一章 断崖都市
従騎士
「……なあ、おまえさあ」
前を行く男がいきなり立ち止まったせいで、少年はその背中にぶつかってしまった。おかげで運んでいた鉱石をかごからいくつもこぼしてしまい、少年はその男、金髪を後ろに撫でつけた男をにらみつけた。
「っ、すまねえ。……おい、なんだ、その目は。
だいたい、おまえがいっつも下向いて歩いてっからだろ? なあ、アントン」
「おい、なんだよ! おれぁ、心配してやってんだからな!」
「
「あぁ? なんだとぉ!」
そばかすだらけの少年は手ぶらの男に見向きもしない。歳は十代半ばに差しかかり、身丈はハインと呼んだ
「チッ、だれがおまえを助けてやったと……」
「おれの主は黄銅サンだよ! ハインは眺めてただけだったんだろ!」
「かーっ……言わせておけば!
チクショウ、こんなヤツの世話なんか引き受けるんじゃなかった!」
いい歳して地団駄を踏む男を尻目に、アントンはきびきびと鉱石を手に歩く。
病んだ翡翠色の鉱石。ニコル鉱と呼ばれるその鉱石は、ベルテンスカ内の鉄鉱山で初めて見つかった。当初は国内で細々と絵の具に使われるばかりだったが、今や大陸全土から商人に集めさせているという。剣や鎧に魔法をかけるのに必要だと聞くが、アントンはあまり関心がない。鉱石ばかりでなく、国内の政そのものにもだ。
自分に何の関係がある? 最近の彼は、生来の好奇心で首を突っこんでも、次にはにわかにそんなことを思う。
ご飯を食べさせてもらって、自分の給金さえ貰っている。それなのに、自分は――
「おいアントン、そっちじゃねえぞ」
「……あ」
我に返り、アントンは街道へゆく道から
それは、桜花と若葉と、稲の苗。
「……おまえの生まれって、どんなトコなんだ?」
「え?」
あの粗野なハインが、いつになく苦しい顔をしていた。そう気づいてアントンは、自分も苦しいんだと分かった。
「黄銅のヤローに恩義なんか、感じなくていいんだぜ。ありゃあ、見ためよりウブなヤツだからな。おまえが盾の従者をほっぽりだして逃げたって聞きゃあ、『そうか』つってしまいさ」
仏頂面で
「そんなの、ハインに言われなくたって知ってるさ。
おれには、あの人が“首狩り将軍”だなんて呼ばれてること自体、信じられないよ」
「……まあ、それはそれよ。しかしなんだ。それならここが気に入ったのか?」
アントンは、すぐには答えられなかった。ううん、と曖昧に返すのが精一杯だった。
帰りたくないわけじゃない。でも、帰れるわけでもないんだ。
「そっか。ま、興味もねえからな。おれにゃあ、どうだっていいさ。さあ、とっとと仕事を終わらせて、メシにしようぜ」
「はあ? なんだよそれ!」
……やっぱり、ハインはハインだ。アントンは憤慨して、その男の後ろを追った。
鉱石を城へ届けると、侍従が地下へ持っていってしまった。アントンは役目を終え、城の荘厳なホールを見回した。いつまで経っても、城仕えには慣れそうにない。
しばしホールの高さに目をとられていたアントンだったが、鎧のこすれる音を耳にするや、顔を輝かせた。そして、会話している大男を見つけ、駆け寄っていく。
「黄銅さん! おつかれさまです!」
「御苦労」
耳障りな金属音をまとって、その巨躯は首だけで振り返った。「では頼む」と会話を切りあげ、黄銅の騎士は向き直る。全身鎧を着こんだ、肌の色すら分からない主君。
「調子はどうだ。くたびれてはいまいな」
「当然! ちょっと重かったけど、まだ昼飯には早いよ!」
ずきずきする腕を無視して、アントンは強がりを言う。隣では、ハインが流し目でじとりと見ているが、お構いなしだ。
「では、午前の残りはともに聖女の警備につこう。
午後には、ハインに剣を教えてもらうとよい」
「はい!」
黄銅の騎士はゆっくりとうなずいた。アントンにはそれが、自分に期待してくれているように思えて、胸がうきうきした。今となっては、彼のただひとつの支えだ。
――黄銅の騎士。全身を黄金に輝く鎧に包み、名前すらひた隠す謎の男。影の凝り固まったかのような大剣を枝葉のように振るい、戦場では敵の呪文すらものともせず、異形の翼で空を舞う。その正体は
