序章 黎明

裏路地の惨劇

 蒼褪あおざめた空が、しんと凍っている。

 煉瓦れんがと石造りの街並みには、不可視の蒸気が満ちていた。高地ゆえの薄い大気は、その不足をで補っているらしい。

 夕日は沈んで久しい。薄暗い街路には、厚手のコートを着こんだ人々が交錯する。彼らはおしなべて無表情。疲れ果て、凍え、明日に望むものもない。

「おはな、おはなはいりませんか……」

 銀髪の少女が季節外れの花を手に、街路で声を張る。けれど、その声はかぼそく、雑踏にかき消されてしまう。

 少女の顔はあどけないが、不安に眉を下げ、今にも泣きだしそうだった。その髪も整えれば目を喜ばせたろうに、一目で親の手がないと知れる。篭の中の花も、萎れたのか乾燥させたのかさえ定かでない――貧相な野花。

 その時。ふたりの男が立ち止まった。彼らは目配せすると、卑しく笑った。

「全部、くれ」

 背の低い方の声に、少女はぎゅっと口を結ぶ。少女は幼く、耳も手も霜にやられて真っ赤だったが、のことくらいは理解していた。

 こっちでいいですか、と少女は背後の裏路地を指す。だが薄ら笑いを浮かべた男は、その手を乱暴につかむ。

「いいトコがあるんだ、そっちにしようや」

 そして、少女はなかば宙ぶらりんになって引きずられた。

 ……連れて行かれたのは、何本も路地を越えた先、人気のない袋小路。少女には、あまりにも縁遠い暗がり。口からこぼれるのは、とまどい、震え、押し殺した声。

 手を引いていた男はいきなり、勢いをつけて少女を転ばせる。

「さあ、やろうぜ」

 少女はうめき声すらあげられない。すり切れた顔の傷に触れ、苦痛に顔を歪める。、男たちを見上げる。そうして、その言葉が自分に向けられたものではないと知る。それでも少女は健気に篭を置き、帽子を脱いで、そして粗末なほつれた防寒具に手をかける。

 だが男はそれを待たなかった。もう男はベルトを緩め、股間を屹立きつりつさせていた。

「しゃぶれよ、ほら」

 不潔ななまぐさい悪臭に、少女は顔をしかめる。服を脱ぐ手を止め、口をあけたはいいが、そのまま固まってしまう。とてもほおばる気にはなれないらしい。

「しゃぶれっつってんだろ!」

 男は銀髪をつかみ、無理やりその口腔に挿入した。「うぇっ……!」

 たまらず少女は嗚咽し、腹のものを戻してしまう。ところが口のなかはいっぱいで、鼻から吐瀉物があふれだす。少女はむせて男のそれを吐きだした。

 怒りだしたのは一物を汚された男だ。

「チッ……きたねえだろうが!」

 少女は腹に蹴りを入れられて、ズダ袋のように転がった。口汚い罵倒が追い打ちのように少女を責める。少女はせきこんで、ごめんなさい、ごめんなさい、とうわ言のようにくりかえす。傍らに立つ背の高い男は、そんな少女に舌なめずりした。半分の月を背にしているのに、股に大きな膨らみがあるのが分かるほどに。

「お前のゲロで汚れちまったじゃねえかよ! ――お前がきれいにしろよな」

 少女は震えて、自分の吐瀉物としゃぶつがついた陰茎を舐める。あまりにも耐えがたい臭いに再びむせそうになるが、少女にはこっそり手でぬぐうような賢しさもないらしい。

「ちっ、もっとうまくやれ! こうやるんだよ!」

 男は少女の頭をわしづかみにして、その口へ自分自身を無理やり突きいれた。

 少女は息もできず、苦しみのあまり悲鳴をあげる。けれど、その声は行き場がなく言葉にならない。

「ハハ、みろよ、喜んでるぜ?」

 もうひとりが、下品な笑い声をあげる。ズボンを下ろすと、びんとそれが勢いよく顔をだす。

「ちょっと待てよ、もうすぐなんだ……うっ」

 少女の口のなかでそれが脈動する。声にならない悶絶が大きくなる。かよわく逃れようとするも、拳骨で殴られて大人しくなる。何度も何度も吐きだして満足したのか、大きな手が頭から離れ、小さな口から男のそれが抜きとられる。

