青いオリーブ

 時は、いくばくかさかのぼる。

 瑠璃色るりいろの空は澄みわたり、上弦の月が光輪をまとって輝いていた。

 ひらけた広大な荒野の外れに、大岩が転がっている。それは、はるか太古に滅びたと伝わる、巨人の頭を思わせる。

 その根本、ルオッサとリタは焚火の準備をしていた。ルオッサはナイフで厚い草の層を突き破り、その下の赤土を素手で掘り起こす。

 濃い、土の匂い。苦いようなかぐわしいような、懐かしくもある匂い。ルオッサはその匂いにほんのひととき手を止めるも、すぐに顔をあげる。

「こんなモンか、リタ」

「ありがとー! じゃ、火起こしするね」

 ルオッサが掘った浅い穴に、火口箱ほくちばこくわえたリタが屈みこむ。ガマの穂を取り出し、前足でほぐすと、火打石を取りだす。

 そこへ、ひとつの長い影が差す。犬は顔をあげ、ぱあっと輝かせる。

「ハイン!」

「ほいほい、ただいま。これだけあれば、夜明けまではもつだろ」

 その青鹿毛あおかげ犬人コボルトは、朽木を自分の図体ほども抱えてきた。どさりと置かれた薪をリタはふんふんする。そうして乾き具合を確認してから、口と前足で火打石を打つ。

 火種は炎となり、徐々に冬の冷たい空気を裂いていく。ふたりと一匹は焚火を囲み、一息つく。あたりは次第に暗くなり、風はいっそう冷たくなる。

「久しぶりだね、みんなで野営って」

「そういやそうか。……水は?」

「もうんであるぜ。とりあえず沸かそうや」

 そうだな、とハインは荷物からケトルを取り出し、地べたに置かれた鍋から河水を移す。火にかけられたケトルはゆっくりと炙られ、やがて、しゅうしゅうと音を立てはじめる。するとリタが、「ハイン、あれかけてよ」と、お菓子をねだる子供のように前足をのせる。

「おまえなあ、俺の呪文は無限の釜じゃないんだぞ」

「もう後は寝るだけでしょ?」

「それはそうだが……ああもう、わかったわかった」

 ハインはわずか数節の詠唱とともに手を動かし、空中に簡単な方円をえがきだす。魔力の流れがハインに覆いかぶさり、リタの体にも共鳴して渦巻く。ルオッサの肌はぴりぴりとその気配を感じとった。

 リタは犬ながら、笑ったような満足げな顔になってケトルのほうを見る。すると、ひとりでにケトルが持ちあがり、今度はすっと竹のマグも浮遊する。熱い湯が注がれ、湯気を立てるマグは宙を滑り、ハインの前で止まった。

「はい、ハイン!」

「ああ、ありがとう」

術師の手メイジ・ハンド》か、とルオッサは頬杖をつく。思えば、リタがこうもかいがいしく働くものだから、ルオッサも何もしない訳にはいかなくなったのだ。自分は参謀のつもりなんだがな、とルオッサは不服そうに目を細める。だがリタにマグを向けられると、不意に自分が子供じみた態度をとっている気がした。ルオッサは恥ずかしくなって、素直に湯を受けとった。

「いよいよケルンエヒトに潜入かぁ……」

 リタがそう鼻を鳴らすので、ハインは咳払いをし、応じようとした。けれど、先にこたえたのはルオッサだった。

「行ったことがあるのか?」

「……ううん、ない。あったとしても、記憶にないよ」

「俺とリタは、ずっとサーインフェルクのギルド員だからな。“血花公”の即位以来、立ち入れずにいる」

「……へえ」

 ルオッサの返答に、ハインはじろりと少女を睨んだ。対するルオッサはといえば、したり顔でにやりと笑いかけている。わかっているぞ、と。

 確かに、サーインフェルクは“血花公”の即位以来、ベルテンスカと敵対している。しかし、だからといってハインらがベルテンスカに立ち入れないというのはおかしい。ハインは止水卿の一番弟子だ。その腕利きの魔術師が、いかな多くの魔術師を抱えるベルテンスカといえど、諜報に入らないということがあろうか。これまで、いくつの修羅場に送りこまれてきたかも分からぬというのに。

「……ルオッサ。言いたいことは分かるが、言葉にしてくれ。

 言わずとも察せというのを四六時中されると、……疲れる」

「そりゃァ、命令か?」

「その解釈で差し支えない」

「はッ。いいぜ、そのに免じて話してやらァ。ま、大したことじゃあねェさ。

 曲がりなりにも仲間として扱うなら――ああ、アタシを配下だなンて思うなよ――不必要に情報を隠すのは愚策だぜ。まして、頭脳労働をさせンならな」

 ハインのそれは実際には命令ではなかったが、ルオッサのそれは明確な脅しだった。ハインはちらとリタを見、そして次にルオッサを値踏みするように見つめた。リタはこいねがうような眼差しをする。

 ハインはため息ひとつ、顔を振る。

「……俺たちは今、密偵がどこにいるのか分からないまま戦っている。ナズルトーの大戦役では、こちらの情報がベルテンスカにもれていた。いまさら、それをおまえに言う必要はないな?」

 ルオッサはいつものようにニヤついた笑みを返事とした。少女は無駄が嫌いなのだ。その無駄には相槌も含まれる。

 論理的に言えば、ルオッサが密偵とは思えない。ハインはそう考えている。だからこそ一年半も同じ任務を拝命し、同じ釜の飯を食い、同じ宿に寝泊まりし――寝首を掻く機会を与えてきた。言動には今に至るまで、つねに人の神経を逆撫でする嘲笑が含まれている。だがハインはもはや慣れっこで、もうそれを“ルオッサ語”ぐらいにしか思っていない。

 先刻だって、煌々と輝く月を見上げて「ハインさァ、オマエはこンな目立つ行軍がシュミなのか、斥候が聞いて呆れらァ」と嫌味を吐きかけられた。しかしハインは、普段の自分をもてあそぶ台詞とは調子が違うな、本人の不平不満ならもっと直截的ちょくさいてきに言うはずだ、何か見落としているか――と瞬時に翻訳し、リタがへばっていることに気づいて野営に至ったのである。

