黒衣の賢者

 アントンは雑踏を眺めながら、ぼんやりとため息をついた。うーんと伸びをするが、体の節々が痛み悶えてしまう。道行く者は、食い詰めた浮浪者、手首に青黒い斑点がのぞく病人、そしてでっぷりと肥えた商人とその護衛。

 ケルンエヒトの寒空は薄雲に覆われ、晴れなのか曇りなのかさえはっきりとしない。全力疾走の熱さえ、あっという間に冷めきっていた。

「ここにいたかよ」

 アントンが顔をあげると、ハインがめずらしい顔で立っていた。よく見るぽけっとした顔でも、しかめっつらでもない。考えつめた無表情だった。

「飲め。このおれがおごってやるんだ、ありがたく思えよ」

 押しつけられるように渡されたのは、竹筒に入った熱い甘酒だった。つん、とする酒気にアントンはためらったが、無言のハインにたえかね、渋々それをすすった。

 からい甘酒だったが、ほのかな甘みが意外においしかった。高地の風に冷えた体に染み渡り、芯から温まる。

「なんか、祝いごとでもあったの?」

「イレーネのとやらを祝いたい連中はいつでもいるんだよ。タダで配ってたんだ」

「ええっ? それ、おごりじゃないじゃん!」

「伏竜将がタダでもらえるかっつうの!

 ……金を払ったら、もひとつ押しつけられただけだ」

「……なんだ」

 やっぱり、ハインはハインだな。アントンはがっかりしたような、安心したような気持ちで甘酒を飲んだ。

「アントン、残念だったよな」

 ハインは鼻を鳴らして言う。その仕草に、アントンは飼い主を気遣きづかう犬を想像した。なんて無様なんだろう。

「うるさいなあ! ……ハインには関係ないだろ」

 竹筒を握る手に力が入り、痛みが走る。見ると、竹の棘が親指に刺さっていた。

 アントンは黄銅の騎士、主君に狩りを命令された。あんなに大事なことを命令してもらったのは、初めてのことだった。それなのに、アントンはあの犬を取り逃がしてしまった。

「関係ねえことねえ。おまえはおれの弟子だ。だから、おまえのヘマはおれのヘマだ」

「だれが、――」

 誰が弟子だと言おうとして、アントンは固まった。

 ハインは両手で顔を覆い、震えていた。ちくしょう、ちくしょう、とあえぐようにくりかえす。

「おまえはまだいい、いいんだよ。アントン、おまえは若い。あの犬だってよ、あのヤローの使い魔だが、使い魔を拷問したって何がわかるわけじゃない。捕まえたって、アイツからすりゃ使い捨てちまえば終わりの話なんだ。

 ――おれは、くそ、あそこまで追いつめたのに、また取り逃がしちまった! くそ、くそくそくそ! 今度こそあいつらを見返してやれると思ったのに!」

 ハインは頭を掻きむしり、ぼろぼろと泣いていた。三十路も近い――大の大人が、隣で泣いていた。アントンは、何も言えなくなった。

「……アントン。おれに比べりゃあ、おまえはまだまだ取りかえせるんだ。みんながおれをなんて呼んでるか、知ってるだろ?」

 ハインは、卑屈に笑った。それは、サーインフェルクでは見慣れたもの――強者にへつらう犬人コボルトに似ていた。

 アントンは急に悲しくなって、目尻を拭う。だがハインは気づかず、まくしたてる。

「だからよ、気にすんな。おまえはスジがいいんだ。おれみたいなクズが言うんじゃない、黄銅のが言うんだ。だから、おれみたいなウスノロはとっとと追い抜いて――」

「ちがう」

 アントンの低い声に、ハインは詰まった。

「ハインはウスノロなんかじゃない。ハインの剣はすごいよ。おれなんかじゃ、あの速さにはいつまでたっても追いつけないと思う。

 それにさ、おれ、知ってるよ。黄銅さんがあんなに楽しそうに話すの、ハインだけなんだ。おれの主は、そんなことでハインを見限ったりしない!」

 ハインは一瞬、ぽけっと何を言われたのか反芻していた。そして、ようやく内容を理解すると、う、う、と嗚咽を漏らし、また顔をくしゃくしゃにした。そして次には、いきなりアントンを抱きよせた。

「アントぉン……おまえ、おまえはいいヤツだあ……!