 少女は口といわず鼻といわず、ぼたぼたと粘る白い体液にまみれていた。

「おいおい嬢ちゃん、男からものを貰ったら、残さず飲みこめって親に――」

 ニヤついていた男は、笑みを失って息を呑んだ。

 少女の喉元が、ごくり、と動いた。次には頬についたそれを指でぬぐい、口に運ぶ。それがまるでホイップクリームであるかのように、指ごとしゃぶって舐めとった。

 少女は頬を上気させていた。上目遣いで男を見る、その顔。幸せそうにふっくらと笑い、はあはあと荒く息をする。するりとコートを脱ぐと、白い肌があらわになる。月明かりを浴びたその肌は、青白く、気品あるものだった。――見る者に穢したい、自分の色に染めたいという欲望を沸き起こさせるような。

 その艶かしさは、娼婦も顔負けだった。

 今しがたの絶頂が彼の頭を冷やしたのか、男は違和感を覚える。

 ……なにかがおかしい。だが、となりの飢えて男には分からない。

「おい、見ろよこいつ。お前のをしゃぶって喜んでやがる。次は俺でいいな!」

 返事も待たず、男は少女を押し倒した。恍惚の表情をしていた少女は、なされるがまま。男はつるりとした少女の陰部に舌を這わせて、ぞくりと総毛立った。とろりとした、男からは決してしない臭いの体液。それが小指の先ほどの小さな穴からあふれだしていた。男は脳天の痺れるような興奮に思考を奪われ、その幼い陰核の包皮から女陰にむしゃぶりつく。あ、いや、と少女は身悶えする。ぴくり、とその小さな体が震える。男の舌の先で、小さな小さな大切な穴が、きゅっ、と縮こまる。

 ぴゅっ、と口のなかに入ってきたしょっぱい体液。男は我慢ならなくなった。彼の男根は鉄のように硬くなっていた。からだを起こすと、その先をひくつく小さな穴にあてがう。二倍どころか三倍近くも大きさが違う。だが男はためらわず、ぐいぐいと押しつける。

「いや、やめて……。そんなの、はいらないよ……」

 目を潤ませていう言葉は、さらに男を欲情させた。少女は石の壁と男に挟まれて、白い肌にめりこむほど力を入れられた。

 暴力に耐えかねて屈したのは、少女の肉体だった。みち、と少女のちいさな膣口は下に破れ、男を受けいれた。少女はわめく。その声を男は嬌声ととった。

 ぐちゃぐちゃと乱暴に胎内を掻き回す。少女の顔は一変、苦痛に歪み、大粒の涙がこぼれる。男の陰茎は別の体液で濡れはじめた。月光のもと、それは黒い水たまりになる。男の陰茎は本来収まるべき場所を引き裂き、その生の肉の感触は男を喜ばせた。

 ぐうぅ、と男が唸る。怒張したそれが跳ね、引き裂かれた膣の間を精液で満たす。

「はぁっ、はあっ……おい、こいつすげえぞ。しゃぶらせて終わりじゃもったいねえ。なあ、そうだろ?」

 ふりかえった男に、背の低い男はこわばった顔でうなずいた。こんなに幼い少女が、快楽を知っているはずがない。なにか、何かがおかしい。

 ――彼は無法者だ。相棒としばしば人間メンシェを、時には人外だって食い物にしてきた。今日だって、こんな薄汚いガキにくれてやるカネなぞない。わめかせて満足したら、そのままくびり殺すつもりだった。

 だが今、彼の勘はがんがんと警鐘を鳴らしていた。相棒が楽しんでいる間、息子が回復するのを待ちがてらあたりを見渡した。人気はない。よく使う縄張りなのだから当然だ。元からそういう場所を選んでいる。

 ……では、何が危険だと?