さりとて畏怖されるばかりの人物でもない。平時は“血花王”の忠実な騎士として、誉れをほしいままにする。財貨に溺れず、いたずらに名誉を求めず。もし仮に中身が人間にとって憎むべき
――そんな、アントンにとっては敵国の、それも雲の上の存在に拾われたのは、ちょっとした運命の偶然だった。
群青亭――アントンの生家は、傾いていた。それは領主の庇護を失ったからでもあったし、せがれが帰ってこなかった親たちのひがみからでもあった。いずれにせよ、女手ひとつで酒場を切り盛りするにも限界があった。夫から受け継いだ店を失うまいと躍起になっていた母が過労で倒れた時、アントンはサーインフェルクで徒弟として修行していた。訃報の手紙が彼のもとに届いたころにはとうに一ヶ月が過ぎており、彼がなけなしの金で早馬を走らせて帰ったときには、とっくに葬儀が終わっていた。
醸造権と土地は
記憶の彼方に消え失せても、笑顔だけは覚えている父。身を粉にして自分を愛してくれた母。その一生の後に
気づけば、アントンはあてもない旅に出ていた。鞄に収まってしまう全財産を背に、故郷をあとにした。あてがあったわけでもない。けれど、サーインフェルクに入り、犬人の顔を無数に見るようになると、ある犬人の顔が頭にこびりついて離れなかった。
アントンは仇を呪った。すべて、あの犬人が悪いのだと思うようになった。あいつさえ来なければ、何もかもあの日のままだったはずだ、と。
ハインという名前は、犬人には珍しい。そのうえ、犬と女の子を連れているときた。アントンは簡単に見つけだせると思ったが、素人の少年にはそれだけ目立つ相手でも困難だった。なにより、世に犬人はあふれかえっていた。
サーインフェルクの犬人コロニーを聞きまわるうち、アントンは犬人たちから嫌なやつとにらまれるようになった。そしてついには、たったひとつの荷物すら奪われて、サーインフェルクから命からがら逃げだすはめになった。
着の身着のまま、アントンは北へ歩いた。その頃には、己の運命を受けいれていた。
しょせん、人殺しには、なにもできないのだと。
そうして彼は、
秋の終わり。寒い寒い、夜のことだった。意識を失う寸前、彼は枯れ葉を踏む音を聞いた。その乾いた音に、死神だな、とどこかで安堵した。
けれど、彼は死ねなかった。
その夜更け。薪のはじける音で彼は目覚めた。そこは暖かい毛布のかかった寝台で、隣では男が船を漕いでいた。三十近いその
その時、黄金の甲冑がドアを開けて入ってきた。その音に驚き、男は変ないびきを吸いこんで目覚めた。アントンが起きていることにさらに驚き、飛びあがって誰かを呼ぶのか、慌てて走りだそうとした。
「落ち着け、
頭を押さえつけられて、トビアスという名らしい男は、ようやく事態を飲みこんだ。
「んだよ、いたのかよ!」
「看病せよと言ったつもりだったのだがな」
皮肉を口にする鎧武者は、普通ならぎょっとするだろう出で立ちだった。なにしろ戦場でも屋外でもないのに、全身鎧を着こんでおり、体格と声くらいしか分からない。けれど、アントンは不思議と怖いと思わなかった。それは、背負う大きな剣よりも、手にした庶民じみた鍋が目立っていたからかもしれない。
その金ぴかは鍋からシチューをよそうと、アントンに差しだした。彼がとまどっていると、もう一杯をぼんやりした男に渡した。
「ん、くれんのか?」
「毒味してやれ」
「はあ? ま、いっか」
おまえの気まぐれのせいで食いっぱぐれたからなー、と男はがつがつ貪りはじめる。いつも食べていたカブばかりのスープではなく、ごろごろと牛肉の入ったごちそう。手のなかのそれを見てはじめて、アントンは空腹でたまらないことに気づいた。
「なんだ? いらねえなら食っちまうぞ」
「た、たべるよ!」
いい大人と少年は、先を争うように食べた。その姿を、鎧の男はじっと眺めていた。
やっと落ち着いたころ、金ぴかは口をひらいた。
「名は何という」
アントン・ブラオマン。腹がくちくなった彼は、忘れかけていた姓を素直に答えた。ではアントン、と相手は言った。
「
