終章 めざめ

砕かれし月

 月が高くあった。

 乳海のほとり。森の裾野。かろうじて飲みこまれなかった、ナズルトーの残滓。かつて騒がしかった初夏の森は、静まりかえっていた。

 森の中から、ひとりの少女が現れた。ぼさぼさの赤髪、下着とマント一枚きりの衣服。その表情は長い前髪でうかがい知れない。

 少女はきょろきょろとあたりを見渡すと、歩きだそうとした。

「無事だったんだな」

 少女は飛びあがった。そして喃語をこぼしながら、振り返った。誰もいない。

「仔犬。ケガはないか」

 冷たく鋭い声。仔犬は声のした方を見て、ほっとしたように口を緩ませた。

 大気の中から人影がにじみ、現れる。それはコボルトだった。

「はぁ、いん……!」

 あどけなく手を振りながら駆け寄り、その胸に飛びこもうとする。

 けれどハインは、その手を跳ねのける。

「先にきたい。隠していることがあるな」

 仔犬はうぅ、と悲しそうな声音を出した。反論しようとうなるが、どもっていて聞きとりにくい。

「かっ、か、かく、かくしごと?

 えぇ、あ、あの……も、もも、もしかして、お、おねしょの、こと?」

 その幼稚な返答にハインはため息をつき、首を振った。

「俺の早合点か。何も知らないんだな?」

 ハインがそう念押しすると、うんうん、と首を縦にふった。

「ヴァルターは本陣で殺されたらしい。だが命と引き換えに撤退を命じてくれた。おかげで多くの命が救われた」

「ぶ、ヴァルターさん……い、いっ、いいひとだったのに……」

「知らなかったのか?」

「う、うん……とっても、かな、しい……」

 月光が閃いた。

 はらり、と赤髪が一房、舞い落ちる。

「ではなぜ、おまえは笑っているんだ?」

 真白銀ミスライアの軌跡。欠けた前髪の合間から、吊りあがった口角が覗いていた。

 少女が年相応の手つきで前髪をはらうと、赤い瞳が露わとなる。その眼光こそ、月明かりを掻き消す輝き。その瞳の瞳孔が、細く、細く引きしぼられる。

 その口元をさらに引き絞り、少女はにたりと笑う。

 月光の中、尖った犬歯が黄ばんでいた。紅の瞳が、ハインを射抜く。

 刹那、予期していたはずのハインはひるんだ。

「なぜ? ハインは可笑おかしくない時に笑うのか?」

 あッあッあッあッあッ。少女は別人のように笑った。

 頓狂な、場違いな、気狂いの笑い。その低いしわがれた声に、森がざわめく。

「正体を現したな……!」

 ハインがソードブレイカーを抜くや、少女は背中に手をやった。

 ゆっくりと、森の葉がさざめくのが見えるような速さ。抜き放たれたのは、黒い刀身の中に夕闇のようなきらめきのある、短いレイピア。

 風が、森が悲鳴をあげた。



 ヴァルター・オッペンハイムは冷や汗をかいていた。本陣で椅子に座ったまま、かつかつとテーブルを叩き、いらだちを隠せずにいた。

 その時、天蓋をめくって誰かがはいってきた。その顔を見るや、ヴァルターはほっとした表情になり、待ちきれない様子で立ちあがった。

「待ちくたびれたぞ。貴殿の進言どおり、護衛も家臣も皆、先に撤退させた。あのフェルゼンですら、尻尾を巻いてこの地を放棄したようではないか。どのような虚言を用いたのか知らんが、全くひやひやさせる。さあ、次は何をすればいい」

 相手は剛毅にもほほえんだ。

「ああ、ここからが貴殿の出番だ。我々が勝利をつかむための秘策をお見せする」

 そう、天蓋の外を示す。ヴァルターはにやりと笑い、外に出た。 

 しかしながらそこには、静まりかえった森があるばかり。ヴァルターは自分が何か見落としているのではないかと疑った。おどおどとあたりを見渡し、自分が恥をかくのではないかと危惧した。

 だが、本当にそこには何もなかった。ヴァルターは恥を覚悟で、どこにあるのかと問いただそうとした。

 その瞬間、ヴァルターは咳きこんだ。なんだ、と口に手をやる。

 赤かった。その胸を、黒いレイピアが突き破っていた。

 ヴァルターはうめき声ひとつあげられなかった。その瞳が小刻みに揺れ、口の端をつう、と血液が伝う。

 足がもつれ、ヴァルターはひざまずいた。

 なぜ。信じられない表情で後ろを振り向く。その相手と目があった。

「ぷふっ……ぶゎぁぁぁぁぁか」

 その相手――赤髪の少女は、子供じみた台詞でののしった。今までの老成した口調をくずし、げらげらと嘲笑した。心の底から愉快そうに、いたずらが成功した子供のように。

「……ろ、ロスコー? こ、これは、何の、冗談――」

「冗談? ハハ、何言ってンだァ。『この陣地内を歩き回り』、『定期的にオマエと茶を飲む』。こんな条件をオマエにのませた理由、それを考えたこともないか?