 いびつな信頼関係ではある。だが、結局のところルオッサは一度も裏切らなかった。それどころか、その機転で死線をくぐり抜けたのも一度や二度ではない。ができてしまったことを除いても、客観的に見ればルオッサを相棒と呼ばずしてなんという。

 ……ハインは思った。そろそろ、信頼を形として示すべきか、と。しかし、彼にはためらいがあった。今まで、義兄弟にさえ明かしたことのない秘密。みずから自分を悪鬼とのたまう相手に、それを明かしてよいものだろうか、と。

 その時、ハインは経絡パスからリタの気持ちを感じとった。まどろっこしい、あるいは落ちつかない、といった感情。

 そうか。ハインは納得する。ルオッサは恐ろしく明晰だ。ここでこの程度の情報を示したところで、あれにとって利益にはならないだろう。既に確度の高い推論として、分かっていることに違いない。

 ならば、あの言葉は脅しではない。こちらの信頼をはかる試金石か、あるいは助け舟とでもいうべきものだ。――少なくとも、リタはそう思っている。

 ハインは熱い湯を一口すすり、口を開いた。

「あいわかった。これから話すことは内密に頼むぞ」

 ルオッサは表情を崩さず、アイよ、と答えただけだった。

「俺たちがケルンエヒトに潜入してこなかった理由はいくつかある。だが、その最も大きな理由は……俺が、刻印者ブランディッドであることだ」

 へえ、とルオッサは身を乗りだす。「見せてみろよ」

 ハインは知っているくせに、と顔をしかめる。だが、不承不承、舌を突きだす。

 はたしてそこには、七つ角の星が蒼く、おぼろげに輝いていた。

「ハハハ! なァンだ、オマエもエッカルトと同じ穴のむじなじゃねェか。

 だがよ。それはちィとばかし筋が通らねえぜ。オマエは、なんで狂ってねェンだ?」

「……分からない。ただ、ひとつ確かなのは、エッカルトのみならず、確認がとれた全ての刻印者は、合意の上で刻印を刻まれる契約を交わしたらしい、ということだ。

 俺には“簒奪の”と契約した覚えがない。それが、あるいは――」

「もういい。本題に戻ろうぜ。それがなぜ、ケルンエヒトに潜入しない理由になる?」

 ルオッサは手の平を返し、ぴしゃりと言う。ハインには分かる。ルオッサはそこを重要とは考えていない。今は、俺がどんな顔で答えるのかが見たかっただけなのだ。

「必要に迫られて、俺は過去に刻印の力を借りたことがある。その時、俺は何者かに覗きこまれるような感覚を味わっているんだ。おそらく――」

「“簒奪の魔術師”が刻印を通してオマエを盗み見ている可能性がある――そういうことだな?」

 ルオッサが先取りした結論に、ハインはうなずいた。対するルオッサはといえば、憐れな下民を見下すような薄ら笑いを浮かべる。

「仮にそうなら、オマエほど諜報に向かねえ駒もいねェぜ。とっとと処刑すべきだ」

「ルオッサ!」

 たまりかねたリタが、叫ぶような声で言った。その叫びは、ルオッサから捻じくれた笑みを奪いさってしまう。

「……すまねえ、リタ。アタシが悪かった。

 だが――実際にはそこまでじゃねえっつうことだろ、ハインの旦那よ」

「ああ。もし何もかもが筒抜けなら、とうにサーインフェルクは滅びている。そうなっていないのは、“簒奪の”がベルテンスカに完全にはくみしていないか、限定的な条件下――たとえば、刻印の解放中、そういう時にしか目を盗まれていないからだ。……少なくとも、止水卿はそう考えている」

 ルオッサはしばしマグの中身をみつめ、そして、ふうと一息、湯気を吹きとばした。

「……ひとつ、確かめておきたい。ハイン、オマエの敵は誰だ?」

 ハインは顔をあげる。「止水卿の、ではなくてか?」

「ああ。オマエのだ」

 ハインは一瞬、言葉をためこむ。だが、次にははっきりと答えた。

「簒奪の魔術師だ。俺は、奴の存在を許すことができない」

「それが、止水卿の敵と違ってもか?」

「……そのことと、俺が命令を遂行することは矛盾しない」

 ルオッサは真顔でハインの顔を見つめ、そして湯を口にした。

「そうか。なら、いい。まァ要するに、敵に内情を知られる危険は避けたいし、一番弟子を失うことも避けたかったわけだ、卿はな。そうまでして、直にベルテンスカに諜報戦をしかける必要性はない、そう判断していたわけだ」

 ――これまでは。

「そう、状況が変わった。物資の大規模な移動と各地の兵の召集、極めつけは乳海の魔力の乱れだ。……近く大攻勢があるだろう」

 最近は止水卿の辛抱強い交渉により、諸侯の足並みが多少は揃ってきた。とはいえ、現状ではヴェスペン同盟はいまだ烏合の衆、甘く見積もっても勝ち目は薄い。そこで止水卿は、危険を承知でベルテンスカへの工作にうってでる決断を下した。

 そこまではルオッサも把握している。つい先週、ふたりで直々に拝命したところだ。

「ひとつ、いいか」

 ルオッサはマグを置くと、あごに手を当てた。

「その、ベルテンスカのヒトとモノの移動云々うんぬんは、卿が言ったのか?」

 ハインは首を傾げ、

「……ああ。乳海の調査は俺がやったが」

「乳海、なァ……」

 北の大国、ウォーフナルタは広大な領地を占有していた。だが、二年前の大戦役でその国土は大きく減少している。ベルテンスカが施した奇怪な――そして、気の遠くなるほど遠大な魔術により、物質から魔力に転換されてしまった。その術式は余りに見事で、止水卿をして「かの砦は物質界より消失してしまった」と表現させたほどだ。指向性を失った無色の魔力は、乳白色の液体となり、跡地は広大な湖になっている。その術式は今なお有効であり、境界内に侵入した物体は何であれ、魔力に変換されてしまう。それはつまり、外からのあらゆる干渉を拒絶しているということになる。

