黄銅の騎士

「ハイン殿!」

 呪文を詠唱しかけ、静止していたハインは我に返った。リタは既に補助詠唱を終え、待機している。後はハインが呪文を励起、起動するだけだった。

 ハインはその声にスアイドを一瞥したが、構わず震える指で敵軍を指差した。青いヒビがごとき紋様を刻まれた、得体の知れぬ兵。一瞬のためらい、《火球》が指差した方向へ射出される。リタの副呪文で《活性化マキシマイズ》された、特大の業火が。

 青い紋様の兵。それはとても尋常の精神ではほどこせない術式――少なくともハインの目にはそう映った。ハインがかつて、命に代えても守ると王剣に誓いを立てた、ベルテンスカの民。歪な青い術式は、その民を侵食していた。

 そして今、ハインは自らの手でその民を討とうとしていた。たとえどんな姿に成り果てようと、それは庇護すべき者たちであったのに。

 その矛盾に、ハインの覚悟は鈍った。

 同盟軍の側方を叩く、その青い兵へ。ハインの火球が飛来する。

 だがその呪文は直撃しなかった。わずか手前で起動し内包した爆炎を吐きだす。乱戦状態のなか、友軍も巻きこまれていた。敵の秘術師に妨害されたのだ。

 ――否。それだけではない。ハインは感じとった。

 何とはいえないが、違和感があった。目を凝らす。

「まずい!」

 ハインはリタに乗り、スアイドも乗せ走りだした。矢や《魔力矢》が飛来する。ハインは歯噛みした。自分がためらったせいで、こちらの位置を知られたのだ。

 不意に、思い出す。生前、ガルーに問われた言葉が聞こえる。

「ガルー、聞こえるか! 俺は戦う、銀の剣をふるうぞ!

 !」

 そう。その結果、祖国の民に剣を向けることになろうと――。

「ハイン殿!」

 スアイドの声に、ハインは何だ、と聞き返す。「草人アールヴの指揮はいいのか!」

「そんなことは些事です! このままではどうなるか、お分かりですね!」

 すぐには返事できなかった。当初の作戦は水の泡、戦いの流れは向こうにある。あの青い兵とは別に、これまで戦ってきた敵兵もいる。彼らは先頭から同盟軍を叩いている。二方向から奇襲され、刻一刻と劣勢に陥ってゆく。

「……何か、策があるのか?」

「兵力差を覆す策ならば。歩兵は我らにお任せください。あなたはあれを!」

 スアイドが指差した方向。それは、はるか高高度を飛翔する光の矢。それは、まっすぐフェルゼンのいる本陣へ向かう。ハインは舌打ちした。

 ドーファを討った時ほどの速さはない。疲弊か負傷か、その両方か。

 いずれにせよ、そのために森賢者の呪文の届かない上空を飛んでいるのだろう。だがそれを差しおいても、あの騎士は難敵にすぎる。黄銅の騎士を止められるとするならば、自分をおいて他にない――ハインはそれをよく分かっていた。

「スアイド殿。いったい何をするつもりだ」

 スアイドは、静止した水面みなものように無表情のまま、答えた。

。我らが主が真に頼みとしたことを。

 ――後には何も残らないとしても」

 スアイドの答えは、何も答えないも同然だった。けれど、玉砕覚悟であることは容易に想像できた。ハインは後ろにまたがるスアイドへ、血相を変えて怒鳴った。

「馬鹿なことはやめろ! それはおまえが望んでやることではないはずだ!」

 だが、スアイドの声は変わらない。

「いいえ。主の願いはわたしたちの願い。ようやく分かったのです。主は、わたしのみを生残させるために残したのではありません。むしろ、みな等しく死ぬため、わたしたちに託したのです。主とわたしたちが死のうと、後にはフェルゼン殿があるゆえに」

 ハインはきつく言い返そうとした。しかし、フェルゼンの名に思いだした。

 あの晩に諭された、自分の義憤のおこがましさを。

 子供を庇護したい気持ちは変わらない。けれど、指揮官であるスアイドを、その指揮下にある草人の覚悟を、気高い自由意志の末の覚悟を否定してしまったら。それは彼らを子供扱いすることだ。そんな過ちを犯してしまったら、彼は自分が最も嫌悪する、意志を奪い、虐げる虐殺者と同列に落ちてしまうのではないか。

 そんな自己嫌悪の果てに、ハインは言った。

「どうしても、やるというのだな」

「はい。我らが命は、主と比べれば一夜のかげろう。そんな我らが敵と相討てば、それは利益なのですから」

 そんなはずはない、と叫びたかった。けれど、ハインはそれを飲みこんだ。

 リタは何も口を挟まなかった。

「ダンへ通達、人間兵の指揮権を暫定譲渡する。スアイドの到達まで敵を抑えろ!」

 兄弟全員に言葉を飛ばす。ダンから返ってきた言葉は、「お前はいつもそれだ」というあきらめにも似た愚痴だった。それを確認し、リタは鋭いターンで本陣に踵を返す。

「俺は黄銅の騎士を抑えにゆく。スアイド、どこで下ろせばいい」

「主の墓標へ。そこに必要なものがあります」


 リタは走った。《早足》で可能な限り早く。前方の警戒をリタに任せ、ハインはあらん限りの呪文で自軍を補佐した。ふたり以上の秘術師が妨害してきていた。呪文による攻撃はほとんどがまともに命中しない。それでも、ハインが砲撃している間は森賢者ドルイドの呪文が素通りになり、敵の秘術師から攻撃されることはない。やらないわけにはいかなかった。