 クライナードラッヘを食い物にしておいて、その次はドラウフゲンガーまで併合しようと画策してたンだろ?

 これは、イイ夢を見せてやった代金さァ」

 幼女はその背に裸足を乗せ、容赦なくレイピアを引き抜く。鮮血が伝い、滴る。その刃は夜闇とおなじ色。その黒を覆うように夕闇色が輝いている。レイピアを持つ少女の腕は、その重みでずっしりと垂れ下がっていた。そのさまは、見た目の何倍もの重さを感じさせる。その少女は、悪魔の顔つきで笑う。

「楽しかっただろォ? 己を見る部下の目が変わる。兵が何倍も力を発揮する。まるで伝説ン中の英雄にでもなった気分だったんじゃねェか?

 ハハハ、ざぁんねーん。それさァ、アタシの力なンだよねえ?

 テメエの力量なんざ、その辺の牧童の方がマシだぜ」

 ヴァルターは脂汗をかき、ひきつった笑みを浮かべていた。何かの間違いだと思った。自分が利用していたはずだった。このような、自分の半分も生きていない小娘にしてやられるはずなんてなかった。まだ彼は、自分がその幼子に依存していたことすら理解していなかった。

 レイピアが肩に刺さる。簡単に押しのけられる速さだったのに、ヴァルターはできなかった。彼はおびえた仔犬のようにうめいて、恐怖から背を向けて走りだす。だが、肺に穴があいた彼にとって、それは荷が重かった。

「あははは! ほォら、にげろ逃げろ。ひょっとすると、逃げ切れるかもなァ?」

 レイピアを引きずる音が追ってくる。それが死神の足音だとわかっているのに、ヴァルターはよろよろとしか逃げられなかった。いったいどこで間違えたのか、てんで分からなかった。彼は自分が取引しようとした相手を見誤っていた。その手腕も本性も、触れれば引きずりこまれる魔性も見抜けていなかった。

 最初からただひとつの目的のために近づかれたとは、彼は気づけなかった――その尊厳を蹂躙し、その死をあざ笑うためだけにおだてられていたとは。

 彼は、喧嘩を売る相手を間違えたのだ。クライナードラッヘの化け物がもっと幼い頃、彼は言葉を交わしていた。なのに、クライナードラッヘの破滅に加担し、甘い汁をすする意味を理解していなかった。

 がりがり――がり、ごり。

 ヴァルターは情けない悲鳴をあげながら、敗走する。だが抵抗も空しく、断崖に追い詰められる。振り返ると、あの日とは別人のような幼女が迫っていた。

 けらけらと機械仕掛けのように笑いながら、レイピアを引きずる少女が。

「ロスコー殿! わ、私がわるかった! 我が領地の五分の一、いや、四分の一を貴殿に譲ってもよい! だ、だから――」

 すると相手は、ふぅむ、と考えこむ動作をした。ヴァルターはにたり、と卑下た笑みを浮かべる。いくら鬼才とはいえ、まだ子供に私は何を――

「いや、せめて半分と言ってから交渉を考えろよなァ?」

 刹那。足元に振りおろされる、黒い刃。

 彼のすくんだ足は、思わず一歩、退いてしまう。土は湿り、緩んでいるというに。

 足元が、崩れる。

 男の絶叫と少女の哄笑は、崩落の轟音にかき消された。



 ハインは対峙して初めて、目の前の脅威を認識した――少女の殻におさまる、底しれぬ闇の沼を。

「アハハ……そうかたくなンなよ。オマエが先に抜いたンだろォ。

 カタくすンのは金玉だけにしとけよなァ」

「黙れ、皇国の密偵め! よもや、おまえのような幼い子供とは――油断した」

 少女は気の触れた笑い声をぴたりと止めた。そしてハインを見定めるように、上から下までじろじろと見つめた。

「ンなわけあるかよ。心にもねェこと口走って、自分を騙すのはやめておけ」

 ハインは身震いした。見透かされていた。

 確かにそのとおりだった。密偵がいたのは確か。だが、その罪を目の前の相手に着せるのは無理があった。仔犬は陣営から出なかった。隣には常にアーレントがいた。《魔力感知ディテクト・マジック》で何ら検知できないこの少女が、森に魔方陣を施し、秘密裏に情報を集め、流していたとは考えにくい。

