白き聖女

 最初は物見遊山の気分だった。与えられた任務は伏竜将の行動把握。それはつまり黄銅の騎士をけることで……だから、アタシはそれを知るつもりはなかった。

 ――そう。そんなつもりは、

 もちろん、人混みに耳を澄ませていれば、嫌でも聖女の噂は飛びこんできた。

 だが。まさか――そんなことを、予想できるわけがないじゃないか。

 ルオッサは動けなかった。足は根が生えたよう。群衆の中、それを見出した時から。リタが発する警告なんて、ひとつとて意識に割りこまなかった。

 なぜ、

 イレーネ。ありふれた名だ。“エンルムの”イレーネでも、草人アールヴの言葉で「岬」を意味するのだから、珍しくはなかろう――そう思った、言い聞かせた。たとえ、自分の知るかぎりエンルム村がひとつしかなく、それが既に焼き払われていたとしても。

 赤いフードを目深まぶかにかぶった、物乞いのようにみすぼらしい少女。聖女イレーネと同じ顔のルオッサは、聖女をじっと見つめていた。たったひとつの違いは、その顔に色彩があることだった。

 その顔を汗が伝う。身を切る冷たい、山風のなかで。

 ルオッサ! はやく!

 リタが囁く。同じ顔がふたりいるのはまずい、そう懸命に訴えている。だが普段は一味のなかで最も冷徹なルオッサが――だからこそ、ほかの何も見えてはいなかった。

 ごめん。主人から命令を受けたらしく、リタが足早にルオッサから離れる。

 だが、それは軽率な動きだった。黄銅の騎士が目敏めざとくリタを見つけたのか、大声で命令する。従者らしい少年が走りだす。その段になって、やっとルオッサは冷静さを取り戻した。ゆっくりと背を向ける。後ろ髪を引かれながら。

 けれど。

「おい、おまえ。おまえだよおまえ!」

 ぎくり、とルオッサは立ち止まる。赤いフードの少女は、首だけで後ろを伺う。

 そこでは、金髪の男がナイフを突きつけていた。

「そのままだ、そのまま動くなよ」

「っ……!」

 黄銅の騎士は、聖女から離れない。金髪がナイフとともに手を近づける。

「フードを取れ。顔を見せろ」

 ルオッサは舌打ちをし、観念したようにため息をついた。

 フードを下ろし、首だけでふりかえる。

「な……! おまえは、イレー――」

 言葉の尻は血反吐に染まる。馬じみた後ろ蹴りが、したたかに男の顎を打っていた。少女は裸の下半身をさらしながら、そのままの勢いで前転する。そして着地するや、脱兎のごとく走りだした。背後の喧騒には見向きもせず。

 フードをかぶる。相手が馬鹿で助かった。だが、向こうも馬鹿なりにがむしゃらだ。ハイヌルフという伏竜将がいるとは聞いていたが、なるほど、市街では黄銅の騎士の機動力は活かせない。翼が使える場所は城下になく、翼がなければただの木偶の坊。それゆえやむなく、ハインの肉体も有効活用しているわけだ。

「待てえ! おれは伏竜将だぞ!」

 それにしても、あんなウスノロに追い回されるとは。しかも、人間のくせして犬人みてえにすばしっこいじゃァねえか。角を曲がり、ルオッサは必死に走った。

 やまいが身体能力を底上げしているものの、その体の本質は狼。獣化しなければ真価は表れない。だが、こんな街中で狼が走れば逃げるどころではない。秘術呪文と違い、信仰呪文にはごく一部の例外を除いて召喚術はない。瞬間移動だとか足止めだとか、そんな便利なものは持ちあわせていないのだ。仮にあっても唱えるような余裕はない。

 マズっちまったな。このアタシが焦るなんて。事前に調べておいた逃走ルートも、知らない街路に迷いこんでご破算だ。今も、思考がまとまらないのがよく分かる。

 クソ、捕まってたまるかよ。

 露店の下をくぐり、隠れた裏路地に入る。そしてふと思う。アタシはいま、捕まりたくねえと思ったのか? ……どうなっちまったんだ、このアタシは、ルオッサは。

 ルオッサ。その名の悪鬼が生まれ落ちたあの日から、少女は自分をかえりみたことなどなかった。無論、目的のため保身を画したことはある。だがそれはさらなる破滅への道を舗装していたにすぎない。