 青い紋様の兵は、次々に兵を打ち倒してゆく。彼らはもちろん不死身ではない。打ち倒され、袋叩きにされれば死ぬ。だが青い兵ひとりにつき、同盟軍の兵三人は必要だった。呪文でまとめて焼き払おうにも、どうにも効きが悪かった。まるで、爆風や魔力矢が、表面を滑るように当たらない。

 何より、人間らしい感情を感じさせないことが、異質で異様だった。

 こちらが数で勝っているのに恐れを知らず、ただ目に映る敵を滅ぼす。

「皇国は、いったい何に手を出した? ――“簒奪さんだつの魔術師”め」


 スアイドは両手とかばんをいっぱいにして、走っていた。

 その顔は、人間の少女によく似ていた。しかし、スアイドは人間ではない。

 髪には柳に似た枝が混じり、肌は銀杏いちょうのように黄色く、耳はうさぎのように長い。

 鞄のなかには、赤い模様の入った黒曜石がびっしりと入っていた。主の墓標に安置されていた、無数の石。草人の骸の遺す石。だがそれは、黒曜石ではない。

 スアイドの肉体は疲れ果てていた。元々、草人は体力に乏しい。それは、かつて動くことのない植物であった名残。彼らはとおい過去、岩人ドヴェルグに出会った日から、その在り方に従うことを選んだ。二本の脚で歩き、雌雄を分け、つがいで繁殖するようになった。

 では、それ以前は?

「ダン殿、ありがとうございます!」

 ダンを労うスアイドの声に、荒々しく戦うコボルトはこたえない。ダンはただ、かつてのようにナイフを振るうのみ。死への恐れなど、親の胎においてきたかのように。敵と自らの赤い血にまみれながら、最小の動きで、最大の敵をたおす。

 ダンは今、別の恐れのためにしのぎを削っていた。

「何かすんならとっととやれ、スアイド! もう保たねえ!」

 スアイドはうなずき、両手とかばんから黒曜石のようなものを投げた。

 宙を舞う、無数の黒い石。スアイドは知っている。それは、遺志だ。

 その言葉を待っていたかのように、その八面体にヒビが入る。

 血潮のような赤い模様が光を放つ。

 質量が、爆発した。

 敵も味方も、我が目を疑った。

 宙から降ってきたのは、無数の草人だった。

 生まれたての肉体で、手には骨の槍や腱の弓。だが既にそこにいた草人たちと、ひとつだけ決定的に違うことがあった。

 みな、怒りに目を燃やしていた。冷たい無表情ではない。森を侵す者への憤怒に満ちていた。目に映るもの全てを殺し尽くさねば収まらないような、激烈な怒り。

 髪は赤く紅葉し、黄色いはずの肌ですら桃のように赤みを帯びている。そんな、尋常ならざる草人たちが、黒曜石の核の内から爆ぜ、次々と目覚める。

 たった一時いっとき、無理を通すために。

「我らが主、ドーファ。その無念と怒り、ここに再来せよ。我らの悠久なる怒り、ここに萌えよ。その葉は刀、その根は矢。すべて、全ての仇を鏖殺せよ」

 犬人コボルトも、人間も。言葉なく理解した。

 草人と自分たちは、なのだと。

 その燃えるような色の草人たちは、裸のまま猛り狂った。けれども一糸乱れぬ連携はそのまま。ひとりで敵わぬ青い兵なら、五人でとどめを刺した。見えぬはずの後ろの敵にも、背に目があるが如く反応した。そう。

 それはまるで、すべての群れをあわせて、ひとつの生き物のようだった。精密な骨の矢の一射は、戦士の猛攻を巧妙に抜けて敵を穿つ。無論、彼らが再誕する時に持つ矢はたったの数本。それがなくなれば、骨の槍で苛烈に攻めた。

 だが、青い歪な兵も動揺しない。彼らは機械のようにひとりひとり草人を殺す。一度とらえられれば、その命はとてももろかった。ひとり、またひとりと草人が赤い血を咲かす。だが彼らは、腹を裂かれようが、腕がもげようが、槍を口でくわえてでも攻撃しつづけた。あたかも痛みなどないように。

 その腹からはらわたがこぼれることはなかった。そこには漿液しかなかった。

「ダン殿!」

 その光景に絶句していたダンは、スアイドの声に幽霊でも見たように振り返る。

「我らとて長くは保ちません。あなたがたの力が必要です」

 その声は意志に満ちていた。無口で意志などないような、他の草人とは違った。その声に、ダンは少し分かりかけた気がした。

「ちっ、わかったわかった。――おいお前ら! こんなに強え援軍が来たってのによ、おめおめ負けちまったらガルーにどやされるぜ!」

 次にはダンが剣槍の間に飛びこむ。その雄姿に、犬人は自分たちが戦う意味を思いだした。臆病で尻尾を巻いていた者も、姉御の名前に勇気を見いだした。

 人間たちも追従する。ビビりの犬人より先に逃げだすわけにはいかなかった。

 ドーファの亡骸から、さらなる赤い草人たちが駆けてくる。彼らは、スアイドの手に収まらなかった者たち。たった一度のために長い眠りから目覚めた者たち。裸のまま射かける矢は、青い兵を確実に減らしていった。