 よっしゃ、昼はおごってやる、覚悟しろよなあ!」

 アントンは甘酒を取り落としそうになり、照れ隠しにも愛想笑いにも似た顔をした。そして言い過ぎたかな、と苦笑いしていた。


 ハインの行きつけの屋台は、焼き鳥や焼き魚など素朴な料理ばかりで、しかも妙に薄味ばかりだった。アントンはもう少し塩味が欲しいとは思ったが、おごられている手前、黙って腹ごしらえを済ませた。

 店を出る頃には、満腹になったハインはすっかり上機嫌になっていた。アントンはどことなく、食後に口をあけて幸せそうにしている犬人を思いだした。

 ハインはニコニコしながらアントンのナイフを勝手に抜いて、「刃こぼれしてるぞ、ちゃんと研いでっか? こんど研いでやろうか?」とお節介を焼いてくる。

「傷むわけないじゃん。使うアテもないんだからさ」

「そういやそうか、抜いたこともねえもんな――って、おい。レイピアもひどいぞ」

「えっ?」

 ほれ、とハインが掲げた大事なレイピアは、ほとんどノコギリみたいになっていた。もう片手のナイフも、刃先が欠けてしまっている。

「おれの知らねえ間に、ずいぶん練習してたんだな。こりゃ物にぶつけたっつうより、戦場を駆けぬけたみてえな傷み方だな。よし、次は研ぎ方からしっかり教えてやるよ。いい砥石をおろす店があんだ」

 ハインはさっとアントンのベルトに刃物をしまうと、背中をばんと叩いて笑った。アントンはハインに愛想笑いしながら、他のナイフも抜いて確認した。だが、どれも似たりよったり、ひどいありさまだった。レイピアは黄銅の騎士から拝領したもので、ナイフ数振りはハインに勧められて買ったものだ。勤めの間は肌身放さず持ち歩いているが、稽古のとき以外は抜いた覚えがない。

 狐につままれたような心地になって、アントンは考えこむ。

「おーい、アントン! 先に戻っちまうぞ!」

 気づくとハインは遠く、アントンは慌てて走りだす。

「行くよ、今行くってば!」

 釈然としないものを感じながら、アントンはハインと連だって宮廷に戻った。


 大広間に黄銅の騎士は見当たらなかった。通りかかった侍従にきいてみると、彼は野暮用で出ているらしかった。主がいなければ命令は受けられず、次の仕事はない。それなら言いつけどおり、ハインに剣を教えてもらおうか――そう思ったときだった。