 目的というのは、愉悦のために苦痛を追い求めることにほかならなかったのだから。少女はもはや命など惜しくなかったし、むしろ死を渇望してすらいた。

 それでも生きているのは、ただ――

「……ッ!」

 袋小路。どうする、獣化して壁をよじ登るか、《擬態》を解いてすっとぼけるか。

 変身する猶予はなく、騙しとおせるような生易しい相手ではない。

「おま、おまえ……よくもやってくれたな!」

 振り返れば、怒り狂ったハイヌルフが走ってくる。舌打ちをしルオッサもナイフを抜く。食事用の小さなナイフを構えながら、焦るな、焦るなと口のなかで繰り返す。なぜこんなに焦っているのか分からず、分からないことになお、いらだっていた。

「その構え、おまえみてえなガキがやるもんじゃあねえ。ちゃあんとした剣術を習いました、って言わんばかりだぜ。なにもんだ、てめえ」

 ルオッサは口のなかの砂を吐き捨てる。聖女の顔がいらだちで歪む。

「オマエみてえな下劣で卑しいコボルトが、ハインのカラダを使ってンのかと思うと反吐が出る」

 ルオッサはただ挑発をするつもりだったが、すぐ要らぬことを口にしたと気づいた。ハイヌルフは激高しかかり、しかしそこまで馬鹿ではないのか、おまえ、とナイフをもうひとふり抜いた。

「おれを知ってるっつうことは、やっぱりサーインフェルクの密偵か!」

 返事は刃だった。ルオッサは飛びかかり、まっすぐに喉を掻こうとした。しかし、体格差は歴然だった。ハイヌルフの迎撃の方が速い。

 ひゅん、と風を切る音。ハイヌルフのナイフは空を切る。裸足が地面に円弧を描き、ルオッサの姿が目前から消える。小柄であるということは、的が小さいということ。人狼の脚力で急旋回し、ルオッサは背後から横に寝かせた白刃を突き出す。

「つかまえたぜ」

「なッ……!」

 手首をつかまれる。そのまま宙へ持ちあげられざま、壁に叩きつけられる。

 ルオッサはナイフをもぎとられ、腹部に深く蹴りを入れられた。

 焦りが判断を誤らせたか、馬鹿と侮ったゆえの慢心か。いずれにせよ、結果としてハイヌルフの技量はに勝るとも劣らなかった。

 ハイヌルフは首を絞め、吊りあげる。苦痛にルオッサの視界は、涙で濁る。激しく暴れて抵抗するルオッサの脳裏にあるのは、いつもの被虐の愉悦ではなかった。

 あるのは、今、獣化してはなにもかも終わりだという危惧だった。

 少女は――いつの間にか、無敵ではなくなっていた。

「黄銅、こっちだあ! 捕まえたぜ!」

「トビアス!」

 絞めあげられながらも、ルオッサは路地の光に目を向けた。その黄金色が目に入り、ルオッサは最後の息を漏らした。

 ああ、そうか。アタシは、アタシにもまだ、心残りがあったのか。

 そう。――自分の命よりも大切なものが。

 まだ、まだ死にたくない。確かめるまでは、あきらめてなるものか。

 けれど、少女の脆弱な肉体は大人の腕力に抗えない。奇跡のように幸運だったのは、まだ獣化を抑える意志が保てていたことだった。

 ――幸運は続く。

 予兆はなかった。ハイヌルフは唐突に意識を失って、糸の切れた人形のように崩れ落ちる。そしてルオッサは何者かに抱きとめられ、大気にとけるように掻き消えた。

 どさり、とハイヌルフが倒れる音が続く。そこへ、脚甲の耳障りな足音が歩み寄る。

「秘術師が近くにいる――そう言ったのだが、聞こえていなかったようだな。

 ……やれやれ、世話の焼ける男だ。貴様は」

 黄銅の騎士は注意深くあたりの魔力に神経を集中し、遠ざかってゆくのを確認した。それから散らばった同僚のナイフを持ち主のベルトにしまい、彼を抱えあげる。

 黄銅の騎士は空を見上げた。雑多な家屋に切りとられた、細長い空を。

 我が宿敵、“黒犬”よ。幾多もの防衛網を越え、いよいよ乗りこんできたか。

「よかろう。来らば来い。私は陛下と皇国を守護するのみ」

 彼はハイヌルフを肩に担ぐと、空いた手で兜を直した。彼らしくないことだった。


 ベルテンスカの城が見える森。そのただなかに、木こり小屋がぽつんと立っていた。

 ほこりくさい室内に、中空からルオッサが現れる。誰かに抱きついているような体勢のまま、ルオッサは浮いている。そして、背景が浮きあがったかと思うと、ルオッサをかかえていた男が姿を現した。自己を召喚する《転移》の術式を確認してから、その男は《不可視》を解いた。