 何より、魔方陣を最初に気づかせたのは仔犬なのだ。

 ――それらが偽装工作でなく、本人に呪文発動能力がなければ、という話だが。

「ではなぜ、ヴァルターを殺した?」

「知らねェよ。なァんでアタシが殺したことになってンだァ?」

「ヴァルターは何者かに操られていた――物わかりが良すぎた。おまえは司祭に気に入られていたが、それを差しおいたとて、あのヴァルターがおまえのような子供を多目に見ていたのは不自然だ」

 あはは、と仔犬は笑った。物わかりがよくて怪しまれるたァ、アレも信用されたモンだなァ――そう、心底おかしくてたまらない、というように。

「だがよ、仮にアタシがヴァルターを傀儡にしていたとして、だ。それがどうしてアタシが殺したことに繋がンだァ?」

 ハインは沈黙した。反論はできない。状況証拠と直感からの嫌疑だからだ。

「それにしても、よくアタシを先回りできたなァ。

 伊達に斥候の真似をしちゃいねェってことか?」

 仔犬はにわかに嬉しそうに目を細め、ハインを見つめた。

 ハインはぞっとする寒気を覚えた。

「初めておまえを抱きとめた時、“印”を付けておいただけだ。

 ……おまえが迷子になったり、捕虜にされたりしないようにな」

 仔犬は感心したように口元を押さえ、くつくつと笑った。

「気づかなかったぜ。予想以上だ」

「なぜだ。なぜ自ら戦場に飛びこむような真似をした。

 おまえが密偵でなく、ただの子供だというのなら、答えてみろ!」

 仔犬は――いや、今となっては狂犬のそれは、にたりと威圧的に笑う。

「ただの子供、か。ただの子供なら守ってくれンのか?」

「当たり前だ! それが騎士として当然の――」

「騎士ィ? 犬人が? ハハ、笑わせるな。それに、騎士は王の手駒だろう?

 そんな脳ミソが聖人君子の王がどこにいる?」

 ハインは歯ぎしりした。いたさ、と独り言のように抗弁するのが精一杯だった。

「ハハハッ! じゃァよ、アタシのことも守ってくれよ?」

「何を血迷ったことを! おまえのような者が、ただの子供のはずが――」

「オイオイ。草人の戦士は子供扱いするのに、正真正銘、子供のアタシは大人扱いしてくれンのか?」

 ちがう――ハインは抗おうとする。

「おまえは呪文紡ぎスペル・キャスターだ。魔法陣の魔力を見抜き、兵たちに奇跡を見せた。

 おまえは聖儀僧クレリックだ。体を呪文で縮めているか、幻覚か。手段は分からないが――」

 ご明察、と相手は答えた。

「そのとおりさ。おっと、勘違いすンなよ。アタシが聖儀僧ってことさ。アタシは見たままのガキさ。信じられねェっつうなら、なんでも試してみりゃァいい。まァ、《魔力感知》に引っかからねえような呪文をアタシが使えるとしたら、だがなァ?」

 相手の言うとおりだった。ハインは既に《真実の眼トゥルー・シーイング》で相手を凝視している。《魔力感知》の結果をあわせても、疑いようはなかった。

 だが――だとしたら。

 この少女の、魂を凍えさせるおぞましさが説明できない。無形むぎょうの理解できない狂気なのに、にじむ憎悪と殺意は、歴戦の騎士たるハインすら畏怖させる。それは到底、ほんの数年で身に染みこむものではない。仮にそうだとしたら――

「――おまえは、今まで何人の人間を殺してきたというのだ」

「さァて、な。殺したこたァねえぜ。にしてもオマエは、質問ばっかだなァ。アタシにがあンのは嬉しいけどよォ、ちッとばかし飽きてきたぜ」

 なに、とハインが身構える。しかし、少女が剣を構えることはなかった。

 代わりに振りおろした刃は、もっと鋭いものだった。

?」

 ハインは動かなかった。動揺を胸から出さなかった。だが、その瞳孔はひらいてしまっていた。少女は目ざとくその兆候を察知し、左腕を振りあげた。

 反応が遅れた。ハインが身を守ろうとした時には、既にそれはなくなっていた。

 回転しながら宙を舞う、きらめく金属片。

 ルオッサはそれをつかみとり、二本の指の間で見せつけた。

「やっぱりな。これは知恵の指輪じゃねえ――ただの真鍮しんちゅうだ。ン? だとしたらヘンだよなァ? オマエ、犬人にしちゃァ賢すぎるんじゃァねえか? オマエの兄弟とやらを差し置いて、どうしてオマエだけが呪文を唱えられる?