「あら、あら。小さな騎士さんではありませんか」

 ぞっとする声に、アントンは冷水ひやみずを浴びせられたようにふりかえった。

 そこには、あの聖女が立っていた。羽織るのは青みを帯びた白いローブばかりの、見ているだけでこちらが凍えそうな――白い少女が。

「イレーネ……おれの弟子に何か用か」

「あらあら。これは失礼。あなたにも今一度、お伝えしなければなりませんでしたね。

 わたしはイレーネ、エンルムのイレーネ――または、おそれおおくも“殉教者マルティレル”とよばれております。ごきげんよう、ハイヌルフ・イルムフリート殿と――」

 イレーネはハインと握手すると、色の抜けた瞳孔でアントンを見た。

 名乗ったつもりでいたが、いつものアレか、とアントンはすかさず名乗る。

「アントン・ブラオマン。黄銅の騎士に仕える従騎士スクワイアです」

 その後ろでハインは、不快そうに手をさすっていた。

「ありがとうございます、ブラオマン殿」

「アントンでけっこうです、伏竜将殿」

「そう。では、アントン」

 いつもの儀礼を済ませ、アントンは握手する。瞬間、彼は飛びあがりそうになった。

 イレーネの手は、氷を思わせるほどに冷たかったのだ。

「さて。最初にたずねておきたいのですが、あなたは天の宮の主を信じますか?」

 イレーネは流れるように言葉を紡ぐ。アントンの動揺なぞ見えていないかのように。

 アントンは内心はともかく、こちらもいつものか、と食傷を感じた。それはどこの教会でも聞かれることだった。それゆえアントンは、反射的に「信じます」と答えた。

「そうであれば、何よりです。ですが

 アントンは体をこわばらせて、相手を見た。今までアントンが信じますとこたえ、騙してきたどの神父とも違うと分かった。

 おそれがあった。形のない、名も知れぬ畏れが。

「どういう……意味でしょう。おれは洗礼を受けて生まれ、今まで神を信じて生きてきました。いったい、おれの何が偽りだと言うんです?」

御父みちちを信じるとは、御父に従順であるということです。主は寛大であらせられます。原罪をせおい、罪にしずみゆくさだめの口を利くものをゆるしてくださいます。

 その赦しの秘蹟は、罪を告白し、悔い改め、償いを果たした者にのみ与えられます。さもなくば、大罪は主とのえにしを断絶させ、主の愛はあなたにとどかない。

 あなたは、罪を抱え、それを償っていませんね」

 歯に衣着せぬ正論だった。アントンでも知っている教理と理屈であり、それゆえ、彼に弁解の余地などなかった。

 ――だからこそ、アントンは認めるわけにはいかなかった。

 それを認めることは、あの日のあやまちと向きあうことだった。過去と対面すれば、認めざるを得ない。自分は悪徳の泥にのまれたのではなく、――

「……誰でも当てはまることです。そんなことを言って脅さずとも、あなたの奇跡を見れば、みんな真教を信じるでしょうに」

 平静を装ってアントンは言った。ふと彼は、ハインがじっと自分を見ていることに気づいた。手で触れてみると、彼の顔は脂汗で濡れていた。

 イレーネは、石膏の彫刻のように笑う。

「そうですか。いずれにせよ、わたしの手にあまることは既におつたえしておりますものね。それに、ふふ。あなたのいうとおり。だれもかれもが罪人なのですからね。あなたも、となりのハイヌルフも――黄銅の騎士さえも」

 きっ、とアントンの表情が変わる。

「なんだと……?」

 アントンは一歩踏み出た。彼より頭ひとつ小さい少女を前に、彼は震えながら声を絞った。彼にとって目の前の存在は、少女などではなかった。

「と、取り消せ! 黄銅の騎士は誉れある伏竜将の長、功あれど罪なき人で、おれにとっては大恩ある方だ。黄銅さんを侮辱するやつは、誰だろうとおれが許さない!」

 そうだ。黄銅さんはおれとは違う。おれのような――人殺しとは。

 なのに、イレーネはくすくすと笑う。さも、おもしろい冗談を聞いたかのように、少女の顔で、少女のように。

「ハイヌルフ。まだおしえていないのですか――黄銅の騎士の功罪について。

 わたしのような新参者ですら知っているはなしですよ」

「いや……それは」

 口をもごもごするハインに、アントンは背筋がぞわぞわするのを感じた。今まで、黄銅さんの話題を振ると曖昧に返事することはあった。アントンはそれを、ハインがぼんやりしているからだと思っていた。

 だけど、もしかして、それは――

「アントン。黄銅の騎士はかつて、無辜むこのひとびとの血肉で山河をきずいたのですよ。“血花王”にしたがわぬ先王派を皆殺しにしたのは、ほかならぬ彼なのです。ひとりのこらず、妻子すらあまさず、禍根をのこさぬために」

 アントンは、いつの間にかつかんでいた。幼い聖女の、襟首を。

「ウソだ! そんなこと、そんなはずが――」

「アントン! やめろ、相手は伏竜将だぞ」

 ハインはアントンを引き剥がし、イレーネに詫びる。

「ハイン! 何とか言ってやれよ! 黄銅の騎士は、決してそんなことをするような人じゃないって――ハイン?」

 ハインは目をあわせなかった。すまなかった、と呟き、

「……事実だ。おれは、その処刑を見てる」

「ハイン――」

 アントンはその場にくずおれる。彼にとって黄銅の騎士は誉れ高い、気高く高潔な存在でなければいけなかった。だって、そうでなければ――

 