「どうしたんだ、ルオッサ。おまえらしくもない……」

「ハイン……」

 ルオッサは両手を固く握りしめていた。左の握り拳を開くと、その顔は彼女本来のそれに戻る。その日に焼けた顔は、困惑にくもっていた。開かれた手のなかで、蛇の紋章を刻まれたロケットがくすんでいた。右の二の腕にはぼやけて歪んだ刺青がある。古い神聖文字で、数字の十一と十二。炭粉で彫られた刺青は、赤く腫れていた。

 粗末なベッドに横たえられる段になって、ルオッサは自分が抱きついていることに気がつき、あわててその腕を振りはらう。怪訝けげんそうに見つめられて、彼女はこぼす。

「……何でもねえよ」

 犬人のハインは眉をあげる。テーブルの飲みかけのマグを取ると、白湯を飲み干す。「なら構わないが……」

「……すまねえ」

「なに?」

「危ないところだった。クソ、このアタシが、よりにもよってあんなウスノロに……」

 言いかけ、ルオッサは妙に静かだなと顔をあげた。ハインは竹のマグを持ったまま、煙草を取りだしかけて止まっている。

「なンだ?」

「いや、……大したことじゃない。だがルオッサ、やはり何かあったのか?

 おまえから素直に礼を言われるだなんて――先日といい、気味が悪い」

「ばッ――!」

 一瞬、ルオッサの髪が逆立った。同時に獣毛が現れかける。

 ルオッサは深く息を吸いこみ、吐いて、発作的に飛びかかりかけた自分をなだめた。

「クソ……。なンだよ、そんなに珍しいかよ。オマエだって、いつの間にかアタシに悪態をつかなくなったじゃァねえか」

 自分が分からず、いらだちながら返す。だが、ハインは首を傾ける。

「そうか?」

「そうだとも! 少なくともエッカルトの一件の時ァ、グチグチとあれこれこぼしてやがったぜ。それが最近じゃァ、リタみてえに大人しくなりやがって!

 クソ……、はりあいがねえ」

 ハインは苦笑し、煙草けむりくさへ目を落とす。それに火をつけてふかすと、からかうような目つきになる。

「はりあいときたか。俺と嫌味を言いあうのが楽しかったのか?」

「はァ!?」

 ルオッサは立ちあがり、けれどまた、所在なくへたりこんだ。何が言いたかったのか分からなくなり、ふざけんな、と口にするのがせいいっぱい。

 ……調子が狂う。ここ最近、コイツはアタシのことを全然警戒しない。日がな一日、任務に専念している。前はもっと、アタシの一言一句に動揺していたのに。

「……俺は嫌いじゃなかったぜ。おまえの言葉が刺さらなくなったわけじゃない。

 おまえがあまり口にしなくなったんだ」

「そんなはず――」

 ……どうだろう。言われてみれば、最近はベルテンスカに潜入するため、事務的に話しあってばかりいた。ふたりで手分けして情報を集め、連日話しあって、止水卿に報告し承認を得て、とうとうここまできた。

 忙しすぎた。真面目に仕事をしてしまっていた。それに。

 それが、

「ベルテンスカの防衛網を越えられたのは、おまえのおかげだ。だが俺たちの仕事はこれからだ。油断するなよ」

 会話を打ち切って、ハインは出てゆこうとする。

「待てッ!」

 ハインはゆっくりとふりかえり、煙草を肉球で揉み消した。「どうした?」

「あ、アタシはどこの馬の骨とも知れぬ売女ばいただぞ! それを、お、オマエは、こんな重要な局面にまで……!」

 ハインは顎の毛をなで、いぶかしがるような目でルオッサを見た。彼女にはそれが、自分を案ずる視線に思えた。

 それはあの晩に確認したつもりだったが、とハインは前置いて、

「止水卿はおまえを信用している。それは、少なからぬ調査を経て、おまえの功績を認めたからだ。卿の目はサーインフェルクじゅうに張り巡らされている。その卿が、おまえの本性を知らないとは思えないしな。……それでも、手を借りていい相手だと考えているんだ。