「おい、聞いてんのか? 要らねえなら、俺が壊れるまで使っちまうぜ」

「……何でもねえ。次は俺だ」

 彼は気のせいだと、いくさが近づいて気が立っているのだと思うことにした。

 少女は、冷たい煉瓦の地面に転がっていた。顔を歪ませ、粗末な服をたぐりよせる。男はいらだちからその頬を張った。少女は股が痛むのか、おびえた目で男を見上げ、いる。男は胸をなでおろした。いつもと同じだ。

 なら、俺もやろう。

 ベルトから食事用のナイフを抜く。少女は信じられないものを見る目になり、息を呑む。にやあ、と男の顔が歪む。この瞬間が、彼にはたまらなかった。もうひとりの男が少女の腕を押さえる。万力のような力が込められ、少女は身動きひとつできない。

 じゅっ。じゅう。恐怖からか、少女の股ぐらから熱いものが漏れた。細長い流線。少女を押さえつける男の萎えたそれが、むくり、と頭をもたげる。

「痛かっただろぉ? もっと楽に楽しめるようにしてやるからな」

 ぶつり。

「いっ……! いや、いたい……いぃ……!」

 ナイフが、その幼い割れ目を切りひらいていく。陰核の上から、まっすぐ。会陰を越え、肛門まで。少女が叫ぶが、その口も覆い隠される。白と赤と黄の水たまりは、互いに混じりあわず、大理石のような模様を描く。

「ほうら、これで俺のも楽しめるようになったぜ」

 少女に、男はいきりたったものを突き入れる。少女が泣き叫ぶ。その声と、温かい肉の――血の滴る生肉の感触。男はそんな、人の道を外れた悪徳に、天の愉楽を覚えた。

 ――分かっていた。自分は悪だ。それも、救いようがないほどの。その矛盾が彼を興奮させ、彼を養い――彼をさいなむ。自らを矮小化することでかすかな快楽は倍加され、自尊心は軋んで悲鳴をあげる。だが、それでいい、それがいいのだ。なぜなら。

 神とやらは、赦してくれるのだから。

 ……神?

「そういや……。こいつの顔、どっかで――」

 ふと、男は少女の顔に既視感を覚えた。それはどこだったか。

 銀髪の少女。あれは確か――

 その時、男は凍りついた。思いだしたわけではなく、その異変に気がついたのだ。

 少女は、泣き叫んでいる。しかし、だが、その幼子は――

 

 子宮を突かれて快楽に悶え、それを喜んでいるかのように。そんなはずはないのに。人は快楽を受けた時、苦痛を受けた時と同じかおをする。それなのにその歪んだ笑みは、彼にそれを思いおこさせる。

 自らのそれよりも遥かに深い、淀み、腐り、原形を喰らい尽くしたそれを。

 男は、魂が凍えるような恐怖を覚えた。そして、矢も盾もたまらずその首を絞めた。同時に、彼の男根がぎゅうと締めつけられる。

「おいおい、やりすぎんなよ? こんぐらいのガキはすぐ逝っちまうぜ」

 相棒には見えないのだ。この気狂いのようなわらいが。男は少女を犯しながら、逆に犯されているような不快感を覚えた。恐怖は苛立ちに変わり、さらに力をこめた。

「――イイっ……」

「喋るな、クソガキ!」

 違う……! 今は悲鳴を垂れ流せばいいんだ。ヨガる時じゃねえ……!

 男はその嬌声に耐えかねた。恐怖に自我が軋み、憔悴から黙らせようとした。首を絞めたまま、片方の手をその口に無理やり押しこんだ。

 相棒はそのとき、ようやっと異常を察知した。だが、もう遅すぎた。

 がり。ぺきっ。

 男の体は、急に支えを失ってずり落ちた。訳も分からず地面に手をつこうとする。

 けれど男は、がくんと体勢を崩して転がった。

 ――手がつけない?