「ふふ、ふ。そんなにしおれる必要はありませんのに。赦しの道はつねにひらかれているのですから。償えばすむ話ではありませんか」

 償えるのなら、ですが。

 おろおろとアントンを見ていたハインは、その一言にかちんときた。粗野に舌打ち、

「……おい、イレーネ。なに、笑ってんだ」

「あら。気にさわったのならあやまります。もうしわけありませんね」

「ッ……! こ、このヤロウ……!」

 ハインは耐えかね、ベルトのナイフに手をかける。

「やめておけ、トビアス」

 ふたりは同時に声の方へ向きなおった。階段を降りてくるのは、黄銅の騎士だった。

「イレーネの後ろを見てみろ」

 ハインは言われたとおりに奥を見て、ぎょっと姿勢を正した。イレーネの背後では、ふたりの蒼紋兵が抜きかけた剣を収めるところだった。

「黄銅さん……」

 アントンはすがるように、黄銅の騎士をみつめる。

 彼は直視できずに、代わりにイレーネに目をやった。

「イレーネ、客だ。足労願う」

「あら。黄銅の騎士様がとりつぎなさるなんて、どなたでしょうね」

 黄銅の騎士は、そのまま奥の回廊へ立ち去ろうとする。アントンは駆け寄りかけ、立ち止まり、その背中に問いかけた。今にも消え入りそうな、張りつめた声で。

「黄銅さんも、人殺しなの?」

 背中越しに彼はアントンを見た。その篭手が握りしめられ、ぎりぎりと音を上げる。

「私は剣を執る者だ。一滴の血も流さぬ騎士など、騎士道物語にすらおらぬだろう」

 そう言いのこすと、黄銅の騎士は立ち去った。アントンは泣きそうな顔になって、つんのめるように走りだす。後にはうろたえるばかりのハインが残った。彼の頭では、どちらを追いかけるべきか分からなかった。


 あてもなくアントンは走った。城のどこへ行こうという考えもなかった。いつしか、アントンは地下へと足を踏み入れていた。

 外から見れば白く輝く、ヴァイセルシュタイン城。だがそのどこもかしこも明るいわけではなかった。謁見の間へ通じる回廊とは対称的に、意図的に明かりが削られた回廊も少なくない。地下への入口も、そうした隠された通路のひとつだった。意識を向けられぬよう、あえて灯火ともしびを廃された通路。その薄暗く、カビくさい空気は、彼のこころに封じられた記憶をほのめかす。

 アントンの頬を、脂汗が伝う。彼は夢から覚めつつあった。ハインや黄銅の騎士と出会い、アントンは罪などなかったかのように――洗礼を受けたままの姿だった頃の夢をみていた。

 けれど、夢は夢。はかない錯覚がつゆと消えてしまえば、なにもかもがそのままだった。

 まとわりつく湿気が足を鈍らせ、アントンは震えながら歩いた。壁は粗い花崗岩で、じっとりと濡れている。湿った空気は底冷えしていて、吐く息は白くなる。わずかな明かりを頼りに角を曲がると、そこには闇が無限に広がっていた。

 声にならない悲鳴とともに、アントンは一歩、後退りした。水溜りが弾ける。黒い闇が手にまとわりつく気がして、手に触れる。濡れたのは地下水か、それとも――。

「どこへいく気だ」

 背後からの言葉。彼は声さえ失い、ふりかえる。とっさに抜こうとしたレイピアが鞘走り、耳障りな音をたてて転がる。

 そこに立っていたのは人間――ハインだった。彼は蝋燭ろうそくの明かりで照らしながら、静かに、ゆっくりとレイピアを拾いあげる。

「は――ハイン? どうしてここに?」

「そりゃあ、こっちのセリフだ。急に走って行きやがって。地下工房へは行くなって、黄銅のが言ってなかったか?」

 アントンはかえす言葉もなく、じっと地面を見た。彼は情けなくなった。ハインを友達のように感じていたこと、見くびっていたことを悟り、自分がまだまだ子供だとわかってしまった。だから、うるさいと強がるのが精一杯だった。

