくれよ」

 その時の黄銅の騎士の身震いを、ルオッサは見逃さなかった。その明らかな動揺に、これまでの謎のひとつが解けた。

「……それほど憎いか。寝首を掻くならば、いつでもやれただろうに」

「ハハ、分かってねェな。そン時の、あの男のカオがみてえンだ。あの冷徹な男が、死神がアタシと知ってよォ、最期に何を言い残すのか――ふふ、フ。

 あァ、想像するだけでゾクゾクするぜ」

 黄銅の騎士はこたえず、ただ少女の狂った笑みを見つめていた。その沈黙こそが、彼の心情を雄弁に映していた。

「……では、イレーネとの面会と、黒犬の魔術師の命。前金に宝玉。後金は最低でも二倍。これで満足かね」

「あァよ。それで、何が知りたい? 何をすりゃァいい?」

「目的と手段が知りたい。この都市の城壁には、《破魔結界》が張り巡らされている。敵の魔術師がこの都で呪文を行使できるはずはないのだ。貴殿らはそれを乗り越え、ごく少数で潜入してきたのではないか? 内からの転覆を期するには余りにも少ない」

「オマエの想像通りだぜ。オマエも馬鹿じゃねェんだろ、黄銅の」

 組んだ足を戻し、両肘をついてルオッサは言った。その上目遣いを、黄銅のは先を促すようにじっと見返す。

「ベルテンスカは魔術大国だ。古代の遺物アーティファクト魔法の品マジックアイテムもずいぶん買い集めてるみてェじゃねえか。だが、それをそのまま通用門から入れりゃァ、ものによりゃ解呪されてガラクタになッちまう。そも、その《破魔結界》とやらも、無差別だと有害だろうが。宮廷魔術師が帰還する時はどうすンだ?

 ……答えはひとつ。専用の、通行物を例外とみなす門がある。それを通ったまでさ」

 無論、皇国とてその脆弱性は把握していた。それゆえ、商人の照合、魔力の探知は十二分にやってきたはずだった。

 ハインと止水卿には、こちらの魔術師をあざむくまでの力量があるというわけか。あの男もこの一年でまた腕をあげたらしい、と黄銅の騎士は居ずまいを正す。

「二番目の質問は、難しいな。こっちも本音を言やァ、まだ喧嘩を売るようなマネはしたくなかった。ヴェスペン同盟は烏合の衆だ。頭数では拮抗してるが、互いに足を引っぱりあってやがる。今のまま戦さになりゃ、結果は目に見えてらァ。

 だが……オタクらはここ最近、かなりの軍資をかき集めてるそうじゃねえか。そうとあっちゃ、こっちも黙って指をくわえてるワケにゃァいかねえ」

「……ほう」

 ルオッサは滑らかに語り聞かせつつ、その相槌の違和感を拾った。自身は何食わぬ顔で話を進めながら、並列して思考する。

 ――あの情報は、誰からのものだったか。

「目下の課題はあの青い紋々モンモンの兵隊だ。三人がかりでひとりを倒すのがやっとのうえ、呪文に耐性がある。そのくせ、死ぬと砂になって解析もさせねェ。アタシらの目的はその術式の解明だ。アレさえどうにかすりゃ、まだ目があると止水卿は睨んでるのさ」

「やはり、これまでの暗殺者としての運用ではなく、斥候として来たのだな」

 ルオッサは含み笑いをする。言われてみれば、元は斥候スカウトだったハインもここ最近は刻印者の懐に潜りこんでは殺しのくりかえしだ。もはや斥候というより、暗殺者アサシンといった方がふさわしい。

「そういうこった。破壊工作は考えちゃいねえ。こっちも決死隊さ。蒼紋兵だったか、アレの情報をつかみ次第、撤退する予定だぜ。

 なンせ、ヴェスペンにゃロクに魔術師がいねェ。一騎当千の実力がある奴といやァ、ハインと止水卿を除けば――盟主ヘンネフェルトくらいか。あとはとてもじゃないが戦列には並べられねえ学者連中か、徒弟どもさァ。ソイツらを駆りだすくらいなら、犬人いぬッコロでも並べて突撃させた方がまだマシだ。

