瓦解変生

 森が雪で閉ざされると、盗賊たちは洞窟に見向きもしなくなった。

 半分になったといえ、それでも八人の大所帯。また飢餓の足音が近づいていた。盗賊どもは冬を越すための準備で手一杯。それゆえ、ルオッサに会いに来るのはゲオルグだけだった。

 ゲオルグはルオッサを手篭めにするたび、イイだろ、殺しの時とおなじぐらいイイんだぜ――そう囁いた。その声に嫌悪を深め、腹の子が流れると抵抗した。

 自分でも意外で、不快で、けれど当然と受け入れていた。あれほど腹の子を切り刻みたかったのに、今では自然とかばってしまうことに。

 スヴェンの遺体は、弔えずにそこにあった。冷たく湿った洞窟に横たえられたままだなんて。ルオッサは心を痛め、己の不甲斐なさを恥じた。だが不思議とその体は腐ることはなく、肌の色はいつまでも生きているかのようだった。

 雪をとかして飲み、ルオッサは命をつないだ。もう盗賊どもはなにもくれない。イレーネはわずかな水以外、何も口にしなくなっていた。なぜだと問うと、食欲がないと答えた。様子がおかしいとルオッサがイレーネの服をめくると、下腹部が異様に膨らんでいた。まさか、とルオッサは顔色を変えるが、イレーネはちがうとおもう、と言った。

 もう、ずっと排便していないのだと。

 ルオッサはあの日のことを思いだした。イレーネのはらわたを慌てて詰めなおした時のことを。駄目になった部分を切断し、ただ詰めこんだだけの腸。

 ――もしや、イレーネの腹のなかは、糞でいっぱいなのではないか。

 もしそうなら、どうすればいいのだ。どうすればイレーネを助けられる。道具も食うものもないこんな場所で、腹を裂いて糞を取り出せというのか?

 無理だ。ルオッサは絶望した。もはや手の施しようがないことは明白だった。

 あとは神に祈るほかはなかった。銀のロケットを握りしめ、虹の蛇へ祈った。

 あたしはまた、友を失うのか。そう思うと、己の罪深さに目の前が暗くなった。あの時、もっとうまくやってやれば、こんなことにはならなかったのではないか。そんなことばかりを考えてしまう。たとえそれが、不可能だったとしても。