「……そうだな」

 アントンは思わず顔をあげる。ハインは妙に賢しい顔つきだった。思い悩むような、考えこむような。黙ってレイピアをアントンのベルトに収めると、燭台を差し出す。

「ま、おれも言い過ぎたな。たまにはそういう冒険もいいだろ。

 この先は、第三位の伏竜将の工房だ。よろしく言っといてくれ」

 アントンが燭台を受けとると、ハインはじゃあなと踵を返した。アントンはそんな仕草がどこか彼らしくないと思い、その名を呼んだ。

「なんだよ?」

 振り返ったその顔は、卑屈さなどかけらもなかった。不思議なことに、アントンは同名の憧憬を思いだした。それは憎むべき仇であるはずなのに、少しも嫌な気持ちにならなかったことも不可解だった。

「……ううん、なんでも。ハイン、こんなに優しかったっけ」

 ハインは鼻で笑い、歩きだす。

「んなわけあるか。おれはいつだって自分がかわいいさ。

 ただ……おまえも、んだなって思ってな」

 らしくない謎めいた物言いに、彼は「なんて?」と問いなおした。

 けれど、そのまま手を振って、彼の背中は闇に消えていった。


 急勾配の階段を下ると、小さな扉が行く手を塞いでいた。扉には直接、「禁進入」と刻みこまれている。アントンは文字が読めないながら、そのおどろおどろしい文字に引きかえすべきかと思った。その扉を開くと、取りかえしがつかない気がしたのだ。

 でも、ハインの言葉を思いだし、好奇心と恐怖の両方が首をもたげてきた。やがて、鍵がかかっていれば帰ろう、とドアノブに手をかけた。

 結果は、好奇心の勝利となった。鍵はなく、ぎい、と軋んだだけでドアは開いた。もはや覚悟を決めるほかはなかった。アントンは深呼吸すると、失礼しますと小さく断った。そしてほんのちょっぴりの後悔とともに、なかに足を踏み入れた。

 その部屋は、さほど大きなものではなかった。天井はアントンが手を伸ばせば届きそうなほどで、黄銅の騎士ならば頭がつかえてしまうだろう。部屋そのものは細長く、天井も床も石造りだった。火のともった黄色い燭台がいくつもあって、暗闇に慣れたアントンの目はちかちかした。使いこまれた机には分厚い書籍コデックス巻物スクロールが積み重なり、羽ペンと羊皮紙がいくつも転がっている。壁面は本棚に埋め尽くされ、きらびやかな装丁の本がびっちりと詰めこまれていた。

 ここにいる伏竜将は貴族だろうと彼は思った。サーインフェルクで過ごした数年で、アントンは本というものがどれだけ高価か知っていた。そう、それを汚した兄弟子が、半殺しにされるほどには。それを無造作に積みあげることができるのは、その価値を何とも思わないほどの金持ちか、痛みゆく美麗な装飾より中身に価値を見出す賢人だ。いずれにせよ、アントンのように名もない民ではないことは確かだった。

「ん……? なんだ、これ」

 テーブルの上、羽やインクに紛れて何かがきらめいた。なんだろう、とアントンは気になって身を乗りだす。指輪に似ているが、物陰に隠れてよく分からない。辺りを見回し、人気がないことを確認する。ちょっと触るくらいなら、とアントンはそれを拾いあげる。

 たしかにそれは指輪に近かったが、一端に分厚い円盤がくっついたような形をしている。それは印環シグネット・リングというものだった。印の意匠は竜で、盾のなかに収まっている。竜の紋章はベルテンスカ王家も用いているが、紋章学を知る者なら、盾のなかにあるということは主君を持つ貴族のものであると分かったかもしれない。