 どうやってオマエらベルテンスカがそんだけの魔術師を揃えてンのか知らねえがよ、ま、ここでハインを失えばヴェスペンは終わりだろうな。元々、こっちは望みの薄い戦さなンだ」

 黄銅の騎士は、吟味するように無言で無動だったが、それもほんの一息のことで、すぐに大きくうなずいた。

「把握した。概ね妥当とおぼしい。貴殿を信用しよう。これより我々は運命共同体だ。

 今後は、定期的に招集する。毎日、日の出の頃には宮仕えの魔術師がバルコニーで儀式を行っている。そのときに赤と緑の光があれば、あの水門へ参上せよ」

 共同体ね、とルオッサは胡散臭そうに手をひらひらさせ、

「アイよ。だが、こっちも身内を欺かなきゃならねえ。日がないつでもツラを貸せると思うなよ、いいな」

「……ある程度は、な。さて、貴殿の誠意は見せてもらった。こちらも約束のを支払おう。しばし待たれよ」

 報酬――その言葉に、ルオッサは先の怖れを思いだす。それまでの威勢もどこへ、こわばった表情になる。黄銅の騎士はそれに気づかず、やおら立ちあがると、魔剣を背負って出ていこうとする。

「おい」

 少女はその背に声をかける。

 その顔はためらうように、期待するように、複雑に歪められていた。

「黄銅の。ひとつはっきりさせてくれや」

 騎士は動きを止め、その問いを予期していたかのように重苦しく答えた。「何だ」

「契約は果たしたと言ったが……あの時、アタシはたしかに言ったな。

 ――友をまっとうに葬ってくれと」

「……いかにも」

「では――

 ルオッサは、己の右腕をぎゅっとにぎりしめる。その二の腕には十一と十二を示す神聖文字があった。炭粉で彫られた、粗末な刺青。にしないがため、己に刻んだ、魂の烙印。

 その片方が、針で刺すように痛む。

 黄銅の騎士は、振り向かない。

「……会えば分かる」


 ルオッサは、バルコニーへ行くよう指示された。バルコニーはふたつあり、城下に面した西側と、山間やまあいに向けられた東側があった。指定されたのは、その後者だった。

 階段を昇り終えて飛びこんできたのは、青く鬱蒼とした山脈だった。バルコニーのふちまで近づくと、眼下には断崖が広がる。ケルンエヒトは要所に作られた砦ではない。どういう思惑か、その立地は切りたった崖の上という、守るにも困難な場所だった。

 黄銅の騎士が人払いしてくれたのか、人の気配はない。これ幸いとルオッサは抜け目なく周囲の地形をあらためようとした。だが風景を見るうち、すぐにそんな気も失せる。ルオッサはその美しい景色に心を奪われた。冬の山間は紅葉の名残でいろめき、その色づかいは天の宮の主の御技を感じさせる。

 昼過ぎの陽光は黄色く色づき、ルオッサを焼いた。日差しは体を温めようと健気に降りそそぐが、その端から高地の強風が凍えさせる。狼少女は、その北風を心地よく思った。

 豊かな山に、魂まで凍りつかせる烈風。それらは否応いやおうなく、あのナズルトーを思いださせる。自分が――ロスコーが死に、ルオッサが生まれた土地を――ナズルトーの深山の、青い雪を。そこで自分が犯した罪、すれ違った者たちのことを。

 ひた、ひた。

 人狼の耳が、足音をとらえる。裸足が石畳を踏む音に、ルオッサはふりかえる。

 ゆっくりと、おごそかに階段をあがってきたのは、白い少女だった。その年恰好はルオッサと変わらない。少女はその目を柔和に細め、口元に穏やかな笑みを浮かべた。

「い、イレーネ……!」

 名を呼ばれ、はにっこりと笑った。ルオッサは仮面を奪われ、くしゃくしゃに破顔した。思わず駆けだしていた。抱きつき、その体を確かめる。

 イレーネだった。見間違いでも、勘違いでもない。間違いなく、自分の友だった。

 ――たとえ、髑髏されこうべのように漂白され、見るも無残に白化していても。

 きつく、きつく抱きしめて、ルオッサは何度もその名を呼んだ。その肉体は氷雪のように冷たかったが、彼女は気にも留めなかった。そんな違和感はどうでもよかった。正体なんて何でもよかった。