 それだけじゃねえ。オマエの竜語はどうも不慣れだ。まるで後から習ったみてェにな。どっちかッつうとルテニア語の方が母国語らしいぜ。おまけに、群れたがる連中とは違ってひとりを好む――」

 オマエ、本当にコボルトか?

 相手の剣が揺れたことに、少女はにんまりと笑った。

 ハインは表情を変えないよう、努力するほかなかった。

「言いたいことはそれだけか?」

「慌てるなよ、まだあるぜ。オマエが信頼してる犬、知恵と言葉と声帯だったか?それがあるから喋れるっつう話だけどさァ。

 ――? 本当にそれだけでただの犬が喋り、慈しみに満ちた少女の人格をそなえるのか?」

 オマエは、どうやってコボルトの肉体を手に入れたンだァ?

 ハインは、色を失った。口封じをせねばならないと思った。だから、剣を――

 けれど、それはハインという男の在り方に矛盾していた。

 大義が願いを喰らおうとした。だから。

 その剣は、少女には当たらないはずだった。

 なのに。

 その少女は、剣を自らつかんだ。手のひらから赤い雫があふれだす。

 ハインは、罪を犯した。その重みに耐えかね、半ば無意識に短剣を抜いた。

 少女はその手をつかむ。短剣ごと押しつぶさんばかりの力で握りしめる。放り出されたレイピアが転がる。矮躯のどこにそんな力があるというのか、ハインのふた振りの剣はどちらもかたかたと震えるのみ。ふたりは互いに身動きが取れず、見つめあった。ハインは少女の紅い瞳を、少女はハインの蒼い瞳を。

 一方は脂汗を浮かべ、もう一方は涼しい顔で。

「ああ、いろいろ暴きたてて悪かったなァ。クク、詫びにアタシの秘密をひとつ、くれてやろうか」

 少女の赤い雫が、落ちる。森がざわめいた。

 赤髪が伸びる――否。黒く変色した髪が全身に広がってゆく。

 骨格が悲鳴をあげる。苦痛に少女は絶叫する。

 ハインはただ目の前の嵐を見ているしかなかった。

 髪を振り乱し、苦悶しながら、それでも少女はハインを離さなかった。

 嵐が終わった時、そこには一頭の黒い狼がいた。少女は狼に変生へんじょうしていた。

人狼ヴェアヴォルフ……!」ハインはうめくように言った。

「あァ、そうさ。狼人病の聖儀僧、それがアタシって女さァ」

 ハインはのまれていた。目前の少女という闇に。それは、少女が人狼だったからでも、骨が折れるほどの膂力りょりょくで握られていたからでもない。

 ほほえんでいたのだ。恋する乙女のように頬を染め、目をうるませ、恍惚の瞳でハインを見上げていた。苦痛に快楽し、性感に身悶えしていた。

 この世の矛盾を寄せ集めたような光景に、ハインは懊悩おうのうした。脂汗が伝う。

「あァ、たまンねえ。ハハ、そうだ。なァ、ハインよォ。アタシと取引しねえか。このアタシの牙と奇跡、オマエに貸してやってもいいぜェ」

「何を――世迷いごとを!」

「ハハ、つれねえなァ。じゃァどうする? アタシは密偵じゃねえが、首を持ってきゃ納得はされるだろうな。ッちまうか? へへ、それもイイじゃァねえか!