 ご主人マスターは言った。最後の戦いに、おまえはついてこれない、と。

 もう主人とは五年以上の付き合いになる。犬にとって五年は、三十年以上もの月日に等しい。だから、そんなそぶりはなくとも分かっていた。主人こそ、自傷に等しいをやるつもりなのだ。もう二度と主人はわたしを傷つけたくないのだ。

 たとえそんな昔のことを、わたしがもう気にしていないとしても。

 リタは口にしない。主人の意志を信じる。そうすることが、リタの愛だった。

 わたしに愛と知恵をくれ、愛という気持ちを教えてくれた。

 だから心配こそすれ、異論などない。

 ああ、でも。リタは思う。

 どうか、神さま。ご主人にご加護を。


 黄銅の騎士は、空中で見えない壁にはばまれた。それは、呪文による排斥結界。ハインが森賢者に急場しのぎで注文したそれは、確かに効果を発揮した。眼下を見下ろすと、いくらかの兵がこちらに矢をつがえている。

「小細工を。致し方あるまい」

 宙で羽ばたいていた黄銅の騎士は、矢を避けて急降下した。


 ハインは自らの脚で走る。空を仰ぎみる。黄銅の騎士はもう視認できる距離にある。覚悟を決めた。森の入口にはそれなりの兵を配置している。同盟軍の本陣も森へ移した。後は、自分の仕事だ。

 その時、黄銅の騎士は急降下した。そこには本陣を守る草人たちがいる。

 何をする気だ――?

 ハインは我が目を疑った。

 黒い火炎が、草人ごと森にまき散らされた。

「まさか、まさかそんな……蛮行を!」

 ハインは《早足》で力の限り走った。ベルテンスカはウォーフナルタの領土を、その恵みを必要としているはずだ。こんな寒冷な土地は、焼いてもろくに穀物が実らない。狩りの獲物や木材をくれる、豊かな森にこそその価値がある。

 だからまさか、森に自ら火をつけるとは思わなかった。そんな手段が選択肢にあったのなら、一年を越す戦争にはならなかったはずだ。森がなくなれば、草人の戦術は無に帰すのだから。

 黄銅の騎士の黒い吐息は、一瞬で森を火に包んだ。黒い炎は消え、自然の暖色の炎になる。草人たちがなすすべなく焼ける、焦げ臭い硫黄臭が鼻をついた。

 本陣をてるわけにはいかない。それは敗北を意味する。何より、フェルゼンはおいそれとは動けないのだ。森賢者たちの呪文が延焼を防いでいるのがわかる。果たしていつまでもつものか。

 ハインは走った。火は草原を滑るように広がってゆく。まさに燎原りょうげんの火だった。

 その火炎の一部が、にわかに青くなる。

「何だ……?」

 青い炎は自然の火のなかへ、逆に燃えすすむ。そして糸で引かれるかのように、自然の火から独立して森の境界を取り囲んでゆく。

 その起点は、かつて仔犬と魔方陣を見つけた場所だった。

 ハインの背筋を、冷たい汗が伝った。

 もしや、ベルテンスカの狙いは、森という領土ではないのではないか。


 黄銅の騎士の強さは、まさに圧倒的だった。翼と炎だけでも脅威だというのに、その本質は剣士。その体格から繰りだされる漆黒の剣は、瞬く間に敵を斬り殺す。

 味方からも畏怖され、“首刈り将軍”と呼ばれた男。その名の意味を実感する。

 燃える森の中から矢が、呪文が黄銅の騎士に向けられる。それらはかろうじて避けたものの、背後から飛んできた《魔力矢》はまともに受けた。呪文の茨が足に絡みついている。騎士が茨を引きちぎる隙に、後方から飛びだす影があった。

「下がれ! こいつの相手は俺がやる!」

 割り入ったハインを見て、草人たちは森へ入ってゆく。森賢者の唱える呪文も、黄銅の騎士めがけたものから森を守るものに変わる。

 再び、ふたりは対峙した。

牙を砥げ、銀の剣きたれ、ダスクブレイド

 燃えあがる森を背負い、ハインはするりと剣を抜き放つ。

 真白銀ミスライアの長剣は、黄銅の騎士と並ぶとダガーのよう。

 片手で持った剣先を地面に向け、ハインはゆっくりと首元を緩めた。

「待ってくれるのか。“騎士”とつくのは伊達ではないらしい」

 黄銅の騎士は、黄金色の鎧を炎にきらめかせ、静かに闇のような大剣を両手で構えた。至近距離でようやく分かった。――その、暗がりが凝りかたまった剣は、脈動している。ひとつの生き物のように。