「お、おいお前……そ、その、手……手!」

「手……?」

 男は絶叫した。その手には、指が二本しかなかった。真っ黒に染まりだした手には、親指と小指しか残ってはいなかった。

 音がした。ぼりぼりと何かを咀嚼そしゃくする音。下から。男は、目を落とす。

 ぎぎ、と。骨が軋む音。

 そこでは少女だったものが変質しつつあった。内から透明な膜が張り裂けるように、銀髪は赤髪になる。その白かった肌は日に焼けた肌になり、すぐに黒い体毛が後から後から生えてきた。

 鳶色だった瞳は既に――動脈血を思わせる、葡萄酒のように赤い光を宿していた。

 がたがたと震える男の顔へ、“それ”は口のなかのものを吐きかけた。血と肉と、骨の挽肉を。ふたりの大の男は、何が起こったのか理解できずに恐慌した。

不味マズい」

 にたり、と少女だったものは、笑う。陰茎を引き抜き、嬌声とともに体を起こす。

 その股間の傷は、もう痕跡すら残さずに消え去っていた。牙の間から、白い吐息が笑い声とともにあふれ出る。がらがらにしわがれた、焼けた笑い声が。

 それは。黒い体毛に覆われた、人と狼の合いの子だった。禍々しい赤い瞳、鋭い爪、黄ばんだ牙。その全てが、殺戮のためだけに編まれた――冒涜の道具だった。

 そう。

 この狼女こそが、悪魔である。

「まァ、それなりに楽しめたんだけどさァ。逝ッちまいそうだったンでな、お開きだ」

人狼ヴェアヴォルフ……! こ、この野郎!」

 手負いの仲間をかばい、相棒の男はナイフを抜く。

 ――それは、愚かな行いだった。男に生き残る目があったとすれば、脇目も振らず遁走とんそうするしかなかったのに。

 もう次の瞬間には、その胸元は蹴り飛ばされていた。彼には黒い風としか視認できなかった。男は壁に叩きつけられ、がくりと失神する。片手を失った男が少女だったものを認めた時には、もう助けは望むべくもなかった。おびえきった表情で、男は血だらけの手をかばいながら逃げようとする。

 だが――悲鳴をあげる間もなかった。彼は瞬く間に両足の腱を切られた。彼自身の短剣――彼がこれまで、幼子の愛の揺りかごを裂いてきたナイフで。

 その獣は、倒れた男をわざわざ仰向けにしてから、馬乗りになった。

「ば、化け物め……!」

「ン? いいのか、命乞いしなくて。今ならまだ間にあうかもだぜェ?」

 そのしわがれた恐ろしい声を聞き、強がっていた男は静止した。

 安い誇りと真っ黒い恐怖が、ほんの一瞬だけ天秤に乗った。

「た、助けてくれ……。命だけは……見逃してくれ」

 ニヤリ、とけだものは嗤う。

「しゃぶれ」

「……え?」

「アタシにも、ちッとしたモンだがついてンだよ。ほれ、これだ」

 そう言って悪魔は、股ぐらを男の顔に近づけ、下品にも陰裂を両手でおっぴろげた。たった今できた瘢痕の下には、ほんの小さな、犬の蹴爪ほどの陰核が包皮に包まれてあった。獣くさい尿臭と、恥垢の臭いが鼻をつく。

「オマエがナマクラでぶった切ってくれたおかげでよ、うずいて仕方ねェンだ。

 さァ、せいぜい上手くやるこッた。あんまり下手クソだと……ハハ、オマエのクソ不味い指の方が、てなオチになるぜェ?」

 言い終わらぬうちに黒い狼は腰を下ろし、幼いままの恥丘を男の口に押しつけた。男は獣臭さと尿臭、そして己の生臭さにえづく。だが、四肢の苦痛と恐怖に屈服して、男は柔らかい被毛に囲われた陰核を舐め始める。血液と尿と愛液、そして精液の味がするそれを。男は混乱し、恐怖のあまり涙して、前も見えなくなった。

「もっとしっかりやれよなァ!」

 体重がかけられる。男は震え、なぜ俺は獣の股を舐めているのかと涙ぐみながら、女陰に舌を這わせた。

「イイ子だ。ちゃんとおっ勃ったか? ンだよ、それじゃ食えねェだろうが。ッたく、この体は不便だな。こっちがいくらおッ勃ってても、野郎がフヌケじゃ犯せもしねェ。まァ、男でもお粗末なら台無しだよなァ。オマエ、自分の一物イチモツに自信は?」

 男は固まった。何と答えればいいか分からず、狼を、月光を頂く狼を見上げたまま。

「怠けンじゃねえ!」

 鼻っつらを殴られ、男は粛々と奉仕を再開した。

「イイこと教えてやろうか。んぅ、オマエさァ、そう、このオマエの、金玉だけどよ、犬人いぬッコロ以下だぜェ。ハハハ、だからアタシみてえなガキ捕まえてヤッてんのかァ?