 もちろん、アントンにはそんなことは分からなかった。けれど、黒玉をあしらった精巧な金細工はあまりにも見事で、彼の目はそれに奪われていた。「きれいだ……」

「なっ、何をしてるんだ!」

 奥から怒鳴られ、アントンは飛びあがった。印環を戻し、そちらを見た。

 奥の暗がりから出てきた男は、黒い覆面で目元より下を覆い隠し、フードを目深にかぶっていた。のぞく瞳は濃い翡翠色で、ウォーフナルタの深山みやまを思わせる。

「どこの誰か知らないが、出ていきたまえ!」

 彼は大声を張りあげるが、どことなく覇気がなかった。アントンも、どきどきと焦ってはいたものの、身の危険は感じなかった。

「怪しい者じゃないです! おれは黄銅の騎士の従者で――ハイン、ハイヌルフが、よろしく伝えてくれと」

 伏竜将ふたりの名を出すと、その男はじっとアントンを上から下まで見た。

「黄銅の騎士が従者を取ったという話は、本当だったのか……。

 では、君がアントンか。挨拶に来たのかい」

「は、はい。アントン・ブラオマンといいます」

 相手はふむ、とひとつ唸るや、と目を伏せた。

「僕に挨拶など不要と知っているだろうに。だが、来てしまったものを拒むわけにもいかないね。少し待ってくれないか」

 そう言うと、彼は奥から湯気の立つケトルを持ちだし、戸棚からポットを取りだす。

「ハーブティーしかないが、いいかな」

「えっ、あ、いや……」

「適当に座りたまえ。君は客人なのだから」

 ぼうっと突っ立っているのもすわりが悪く、彼は小さくなって丸椅子に腰かけた。

 やがて、その男はテーブルの上のものをてきぱきと片付け、カップに茶を注いだ。青りんごのような香りの、色の薄いお茶だった。

「悪いね、こんなものしかなくて」

 ああ、いえ、とアントンは返答に困る。急な態度の変化に、彼は居心地の悪さからお茶をすすった。薬臭いような、甘いような、不思議な味がした。

「これ……カミツレですか?」

「うん。あまり好きじゃないんだが……つい、買い求めてしまってね。減らないんだ。

 そうだ、名乗り遅れたね。僕はフェルンベルガーと呼ばれている。伏竜将のひとり、といっても裏方だけれどね」

 フェルンベルガーと名乗った彼は、出会い頭の印象とまるで異なった。アントンがこれまでに出会った誰とも違う、しとやかながらも堂々とした威厳がある人物だった。

「フェルンベルガーさんは、どうしてこんなところに? 宮廷には出ないんですか?」

 アントンがヴァイセルシュタイン城に出入りするようになって、早一ヶ月。一度も姿を見かけないというのは、奇妙な話だった。

「僕は黄銅の騎士やハイヌルフくんと違って、剣をく武人じゃないからね。ここでいくさに備えるのが仕事なんだ。戦場いくさばに出ないという意味では、イレーネと似ているね。……いや、彼女は必ずしもそうではないか」

「イレーネ……」

 アントンの表情に察したのか、フェルンベルガーは机を指でたたいた。

「さては、イレーネに何か言われたかい」

 アントンは答えなかった。それが何よりも雄弁な答えだった。

「彼女にも困ったものだね。言っていることは正論だが、だからこそ始末が悪い」

「フェルンベルガーさんも、何か言われたんですか?」

 伏竜将は首を振り、立ちあがる。彼は本棚から一冊の本を抜くと、アントンの前に置く。それは豪華な装丁の本で、アントンには題目が読めなかった。けれど、それが何なのかは一目で分かった。金文字の下に、はっきりと傘十字が刻印されていたから。

「教典……ですか?」

「そう。御父みちち救世主メシアスの言葉――を伝えるとされる、使徒アポステルたちが書きのこした書物。至聖なるもののひとつだ。これには、どんな口を利くものも救う力がある。

 ……少なくとも、僕はそう信じている」

 アントンはそう聞いて、その書物を見れなくなってしまった。

 顔を伏せるアントンに、フェルンベルガーは息をつく。

「アントンくん。君のような者にこそ、これは必要なはずなんだ。

 ……やれやれ。これは希望の光であって、罪を宣告する呪いではない。彼女には、そう何度も伝えたつもりだったんだが」

 アントンは顔をあげる。フェルンベルガーは、ひどく落ちくぼんだ目をしていた。

「もしかして、神父さまだったんですか?」

「とんでもない。一度は目指したけどね。今の、僕は――」

 そこで彼は、不自然に間をおいた。

「――ただの伏竜将だよ。それ以上でも、以下でもない」

 アントンは彼がなにか隠しているように思えて、室内をもう一度見た。さきほどは気づかなかったが、小さな刃物やはさみ、鋸、玄翁に糸巻きが部屋の隅にまとまっていた。

 ――ハンマー。ノコギリ?

