羽蝋の翼

 敗残兵をまとめ、帰路につかせる――口にするのは容易だが、それは並大抵のことではなかった。人間たちの多くは領主であるヴァルターに服従していたし、犬人たちはなかなか恐怖から抜け出せなかった。持たせてやれるものもわずかな食料のみで、ハインにできるのは兵を形だけ労い、早急に帰還するよう命令することだけだった。果たせなかった報復に兵は憤り、やり場のない不満はハインやその兄弟に向いた。

 ハインは無表情に非難と唾を浴びた。憎まれるのは、とうに慣れていた。それで兵たちの鬱憤が晴れ、周辺の村が略奪されずにすむなら、安いものだった。

 何日もの時間をかけ、徐々に兵たちは故郷へ帰っていった。その間にハインは何度も殴られた。時にはダンやウラが殴られる間に割り入り、代わりに痛めつけられることさえもあった。ハインは何ら抵抗しなかった。

 そんな時、ハインをかばうのはルオッサだった。“仔犬”が現れ、おびえた声で叫ぶと、兵たちは急に罪悪感を覚える。目の前の相手が自分の半分ほどの小さな犬人であることを思い出し、弱い者いじめをしている気になる。そして不承不承立ち去るのだった。

 そしてふたりきりになると、ルオッサはあざ笑った。やり返せばいいのに、と。

 ハインは答えず、ただ非難の目を向けるのみだった。


 さわやかな風が吹く。ついに、同盟軍が書類上も解体される日が来た。

 陽光は鋭くなりつつあり、北の大地にも初夏の兆しがおとずれていた。

 ハインは愛犬と、ひとりの少女と連れだって、巨大な岩山に敬礼した。

「では、またお会いしましょう。貴女は私に多くのことを教えてくださいました。不甲斐ない私ですが、協力を惜しみません。どうか、ご自愛ください」

 フェルゼンは――最後の岩人は、ゆっくりと首を振った。不甲斐ないだと?

「貴殿の尽力を、私は忘れない。貴殿は民草の痛みを知る、真に尊き騎士だ。だが、貴殿はあまりにも自罰的だ――私が言えた義理ではないがね。

 リタ。いまさら私なぞが改めて言うまでもなかろうが……ハインを支えてやれ。犬の騎士には愛犬が必要だ」

 リタは静かに敬礼し、柔らかくひとつ吠えた。それは気のはやい夏の風に乗り、場を和ませた。そうだ、とハインは傍らに控える草人に声をかけた。

「スアイド殿。俺は謝らねばならない。あの時、君の覚悟を俺は軽んじてしまった――すまなかった」

 スアイドは透徹した表情を、ほんの少し崩した。

「謝罪など必要ありません。結果的に無数の“時”をわたしは浪費しています。そこに弁明の余地はありません。あなたはただしい」

「――それでも、だ。君の忠誠は盲目的ではない。俺は、君と初対面の時に言った表面的なものでなく、本当の意味で敬意を表したい。

 その忠誠は、まことから出たこころだと」

 黄色い肌と長い耳の少女は、視線をそらした。頬がほんのり上気する。

「わたしたちは、ほかの在り方を知らないのです。ただ、そう決めているだけ。

 ――ですが。その言葉は、わたしたちのほまれとなるでしょう」

 フェルゼンはスアイドの様子に、かすかに表情をしぼった。

「ハイン。あなたのゆく道のりは、いつでもイバラにおおわれています。ですが、あなたはいくつもの運命に出会う。しがらみがあなたを責め、えにしがあなたを助ける。そしてわたしたちにとっても、あなたは森の友です。

 わたしたちはいのります。その旅路が、むくわれることを」

 ありがとう。ハインはそう答え、フェルゼンに、では、と言って歩きだした。

 ハインとリタの表情に比べて、前髪のなかのルオッサは険しかった。少女自身、説明できない苛立ちだった。

 あの日を思い出す。長い長い冬の果て、やっと手に入れた自由を。

 その日以来、ルオッサはずっと見ていた。森のなかから、ひとりの犬人を。

 最初は多少、賢い犬かと思っていた。けれど何度か見かけるうち、それが犬ではない何かであると気づいた。不慣れな竜語、犬の身にあわぬ高潔さ、そして乗騎にみせるふとした愛。低脳な犬人にはとても不可能な呪文の行使をさしおいても、それは注視するにあまりある異質さだった。

 そう。理想を見つめ続けながら、自ら理想を裏切り続けてきた、凄惨な眼差し。長く遠い既視感のある瞳。

 それらひとつひとつに、ルオッサは魅了された。この男はどんな道をきたのか。これからどこへゆくというのか。それらを知りたくてたまらなくなった。

 ――どこをいじくればどう歪むのか、それが見たくてたまらなくなった。

 この男のすべてをこの目で見、この手で壊したい。その、子供が虫をばらばらにするがごとき欲望がむくむくと顔をもたげることに、ルオッサはにたりと笑った。自分が壊れていることに安堵した。もはや救われぬことに安寧を得た。

 壊れていなければ存在できない少女は、その日、この玩具おもちゃを支配すると決めた。自らの手で壊すと誓った。その背徳の矛盾に愉悦した。

 もし、壊れていなければ。その男に抱いた感情の正体に気づいたかもしれない。

 けれど、ルオッサは信じ続けていた。敬虔に祈っていた。

 それゆえ、神が罰を与える時に、神だけは自らのことを見てくれると確信していた。その神の愛を受けるために自分は壊れていなければならなかった。

 そのためにこそ、どうしようもないくらいに歪んで、変質していたのだから。

 だから、その思いを理解しなかった。

 もし理解しようものなら、それは。

 ――神が誰も見ていないことの、歴然たる証明になってしまうから。

「ルオッサ、だっけ? しゃべれるようになってよかったね!」

 何も知らないリタに声をかけられ、前髪のなかから少女は犬を見た。

 本来のルオッサなら、顔で笑って内で毒づくのが常だった。だがリタの話し方、表情、仕草を見るにつけ、胸の熾火は小さくなってしまう。

「えへへ……ありがとー。よろしくね、リタ」

 天衣無縫の少女を演じながら、ルオッサは答える。でもそれは、演技というには出来過ぎていた。ルオッサはだらしなく、あどけなく笑いながら、リタと一緒になってハインを追い越し、ちょろちょろと追いかけっこする。

 そのさまに、ハインは思う。

 ――賭けてよかったのだ。そう……少なくとも、今は。

 ルオッサが気づいていたのは、リタに友の面影をみたことだけだった。


 だれも、誰も気づくことはなかった。少女でさえ、自らが灯火に身を寄せる蛾のように惹かれた理由を知らなかった。もしその犬人が本当に少女の手で壊れたり、誘惑に負けて堕落したりしてしまったのなら。少女は心底失望したことだろう。

 少女は失望したくなかった。かつての自分が、ロスコーという名だった少女が、間違いでなかったのなら。あの犬人は、ルオッサという退廃者になんて、決して屈しない。屈してはいけないのだ。

 ハインという英雄に、ルオッサという悪徳が惹かれたのは――決して偶然などではなかったのだ。

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