 おォ……なかなかイイぜ……あァ、ちッとばかし催してきやがった」

 何を、と思う間もなかった。

 じゅいいい……。音を立て、男の口内に小水が注がれる。獣の強烈な臭いと味に、男はえづいて顔を思わず背けようとする。だが黒狼がその頭をつかむ。男は声ならぬ悲鳴をあげて暴れるが、獣の膂力りょりょくにはびくともしない。

「おォう……。はァ、たまらねェなァ……。ハハ、オイオイ、ママに教わらなかったのか? 淑女からの贈り物は、ひざまずいて受けとるモンだぜェ?

 ……一滴残らず飲み干せ。さもなけりゃァ――」

 黒い獣は、万力のような力で男の鼻をつまむ。

「――死ぬぜェ?」

 男はむせて、何とか息をしようと手足をばたつかせた。そして獣の尿を飲みこんで――肺に吸いこんでしまった。何度も何度も発咳し、涙を流して苦しむ。

 それでも、獣は手を離さなかった。その苦悶の顔をじぃっと見つめ、うっとりと笑っていた。美しい花でも見るように、頬を赤く染め、恍惚と見入っていた。

 そのときだった――化け物の頭部が背後から殴られたのは。もうひとりの男が血を吐きながら、人狼を引き剥がす。一瞬、人狼の意識が途切れた隙をつき、相棒を助け起こす。片手のない男は獣の尿にむせながら、なんとかナイフを拾う。

「しっかりしろ! 人狼とはいえ、こんな小さなガキに気圧されるな!」

「くそ、クソ……! ゆるさねえ……!」

 ほとんど狼そのものの姿になりながら、人狼は立ちあがりさまに構えた。四つ足で男どもを見つめ、人狼は笑っていた。耳まで裂けた口角を吊りあげて、あたえられた苦痛に快楽し、闘争と被虐の期待に陶酔していた。

 男どもも、頭に血が昇っていた。己に屈辱を与えた人狼に、落とし前をつけさせることしか頭にない。もはや、どちらが獣か分かったものではなかった。次の瞬間には、血みどろの殺しあいが起こる――はずだった。

 風切かざきり音。

 片方の男の背へ、短剣が突き刺さる。男はうめいて、ふりかえる。

 こつこつと、足音が続いていた。続けざまに回転するナイフが男をかすめた。

 その隣で、痛みに悶える声があがる。片手のない相棒が肩のナイフを引き抜くと、赤い血があふれだす。怒りに燃える視線は、街路の奥へ向かう。

 ……誰かが、来る。ゆっくりと、余裕をたたえた足取りで。

「誰だ!」

 返事はない。ただその人影は、次のナイフを抜くのみ。

「止まれ! ……今、狼狩りをしてんだよ」

「おっ、おい!」

 男は動転した声にふりかえる。するとそこには――もう、何もなかった。人狼も、その痕跡もなかった。ただ、路上に残る体液を除いて。

 どさり、と倒れ伏す音。

 片手のない男が目をやると、もう相棒は事切れていた。


 惨劇と同時刻。屋根の上。狼は大仰にため息をついていた。

「……はァ」

 つまんねえ。せっかく生かしといたのに、邪魔が入っちまった。

 獣はもう、男たちから興味を失っていた。獣の本能が闖入者ちんにゅうしゃの殺意を感じとるや、すぐに狼少女は逃走を最善と悟った。実際、背後に感じた血風の気配は、あまりにも一方的にすぎた。あのまま乱入者と対面していたら、面倒なことになっていただろう。