「俺の名は、ハイン・ギエム――」

「偽名は礼を失するぞ、ハイヌルフ・イルムフリート殿。

 否、今はその肉体からトビアスと呼ぶべきか?」

 ハインは視線をそらし、知っているか、と独りごちた。

「好きに呼ぶといい。どうせそちらは名乗る気がないのだろう?」

「私は名を捨てた身。血も愛も、名ですら陛下に捧げた。ゆえに名乗るべき名などもはやなし。畢竟ひっきょう、今はただの騎士。黄銅の騎士である」

 そうか、とハインは悲しそうに答えた。

「アイヒマン亡き後、将軍は貴殿と聞く。それゆえ念のためたずねておく。

 停戦という考えはないのだな?」

「笑止。我らが持ちかけるならばいざ知らず、劣勢であるそちらが提案すべきは降伏ではないか?」

「本当にそうか?」

 ハインの言葉に、騎士は振り返る。

 青い紋様の兵は、確かに劣勢になりつつあった。赤い草人は、その命が潰えても戦いをやめなかった。死を迎えるやその肉体は時が加速したかのように干からび、胸元からまた黒い八面体がこぼれる。

 それはひと呼吸おいて、再び発芽する。

 無限の兵を前に、尋常ならざる兵たちも押され、徐々に数を減らしてゆく。

 黄銅の騎士は、ハインに答えた。

「無論だとも」

 ハインは気づいた。

 敵陣のなか、自分のかつての肉体が、竜の刻印ドラゴンマークを開放している。そして赤い草人でなく通常の兵を狩り殺していることに。赤い草人は無限に生まれ変わる。だが、あんな芸当が本当に無限に続くわけがない。最後に残るのは、元々いた兵のみだ。ハイヌルフを向こう見ずな性格かと思っていたハインは、見損なっていたか、と考えなおした。

他人ひとの身体だと思って、無茶をする。

 いいだろう。もはや雌雄を決するよりほかはないらしい」

 黄銅の騎士は、返事の代わりに向き直る。ハインはそうだ、と付け加える。

「最後にひとつだけ、答えてもらおう。ベルテンスカの狙いは、ウォーフナルタの領土ではないな?」

 かち、と鎧がこすれる音がした。黄銅の騎士が身震いする音。

「――答える必要はない」

 漆黒の剣が、迫る。その大きさからはとても予想できない、素早く鋭い太刀筋。受ければ真白銀とはいえ、無事ではすまなかっただろう。彼は、犬人の機敏さをもって紙一重でかわした。元より受ける気などなかった。

 黄銅の騎士は追撃しなかった。察知したのだ。様子がおかしい、と。

『――七つの丘。九つの空。十三の星』

 ハインが唱えるは呪文。だがそれは、通常のものではなかった。それもそのはず、本来は繋がらない回路を通し、無理を突きとおすためのものだったのだから。

『それら総てを統べし竜、三位一体にして全能なる竜よ。

 我が真名まなはトビアス。竜の下僕しもべにして“停滞”の運命さだめに生まれつきしもの。

 照覧せよ。これよりつまびらかれしは我が命運――」

 それは、ふるき竜の言葉。呪文を構成する真なる言葉。黄銅の騎士はその語彙を理解できなかった。けれど、不思議とその意味、その輪郭は直観された。「これは――?」

『いざひらけ。魂に穿うがたれし扉。くらき冥獄の門。

 この身。この意志。この魂。ことごとく開門せよ!』

 青白い光がたつ。その光はハインの口の中から漏れている。

 不可思議な風が吹く。風の中心はハインだった。渦を巻き、下草を、森を薙ぐ。奇妙な音と共に、象牙のような角がハインの左の額に突きだしつつあった。

 ハインの周囲に、半透明の羊皮紙のような長方形がいくつも舞いはじめる。

 黄銅の騎士は直感した。

「――しまった!」

 漆黒の剣を振るう。早急に終わらせねばならない、そう逼迫した直感が告げる。

 だが。

 目の前が明るくなった。

 魔力の火球が炸裂し、騎士は火炎に包まれた。ばさりと両の翼を広げ、炎を吹き飛ばすが。黄金の鎧が焦げていた。ぐらりと体勢を崩す。

 ハインが目を開く。瞳は濁り、刻印の色に染まっている。何かをつぶやくように口を開くが、言葉はない。黄銅の騎士は目ざとくそれを見咎めた。

 その舌に刻まれた、七つ角の刻印を。

 ハインの口が開くたび、騎士には膨大な魔力が渦を巻くのが分かった。確かに腕の立つ秘術師ではあった。だがこれほど――殿下や“簒奪の”に匹敵するほどではなかったはずだ。それに、これが竜の刻印ドラゴンマークの力とは思えない。

 あれは、のはず。

 無色の魔力を無尽蔵に引きだせているのは、なぜだ?