 だいたい、おまえから自分を雇えと言いだしたんじゃないか。どこまで俺のことに勘づいているかは知らないが……時が来れば、答えあわせをしなければな。きっと、その時は近い。それに……」

「それに、なンだ!」

 荒ぶる狼のように、ルオッサは吠えた。ハインが並べる言葉の、どれもこれも気に入らないと言うように。そんな彼女の剣幕に、ハインはひるみもしない。

「……はあ。口がすべったな。

 ドラウフゲンガーの時のことだ。俺が“影盗みドッペルゲンガー”と遭遇した話は聞いているな?

 そいつは不思議な奴だった。俺のファンだとかなんだとか……とにかく、そいつは既に俺やおまえの姿を盗んでトレースしていた。そして最後にとも言っていた――きっかけはそれだ。

 だがそれだけじゃない。……俺は忘れられなくてな。あの事件は酷く悪趣味だった。悪趣味で、自分を否定されるようで……いろんなことに気づかされた。

 正直に言う。俺は子供が苦手だ。いや、嫌いな訳じゃない。ただ……護れなかった、殺さざるをえなかった子供が多すぎたんだ。守らなければとずっと自分を追い詰めていたのにもかかわらず、だ。だからか、あの変な奴の言葉が妙に引っかかっていてな。

 それで、……こんなことを言うと、おまえは怒るだろうが。

 おまえもひとりの女の子なんだな、と思うようになった。同時に、確固たる意思を持つ人でもある。――これは草人アールヴたちにも教えられたことだな。

 それで、やっと分かってきたんだ。必ずしも、何がなんでも庇護しつづけなければならないものじゃない、それは俺だけで決めることじゃないんだ、とね」

 ハインは言い終えると、二本目に火をつけて、癖のある匂いの紫煙を吐きだした。ルオッサはとまどい、疲弊していた。「……何が言いたい」

「つまり、だ。リタが普段からやっていることが正しい、そんな気がしてきたのさ。相手を隷属させるのでも、宝石箱に閉じこめるのでもない。子供もひとりの人と見る。たったそれだけのことだ。そのうえで、助けを求められれば助ければいいんだ」

 俺は、間違っていたんだ。

「ここまでが前置きで、やっと本題に戻るが。おまえは子供でありながら、俺よりも頭が切れる。少女でありながら自らの意思で悪を選びとれる。

 ――おまえは俺にとっての例外だった。だからずっと混乱していた。

 だが何も矛盾はなかったんだ。おまえはおまえだ、ルオッサ。おまえは誓約したな、俺とリタに害をなさない――と。あれから何年になる? おまえは結局、その誓約を守っている。おまえは信用に値すると、自ら証明してきたんだ」

 ハインはわらいかけた。皮肉るように、安心させるように。リタに向けるものとも違う、ルオッサ自身のそれにも似た笑みを。

 ――それが、なおさらルオッサには不快だった。

「やめろ……。ハイン、オマエはなぜ、そんな……」

「なにが不服かわからないが……。俺の寝首を掻く機会はいくらでもあったはずだ。盗まれれば致命的な情報もいくつもあった。だが、おまえはそのひとつとて利己的に利用しなかった。――まあ、俺の神経だけは除くべきだが。

 ほら、客観的にはおまえを疑う理由がないだろう。それを自ら、おまえが口にすることも裏付けになる。裏切るなら、黙って俺を売ればいいじゃないか」

「違ェ……違うんだよ……」

 ルオッサは何を拒絶したいのか分からなくなり、頭を抱えた。

 いつか、なにかに誘惑された日のことを思いだす。それを受け入れてしまったなら、なにもかも終わりなのに、それは――とても甘美なのだ。人の血のように、肉のように。

「どうしちまったんだ、ハイン。オマエは、アタシなんかを信頼する奴じゃなかっただろう。オマエはもっと孤独で、無頼で……それでいて誉れある……」

 汗に濡れた髪を掻きむしりながら、ルオッサをうわごとのように繰り返す。ため息ひとつ、ハインは煙草を踏み消すと、いきなりルオッサの手をとった。

 ハインは、まっすぐに目を見つめる。

 ルオッサは放心し、見つめかえした。

 美しかったのだ。その蒼い瞳は。かつての泥のように濁った目ではなかった。

 その目を澄みわたらせてしまったのは、ほかならぬ――

「どうかしたのは、おまえだ。ルオッサ、おまえがルオッサなら、俺が助けに入った時に『余計なことをするな』だの『そんなにアタシが大事か』だの、皮肉のひとつも口にしていたはずだろう。