アントンはその言葉の意味をはかりかねた。すると、満足そうに腹をさすっていた男が、めんどくさそうに口を尖らせる。
「なんであんな寂れた道でぶっ倒れてたんだ、ってきいてんだよ」
銀の匙で指され、アントンは
「なんだ?」
「え?」
そこでいきなり、甲冑の腕がトビアスの頭を押さえこんだ。
「……すまないな。これの名は
「え、でもトビアスって」
「それは
急に低い声音になったものだから、アントンはそうなのか、と飲みこんだ。そして、それでも、とハインをじっと見つめた。
「んだよ」
「ううん……やっぱり、人違いだ」
犬人と人間を間違えるはずがないし、人間ならハインという名はありふれている。それに、仇が魔法使いだってことを差し引いても、こんなに単純なやつじゃなかった。
アントンは事情をふたりに話した。帰る場所はないこと。ハインという名の犬人を探していること。……そいつに復讐しなければならないこと。
すると、渾名とはいえ同名であるハインは、思わずぎょっとした顔になる。別人だと分かってはいても、気持ちのいい話ではないだろうなと彼は思った。
大きく間をあけて、金ぴかは口を開いた。
「そうか。ならば、提案がある。名乗り遅れたが、我々は神聖ベルテンスカ皇国が
……恥ずべきことだが、その執行にあたり手が足りておらぬ。皇国には仇なす者も多いのだ。そして、そのなかにはハインというコボルトもいる」
アントンは思わず飛び起きた。
「ハインに会ったことあるの!」
「会ったはったどころじゃねえ。こちとら、ナズルトーじゃ
人間のハインが口を挟む。信じられない気持ちで、アントンはふたりを見上げた。いままで誰にハインのことを
アントンは手元に目を落とし、シチューの皿を見て、思わず涙ぐんでしまった。
こんなに親切に、いや――ちゃんと話を聞いてもらうことさえ久しぶりだった。
「……アントン」
「はい」
「提案というのは、私の従者にならぬか、という話だ。私はこれまでひとりの従者もとらなかったが、いよいよ手が回らなくなっている。そのハインとやらも、この地にいれば嫌でも
「お願いします!」
食い気味に答え、彼は黄金の篭手をつかんだ。食事で火照った体に、その冷たさは心地よかった。
「……そうか」
彼はそう承知したばかりで、顔色は伺えなかった。ただ、ハインだけがにやにやと笑っていた。
「だが、まずは体力を養え。風邪でもひかれてはかなわん。落ち着き次第、ハインに剣を習うといい」
「そうだそうだ。まずは……って、はあ? なんでおれが!」
「貴様が言いだしたのではないか。『従者にでもしてやれ』とな」
「昔のおまえに似てんな、とは言ったけどよ。そんな――あ、言ったわチクショウ! クソっ、分かったよ、面倒見りゃいいんだろ!」
ハインは出し抜けにアントンを見ると、「なに笑ってんだ!」とさらに不機嫌になる。けれどどうしてか、アントンは不思議な居心地のよさを感じていた。
粗野な男と、顔も分からない甲冑の二人組。アントンは部外者だったが、ふたりが人前ではこんなふうに喋ってはいないだろう、と察していた。それはつまり彼らが、アントンを他人とは思っていないということだった。
アントンはふと、男なら誰かのために尽くすものだと思った。その勇気を
「よろしくお願いします! ハインさん、それから……えっと」
「私に名はない。呼び名が必要ならば、“黄銅の騎士”とでも呼ぶがいい」
「そうなんです? じゃあ……黄銅さん。おれ、がんばります。拾ってくれた命だし、黄銅さんのために……」
「ああ? おれを忘れてんぞ!」
「吠えるな、トビアス。貴様の歳はいくつだ。
それと、アントン。君が仕えるべきは私なぞではない。私が仕えるかの皇帝陛下、マルガレーテ様そのひとである。……騎士とは、そういうものなのだからな」
騎士という言葉。その名誉に、アントンは目を輝かせていた。「はい!」
そうして、アントンは再び生きる目的を得た。彼は信じるものを失っていたがゆえ、それを無邪気に信じきった。