 けれどイレーネは、そう悩む友へただ感謝した。ルオッサが助けてくれたから、今があると。つらいこともあったけど、ルオッサがいたからがんばれたと。

 でも。二言目には、もっとルオッサといたい、とおびえて泣きじゃくりながら。

 残された時間を、ルオッサはイレーネと話して過ごした。

 お互いの故郷、四季折々の変化、食べ物、祭りの思い出。

 迫る終わりと飢えを、そうしてやり過ごそうとした。

 だが、ルオッサの腹がいよいよ大きくなると、もはや耐えようがなくなった。

 ルオッサは猛烈な飢えに襲われた。食欲が出ずほとんど動けないイレーネとは逆に、ルオッサは自分の指ですらうまそうに見えてきていた。

 スヴェンの遺体と、最期の言葉を何度も思い出した。決して腐敗することなく、虫もつかないそれに、ルオッサは背徳の欲を覚えた。よだれが止まらなかった。

 自分が恐ろしかった。このままでは腹の子も死ぬ、と何度も自己弁護しそうになり、そのたびに頭を振って打ち消した。

 そんなルオッサをイレーネは抱きしめた。それはどんな言葉よりも雄弁だった。

「自分が怖いのだ……」

 ルオッサの独り言に、イレーネは答えた。

「スヴェンも、ルオッサに生きてほしいっておもってるよ……」

「だが、それは――!」

 それは、人を捨て、狼に成り下がることだ。そして何よりも恐ろしいのは――

 ――だった。

 ルオッサは抗いつづけた。来る日も来る日も自分と戦いつづけた。

 やがて水も飲めないほど衰弱していった。日がな一日、横たわるようになった。

 そして、ルオッサは目覚めることなく意識を失った。

 次に目を覚ましたのは、口のなかに何かが入ってきた時だった。

 夢うつつのルオッサは、それが何かも分からず咀嚼した。

 飲みこんでから自分が何を食ったのか気づき、飛び起きた。

 イレーネが、何かを食べていた。手にはあの銀のナイフ。手と口に赤黒いもの。

「ルオッサ、たべて」

 差し出された肉片。ルオッサはにわかに力が湧いてきて、もうあらがえなかった。厚い垢と皮膚がついたままの肉を、ろくに噛まずに貪った。

 ――うまかった。神が天から降らせた神食マナもかくやと思わせた。

 ただ、神は神でも魔神だった。人が口にすべきと主が定めたものから逸脱した、背徳の味。ルオッサは主と友に懺悔ざんげしながら、それをひと切れ、またひと切れ、と口に運んだ。その度に友にあった神聖が反転し、自らのうちに邪悪な血肉として宿るのがわかった。赤子のため、そのためだと自分を納得させた。

 そんな理由では、到底、免償できぬと知りながら。

 ルオッサは生き長らえた。それは、イレーネや友と永眠することは叶わないという意味だった。禁忌の食物はたしかにイレーネにも活力をあたえたが、同時に狼人病の発作をも強めた。ルオッサが時間をかけて殺戮と闘争の快楽に慣れていったのとは違い、イレーネはいきなりを口にした。それがまずかった。


 その数時間後。

 イレーネの衰弱する体は、それを補おうと血肉を求めた。少女は激烈な発作に苦しみ、やがて耐えきれずに獣化した。理性を失って、近くにみつけた動くもの――ルオッサに襲いかかった。銀狼にかじりつかれ、ルオッサは黒い狼に変じた。

 ちょうどあの日と逆だった。黒い狼は重たい腹をかばいつつ、イレーネだった獣の牙と爪を押さえこみ続けた。

 疲れ果て発作が収まったのは、翌日だった。長い長い格闘の末、何とか致命傷もなく、腹の子も無事なままイレーネの発作は終わった。

 あの日の借りを返せたな、とルオッサは何でもないように笑った。

 だがイレーネは差し出された手を跳ねのけた。イレーネは覚えてしまったのだ。――あふれだす生き血の味を。近づかないで、とルオッサを拒絶し、洞窟の最奥へ転がりこみ、二度と姿を見せなかった。少女は頭を抱えて震えていた。

 次はないと悟ってしまっていた。いずれきたる、終わりが近づいていた。

 ――狼人病を患った者の末路が。


 しんと静まりかえった夜だった。

 ルオッサはイレーネの悶え苦しむ声で目を覚ました。雪がすべての音を吸い、森は沈黙していた。柵の間から満月の明かりが差しこんでいた。

 ルオッサは目を見開いた。

 イレーネは半ばケダモノになり、必死に衝動に抗っていた。唇はめくれあがり、鋭い牙が光っていた。滴る唾液。ルオッサの目が、血走った目と交錯する。

 獣は掻きむしる手をとめた。毛むくじゃらの手が、あの銀のナイフを投げる。

「ころして……あたしをころして!」

 ころしたくない――殺したいのがこわい。

 ルオッサをたべたい――食べたくない。いきて――生きて!

「そんな――そんなことはできない!」

 いや、いや! おいしそうにならないで――ルオッサ、はやく。はやく!

「友だち、のまま、いさせて――」

 友だち。

 そんなの。たとえ食べられてしまっても、絶対に、やめてやらないのに――。

 そんな願望に反して、体はもう決意をかためていた。

 ルオッサは、銀の短剣を――聖ヴェロニカに聖別された刃を手に、体を投げた。

 突進してしまってから、後悔した。やめなければと思った。

 なのに、聖なる銀の刃先は――もう。

 親愛なる友の、心臓を突き破っていた。

 森を絶叫がつんざいた。

 イレーネは、イレーネだった獣は、その傷を再生できなかった。それどころか、その聖傷に全身を蝕まれるかのように、胸から腕、腹から足へ傷が広がってゆく。ありとあらゆる血管が破れ、全身からおびただしい血液が噴きだした。