 ただ、そこに友がいる。たったそれだけで、何もかもが霞んで見えた。ルオッサは目的も使命も、願いさえ忘れ、イレーネがそこにいることを噛みしめていた。

「イレーネだ、本当に、本物の……。ああ、今まで、どこでなにをしていたのだ……。よかった、良かった。あたしは、あたしは――」

 いくつもの言葉が浮かんでは消え、喉につかえて出てこない。伝えたかった言葉は、たったひとつのはずなのに。ルオッサの目尻から、いくつも涙がこぼれ落ちる。

「おちついて、ルオッサ。わたしはどこにもいかないんだから」

「ああ、あぁ……そうか、そうなのだな……う、う……うぅ……」

 その肩にすがりつき、ルオッサは涙した。あの日、あの夜。あまりにも浅い墓穴を掘った夜。おびただしい流血で枯れ枝のように軽くなり、無情にも凍結したその遺体。モノに成り果てた骸に寄り添い、涙ながらに弔った、初春ういはるの夜。その夜に枯れ果てたはずの涙が、とめどなくあふれだしていた。あの青い森へ、とうに捨てたはずのもの。――それはまだ、少女のうちにあったというのか。

 ウォーフナルタの山々にも似た景色を眺め、ふたりの少女だったものたちは並んで座った。ようやく泣きやんだルオッサは、服の裾で目元をぬぐう。

「思えば、遠くまで来たものだ。

 イレーネ、ふたりでユノミの実を食べ、忘れ草の花畑を見た日を覚えているか」

「うん。きれいだったよね」

「また、ゆこう。この冬が終わり、春が来る頃に」

 イレーネは笑っていた。それから、それからとルオッサは、やつぎばやに思い出を口にする。イレーネはそのどれにも、笑って相槌を打つ。ほんの一時ひとときの和やかな会話。

 そして、ルオッサは気づかずに口にする。それこそが夢の終わりになるというのに。

「イレーネ。君がいるのならば、あたしは今のなにひとつとして惜しくない。

 ……ともに歩もう」

 白い少女は笑って、その言葉を吐きかけた。

「では、

 機械のように滑らかに。放たれた言葉は胸に突き立つ。

 その鋭い言葉に、ルオッサの息は止まった。

「イレー……ネ? ――な、なにを」

「あなたは不可抗力ではなく、企図して何人もの人間を意味なく拷問し、殺しました。その大罪を償わなくては、わたしとともに歩むことなど――とてもとても」

 自分が面白いことを言ったかのように、その白い少女はくすくすと笑う。かつてとまるで異なる友の姿に、ルオッサは言葉を失い、目の前の少女を見るほかなかった。何度見直しても、それはイレーネだというのに。

「わたしとともにありたいというのなら、“黒犬のブラックドッグ”ハインを処刑しなさい。あれは罪なき幼子を無数に殺め、罪を重ねつづける殺戮機械です。その処刑さえはたせば、あなたの罪はそそがれることでしょう」

 ハインをおとしめる言葉に、ルオッサのとまどいは確信に変わる。刹那のいらだちは、たちまち違和感となってルオッサに警告する。

 かつてのイレーネは、決して人を悪く言わなかった。

「イレーネ……いや、おまえは……!」

「わたしですか? ふふ、ご存知ではなかったのですか?

 わたしはイレーネ。エンルムのイレーネ、またの名を“殉教者マルティレル”。

 わたしは、ルオッサ――ですよ」

 イレーネだったものが、目を薄く開く。ルオッサは、絶句した。

 ――あの美しい鳶色の瞳さえ、漂白をまぬがれなかった。突きつけられた自らの罪に、ルオッサは飛びのいた。腰が抜けて、それでも後ずさる。

「そんな――そんな、そんなわけがない! お前が、イレーネだと……?