 ハインは自らに呪文をかけ終わった。無数の呪文がその脆弱な肉体を補った。

 ハインの姿が消える。騎士の反応は遅れた。既に銀の剣は鎧の隙間を狙い、突き出されていた。間一髪、漆黒の剣がそれを防ぐ。真白銀の剣は白熱し、輝いていた。漆黒の剣に決して傷つかず、その闇を払わんと燦然さんぜんときらめいていた。

 黄銅の騎士は当惑していた。詠唱が聞こえなかった。呪文の起動にあたり、当然あるはずの儀式動作がなかった――全く隙がなかった。

 距離をとらなくては。そう反射的に思った。だが足は動かなかった。その影にはもう、《影縫》の針が突き立っていた。足元には、《焼水オイル》。

 瞬間的に《活性化》された《火球》が炸裂する。脚甲にかかった燃える水に火がつき、激しく炎上する。爆風に針は霧散するが、鎧は熱され肉が焦げる。

 黄銅の騎士は魔力の翼を編み、逃れようとした。刹那、その翼は霧散する。

 ハインを中心に、《無垢なる檻イノセンス》が展開されていた。銀の剣が振りおろされる。

 黄銅の騎士は受けざるを得なかった。これまでは自身の剣が先で、返される刃などなかった。それが常だった。――騎士は目前の相手を認めざるを得なかった。出し惜しみをして勝てる相手ではないと。

 兜の下半分が開く。黒い火炎の吐息が放射された。既に火炎になった魔力は、《無垢なる檻》では分解できない。黒い炎がハインを包みこむ。鍔迫りあいの至近距離で、ハインはまともにそれを浴びた。しかし。

 黒い炎があだとなった。次の瞬間、黒紫色の炎の中から、白熱する剣の切っ先が飛び出してきた。騎士の反応は間に合わなかった。

 剣先が兜の目を貫く。

 黒い炎が晴れる。ハインは無傷だった。《大気の鎧エア・フォート》が炎を無効にしていた。

 だが。

 にわかに、ハインは自分を取り戻した。濁った瞳に光が宿る。無言詠唱し続けていた口唇が、その時ばかりは呆然と開かれたまま。

 兜が、投げ捨てられた。

「ハイヌルフ殿。貴殿とは素面しらふで戦いたかった」

 その素顔は、竜人ドラコではなかった。

 その顔には立った耳が、長い口吻があった。

 それは、犬人によく似た顔だった。犬や狼に似た毛だらけの顔なのに、頬の毛は落ち、鱗が露出していた。それだけではない。両の額からは手のひらほどの長さの角が一対、突き出している。そのさまは、今のハインにどこか似通っている。

 片目から血を流し、痛みに顔をしかめて言う。

「貴殿はいずれ、私と真に実力で渡りあえる騎士となろう。そのような、我が身を削る愚行をおかさずとも」

 ハインは歯を食いしばる。これまで繰り返してきたことを、繰り返していた。

「いずれでは駄目だ。足りないのだ。俺は、目の前で死ぬ命を許せない。

 !」

「……そうか」

 騎士は肯定しなかった。それは彼にとって、とうに過ぎた感傷だったゆえに。

 けれども、否定もしなかった。

 皮膜と鱗でできた翼が、広げられる。

「後願の憂いを断っておこうと思ったが、先に目的を果たさねばならぬらしい」

「させるものか!」

 黄銅の騎士は一度の跳躍で離脱した。その翼に《蜘蛛の巣ウェブ》が投げかけられる。森の蔦が伸び、《魔力矢》が雨のように射かけられる。黄銅の騎士といえど、その全ては避けきれない。蜘蛛の糸は避けたものの、その足に棘のある蔦が絡みつく。《魔力矢》は翼に穴を開け、鎧を通過し直に肉体を貫いた。負傷した左腕で急所をかばい、蔦を剣で切り離す。再度はばたいて上昇する。

 ハインはまた、濁った目にもどっていた。膨大な魔力が呪文を無言化し、無言の呪文があらゆる構成要素を代替していた。自分のものではない魔力をかさにきて、ハインは戦っていた。意識が濁る。竜の刻印を偽称開門ハッキングする時、彼はただひとつの目的を設定した。黄銅の騎士を倒す――もう彼は、それしか覚えていない。誇りも名誉も二の次に。ここで黄銅の騎士を討たねば、また目の前で失うことになると。

 戦う力も、覚悟もない。そんな、無辜むこの魂を。

 《空梯子》と《早足》、《鷹の翼》を起動させる。二本の脚で宙を走り、ハインは追いすがる。黄銅の騎士の機動力は滑空速度にある。はしる何倍もの速度で上昇してくるハインから騎士は逃れられなかった。銀の剣が心臓めがけ突き出される。

 左の篭手がその刃をつかむ。反撃の刃をくりだす。ハインは白銀の剣を手放し漆黒の剣を回避する。自由落下しながら指差す。《神雷》と《火球》の偏差射撃。天地逆転の落雷を受け、火球を避ける。

 騎士は敵の剣を捨て、滑空して速度を稼ぐ。そして翻り、突貫する。

 行く手をはばむ結界へ。黒い魔剣で、その力を一点に集中し。

 透明な壁が光り、黄銅の騎士は弾かれて跳ね飛ばされる。

 翼を鉛直に広げ旋回し、その勢いを利用する。

 ハインはその間、落下する剣を《術士の手》で拾い、剣を《熊の力》と《鉄殺しチル・メタル》で鍛える。ハインは走る。結界を割らせるわけにはいかない!