「あれをよく調べたモンだ。ッたく、曲がりなりにも止水卿の一番弟子というワケだ」

 にたりと皮肉げに笑うルオッサに、はは、とハインは愛想笑いをする。

「お褒めに頂き恐悦ですな。まあ、当初は失敗ばかりだった。内部を直接調べようとすれば、その術式が分解されてしまうからな。外部の魔力プールを共鳴させる手法で、ようやく観測できるようになったんだ」

 その答えに、ルオッサは意外そうに目を丸くする。

「オマエ、そんな一端いっぱしの秘術師みてェなこともしてたのか。てっきり、魔術は手段にすぎねえとか考えてンのかと」

「失敬な。卿の口癖を知っているか?

『同じ場所に留まりたければ、走り続けなければならない』だぞ」

 そこでハインは言葉を切った。口にはしないものの、ハインは観測中に別の異変も見ていた。あれを思い出すと悪寒がする。

 桃色にもみえる、白い液体が乳海だ。だが最近、その色が時に変化する。

 ――憎悪や怨恨を思わせる、底のない黒に。

 その時、聞き慣れた足音が近づいてきた。みなが顔をあげる。現れたのはひとりの犬人だった。彼は焚火に照らされたみなの顔を見てから、よっこらせと腰を下ろす。

「また、小難しい話をしてやがるな」 

「ダン、首尾は?」

「問題ねえ。現状はな。馬車も用意できたぜ」

 そう答える栗毛のコボルトに、リタが湯を渡す。「おつかれさま、ダンさん!」

「おっ、いつもすまねえな。まったく、こんなに冷える時分に、皇国も物好きだよな。

 そうそう、ハイン。食料だが、アレ、調達できたぞ。ずいぶん長い付きあいだがよ、こんなマズいもんが好きだとは知らなかったぜ」

 ダンが背嚢から取りだした太い竹筒に、ハインはすんと鼻を鳴らす。

「ああ、それか。それはルオッサにくれてやってくれ」

「……はァ?」

 怪訝そうな顔をするルオッサを、ダンはじろりと横目に見る。彼は鼻を鳴らすと、それを投げてよこした。ルオッサは慌てて受けとり、ハインをきっとにらむが、彼はいつにない表情で一服しはじめた。続けて「何を企んでやがる」とドスを利かせても、ハインはいいからいいからと急かすばかり。ルオッサは渋々、蓋を開ける。

 途端に爽やかな香りが広がる。竹筒の中では、まだ青い木の実が酢に漬かっていた。

「あっ、グリーンオリーブのピクルスじゃない! よかったね、ルオッサ!」

 無邪気に尻尾を振るリタをよそに、ルオッサは固まってしまう。口をぱくぱくさせ、顔が赤くなってくる。ハインはもくもくと煙草をふかして、煙の向こうからこっそりルオッサの顔色を観察している。

「りっ、リタ! ハインに喋ったな!」

「ええっ? な、なんのはなし?」

「オマエじゃなきゃ誰が……ああ、クソっ!」

 慌てふためく少女に、ダンは思わず耳を立て、まじまじと上から下まで見た。

「サーインフェルクの橄欖かんらんは今が旬なのですよ。気持ちばかりの貢物みつぎものですが、お納め下されば幸甚の極みにございます、閣下」

 笑いを噛み殺したハインが、慇懃無礼に言い放つ。ダンは今にもあれが爆発するのではないかと頭から尻尾まで総毛立つ。だがルオッサはというと、思わぬ意趣返しに顔を真っ赤にして、しどろもどろしていた。

「……ま、まあ、ひとつぶくらい食べてみたら。すきなんでしょ?」

 リタの一言に、ルオッサは物言いたげにリタを指差す。けれど結局、何も言えずに目を落とした。そして手の中に鎮座する酢漬けをじっと見て、何か恐ろしいものでも見たかのように体が逃げる。再びリタに何か言いたそうに見るも、観念して恐る恐る一粒つまみあげる。

 だが、匂いを嗅ぐと早かった。ルオッサは生唾をのみこみ、ぱくりと口に運んだ。

「………………」

「……ルオッサ?」

 気まずそうにリタは顔を近づけたが、ルオッサには見えていないようだった。

「……うまい」

 ルオッサは、涙ぐんでいた。リタはほっとして、もとどおりお座りした。

「よかったね、ルオッサ」

 ハインは目を逸らし、乾いた鼻をこすった。彼らしくない微笑ほほえみだった。

 他方、ダンはぱちくり瞬きすると、すすっとハインに近寄り、

『おいハイン、あれは狂犬だって話じゃなかったのか。

 なんか泣いてるぞ、いつ爆発するんだ、コワイ』

 と、犬人特有のひそひそ話をする。

『ひょっとすると今にも爆発するかもだぞ。

 そうだ、ベルテンスカの中心でルオッサ爆弾を起爆するって作戦はどうだ』

「聞こえてンだよ犬人いぬっころども! 竜語くらい分かるンだからな!」

 ルオッサは頬に紅をぬったように赤くなり、ハインとダンに吠える。リタはそんなルオッサを見て、にっこりと笑うように口をあけた。そして前屈みになって、そうだそうだと言わんばかりに吠えたてた。

 ――その時だった。

「は、ハイン!」

 義兄弟――ウラの聞き慣れた声に、ハインは反射的に鍋の水で焚火を消す。ソードブレイカーを抜いた時には、ダンはダガーを、ルオッサは戦槌を構えていた。リタが速やかにウラを誘導し、陣形のうちにかくまう。既に三人は四方を警戒している。