 違う……そんなはずがない!」

 恐れていた。触れないようにしていた。なぜ、死んだはずの者がそこにいるのか、あるべきでないもの、起こるはずのないことが起こっているのか。

 あたしはただ、ただ。あの時のあやまちを――。

「おおしえしましょう。たしかにわたしは死にました。ですが、完全にして万能たる御父みちちは、わたしを憐れんでくださったのです。そしてわたしは、きたる久遠の王国がため、最後の審判に主よりたまわる救済、その初穂はつほとして永遠の命をあたえられたのです。

 その一端は、主の言葉をわたしにおしえ、わたしの救済をねがってくださった――ルオッサ。あなたのおかげです」

「――かみ? 神だと?」

 ルオッサはわなわなと震え、頭を抱えた。確かに一時、あたしは友の救済を願った。ともに唯一神フラフィン虹蛇こうだに祈った。いつの間にか、ルオッサの指には髪が巻きついていた。

 私が、唯一無二の友をこんなにしてしまったのか? それとも、いくら助命を乞うても何もしてくれなかった神が、こうしたというのか?

「おまえは、お前は、イレーネじゃない……!」

「いいえ。わたしこそがイレーネです。あなたの知るイレーネは、目を塞がれていたのですよ。わたしは主と対面し、まなこをひらいていただいたのです。栄えある御父はそのご計画の一端をわたしに知らしめ、そうしてわたしは召命しょうめいたまわったのです。

 わたしは聖霊をさずかり、その奇跡によって悪をほろぼし、千年王国をきずく礎となる誉れをいただきました。

 ――ルオッサ。あなたも主の奇跡をたまわる身であればわかるはずです。悔い改めなさい、その罪を告白なさい。主は寛大であらせられます。ゆるしの秘蹟はあなたにもひらかれているのですから」

 ルオッサは憔悴しきっていた。うわごとのようにちがう、違うとつぶやきながら、恐れおののいていた。真教の輪郭しか知らぬはずのイレーネが、すらすらと説法することばかりが彼女を責めたてるのではない。

「あ、あたしは、アタシは、永遠に赦されることなどない悪鬼だ!

 アタシは罰されなければならないんだ! 赦し、赦しなど――」

「ええ、そうでしょうね」

 にわかに沈黙が支配した。風の声すら遠く、聞こえなくなる。

 ルオッサは脂汗に濡れた顔をあげた。汗にびっしょりと濡れ、急に体が冷えてきた。

「あなたはもとより、。誰しも、主のご計画にはさからえない。あなたは罪を償わず、すなわち大罪は赦されず、あなたに救いはおとずれない。

 わたしは千年王国ミレニアムへ、あなたは冥獄ゲヘナへ。すでにそうさだまっているのですから」

 ふふ、ふふふ。口元をおさえ、イレーネだったものは笑った。ルオッサを滑稽だと嘲笑った。その歪んだ姿は、余りにも醜悪にすぎた。でも、だからこそ、ルオッサは底のない悲しみに襲われた。

 ――その醜い笑顔にすら、屈託なく笑うイレーネの面影があったから。

 けれど。

 ルオッサは、おそれ、おびえながら、立ちあがった。

「……運命、運命だと」

「ええ、ええ。わたしはたしかにそういいました。至高なる御父は、すでにこの世のおわりまでのご計画をさだめておいでです。従順に、盲目に。それを善くこなすのが、

竜国キングダムへのたったひとつの道なのです」

「違うッ!」

 ばさり。ルオッサは薄い防寒具を脱ぎ捨て、その下のレイピアに手をかける。

「おや。気にさわりましたか。そうでしたらあやまりましょう。ですが、残念ながらこれは真理なのです」

 震える左腕が、渾身の力をこめてレイピアを抜き放つ。黄昏のように輝く、重く、黒い刀身。それを友に突きつけて、ひた隠してきた素顔をあらわにした。

 狂気に高貴さを奪われた、薄汚れた狂犬。ルオッサは気圧されながら、狼のように牙を剥き、威嚇する。その表情は、怯えた仔犬にも似ていた。

「ふざ、ふざけるな! 何もかもが予定通りだと言うのなら、数多もの抵抗が無意味だったというのなら――スヴェンは。スヴェンは何の意味もなく死んだというのか! あの苦しみと祈りは、虚無に消えたというのか!」

 それに、スヴェンだけじゃない――。ルオッサのなかで、少女の一部が祈っていた。もし、その似姿が本物ならば、あたしの真意に気づいてくれと。

 それなのに。イレーネは、にっこりと笑って首肯する。

「よくおわかりではありませんか。ええ、彼の献身と受難もまた、運命だったのです。

 ひとは、等しく運命の奴隷――神の奴隷といいかえてもよいでしょう。それゆえに聖隷せいれいというのです。主が口をきくものにおあたえになった、たったひとつの役割は、地上で神の栄光をたたえることなのですから」