 ハインと黄銅の騎士は、空中で正面から衝突した。

 剣と剣が衝突する。無数の太刀筋が交錯する。そのたびに火花が散った。黄銅の騎士の剣はハインの短剣にいなされ、受けながされる。大きく軌道を変えられた剣は隙だらけで、次も、その次もハインには届かない。

 だが、ハインも一片たりとも余裕はなかった。漆黒の剣はそのひとつひとつが必殺。いくら呪文で強化しようと、犬人の脆弱な肉体では耐えきれない。受け流すので精一杯な上、大きな危険を冒して繰り出す反撃も鎧に防がれる。とても鎧の隙間を狙う精密さは保てなかった。

 刹那。ハインは六手先の袋小路を察知した。自分の癖を見抜かれ、防護パリーの上から短剣ごと腕を、否、そのまま左胸を斬り裂かれることを予知した。

 時間がぬるかった。べたつくとき

 無色の魔力が浸透した頭脳は、冷静に、冷徹に次の攻め手を選択した。それは、分の悪い賭けだった。だが、必滅のレールに乗り続けるよりはまだマシだった。

 袈裟切りにする剣を長剣で流した後、その胸に飛びこんだ。

 返す刃の方が早いと知りながら。

「が、ぁッ……!」

 ハインの口から、赤い鮮血が霧となってふきだした。

 黄銅の騎士は、無策に攻めてきた相手を冷たい目で見下ろしていた。

 だが、ハインは歯を食いしばり、その目をにらみつけていた。

 黄銅の騎士が、自分の鎧に触れる手に気づいた時には遅かった。

 いくつもの呪いカースが瞬時に流れこみ、臓腑を内から焼きはじめる。

「な、んだと――!」

「滅……びろ。おま、えは、殺め……すぎた」

 勝利を確信したハインだったが、それが慢心と気づくのに時間は不要だった。彼は一瞬のうちにその命を奪うような、数多あまたの接触呪文も同時に詠唱していた。だがそれらはことごとくが失敗した。黄銅の騎士の肉体を傷つけられず、効果を発揮しないまま霧散した。もし相手が竜人なら、呪文に高い耐性を持っていることもある。だが、この相手は竜人ではない。いったい、なぜ――

 そう、ハインは放心すると同時に、奇妙な安堵を覚えていた。

 ――時間が流れることを思いだす。

 もうその時には、目の前に漆黒の剣が迫っていた。

 両断は避けられた。真白銀の剣は見事、その斬撃を耐えきった。

 だが――その数倍近い体重差は埋めようがなかった。

 ハインは弾き飛ばされ、結界に衝突した。

 一瞬の間のあと、最高速度で追撃する黄銅の騎士の肩がめりこんだ。

「か、はッ……!」

 結界に衝突する寸前、ハインはとっさに《無垢の檻》を終了した。しかし、間にあってはいなかった。結界にかすかな欠落が生じる。それは、今この時において、致命的な瑕疵かしとなった。

 ぴしり。

「やめろ、やめてくれ……。もう、誰も――」

 ハインが嘔吐する。結界のヒビが放射状に広がってゆく。

 玻璃ガラスのような悲鳴をあげて、森賢者の結界は崩壊する。意識を失って、ハインを覆う異形化がとけてゆく。崩落し、大気に霧散する結界とともに、ハインは頭から落下してゆく。遠い、大地へ。

 黄銅の騎士はハインが落ちてゆくのを見つめていた。その表情は苦悩する時のハインによく似ていた。そして目を前へ移し、羽ばたくのをやめた。

 一直線にウォーフナルタの空を飛ぶもの。阻む者は、もはやなかった。


 ダンは戦っていた。敵と。己と。己の臆病さと。

 青い兵に押されて、同盟軍は徐々に後退していた。赤い草人たちがいなければ、本陣まで押しこめられるか壊滅するかしていただろう。確かに、赤い草人たちは心強かった。不滅の兵隊が隣にいることが、人間や犬人たちに勇気を与えていた。

 だが、ダンのなけなしの見栄も少なからず軍を支えていた。荒ぶる狼のように、手傷をものともせず戦うコボルト。その姿に、本来は意気地なしの犬人も「まだ、逃げる時じゃない」と戦えた。腰抜けの犬人が逃げない中、人間が逃げるわけにはいかない。そうして、一匹のコボルトが軍を支えていた。

 だが、何事にも終わりがある。

 突然、赤い草人たちの動きがにぶくなった。そうかと思うと、次には白い綿毛のようなものに片端から覆われていった。そうして、ぼろぼろに朽ちて倒れてゆく。

「“大いなる時”へ合一せよ。みな、ありがとう……」

 現れる時が落雷のように唐突であれば、終わりも呆気なかった。

 赤い草人たちは、黒い石も遺さず土に還っていった。

 うろたえなかったのは草人だけだった。支えを失ったダンも糸が切れたように倒れ伏す。そして、犬人と人間の間に絶望と恐慌が走る。

 だが、それは杞憂に終わった。

「よし、引きあげだ! 逃げろ!」

 ハイヌルフが号令をかける。青い兵は他の人間の兵とともに、冷たい無表情のまま撤退を始めた。勝ったのか負けたのかも分からないまま、同盟軍の兵たちは互いに顔を見あわせた。少なくとも、もう戦わなくていいとほっとした。

 その時だった。

「逃げろおぉぉ! できる限り遠くへ逃げるんだ!」

 森の中から、本陣を守っているはずの軍が走ってくる。手にものも持たず、着の身着のままで。人間や犬人の兵、傷病者だけではなかった。その逃げまどう人々のなかには、草人ですら混じっていた。