「敵襲だな」

「あの青い兵、ごめん、見つかった……。あっ、どうしてこっちにぼくは……!」

「おまえが気に病む必要はない。どのみち、見られたのなら殲滅するほかはない」

 リタは三人の股の間から四方を凝視する。ハインはその目と鼻に相乗り、瞬く間に索敵する。

「ウラ、月の方角か」

「もっと東、南南東くらい!」

「よし、回りこまれてはいないな」

 言うが早いか、ハインは腰のポーチから取りだした硫黄のかけらを弾き飛ばす。

 上古の竜語による詠唱、手で切るは竜の星。目標は南南東。

 硫黄片は中空で見えない糸に引かれるように加速し、闇に消える。次の瞬間、空に火の玉が燃えあがる。リタの副呪文の詠唱が進むにつれ、火球は何倍にも膨れあがる。

『――爆ぜよ』

 最後の詠唱とともに、火球は轟音をあげて飛翔する――ここまでわずか六秒。

 着弾。はるか遠くで爆轟があがる。爆炎に吹き飛ばされ、転がる人影。

 ダンとウラが歓声をあげる。

「まだ早いぜ、ウラ。人数は?」

 ルオッサの声に、ウラはぎくりとする。

「少なくみて十五人はいたと――まさか」

 爆炎に照らしだされた人数は、十人に満たなかった。

「……岩陰か!」

 月光に浮かびあがる蒼い紋様。ダンの短剣が振り下ろされる剣を弾き、火花が散る。刀剣に施された呪文加工が干渉した結果だが、ウラはこの時ばかりはそれを恨んだ。

 闇に浮かびあがったのは、見開かれた青い瞳。眼窩から眼球をえぐりだし、月光の影をり固めて詰めたかのような、精細を欠く、一色の目。

 ひっ、と声ならぬ声が漏れた。

「ボサッとしてんじゃねえ! 構えろ、死ぬぞ!」

 ダンの叱責を聞き、ウラは反射的に果物ナイフを抜く。ダンの声も震えていたが、それに気づいたのは人間だけだった。

 耳に神経を集中し、ルオッサは人数を概算する。腰を落とし、身構える。

「四人だ。ハイン、さっきの囮も攻撃し続けろ!」

「分かっている!」

 ハインは既に細い薪を手に取り、詠唱を終えている。その手のなか、小枝は銀色に輝く白羽の矢に書き換わっていく。

「へえェ。景気いじゃァねえか」

「もう、後は寝るだけだからな」

 ハインは錬成した銀の矢を《形無き弓ローンチ・ボルト》で射放つ。六本の矢はあやまたず、倒れた兵の頭蓋を穿つ。ルオッサは流し目に口笛を吹く。

「ルオッサ!」

「アイよ、分かってるさァ!」

 リタの声に、ルオッサは振り下ろされた剣を右に転がって回避する。即座に右手を軸に、敵の軸足に回し蹴りを叩きこむ。不意の一撃に蒼紋兵は体勢を崩す。その隙に、リタは土をえぐりながら鋭く回りこむ。

 不可視の魔力の腕で、一対のダガーをハーネスから引き抜く。

「ごめんなさい!」

 刹那、刃風はかぜが舞った。月明かりを乱反射して、刃だけの剣の舞が敵を襲う。

 ――だが。

 虚ろな瞳孔は。ひるみもせずに、次の標的をリタと捉えていた。

「うそ……!」

 ボロボロに傷ついたのは、リタのダガーの方だった。撫でるように無数の傷を与え、戦意を奪ってひるませる。それがリタのいつもの役割だった。

 だが、どうだ。蒼紋兵は無傷ではない。確かに無数の切り傷はある。しかしそれを全く意に介さない。戦果はといえば、リタのダガーが鋸のように刃毀はこぼれしたのみ。

 着地したリタめがけ、蒼紋兵は立ち上がりもせずに両手剣を振り下ろす。

 正確に、機械のように精密に。

「死に損ないめ!」

 ルオッサの戦槌が間一髪、その脳天を打ちのめす。頭蓋がべきりと凹み、蒼紋兵は目の光を失う。

「急所を狙え! 脳天か鳩尾みぞおちを――」

「ルオッサ、危ない!」

 その背後を、鋼鉄の剣が襲う。ふりかえった時には遅かった。

 火花――閃光に浮かびあがる顔は。

「油断するな。おまえが負傷すると……面倒だろ」

 割って入ったのは、青鹿毛の犬人だった。敵の剣を真白銀ミスライアの長剣と牙折りソードブレイカーで十字に受け、ハインは呪言を唱える。

「――牙を砥げ、銀の剣きたれ、ダスクブレイド

 そうして、真白銀は目覚める。月光を打ち消し、燦然さんぜんと輝きはじめる。ハインは、小さく跳躍すると同時に、敵の心臓めがけ剣を振りかぶる。その真下を足払いが通過する。受けを外され、支えを失って落下する敵の剣とハインはすれ違う。

 だが、相対する蒼紋兵は、既に左手に短剣を抜いていた。

「ハイン! ソイツにゃ魔力は通らねェ!」

 そう。それは魔力で砥がれた真白銀の刃も同じ。異様な青い紋様をくまなく全身に刻まれた兵、蒼紋兵。その肉体は切創に強く、こと魔力に至れば無効となる。呪文はその皮膚に斥力があるかのように、表面を撫でるのみ。

「おまえは、俺の耳にタコをつくるのが趣味なのか?」

 寸分違わず、真白銀の剣は肋骨の隙間を抜けて左胸を突き破る。

 ――その刃は、貫通直前に魔力を失っていた。

 蒼紋兵は、糸の切れた人形のように崩れ落ちる。ハインは相手を蹴り倒し、逆手に剣を引き抜く。

 束の間、ルオッサの顔が苛立ちに歪む。だが、それも一瞬。

「ハハ、ハハハハハ! お上品なハインくんよォ、いつの間にそンな半端はしたねェ皮肉を言うようになったんだァ?」

 ダンから逃れようとする敵兵を挟撃で追いやりつつ、ルオッサは愉快そうに笑った。

 だが次にはすぐさま背後の殺気に飛び退く。リタがウラへ刃物を投げ渡し、ウラは受けとるがはやいか、鞘を投げ捨て二本の指で投げる。回転する刃は、敵兵の眼窩に吸いこまれるように突き刺さった。