 ――だが。ふと、思う。いつの間に自分は、こんなに賢しくなったのだろう。いまこのときとて、ようやく取れたの時間だったというのに。

「ああクソ……」

 傷つけられた肉体がまだ疼く。癒えたはずの幻痛にほてる。

 ……物足りなかった。だがこれ以上、危険は冒せない。

 狼は舌打ちをすると半獣半人に戻り、防寒具を元通り着こんで花かごを手に取った。

 月を見上げる。半月は美しく煌々こうこうと輝いて、蒼くめた空を照らしていた。

 にわかに少女は魅入られて、息をはいた。まだ、月は遠い。

 少女は歩きだすや、立ち並ぶ家屋の屋根から屋根へ、音もなく飛び移りはじめた。次には獣の脚力で飛びあがり、垂直の壁を登る。狼はほんの数回の三角跳びで、五階建ての尖塔に跳び乗った。

 びゅう、と零下の風が吹き抜ける。冷たい冬の風が心地よかった。何もかも見通すような月明かりと、人間ならば一晩とかからず凍え死ぬ風。それらが狼少女を慰める。

 屋根に登れど、月はさらに高かった。どれほど高く昇ろうと、小指の先も近づけやしない。少女はその事実に安らぐ。

 街に目を向ける。城壁は街路を、白亜の城を取り囲んでいる。はためく竜の紋章は、一目でベルテンスカの軍旗ぐんきと知れる。城壁の外には、切り立った鋭い山脈ばかり。

 これこそ、およそ人が住むに適さぬ地――リーレスランドの由来である。この切りたった断崖の上に建造された都市、ケルンエヒトこそが神聖ベルテンスカ皇国の首都。白い城壁に取り囲まれた堂々たる要塞、ヴァイセルシュタイン城こそ“血花王”たる美しき女王、マルガレーテ・ベルテンスカの居城である。

 ヴェスペン同盟を成す諸侯たちとは一線を画す国、ベルテンスカ。皇国は本来なら繁栄の二文字と無縁のこの地で栄えてきた。その事実こそ、皇国が諸侯とは根底から違うというの証だった。

 それにひきかえ、と少女は街路を見下ろす。あかりもほとんどない街路。そこには、物乞いが、身なりの悪い悪漢が、顔色の悪い病人があふれていた。

 狼少女はため息をつく。満たされない気持ちでいっぱいだった。国盗りをするのはいい。別に嫌いではなかったし、権謀術数をめぐらすのはむしろ好みでさえあった。

 ――そう、かつてなら。それらは、かつての自分の肉体の話だ。かつての私は既に亡く、アタシは骸に過ぎぬ。

 肉体が疼く――先の体液の臭いを思いだして、身震いする。内なる欲望がいくつも少女のなかを交錯し、その度に激しい衝動に支配されそうになる。

 もっと切り裂かれたかった。傷に小便を塗りたくられたかった。腹がはちきれそうになるまで陵辱されたかった。尊厳を汚されたかった。死が目前に迫るまで、苦痛と屈辱に塗れていたかった。その矛盾に酔っていたかった。

 ――もっといたぶりたかった。屎尿しにょうを口にねじこみ、腹を裂き、臓物を取りだして食わせ、許しを請わせたかった。そうして受けた倍の痛みと苦しみと、嘲りを返したかった。耐えかねて命散るその瞬間まで、愚かさと滑稽さを嘲笑あざわらってやりたかった。

 そんな――刹那の愉悦だけが望みだった。それがなければ、生きる意味なんてない。

 なのにアタシは、仮初かりそめの目的を優先し、あんなにも簡単に獲物を諦めてしまった。アタシも甘くなったモンだ――そう、少女は心のなかで毒づく。

 崖と岩山の都、ケルンエヒト。その肌を切る風も、分厚い毛皮に覆われた少女にはそよ風だ。吹き降ろす山の風を受け、少女は西に目をやる。

 分かっている。自分が手ぬるくなったわけではない。ハインの本拠地たるサーインフェルクは、ここより西の果て。ここは敵地であり、その庇護の一切が期待できない。愉悦のままにふるまって、騒ぎを起こすわけにはいかなかった。密偵としての職務を捨てるつもりはない。ただ、運が悪かったのだ。