 ひとは、神の奴隷――その一言が、ルオッサの逆鱗に触れた。

 もはやそれの真贋は眼中になかった。ただ、その受難への侮辱が怒りに火をつけた。

 少女の細腕は狼のそれになり、唸りをあげて振り下ろされてしまう。

 けれど。

 直後、怒り狂う狼は理性を取り戻した。跳ねかえる液体を浴び、自分の凶刃が友の似姿を貫いている――その事実が、狼憑きに自らを少女と思いださせた。

 イレーネではない。仮にそうであっても、認めない。頭ではそう決めていた。

 ……それなのに、胸を刺し貫かれた友の姿に、狂気は霧散してしまった。

「満足しましたか」

 平然とした声。そしてその、白い指。それが銀の杭のように、ルオッサに触れる。

「ぐァッ!」

 瞬間、獣相は引き剥がされる。生皮を剥がれるような激痛とともに、一瞬のうちに獣化が解ける。あまりの痛みに、ルオッサは苦しみ悶えて転がった。

「ああ、なんと憐れなのでしょう。気高き血脈とたぐいまれなる才覚をあたえられながら、人狼の呪いにむしばまれ、あまつさえ獣の衝動のままに御使いを殺そうとする。

 それがあなたの運命、“受難”なのですね。ふふ、おいたわしいことです」

 四つん這いになり、肩で息をしながら、ルオッサは苦痛に耐えた。

 顔をあげると、胸を刺し貫かれた少女が笑っている。刺傷さしきずから黄色い血漿を垂らし、はだけた白い肌を黄色く濡らしながら、人狼をわらっていた。

 御使いを名乗る少女は、その胸の刃を握る。そして髪飾りを外す手軽さで、自らに突き立つレイピアを引き抜いた。

 己の体液に濡れる刃。その黒く、陽光のように輝く刀身に右手をかざす。根本からなでられると、刃はその端から透徹していった。夜明けに闇が退けられ、暁光が差すように――その刹那、その刃は玻璃はりがごとき輝きを宿していた。

 それは、まさしく浄化だった――奇跡であった。

 ルオッサはその奇跡だけでなく、奇跡をもたらした手にも目を奪われた。少女は、全身の力が抜けてしまった。理解や納得より先に、確信が刻まれてしまった。

 ――なかったのだ。その右手にあるべきはずの――否、が。

 イレーネは動けないルオッサから鞘をむしりとると、透きとおるレイピアを収めた。

「ルオッサ。あなたもいつか、主の言葉を理解できるように祈っていますよ」

 まあ、今生こんじょうではないでしょうが。言外の皮肉にも、ルオッサは反応しない。

「――、ない」

「何ですか?」

 ルオッサは、ぶつぶつとくりかえす。

「……みとめない。啓示を受けたんだ――生きろ、と。

 だから、アタシは、こんなになってまで……なのに」

 イレーネは微笑む。聖母のように――どす黒い沼のように。

救世主メシアにまつろわぬ私的な啓示は、そのことごとくが悪魔によるもの。

 。今このときをもって、寛大にも御父が猶予をもっておあたえになったあなたの秘蹟は、これを棄却なさることでしょう。あなたは悪徳の泥にまみれ、名誉も義も汚損され、冥獄ゲヘナへなげすてられます。

 ああ。なるほど。その偽りの啓示にしたがい、泥をすすり血をあびて――そうしてあなたは、悪魔になってしまったのですね」

 くすくすと笑うと、イレーネはレイピアを背負い、歩きだす。その胸の傷はとうに乾いて塞がっていた。

 ルオッサは、何歳も老けこんだように疲れ果てていた。

 その啓示をくれたのは、誰だと思っているのだ。その口から垂れ流される言葉が、すべからく神の御言葉だというのなら――いったい、誰が悪魔だというのか。

「またあいましょう。たのしかったですよ。ねえ、ルオッサ」

 ルオッサには、その背中を見送ることしかできなかった。

 ……寒かった。凍てつく冬の北風が、少女の身も心も凍えさせていた。

 弱々しい太陽は、もはや何の助けにもならなかった。

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