 ハインとルオッサは背中合わせになり、互いに背中を預けあっていた。

「元をたどれば、おまえのせいだろうが。

 その気になりさえすれば、社交界でもやっていけるくせに」

「能ある鷹は、ッつうだろ? オマエが仕留めそこなった残り四匹、任せたぜ」

「軽く言ってくれるな、毎回毎回!」

 ウラへ襲いかかる蒼紋兵へ、ハインは短剣を投げつける。刃は鎖骨下に突き立つが、ひるませるには至らない。

 頭を抱えるウラへ、その剣が振り下ろされる。だが、ダンがその剣を防護パリーする。

「イチャついてんじゃねえ! やるならとっととやれ!」

 ハインはダンに頷き、空いた腕で呪文を詠唱しはじめる。詠唱を察知して、リタも復唱を開始する。

 ルオッサは手駒たちを一瞥し、フッと笑う――できねえ仕事は振らねえさ、ハイン。直接こっちを叩きにきた本隊は残り二匹。うち片方は手負い、なんとかなりそうだ。

 それにしても、ウラの腕は悪くない。それはハインの腕前と比べても分かる。後は性格さえどうにかなりゃァ、使えるんだが。

「ダン、ウラ! アタシらでこの二匹を仕留めるぜ。いいな、ドタマと胸だけを狙え!」

「う、うん!」

「チッ……はいよ、参謀サン」

 ウラはベルトから最後のナイフを抜き、大小二振りを構える。その後ろ、大振りのダガーを両手に構えるのはダン。敵は連携せず、ダンとウラを標的に見据えている。

 今だ、とルオッサも詠唱に入る。

 瞬間、蒼紋兵は動いた。

 大きく振りかぶり、ウラを袈裟斬りにしようとする。ウラは背筋がこわばり、必要以上に大きく退いてしまう。左の短剣がウラに襲いかかる。ウラはおもわず、片手で足りるものを両手で防護パリーしてしまう。

 その隙を、敵が見過ごすはずがなかった。

「がふッ……!」

「ウラ!」

 敵の膝蹴りをまともに食らい、ウラは反吐を撒き散らして転がる。

「ダン! ソイツだけでもとどめを刺せ!」

 ルオッサが詠唱の間節に激を飛ばす。ダンは手練だが、根っからの犬人だ。相手が格上ともなれば、ハインのように鮮やかとはいかない。

 ダンの目が、ルオッサの目に入る。怒りと苦しみに歪んだ眼差し。ダンは敵よりもウラを、それも一度ならず何度も確認していた。蒼紋兵が馬乗りになり、今にも喉を掻き切ろうとしている犬人――それでもなお、恐怖で動けないウラを。

 まったく、世話が焼ける。

「汝はおもに汗して食物を食らい、ついに土に帰らん。

 其中そのうちより汝は取れたれば、汝は塵なり。汝は塵なれば、塵にかえるべきなり」

 ――《埋葬フューネラル》。ルオッサの信仰呪文はウラの死神を直撃する。雷に打たれたように蒼紋兵は動きを止め、指の先から砂になりゆく。ウラは安堵のあまり、涙をこぼした。

 。その呪文はウラの死を追い返す――

 ――はずだった。

 ぎろり、とその青い瞳孔がウラを見据える。

 砂になったのは、右腕と両足だけだった。短剣を握る手が、再びウラの首を狙う。

 ウラは一変、恐慌していた。かたく、ナイフを握りしめたままの手を振りまわし、来るな来るなとわめいていた。相手にぶつかるのは、刃ではなく指だった。

 舌打ちがひとつ、空白を作る。刹那の時の流れに、その意識に。

「ウラ」

 ルオッサの低く、干からびた声がウラの頭蓋に忍びこむ。

「……

 それは――命令だった。

 意思にめり込み、上書きし、実行させる――原初の声に等しい言葉。

 その瞬間、その一瞬だけは、ウラの自我は掻き消えた。

「あ、――あああああァッ!」

 片方のナイフを捨てるや、両手で構えたナイフを寝かせ、光のごとき鋭さで肋骨の隙間に差しこむ。あまりにも俊敏な動きに、敵の短剣はウラの腕を傷つけることしかできなかった。

 刹那、蒼紋兵は動きを止める。

 ウラは牙を剥き出し、浅く、激しく息をしていた。押し倒し、逆に馬乗りになって、何度も何度もその胸を突き刺した。反応が潰えてからも、何度も、何度も。

 そしてふと、そのぎらついた瞳が元に戻る。元の柔和な――呆然とした目付きに。次の瞬間、敵は砂の流れになり、ざあと崩れ落ちる。

「……やりゃァできンじゃねえか」

 ダンの補佐をしながら見守っていたルオッサは、そう、ニヤリと笑った。

「ハイン! まだか!」

 ダンが叫ぶ。彼の尾はだらりと垂れ、巻きこまれている。おびえた仔犬じみた激しい攻撃でしのいでこそいるが、その腰は今にも萎えそうだった。

 二年前を思いだす。――、その忌まわしい教訓を。

 ダンは手足に深い手傷をいくつも与えていた。相手が生き物なら、とっくに戦意を失うほどの流血。だが、蒼紋兵はむことなく戦闘し続けていた。まるで、寄せては返す波のように。

 ダンのダガーが果敢に攻める。急所狙いの一撃は、長剣で弾かれる。それだけが、滅ぼせることの証明だった。ダンは踏みこんだ駄賃とばかり、防御の衝撃でお留守になった反対の腕を刃先で引っかける。

 べたり、と音がした。背筋が凍り、思わずダンは地面を見てしまう。

 ごっそりと削げた、蒼紋兵の肉。それが、黒い空に血の色をさらしていた。ダンにとって、死肉は見慣れたものだ。

 ――しかし。

 蒼紋兵の手から、短剣がこぼれ落ちる。その手はぴくぴくと痙攣している。筋肉をえぐり取られ、断面からは黒い血が滴り落ち、骨が露出している。もはや、その腕が動かないのは明らかだった。