 斬る刺すえぐるちぎるっつうのは一通り楽しんだが、まだおッぬ感触ってのは味わったことがねえからなァ……!」

 ハインの短剣が、怪力で意に反して引き寄せられる。その刃先が少女の首筋にあてがわれ、つう、と黒い毛皮が血潮に光る。「さァ、殺せよ。やれンならな」

 ハインは、目の前が真っ暗になりそうだった。肩まで目前の闇に魅入られ、自由意志を失うところだった。

 だが――その時。あの日沈んだ苦悩の渦に、ハインがまた陥ろうとした時。

 真白銀の剣ダスクブレイドがきらめいた。その輝きに、彼は思い出す――かつての誓いを。

「まだ、答えを聞いていなかったな。おまえが、どれだけ殺してしまったのかを」

 黒狼はぴくりと引きつり、眉根を寄せた。

「くどいぜ、今はそんな話をしてンじゃァねえ」

「質問を変えようか。どれだけの受難があれば、そんな年頃でそれだけの狂気を宿せるというのか。おまえは――」

「くどいッつってンだろうが!」

 土足で立ち入られた少女は、犬歯を剥いて威嚇した。握りしめた剣が深く手に食いこみ、流血の筋が太くなる。ハインの短剣が彼自身の喉元に突きつけられる。ハインはいまや、畏怖や恐怖を感じなかった。彼の言葉は瘴気の鎧を引き剥がし、凶獣の本来の姿をあらわにさせた。そこにあったのは、

 ――手負いの獣の、悲壮なかおだった。

 ハインは確信した。

「ああ、守るとも。俺はかつて誓った――姿形によらず、一度は信用すると。

 讃えられるべき主の御名の下で。そう――特に人狼はな」

 黒い狼は歯ぎしりした。そして、細く、筋肉質になった脚で顔面を蹴りあげる。ハインは蹴りを防御したが、その衝撃で地面をえぐって後退した。

 ハインが両の剣を構えなおした時には、狼少女の手に黒いレイピアがあった。

 いらだちを隠せずに、その狼は牙を剥きだして言った。

「筋金入りの馬鹿なのか?

 犬の騎士、オマエに何が守れるって? 思いあがりもはなはだしい……!」

「そうかもな。だが手が届くかもしれないなら、手を伸ばさぬわけにはいかない」

「アタシになら手が届くとでも!」

「届くさ。なぜならおまえは――」

 返事はつるぎだった。レイピアが鋭く心臓を狙う。だがハインの方が速い。ソードブレイカーがそれを捕らえた。

 ハインは口を動かしながら、速やかに折りとろうとした。

 だが、砕けたのはハインの短剣、ソードブレイカーだった。

「かかったな!」

 りぃん。衝撃でレイピアが震えて鳴く。黒い狼は再びそれを突きだそうとした。

「やはり、金剛鋼アダマンティンか」

 金剛鋼。黄昏鉄とも呼ばれる謎の金属。しなやかでありながら、決して砕けない魔法の金属。ただ一点の欠点を除けば、それで鋳造された刀剣はすべてに勝る。

 そう――金剛鋼は、とてつもなく重い。

「なッ……!」

 黒い狼はレイピアを手放した。ごとりと落下したレイピアには、びっしり霜がついていた――ハインの《鉄殺しチル・メタル》がそれを極低温まで冷却した。金剛鋼は幼子の腕で振るえるような重さではない。小枝のように見えこそすれ、その実は人狼の腕力でかろうじて振るえているにすぎない。凍結されてしまった今となっては、少女にはとても扱えぬ代物だった。

 少女はそれまで、レイピアを使わなかったのではない。使えなかったのだ。

「なぜなら――おまえは、敵ではないのだろう? ならば、信じるさ」

 途絶えた言葉が継がれ、少女はほんの一瞬、色を奪われた。けれど次には、もう激昂する狼のそれに戻っていた。少女自身、理解できない怒りに焚きつけられて。

「信じるだと? ふざけるな! 何を根拠に――」

 狼少女は凍りつきかけた手をかばい、鼻づらにしわを刻む。

「根拠? 今更、何を言う。

 少女は、狼と人の合いの子は、答えない。顔から怒気が消える。

「黄銅の騎士との戦いで、俺は致命傷を受け、上空から転落した。俺はそこで死ぬ定めにあった。だがおまえの呪文がそれを防いでくれた。それだけじゃない」

 可能な限り、兵を逃がすよう命令させたのは、おまえなんだろう?