 その最後に、無数の鳥たちが飛び立ち、森が動き出した。それを見、戦っていた者たちもなすべきことを理解した。彼らは散り散りに逃げ出すほかなかった。

 最後に現れたのは、陶器のように滑らかな岩の巨人だったのだ。


 黄銅の騎士は、滑空していた。

 剣を握っていた右手は使いものにならない。凍傷にやられている。吐息で多少温めたものの、当分は剣も握れまい。急所は外したが、深い矢傷が何か所もある。翼が穴だらけならば、臓腑は呪いで煮肉のようだろう。満身創痍だった。

 あの、ハイヌルフという男。

 黄銅の騎士は憎かった。敵だからではない。鼻につく青さが気に食わなかった。自分が捨てざるを得なかったものを、さももう捨てたかのような冷たい顔をしていながら、全くもってそうではないことだ!

 そして、あの香のような匂い。あの男と鍔迫りあいの距離になる度、あの匂いがした。遠くおぼろげな光景が目に浮かぶ。その度に戦意が萎えそうになる。

 その煙たい匂いも、思い出しそうになるものも、みな不快だった。

 陛下の勅命を遂行する妨げになるものは、すべて邪魔だ。

 黄銅の騎士はいらだちを振り切り、魔力の流れを凝視した。青い炎から繋がる、魔力の起点を探していた。

 やがて、黄銅の騎士はそれを見つけた。そこは、鎮座する石をひっくりかえした跡のように、ぽっかりと口を開いた跡地にあった。黄銅の騎士は馬鹿な、と呟いてあたりを見渡す。遠く後方に、ゆっくりと動く巨大な石像がみえる。フェルゼンが既に撤退していることに、驚きが隠せなかった。我々の計画が漏れていたとでもいうのか。

 ――そんなはずはない。あちらの情報は筒抜けだが、そんな素振りはなかった。

 だがフェルゼンを殺す手間が省けたというべきか。役立たずの両手を握っては開き、黄銅の騎士は考え直した。

 真実は、重要ではない。それは陛下や魔術師の考えること。

 彼は一本のくさびを取りだした。彼の巨体からみれば取るに足りない、真鍮製の楔。その表面にはびっしりと細かい文字が彫りこまれており、尻には大粒の金剛石がはめられていた。

 ただ、役目を果たす。

 黄銅の騎士は急降下すると、目的の場所へ、魔力が交差する起点へ降りたった。最後のひと羽ばたきで砂ぼこりが舞う。

 彼は不意にせきこんだ。妙だ、と思った次には納得した。手には真っ赤な鮮血。胸に風穴が開いているらしい。道理で息があがるわけだ。こんなぼろぼろの体で、果たして帰投できるだろうか。

 ――構うものか。大義のためだ。ひと呼吸おき、楔を打とうとした。

「これはこれは、黄銅の騎士というのは貴殿で間違いなかったかね?」

 いきなり投げかけられた言葉に、彼は振り返った。その人影に彼はとまどった。

「おや、兜はどうされた。もしや、見てはならないものを見てしまったかな」

 剣を抜こうとして、ひざまずいた。体に力が入らない。そしてふと、気づいた。

 ? 黄銅の騎士は思いなおした。

「ここは危険だ。逃げるがいい」

「逃げる? ははは、何を言う。私の足で逃げ切れるわけがなかろう」

 台詞とは裏腹に、その者は笑った。その不敵な態度に、黄銅の騎士は確信する。姿形にとらわれてはならぬ相手だと。震える手で、漆黒の剣を執る。

「同盟軍の手の者だな。何が望みだ」

 どう返答しようが、斬るつもりだった。なのに。

「望み? そうだな、そんなものはないが――強いてあげるとするならば」

 と、言葉を交わしたかったのやもしれぬな。

 ハイン。その名が耳に入ると、剣が揺れた。ぼろぼろの肉体に鞭打ち、なんとか構えていた剣が瓦解しそうになる。

「私の前で、その名を口にするな!」

 相手は笑った。

 時間を稼がれている。すぐにでも術式を、《還海アムニオティック・シー》を起動せねばならぬ。

「よし、そろそろいい頃合だろう」

 相手の言葉に、ぎくりと騎士は相手の顔をみた。けれど、何も起こらない。

 謀られているのか、と剣を構え直し、気づいた。

「……傷が?」

「ここには傷病や呪いを退ける陣がはってある。かような重傷では、撤退もままならなかったのではないかね」

 完治とはいかないが、だいぶ楽になっている。彼はなおさら混乱した。

「いったい――何が望みだ」

「その問いには既に答えたはずだがね」

 相手は両腕を広げ、武器や焦点具の用意のないことを見せびらかした。まるで無防備、周囲にも殺気どころか人の気配もない。もし味方を逃がすための囮なら、自分を癒やす必要などない。まるで相手の意図が読めない。