回復したアントンは、小ぶりのレイピアと銀の胸当てをもらった。それは、主君を得たことの象徴で、彼の宝物となった。そしてアントンは宮廷に出入りするようになったのだが、当初、彼は新たな伏竜将かとうわさされた。そんなわけあるかよ、と内心いぶかしく思っていたのだが、一ヶ月もするとその意味が分かりはじめてきた。
どうも、他人にはアントンとハインが似た者同士に見えるらしい。確かにしばしば口喧嘩するし、気のあうときもないではないが、アントンからすれば心外だった。
……それはともかく、ハインは精悍な見た目とは裏腹に、なかなか間が抜けていた。宮廷では
そんなフヌケだからか、ハインは黄銅の騎士に金魚のフンで、なにかあるとすぐ「どうすんだ」と口にする。実質、この国の護りは黄銅さんひとりで、ハインは従者みたいなものなんじゃないかとアントンは思った。新入りのおれにすらそう見えるのだから、ハインに似たおれが黄銅さんの後ろにくっついたら、「ああまた新入りか」と思われるのも仕方ないか……。彼はそう、内心でハインを見下していた。
ところが、ある日のこと。主君から授かった盾の従者の役目は、実際には
曰く――なぜ
「黄銅のは態度に出さねえがよ、おまえにゃシャンとした騎士になってほしいんだよ。だから今は宮仕えに慣れるんだ。そうすりゃ、そのうちポンポンと出世して、覚えが良けりゃ宮中伯にもなれるかもだぜ。悪くても近衛になれりゃ、戦場に出るよりゃあ危なくねえ」
「おれが貴族サマに? バカいうなよ」
「それがバカなハナシでもねえんだ。また戦争でもありゃ、バタバタと人が死ぬだろ。すると人が足んなくなる。そうなりゃ多少生まれが悪かろうが取り立てていかねえと回らねえ。……おっと、こりゃ受け売りなんだ。黄銅にゃナイショな」
アントンは黙って話を聞きながら、ハインは隠し事のできない性格だな、と思った。なぜなら、自分がそうだからだ。将軍という大役を背負っていながら、ハインが毎日ヒマそうに自分に付きあってくれているのも、陰謀が渦巻くという宮廷に彼が馴染めないからだろう。たぶん、自分にも向いていない。彼は自分がハインと同じと感じて、本当に情けないのは自分自身だと思い知った。
でも、だからこそアントンはこう考えた。
何かをしてあげたい、尽くしたいという気持ちだけは、きっと本物なんだ、と。
自分の体も心も、魂も、
だからふたりのために、ふたりに恥ずかしくないことをしよう。そのために自分が苦しむとしても、それはあの日、あの凍える夜に授かるべきだった罰のはずだ。
ああ、そうだ。
だから――何もこわくなんか、ない。
アントンはふたりの伏竜将に連れられて、帝都ケルンエヒトの雑踏を歩いていた。都とはいえ、混みいった街路は人にあふれ、そのなかには犬人や
「聖女について、何か聞いているか」
黄銅の騎士の問いに、アントンはウワサしか、と首を振る。
「いい加減、教えといた方がいいぜ」とハインが口を挟む。
「ふむ。お前にしてはまともなことを言う。そうだな、頃合いか。
アントン。私とハインは伏竜将だと言ったな。だが、伏竜将は我々だけではない」
黄銅の騎士が言うには、女王陛下が即位した後、先王とは異なる位階をつくるべく叙任されたのが伏竜将だという。創設当初は確かに黄銅の騎士とハインだけだったのだが、今では四人もいるらしい。
「そのうちのひとりが“聖女”イレーネだ」
噴水のある十字広場に向かう、道すがら。広場に近づくにつれ、人々がどことなく変わってきた。咳を聞くことは増え、腐った血の臭いが時に鼻をかすめる。それは、瀉血の臭いだった。
「聖女様って……でも、生きているかたなんですよね?」
聖人だの聖女だのというのは、教会が、それも教皇様とかいうとんでもなくえらい人が認めなければいけないものだと聞く。しかも、大半は死後だいぶ経ってからそう呼ばれるようになるはずだ。
「正確には、教皇猊下は認定していない。だが、皇国内の枢機卿は認めている。
――アントン、君も会えばわかる」
それきり、黄銅の騎士は黙ってしまった。アントンはどこか腑に落ちなくて、隣のハインをすがるように見た。
「皇国としちゃ、教会のお墨付きがもらえりゃなんでもいいのさ。案外、おまえならオトモダチになれるかもだぜ」
ともだち?