 なのに。

 残った腕は、一瞬とて静止せずに切りかかってくる。倦むことを知らず、疲れも、痛みも知らず。寄せては返す波のように、自分は自然の摂理エレメンタルだとでも言うかのように。

 理外の恐怖に、ぎりぎりで持ちこたえていた脆弱な精神は限界を迎えた。

『くっ――くるなああァァァ!』

 竜語で叫びながら、ダンは自分の守りを忘れて突貫した。蒼紋兵の剣は、既に振り下ろされているのにも関わらず。

 その一瞬、蒼紋兵の体勢が崩れなければ。まともな防具もないダンの肉体は、そのまま斬り裂かれていただろう。

 だが、がくんと傾いてくりだされた太刀筋は、ダンの肩をかすっただけだった。

 ろくに狙いもせず、ダンは体ごとぶつかって刺し貫いた。その勢いのまま突き倒し、またがるや片方のダガーを捨て、両手でダガーを握りしめる。振り下ろし、突き刺し、切り裂き――滅多打ちにする。胸となく顔となく、形がなくなるまで。

 足払いの姿勢から立ちあがり、ルオッサは戦槌を拾いあげた。呆然とするウラと、狂ったように死骸を攻撃しつづけるダン。ふたりに危険がないことを確認する。

 あァ――そうさ。このルオッサは、できねえことは言わねェ。

 だが、その時。はたと、ルオッサは気づく。

 

 その瞬間、月影のなかにいくつもの青い紋様が浮かびあがる。長剣を振りかぶって襲いかかる――死神が。

「ハイン!」

『――我らの古き主アドナイ、フラフィンの御名に依りて』

 待たせたな。

 刹那、無色の殺気が放たれる。ハインから同心円状に広がったそれは、我を忘れた彼の兄弟を硬直させる。

 ハインの手のなかから、真白銀の剣が消える。

 風切り音。それが、術者たるハイン以外が知覚したすべてだった。時間にすれば、ほんの一瞬。その刹那、風が刃となった。風がくうを切る、甲高い音だけが場を満たす。瞬間、周囲の空間は粉微塵と切り裂かれた。

 一瞬の刃風が途切れると、空白が訪れる。次には草笛のような音ともに、回転する刃が闇夜を滑り、戻ってくる。

 ハインは剣をつかみ取り、ゆっくりと鞘へ収める。

 柄が収まる音と、敵が崩れ落ちる音は同時だった。

 ――《死の舞踏ダンス・マカブル》。高速の刃を操作するため、極度の精神集中、そして使い魔による五感処理を必要とする――物理的な広域殲滅呪文。蒼紋兵に備えハインが編みだした、まさしく必殺の呪文だった。

 頭部と胸部を両断され、蒼紋兵の骸は砂となる。そのさまを見回して、ルオッサは口笛を吹く。ハインはこの事態を見越して、あらかじめ近接呪文を唱えていたことになる。さすが、長きに渡り戦火をくぐり抜けてきただけのことはある。