 ――そう、男たちは。

「ッたくよォ。オマエを犯してから、調子が狂いっぱなしだ。

 ――あァくそ、収まりゃしねェ」

 少女は犬のようにしゃがみこんだまま、自分の股を撫でた。ふるふると震えると、こらえきれずに自らの指を挿しいれた。自他の体液で濡れた、己の秘所へ。

 獣欲の求めるまま、無造作に内側を掻きまわす。熱くぬめり、ぎゅうぎゅうと締めつける自らの内を。そうして嬌声を押し殺し、ほんのわずかな時間、自らを慰めた。

 荒い呼吸音。その合間の、噛み殺した喘ぎ声。

 やがて、びくり、と大きくひとつ体が跳ねたかと思うと、少女は何度もびくびくと体を震わせた。その余波がやっと収まると、細かく痙攣しながら中指を抜きとった。そこにまとわりつく己の白い体液を認めると、指ごとそれにしゃぶりつく。

 物足りなかった――満たされないのだ。少女は悪徳に飢えていた。なぜなら少女は、悪魔だったから。悪徳の泥をすすって生きる、ケダモノだったから。

「はァ……この貸しは高くつくぜ、ハイン」

 そしてようやく、少女は安堵した。

 自分がまだ悪魔だったから、かつての自分は死につづけていたから。

 くつくつと少女は笑うと、耳まで裂けた口唇をひん曲げ、月を見上げる。

 ――ああ。これでいい。これでいいんだ。

 次の瞬間、もうその姿は闇に消えていた。


 ふらり、と人影が差す。はたはたと、優麗なローブをはためかせながら。

 そこには、むごたらしく何度も刺された死体が、ふたつあった。凄惨な殺人現場にあって、そこに現れた存在は場違いにも程があった。

「あら。こんなところでねているのですか。ダメですよ、かぜをひいてしまいます」

 そのローブをまとうは少女。漂白されたように白い髪、そして肌。その顔は、ついさっきまでここで犯されていた、いや、犯した少女のそれ――狼少女が、本性を現す前に被っていた猫の皮に似ていた。それと色彩の差異はあれど、少女は瓜二つだった。それだけではなく、ほかにも奇妙な共通点はあった。

 ともに、この地の凍てつく風に対して薄着にすぎた。人狼は皮膚の下に毛皮を持つ。それゆえ、あの狼少女の防寒具は偽装のためにすぎなかった。コートを脱いだ時には、まるで蒸し風呂から出てきたようだった。他方、この色味を失った少女は、ほのかに青みを帯びる白いローブ一枚でありながら、冷めきった湯のように熱を感じさせない。

 少女はその場に転がるふたつの死体に歩み寄ると、静かに微笑ほほえむ。それは大聖堂に掲げられた大いなる聖母の絵画がごとく、慈しみをたたえていた。

 だが――何かが致命的に欠けていた。さなればそれは、聖儀僧クレリックの祭具として最高の僧が、最高の銀で編んだ傑作でありながら、永遠とわに聖別されることのない偽作のよう。

 少女は微笑んだまま、死体に手をかざす。いたわるように、ねぎらうように。

「汝らが恐るるべきは悪しき竜人ドラウにあらで、冥獄にて待つおかたなり。堕落者ドラウは汝の肉体を打ち砕けど、主のたまいし魂に触れることあたわず。最後の裁きに、主が愛を喪失せしめんことを恐れよ。主の御心を行わぬ者は永遠の火に焼かれ、永遠に呪われん」

 その口からは、教典の聖句がすらすらと紡がれる。しどけない容姿からは考えられないほど、精巧に、ただの一文字もあやまたずに。

 ――すると、奇跡が起こった。むくりとその遺体は立ちあがり、遅れて目を見開く。ただ、その奇跡が真に迫るものとは言いがたかった。その目はどこも見ず、どこにも向けられぬ、濁ったものだったから。

 少女は、片手の指がない相方にも同様に施した。そしてふたつの骸が空っぽの瞳で棒立ちになると、にっこりと笑った。

「ほぉら。これでもう、ひきませんね」

 その薄く見開かれた少女の瞳さえ、見る影もなく漂白されていた。かつての鳶色の面影は、かすかに残った樹皮色にしか見つけられない。

 骸のしもべに笑いかけながら、少女は立ち去ってゆく。

 骸どもはその背を追う。従順に、仔羊のように。

 確かに、少女の出で立ちはこの地に似つかわしくなかった。だが、だからこそ――その酷薄な笑みは、まさしくこの地の酷寒にふさわしいものだった。

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