「はッ……お人好しか、オマエ。

 そんなモン、敵にくれてやる道理がなかったってだけだ」

 敵。その言葉にハインはうつむいて表情を隠し、構えを解いた。

「――何のつもりだ」苛立ちを隠さない声。ハインは薄く笑っていた。

「ベルテンスカを敵と呼ぶのなら――敵の敵は味方じゃないのか?」

 ふん、と少女は鼻息でこたえた。

「勘違いしてるみてェだが、まァそれはいい。だがな、ガキみてえに守られるのは御免だ。言ったぜ、取引だ。対等に手を組んでもいいっつうなら、考えてやる」

 ハインは相手を見た。犬人の自分とそう変わらぬ背丈、禍々しく歪んだ童顔。

 フェルゼンの言葉が思いだされる。

「その質問に答える前に、訊くべきことがある。なぜ、俺の命を助けてくれた? あれはそれなりに高度な呪文だ。おいそれと他人にかけるものではないはずだ」

 そっぽを向き、狼はねじくれた笑みを浮かべた。

「オマエが簡単にくたばッちまったら、つまンねえからさ」

 なに、とハインは言った。「――何が言いたい」

「オマエはひどく歪んでる、って言ってンのさ。オマエはこれからも泥にまみれる。オマエがどんなカオでどれだけ苦しみ悶えるのか、考えるだけでゾクゾクする。

 オマエという歪んだ男が、いったいどんな末路をたどるのか。それがみたくて仕方ねえ。その苦難の道程で、アタシも殺し、殺されたい。

 尊厳と矜持を、生命と希望を凌辱し、蹂躙されたい。

 ――それが、アタシの望みだ」

 ハインは剣をだらりと下げたまま、無言で視線をそらした。

 森の声が、静かにきこえはじめた。

 歪んでいるときたか。ハインは否定する言葉をもたない。けれど、その表現は、自分だけに宛てたものだったろうか。ハインにとって少女は――決して他人には思えなくなっていた。このまま仔犬を野に放つことが、耐えがたい悪徳に思えた。

「――おまえが、望むのなら。おまえの名をリタの次に加えてやってもいい」

 片眉を吊りあげ、狼少女は、にたりと笑った。

「交渉成立だな。犬の下っつうのは癪だが、ま、リタならいいか」

 ハインは剣を収め、義務的に問うた。「仔犬、おまえの名はなんだ」

「名か。そうさなァ……まァ、いいか。ルオッサでいいぜ」

 少女が少し渋って名乗った名に、ハインは眉をひそめた。それがどの言語にも属さない、明らかな偽名だったからだ。けれど彼は、それをなんら咎めなかった。

「ルオッサだな。だが、やはり解せないな。

 取引なんだろう? おまえの益は何だというのだ」

「聞こえなかったか? 犯されたいだけさァ。なぶられ、けがされるのが――」

「そんな単純な欲求を満たすためなら、俺についてくる必要なんてないだろう?夜鷹にでもなった方がいいはずだ。

 ――おまえは、動機以外は一から十まで計算ずくに見える。言え」

 すっと波が引くようにルオッサの肉体は元に戻る。

 やや狂気の鎮まった表情で、少女は答えた。

。これを言うと、オマエはアタシをいま以上に警戒する。それが誤解だと言おうが、オマエは聞く耳をもたねェ。オマエはそういうだ」

「何だと……?」

 ルオッサは空笑いをして首をふり、顔を前髪ですっぽり隠してしまう。

「それは後々にとっといちゃくれねえか。オマエが誤解しないくらい信用した時、必ず話す。今は、オマエは信用できるって思ったってことでいい。それも、決して遠かねえからさ」

 ハインは不信感の残った表情でルオッサを見下ろし、沈黙を返した。

 わかった、とルオッサは爪の残る手をハインに差し出す。

「じゃあ、約束するぜ。『ルオッサはハインが存命の限りにおいて、ハインとリタ、その主たる止水卿に身体的害悪と内通による不利益を成さない』、以上、天の主へ誓約する」

 クレリックの誓約は、ほかの者のそれよりも遥かに重い。ハインはその文言をもう一度、口の中で転がした。しばし目を閉じ、そしてその手をとった。

「詮索してすまなかったな。だがこれからだ。言葉は不要、働きで示してもらう」

「言ってくれンじゃァねえか、青二才。まァ、せいぜい楽しませてくれや」

 ハインはこたえない。月は沈み、東の空が明るくなりつつあった。

「……そうだ。おまえを郷里へ連れてゆく、そう約束していたが――」

「馬鹿にしてンのか? 不要だ。アタシに郷なんてねェ」

 そうか、とハインはつぶやき、煙草に火をつけた。その表情は陰鬱だった。

 夜は明け、朝陽が差す。紫煙がふたりを先導し、ゆくべき道を指し示す。

 ――かくして、ハインとルオッサは出会った。

 いつまでも、たとえ歪もうと、不変の善があることを願い続ける犬の騎士。

 望外の才知を与えられながら、悪徳の泥に運命をじ曲げられた神の寵児。

 ここに、ふたりの運命は交わった。

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