「聖女さま!」
甲高い歓声にアントンは顔をあげた。視界が開け、自噴泉を囲んだ噴水が目に入る。広場では市が立ち、多くの人々が噴水から水を汲み、買い物をして賑わっている。
噴水の前の
人間ばかりだとアントンは思った。人間のほかは数人の小人が混じっているだけだ。彼の生まれた土地もそうだったが、彼が働いていたサーインフェルクには当たり前に犬人がいた。だがここにはひとりの犬人もいない。思えば城にも犬人がいなかった。街中には走り回っているのに、変だなと思う。
そのときだった。人の山が割れ、水を打ったように静かになる。背伸びをしていたアントンは、人の間から現れた
それは真白い人間だった。白く薄いローブを羽織って、じっと目を閉じている少女。歳は十になるか、ならないかだろう。その両脇をふたりばかり、青い
だが、そんな奇怪な兵より目を引くのは“聖女”そのものだ。群衆を静めるためにあげられた腕は、あまりの白さに背景から浮いており、そこだけ絵画かと錯覚させるほど。無論、腕だけではない。顔も脚も、髪も銀髪より白い。漆喰も、白樺も、白の絵の具も。あれよりはまだ色味がある。
美しいとは思わなかった。ただ、目を離せなかった。
それが、まぶたをあげる。
アントンは目があった。彼は思わず、一歩退いてしまう。その瞳まで白かったからではない。
その瞳が彼の見られたくないもの、それを見透かしているように感じられたから。
「おあつまりの皆々さま。すでにごぞんじかとおもいますが、いま一度あらためて、わたくしめの名をどうぞお知りおきください。
わたしはイレーネ。主よりたまわったものは、この名とこの身ひとつでございます。ですが、みなさまは別のものを期待しておられるごようす」
みんな、懇願するように手をあわせて握りしめ、祈っていた。
「それは、わたしが与えるものではありません。主がみなさまをあわれみ、主に祈るものだけに授けてくださるものです。
どうぞお祈りください。わたしたちの父は寛大です。偉大なる
おお、とあちこちから嘆息がこぼれる。大人も、子供も、老爺でさえ、その少女へ祈りを捧げている。彼はその光景に既視感をおぼえた。そうだ。サーインフェルクの教会で見かけた、アーなんとかっていう司祭さまの描いた絵だ。
幼女の姿をした天使。老若男女問わず、誰もがその幼い女の子に
「イレーネさま! どうか、どうか……!」
待ちきれなくなったのか、ひとりの女性が前に飛びだした。その腕のなかには、ぐったりした赤子がいる。
「早く、はやく……どうか、ご慈悲を……!」
母親はあえぐように言った。アントンは息をのむ。その赤子の顔は青白く、うすくあいた瞳は焦点があっていない。息をしていないことは明らかだった。母親は焦燥のあまり、我が子が見えていないのだ。
小さな聖女は、ゆっくりとその赤子に目をやる。
「なんてかわいそうなのでしょう。これから二本の足で歩き、あなたをおかあさんとよぶはずの、たいせつなあかちゃんでしょうに」
白い聖女がそう話しかけるに、アントンは背筋が凍る思いがした。そのせりふは、子が
聖女は赤子の顔に手をかざし、何かをそらんじる。アントンは多少裕福な生まれだったが、真教の教典は教会で目にするばかりだったし、分かる文字といえば数字と、経営に必要ないくつかの単語だけだった。
だからそれが、世界で最も神聖な言葉だと分からなかった。ただ教会で聴くような、分かるような分からないような、もったいぶった単語の羅列だと思ったばかり。
――そして、アントンは聖女を信じることになる。
小さな白い手が下ろされると、その赤子はせきこんだ。肌は青白いままだったが、その目は自らを見下ろす聖女を見、むずがって泣きはじめた。
群衆がどよめき、深く、深く祈りを捧げる。アントンは思わず黄銅の騎士を見上げ、次にはハインをかえりみた。けれどふたりは、身じろぎひとつしない。その様子からアントンは、それがいつもここで起こっている
最初、赤子はただ眠っていただけなんじゃないかと彼は疑った。けれど、
患部に手をかざし、聖句をひとつ唱えるだけで傷病を癒やす。それが奇跡でなく、少女こそが聖女でないのなら、あれはなんだと言うのだ?