 その時だった。

 アントンはにわかに吐き気がこみあげ、その口から飲んだばかりの液体があふれた。

 思いだしたのだ。血錆の臭い、臓物の生臭さ、腐乱液の黒さ――返り血の熱さを。

 彼がいきなり嘔吐するや、フェルンベルガーの行動は早かった。席を立ち、木桶とぼろ布を手に戻る。始末もそこそこに、大丈夫か、と背中をさする。

 アントンは再び喉の奥までせり上がってきたものを飲み下し、大丈夫ですと答える。けれど、彼は息も絶え絶えで、その喉は燃えるように胃酸に焼けていた。

 フェルンベルガーはポットから茶を注ぎ、覆面を取って毒味する。

「……茶の問題じゃない? アントンくん……いったい、どうしたんだ」

 名を呼ばれ、アントンは彼の横顔を見た。フェルンベルガーと名乗った男の素顔は青白く、目元には大きな隈があった。それなのに、その翡翠の瞳は爛々と光をたたえ、かたく結ばれた薄い唇は確固とした意志を感じさせる。

 アントンはかつて、どこかで、似たような人に出会った気がした。

 彼はアントンが見ていたものを目で追い、顔をしかめる。覆面を戻して、

「……器具か。申し訳ない、気分の良いものではないね。

 隠して悪かった。僕は――医者のはしくれなんだ。医者の仕事を見聞きしたり……その身に受けたことがあるならば、そうなるのも無理はない」

「いえ……すいません。そういうわけじゃなくて……ちょっと、昔を思い出して……」

「……なにか、あったのかい?」

 彼は思わずそう口にしてから、いや、言わなくていい、と制した。そして、手近な麻布で器具を覆いはじめる。

 アントンは、ゆっくりと体を落ち着かせながら、目の前にちらつく悪夢と戦った。機械を分解するように解体されてゆく人体、痙攣けいれんする人形、くびり殺される女の赤い顔、生首に頬ずりして射精する少年、脈動する心臓の感触、おりかさなった――同年代の少年少女の骸。

「ドラウフ、ゲンガー……」

 故郷の名が、口からこぼれた。フェルンベルガーはその名に反応し、手を止めた。

「……分かった。それ以上、言わなくていい」

 アントンに毛布をかけると、彼は額に手を当て、その汗をぬぐった。

「落ち着きそうかい?」

「大丈夫です……ちょっと、久しぶりで。すぐ、治ります」

 実際、半刻もせずにアントンは元どおりになった。フェルンベルガーはアントンを立たせ、彼が歩けることを確認するや、すぐ帰りなさいと冷たく言った。机につき、本を開いて羽ペンを取る。

「ここの空気は君には毒だ。長居するものじゃない」

 アントンは戸惑い、伺うように彼を見た。麻布に覆われた山が目に入る。

「……伏竜将にも、いろんな人がいるんですね」

「僕なんかに懐いても、いいことなんてひとつもない。黄銅の騎士に重用されるよう、ハイヌルフに可愛がられるように心がけなさい。

 ……君のそれに付ける薬はない、時間が解決するしかないんだ。僕にできることは、話を聞くことくらいだ。でもそれも、痛みを伴うことだろう。僕からそれを強制することはできない」

 アントンは、不思議と穏やかな気持ちになっていた。この人はいい人だと思った。

「また来ても、いいですか?」

 彼はペンを止め、ため息をつく。そしてペンを墨壺に戻し、指で机を叩いた。

「……僕も暇じゃない。いつでもお茶を貰えるとは思わないでね」

 アントンはなんだか嬉しくて、少し笑った。「楽しみにしてます」

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