 だが、取るべき選択肢は多くなかった。

「この私が受けた恩を返さず去らば、誇りを傷つけることになる。戯言ざれごとは不要だ。望みを口にするがいい」

 相手は含み笑いをした。まるで、目の前の騎士の本性を知っているかのように――大義のためならば、自らの誇りすらも売る男であることを。

「そうか、私を憐れむか。ならば、その翼で私を逃がしてもらえるかね。何しろ、見たとおりの状況なのでね」

 一瞬の逡巡の後、騎士はうなずいた。

「よかろう。だが、ひとつだけ答えてもらおう」

「ははは、背に腹は替えられぬな。何でも答えよう」

「……なぜ、私を癒やした」

 相手は顔色ひとつ変えない。

「貴殿が勝手に私の術式に飛びこんできたのではないか。ただ、それだけさ。

 だが、そうだな。そこに何らかの意図があったのならば――」

 貴殿には、ぜひとも生き長らえてもらいたい。

 

 そして、思い至った。この相手の姿形に惑わされてはならない。この口調、性格、そして表情までもがまがいものだ。なかに潜むなにかは、とても口を利くものでは御しきれない、悪性の権化だと。


 ハイン。

 ハインは名を呼ばれて、誰だったかと思う。

 真にそう呼ぶべき騎士は死に、そう呼んでくれる者も今は。

「ハイン! はやく、起きてよ……!」

 目が覚めた。リタが鼻で顔をつついている。

 遠くに足音。無数の人々が、逃げ惑う音。

 いくつもの死線を切り抜けてきたハインの無意識が、危機を察知した。

 意識はいまだ空白のまま、反射的にリタの背にまたがる。

ご主人マスター! いくよ、逃げなきゃ!」

 ぼんやりとした意識が、何から、とつぶやいた。

 ハインは気づいた。起動した呪文は、まだいくつかが残っていた。つまり、まだほんのわずかな時間しか経っていない。そして不思議なことに、胸にまで達する負傷は塞がっていた。だが、その理由を考える余裕はなかった。

 後方から、膨大な魔力が迫ってきていたのだ。

「あれは、なんだ……?」

 自分にかけた呪文は、経絡を通じてリタにもかかっている。リタはいくつもの強化を得て、普段の数倍の速さで走っている。 だが、その速さに追いつく勢いで、透明な境界が広がってくる。

 その内では、あらゆるものが融けていった。

 草木がとける、大地が溶ける、動物が融ける――分解されてゆく。

《無垢の檻》の内に入った呪文のように、無色の粒子に。粒子は液体に。桃色がかった乳のような液体に還元されてゆく。

 人間さえも、決して……例外ではなかった。

 リタが追い抜いて、置いてゆかれた者たちはみな、乳の海にとけて消えてゆく。

「そんな……やめろ、やめろおおぉぉぉ!」

 ハインは手を伸ばしていた。届かない手を。

 魂の上の呪文書は、もう空っぽだった。助けようがなかった。

「ご主人、追いつかれる! しがみついて!」

 リタの尻尾の先がかする。ハインはその背に体を沈める。後悔に苦悩しながら。リタはあらんかぎりの力で走る。リタのうちでは、もはや主人のものか、それとも自分のそれかも判別のつかぬ感情が、坩堝のごとく渦巻いていた。

 ハインは憎んだ。力不足の自分を呪った。そして、いつしかそれを、仕方ないと諦観とともに飲みこむようにさえなった自分を、殺してやりたかった。

 あの青い兵、青い炎。それを見た時から、言葉にできない焦燥感を感じていた。何か取り返しのつかないことをしでかす気はしていた。

 いくつもの違和感を、自分は察知していた。

 なのに、自分は何も救えなかった――!

 ハインは理解しない。彼が救った者は少なくない。だが彼はそれに満足しない――決して飽き足りえない。彼は目の前で取りこぼしたものすべてを覚えている。いつまでも、いつまでも。誰かを救うために魂の呪文書を開くたび、自らが殺した無辜の民として思いだす。十を救うために切り捨てた一を、自らの力不足ゆえに死んだ一を永遠に記憶する。

 それが彼の罪であるとともに、彼が気高い英雄である証だった。

「“簒奪さんだつの魔術師”! 貴様だけは許さん……必ず、必ずや償わせてやる!」 


 やがて、拡大する境界は失速し、ある領域までゆくと静止した。

 リタは並足にもどり、息を切らせていた。背中でふるえる主人に、かける言葉は見つけられなかった。逃げのびた人々のなかに入り、その顔色を見まわした。

 みな、呆然としていた。

 それまで人々と動物たちが暮らしていた森が、突如として乳海と化した。その事実を飲みこめず、立ち尽くしていた。生き残った者も死んだように座りこんでいた。そうなっていないのは、草人たちだけだった。

 全員が理解していた。我々は敗れたのだと。

「ハイン」

 空からの言葉に、ハインは顔をあげた。

 そこには、巨大なフェルゼンがあぐらをかいて座っていた。

 その、複雑におりこまれた表情は、滑らかな美しさを台無しにするものだった。

「我々は大きな痛手をこうむった。ヴェスペン同盟の好意はとても返しきれぬ。さあここまでで結構だ――ここから我々は、敗残兵として戦うことになるのだから」

 ハインはその表情を正視できなかった。

「……ヴァルターと止水卿にお伝えします」

 なに、とフェルゼンは怪訝そうにした。

「――聞いていないのか?」

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