 しっかりしろ。おまえがそんなに項垂うなだれる姿なんて見たことがない、見たくもない。おまえは善の矛盾を笑い、正義に独善と唾を吐く女だろう。違うのか!」

 ちがわない……。ルオッサはこたえた、即答した――蚊の泣くような声で。

「違う! ……俺はそう思わない。

 たとえおまえが拒絶しようと、!」

 ハインは自らにも言い聞かせるように、相棒に言った。

 その言葉に、ルオッサは歪んで笑った。望みなき極北の地で、はじめてその笑いを覚えた時のように。儚い薄雪のようなそれを。

 少女は目に涙をうかべ、

「……そうだ」

 それまで、ルオッサが避けていた言葉。必要だった秘密。

 その言葉を投げかけても、ハインはほとんど動じなかった。

 それが、それこそが断絶だった。

 ルオッサはハインを突き飛ばすと、逃げるように戸口から出ていった。

「あっ、ただいまルオッサ……ルオッサ? ねえ、ハイン! いったい……」

 戸口から出ていくルオッサに驚き、すれ違ったリタはハインを見上げる。

「……俺のせいだ」

「ハイン……ごめんね、わたしのために……」

 ハインは首を振る。愁いを帯びた彼の顔は、リタすら見れずにいた。

「おまえのせいじゃない。自分のためにおまえを利用しているのは、俺の方だ……」


 ルオッサは、いつの間にか駆けていた。気づくと体は狼になり、四足で走っていた。つい先日、は済ませたはずなのに、抑えが利かなかった。

 初めてハインと言葉を交した、あの日を思いだす。“仔犬”ではなく“ルオッサ”として会話したあの日を。ハインを選んだ理由を、アタシは明かさなかった。それは、言葉にせぬ不文律で、必要な秘密だった。けれど、ハインには不要になってしまった。――

 ほんの些細な好奇心から、ハインとあの日を思いだす。あの夕暮れから、アタシはおかしくなってしまった。彼から不純を注がれ、ハインを知ってしまった。ハインは自分を見つめつづけていた。アタシとは根底から違うのだと知ってしまった。――

 ハインを思うと気が狂う。アタシを失う。忘れなければ、このままでは駄目だ――!

 ……それなのに。そう思えば思うほど、ハインのことしか考えられなくなる。

 ハイン。ハイン! 強くて、弱くて、強靭で、脆弱で、温厚で、恩義に厚くて――子供すら殺す、冷酷な殺戮者。矛盾。矛盾を飼う者! 矛盾の中で懊悩おうのうし、それでも前を向く者――ハイン!

 囚われてしまう。のみこまれてしまう。このままでは、。そうなってしまったら。アタシは、私は――

「どこへゆく」

 荒野の岩陰から、人語が投げかけられる。

 反射的に立ち止まり、枯れた砂利に軌跡が残る。狼のルオッサは唸り声をあげる。

 岩陰にあるは、黄銅の騎士。

「その先は東の地だ。ベルテンスカでも、ましてサーインフェルクでもない」

 腕組みをし、ちらと黒い狼を見る。ルオッサはようやく、完全に狼に変身している自分に気づき、シラを切って立ち去ろうとした。

「イレーネに会いたくはないか」

 狼の歩が止まる。思わず黄銅の騎士を見てしまった黒狼は、うろたえて足踏みする。

「……いい加減、三文芝居はやめろ。名も知れぬ“仔犬”よ」

 狼はしばし舌を出して目をあわせなかったが、やがて騎士をにらんだ。

 狼は獣化を解き、四つん這いの少女になる。

 ゆっくりと立ちあがり、しわがれた声で低く問いただす。

「――なぜ私だと分かった」

 フ、と騎士は笑う。

「貴様のような狼がいるか。衣服を身にまとい、涙を流す狼がな」

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