「やるじゃねェか、ハイン。これだけの数を、ほぼ無傷で殲滅できたのは奇跡に近ェ。おかげでアタシクレリックも商売上がったりだ。褒めてやらァ」

 精神集中から解放され、息をつきながらハインはこたえた。

「よく言う。おまえの指揮がなければ、完全に無防備になる詠唱はできなかった。

 それに……よく俺の兄弟を守ってくれた。礼を言う」

「おォ、怖い怖い。オマエから礼を言われるだなんてな。そンなに甘っちょろいと、こっちが錆付いちまうぜ。

 ……ま、礼を言われる筋合いじゃァねえ。分かってるだろうがな」

 そう、まんざらでもなく笑うルオッサに、ハインは鼻で笑って答えた。

 ハインは憔悴しきったふたりの兄弟に声をかけ、正気に返らせる。

「ねえねえ、ルオッサ」

「ん? どうした、リタ」

 前足でつつくリタは、ルオッサの顔を見て何か言おうとした。けれど、その代わりに嬉しそうな顔をするばかり。

「なんでもなーい!」

 ンだよ、とルオッサがリタを小突いた、その時だった。

「ルオッサ!」

 リタはルオッサの肌着を咥え、ぐいと引っ張る。

 ルオッサには、何事か知覚する時間もなかった。

 闇のなかから飛びかかったのは、青くほの暗く輝く、禍々しい紋様だった。

「っ、ぐ……!」

 その刃が深く、ルオッサの背中を切り裂いていた。もし、リタが気づかなければ、少女は即死していたかもしれなかった。ルオッサは記憶をたぐり、骸の数を確認する。

 ――その数は十四しかなかった。

 抜かった――。わずかな猶予に、ルオッサはそこまで逡巡できた。

 だが、そこまでだった。

「ハイン! リタを……う、あああああァァァッ!」

 痛みが、その回路に火を入れてしまう。ルオッサの髪が逆立ち、全身を黒い剛毛が覆ってゆく。その爪牙は、自動的に最も近い生物に向けられる。すなわち――

「る、ルオッサ、やめて! わたしだよ、リタ!」

「あああああァァァッ!」

 狼狽するリタに、もはや逃げるすべはなかった。そう、

 刹那、その肉体がひとりでに飛びのく。主人より直接、使い魔へ書きこまれた命令。「後ろへ跳べ」――それがなければ、同士討ちは避けられなかっただろう。

 ルオッサの狂気がリタをかすめるが早いか、最後の蒼紋兵は、すかさず二の太刀を振り下ろす。

 がちん、という硬い音。

 その剣は、一匹の狼につかみ取られていた。手のひらは裂け、その腕は赤く染まりゆく。それなのに、ルオッサだった狼は、その感触に恍惚と笑った。

「遊ぼうぜェ、なァ?」

 ハインとリタは、ダンとウラを連れて避難する。その発作が始まってしまった以上、彼らにできることはなかった。

 蒼紋兵は剣を力任せに引き抜く。短剣を抜き、その矮躯を蹴り飛ばそうとする。

 だが人狼は、既にその膝に飛び乗っていた。さらに跳躍し、その首筋に喰らいつく。

 黄ばんだ牙が、その喉笛に食いこむ。黒ずんだ血が垂れる。だが蒼紋兵はその傷をものともせず、ただ冷徹に敵の背に短剣を突き立てる。

 黒狼はうめき、敵の胸を蹴って離れる。同時にぶちぶちと肉や血管がちぎれていく。

 着地してもなお、黒狼は咀嚼する。笑いながら、嘲笑いながら。

 が、にわかにむせて吐き出した。後に喀血が続き、狼は血塗れになる。

「あァ、たまンねェ……」

 人狼は自らに刺さった短剣を無造作に引き抜き、その血を舐める。深紅に染まったあぎとが、にたりと笑う。背中の傷は速やかに再生を始める。

 蒼紋兵は無感情に剣を繰りだす。狼は短剣で受けようとした。

 しかし、その太刀筋はそれまでのものと異なっていた。ヒトを切り殺すための動きから、人外に死を与えんがための駆動――心臓狙いの一突き。

 ニタリと笑い、人狼はその刃をつかみ止めた。蒼紋兵は即座に力で引き剥がそうとする。だが、空中に縫いとめられたようにびくともしない。ふふ、と笑い声が漏れた。

「はは、ハハハハハ!」

 狼の哄笑が、あたりを埋め尽くす。

 ぎち。つかまれた刃が身じろぎして、骨が削れる音がする。

「なンだァ? もうオモチャはねえのか?」

 人狼の膂力が、逆に敵から剣を引き剥がす。

 後は――少女だった狼の独壇場となった。

 押し倒し、顔面を打ち、それでもつかみかかる腕が邪魔になるや引きちぎり、防具を引き裂くと、腹腔を食いちぎって潜りこみ、一息で隔膜を引き裂き、そして。

 胸を突き破って、真っ赤な狼が生まれた。その手には、脈動する臓器があった。

 狼少女は、わらっていた。痛みと血に酔って、懊悩と後悔を忘れていた。

 たとえその先に退廃と破滅しかなくとも――その一瞬ばかりは夢を見ていたかった。

 狼少女は、戦利品を握り潰そうとする。最後の一滴まで、命を絞り出さんと。

 振り下ろされる殺気に、狼はふりかえった。

 避けるよりも早く、したたかに肩を打たれる。それは鞘に収まった長剣だった。

「目を覚ませ、ルオッサ!」

 狼はもはや、彼我が分からなかった。分かるのは、食欲も湧かぬ冷たい肉ではなく、新鮮な血肉が目の前にあることだった。

 歪んだ笑みとともに、流涎したあぎとが、開く。

 布を裂く、悲鳴にも似た音。

「がッ……く、この……!」

 牙が、その肩に深々と食いこむ。温かい血の味に、狼は恍惚となる。

 ――ああ、なんて甘美なんだろう。こんなにうまいのは、いつ以来だったか。

 あれは……そう。青い雪と、冬の森と――。

 狼少女の赤い瞳孔が、針のように細く、細く引き絞られる。

 顎が離れ、目に理性が宿る。

「ハイン……!」

 ルオッサは我に返り、その犬人の目をみた。

 青く、蒼く澄んだ瞳。その美しい瞳は、苦痛に耐え、自分を見つめていた。

 次の瞬間、ルオッサの意識はついえた。背後に立っていたのは、ダンだった。


 ルオッサが目を覚ましたのは、月も沈んだ夜更けのことだった。

 ただひたすら、寒かった。身震いして起きあがると、獣相はとうに消え失せており、全身がきれいに洗われていた。

「気づいたか」

 青鹿毛の犬人は、火を見つめて言った。その肩にはぼろ布が何重にも巻かれている。

「ハイン……」

「索敵は済んでいる。安心して体を休ませろ。……指揮官は、見つけられなかった。哨戒していた隊と思いたいが、ウラを警告なく攻撃してきた点から言っても、俺らは見つかっていると考えた方がいいだろう」

 ハインはルオッサの方に目をやろうとしたが、目をあわせることはしなかった。

 ルオッサはハインの報告を、ただじっと聞いていた。

「蒼紋兵にかかった呪文の解析を試みたが、やはり駄目だ。みな砂になってしまった。――近道はさせてもらえない、というわけだ。本来の予定どおり、潜入して探る他はないだろう。

 ……そうだ。不本意だろうが、体を洗わせてもらった。野犬を誘き寄せたくはないからな。ああそれより、腹は減っていないか。変身はひどく体に堪えるんだろう?」

 ハインはルオッサに返事をさせない。ルオッサは彼の静かな眼差しに、言いようのない悲しみを覚えた。何年も前の、青白い雪の夜が思い起こされる。

 ハインの言うとおり、ルオッサは空腹だったが、まるで食欲がわかなかった。

 ルオッサは首をめぐらせる。円を描くように、ダンやウラ、リタが横になっている。ハインだけが寝ずの番をしているのだろう。

いてねえ。それより、傷を見せろ」

「……大した傷じゃない」

「それを決めるのは、オマエじゃあない」

 ハインは目を逸らしたまま、肩をはだけた。包帯代わりの布をほどくと、いくつもの傷痕、瘢痕の上にその咬傷はあった。出血は止まっていたが、傷口は青く腫れていた。

「言わんこっちゃねえ。明日には寝こんでたとこだぜ」

 平静を装いながら、ルオッサは言った。外套のポケットから真教の聖印イコンを取りだし、《傷癒しキュア・ウーンズ》を唱える。すぐさま、時間が遡るかのように創傷が癒えていく。

 ふとルオッサの脳裏に、何もかもこのようになるならばと詮ないことがよぎる。

「日の出もじきか。ついでだ、念入りに《病魔退散リムーヴ・ディジーズ》もかけといてやる」

狼人病ライカンスロピーは犬人に伝染うつらないぞ。生まれつき、犬みたいなものだからな」

犬人コボルトのどこが犬だ。……いや、そういう話じゃねえ。万が一、傷が膿んでオマエが倒れたりしたら、この作戦は総崩れだろうが」

 けれど。

 ルオッサは思う。自分を止めに来てくれたのが、つくづくハインで良かった、と。忌まわしいやまいをうつすこともなく、リタのように傷つけて胸が痛むことも――

 少女は信仰呪文を起動した後、それっきり動きを止めた。

 ――負傷させたのがハインなら、胸が痛まない?