呆然としていたアントンだったが、主人に促されて我に返り、ともに護衛に入った。アントンは列整理を命ぜられたが、その少女から片時も目が離せなかった。自分でもそのわけは分からなかった。期待にも、
やがて、あんなにたくさんいた病人も減って、最後の
アントンは我ならず、その聖女をまじまじと見つめてしまった。自分よりも幼い、小さな女の子。その微笑みに見つめ返されると、彼は思いださずにはいられなかった。
あの日の夜を――錆びついた火かき棒の感触を。安堵しきった、泡立ち枯れた声を。
「あら、あなたは」
聖女が、口を開く。言葉の用意がなかった彼は、しどろもどろする。
「あっ、じ、自分は、黄銅の騎士様の従者で……」
アントンの言葉を待たぬ、その返答は――白刃を思わせた。悪意なく、害意なく。
「わたしに、あなたは癒やせませんね」
さあ、つぎの広場へむかいましょう。
黄銅の騎士への聖女の言葉は、アントンには聞こえていなかった。
先ほどのそれは、刑死の宣告にも等しかったから。
「アントン!」
主人の大声が彼を蘇らせる。何事かと黄銅の騎士を見ると、どこかを指差している。その指を目で追うや、アントンの頭に血がのぼった。
「――あれは、あいつの!」
黄銅の騎士が追え、と言うまでもなかった。アントンはそれ――黄土色の犬をよく覚えていた。それは仇敵の乗騎、喋る犬。瞬時に決意と使命が彼を満たした。猛然と走りはじめた彼に気づいて、大きな犬は土を蹴りあげて走りだす。アントンはその時、猟犬となっていた。
追いすがるアントンを見送り、黄銅の騎士は周囲に目を光らせる。
「トビアス、退く者を追え」
「あいよ。使い魔だけでいるわきゃねえからな」
伏竜将ふたりの、険しい顔の下。その間で、もうひとりの伏竜将がほほえんでいた。白い貼りついた笑みは、誰にも向けられてはいなかった。
裏路地に入りこんだ犬を、しぶとくアントンは追いかける。
――黄銅さんの言っていたことは、本当だった。サーインフェルクでは誰も、何も教えてくれなかった。それが、ベルテンスカに来てからはどうだ。これならすぐにも、仇にたどり着けるかもしれない。アントンは期待と高揚と――かすかな不安を胸に、ひた走る。
肩幅もない路地を駆け抜け、露店をかわしながら後を追う。犬が倒した商品をよけ、後ろからの怒号にごめんなさい、と叫ぶ。犬はちらちらと自分を振り返る。その目はおびえているように思え、ふとアントンは思い至った。
その
この先にあの犬人がいたら、自分はどうなるんだ? 剣を抜いて、そのあとは? 追い詰められているのはおれじゃないのか?
かつて、友に向けられた切っ先、腰を抜かす自分。あの時、自分は――
その一瞬の恐怖、足のすくみが命取りだった。
角を曲がると、犬の姿はこつぜんと消えていた。足音や足跡とともに。
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