「ルオッサ。おまえは物好きで俺の仲間になり、俺を眺めて楽しむためにここにいる。

俺の理解ではそうだ。

 ……確認しておきたい。今でも、そうなのか?」

 ルオッサはぎくりと言葉に詰まった。それでもなんとか、そうだ、と答えた。

「なら、卿の作戦が失敗し、サーインフェルクが滅び、世界の覇権をベルテンスカが握ろうと――ウォーフナルタの木の葉よりも多くの口を利くものが、傷つき、苦しみ、死に絶えようとも、おまえには関係のないことだ。

 ――そういうことだな?」

「ああ、そうだぜ。ソイツらが死のうが生きようが、アタシにゃァ銅貨一枚の損得もねえからな」

 ハインは、ルオッサを見た。その目つきに、ルオッサは思わず目を逸らす。

 ――本当にそうか?

「俺だけを目当てに、こんな……決死隊に近い作戦に参加するのか。俺やリタはいい、他人が死ぬのを許せない。ダンやウラはいい、止水卿に命を握られている。

 ……おまえだけが蚊帳かやの外だ。おまえの口にする理由で、仮に俺や止水卿が納得しようと、ダンやウラは納得しない。不気味に思い、次には裏切りを常に意識する」

 ルオッサは冷や汗をかいていたが、そんなことかと乾いた笑いを浮かべる。それは、何度も答えた問いだったから。

「どうせ、いつ死のうが生きようが、アタシにとっちゃどォだっていいンだ。

 死は得がたいたまわり物で、生残の苦痛は悪魔の餌だ。どう転んでも損はしねェ。なら、ちッとでもワクワクする方にいくのは自然だろ? オマエだってそンときになりゃ、リタのために死ぬだろが。アタシにとってのソレは、羽のように軽いだけさァ」

 ハインは無言で火からケトルを取る。湯をふたつ注いで、ひとつを手に、考えこむように湯気を見つめる。

「……俺の使命にとって、リタは命にも替えられないものだからな。だが、俺が命と引き換えにリタを助けたのなら、きっとリタは生きてゆけないだろう。俺は馬鹿だが、それくらいは分かっているつもりだ」

 ハインはマグをルオッサに差しだす。

「おまえも、そうじゃないのか? リタを助けられるのがおまえだけで、おまえの命と引き換えなら守れるとしたら――命を捨てないのか?」

 ルオッサはマグを取り落とした。

「……アタシの話を聞いてなかったのか。アタシにとって、命を捨てる理由はなンでもいいんだ。そりゃ、もしそうなれば――」

「口を利くものはごまんといる。そのなかにはおまえの気に入らないものも、敵も、悪党も無数にいる。だが、リタのような者もいくらかはいるんじゃないのか」

「だから、どォしたってンだ! 結果は同じだ! オマエが、有象無象を救おうと、それはオマエの功績であって――」

「そうだ。結果は同じだ。なら、理由を変えてもいいだろう?」

 ……理由? ルオッサはぽかんと口をあけた。

「言えばいいじゃないか。嘘でもいい。リタのため、リタのような幼子のためと。たったそれだけで、ダンは無理でも、ウラは信じてくれる。後は狼人病のせいだと、無邪気に誤解してくれる」

 ルオッサは、反論できなかった。けれど顔面は雄弁で、口を突くのは悪態だけ。

 分かっていたからだ。ルオッサは偏屈だが、愚劣ではない。ハインの一連の言葉は、部隊の不和を減らしたいだけが理由ではないことを。

「……気に入らねェ」

「はは……いつになったら慣れてくれるんだろうな。その台詞も聞き飽きたぞ」

「食いモンを寄越せ。食ったら、寝直す」

 ハインが傍らの鍋を顎で示す。ルオッサはそれを引き寄せ、浴びるように流しこむ。そして毛布をかぶり、横になる。

「……ルオッサ」

「今度はなんだ。見張りならゴメンだぜ」

「俺にはかつて、狼人病の友がいた。だから――その末路は身をもって知っている」

 ルオッサは、答えない。代わりに毛布を深くかぶりなおす。

 先の暴走は今に始まったことではない。これまでは一度をすれば一月はった。満月でなければ、負傷しても変身をこらえることすらできた。

 だが、ここ最近はそうではない。わずかな負傷で獣化してしまうし、獣相の持続は長く、変身中には理性が及ばない。

「……そうだな。リタを守ってくれて、礼を言う。

 迷惑をかけずに済んだのは、オマエのおかげだ」

 するりと飛びだした、素直な言葉。それに当惑したのは、ほかでもないルオッサだった。だがハインも、なにを言う、ととまどった声を出す。

「礼を聞きたくて切りだしたわけじゃない。おまえを止めたのはダンだ。

 ただ……いつか来るそのときのことを、考えておけといいたいだけだ」

 ルオッサは生返事をして、目をつぶる。けれど、目は冴えて仕方がない。

 そのとき、か。

 何度も目にした“狂乱の宴”を思いだす。どんな人間だろうと、その時には食欲と殺戮しか分からなくなる。

 そう。不治の傷に蝕まれ、常に嘔気と腹痛に苦しみながら、それでもなお友の傷を洗うような、清廉な少女でも。

 ふと、枕代わりの背嚢のすわりが悪いのが気になって、ルオッサは中をまさぐった。犯人はあのオリーブの竹筒だった。ルオッサはその筒を空にかざし、手慰みに一粒を口に含む。

 その、青く若々しい香りは、唾棄すべき祖国を思い起こさせた。

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