 ルオッサは頭から友の血を浴び、地の果ての責め苦を思わせる苦悶を、悲鳴をあげつづけるイレーネの姿を、ただ見つめていた。

 獣は、苦痛から頭を押さえていた腕を、だらんと垂らした。

 真紅の動脈血に染まった、銀の狼。

 その美しい琥珀色の瞳が、ルオッサを射抜いた。

 べしゃ、とその骸は崩れ落ちた。

 ルオッサもその場にへたりこみ、茫然自失のまま手のなかを見た。

 血だらけのナイフが、お前がやったのだと指弾する。思わず振り払う。

 金属音が、からからとこだました。

 ぬぐう。手を拭う。ぬぐった。こすりつけた。でも、いくらこすっても赤い血は消えなかった。大粒の涙が、目尻からこぼれていく。

 その涙で、ルオッサはやっと感情を取り戻した。月を仰ぎ見、そして吠える。

「なぜ――なぜだ、神よ! これがあたしに乗り越えられる試練だというのか! 唯一無二の友をふたりも、自らの手で殺めさせて! これが受難だと!」

 返事はない。あるわけがなかった。ルオッサはうなだれた。そして、拾った。

 せめて。ルオッサはナイフを自らの首に当てる。

 せめて、自分も同じ苦痛を背負うことが、弔いになるだろうか。

『いきて』

『友だちのままでいさせて』

 イレーネの最期が、目の前にちらついた。もう、こびりついて取れなかった。

 臨月に近い腹が、どん、と動いた。

「くそッ!」

 聖なる短剣を投げ捨て、地面を叩く。

「神よ! 貴方はそれほどまでにあたしが憎いのか!

 なぜ、なぜあたしを生かそうとする!」

 どうか、どうかあたしを死なせてくれ――。

 ルオッサの叫びは、夜更けの森に吸いこまれていった。

 楽になりたかった。

 けれど、ふたりの遺言がルオッサを束縛した。その呪いは腹の子に集約された。

 ふたりも失ったのだから。せめて、ひとりは得なくては、帳尻があわなかった。

 いまや。その子は憎悪によってやどされ、嫌悪で生まれいづる子でも、生まれる前から黄泉へ返される運命を定められた子でもなかった。

 ――その子は、希望だった。


 雪とつららしか見えない世界だった。

 ふたりの友を洞窟の奥に並べ、少女は腹をなでて過ごした。今となってはその子だけが望みで、絶望と悲哀の裏返しか、愛おしくてならなかった。

 ルオッサは雪だけを食って過ごした。臨月なのは明らかで。生まれてくる子を思うと、もう何も食べられなかった。なぜなら、何かを食べるということは、友を傷つけるという意味だったから。それは、生まれる前から罪を背負わせるように思えて、とてもできなかった。

 赤子は、冥獄から来るという。銀のロケットを眺め、向こうにいった友たちが、赤子をこちらにやってくれるよう祈った。

 起きあがることも、寝ころがることもできなくなった。友の血痕があちこちにある洞窟のなかで、少女は赤子のことだけを考えていた。こんな悪徳にまみれた母から生まれて、それが遺伝したりしないだろうか。年端もいかないこの体で、まっとうに産んでやれるだろうか。名前は、なんという名を授けてやれるだろう。もうどこにも、名付け親になってほしい相手がいないことが悲しかった。

 雪は溶けることなく、長い冬が続いた。もう少女にとって、腹の子だけがすべてだった。震えながら腹を抱えて、一日中そのことばかり考えていた。

 外の世界が消えて、世界が自分だけになったようだった。

 もはや、生まれたあとのことなぞ頭になかった。ただ、無事に生まれてくれと、唯一の神とアンギスに祈った。


 それは、イレーネが狂い死んだあの日から、長い時が経った日だった。

 明朝、重い腹痛でルオッサは目を覚ました。お腹がはりさけそうに苦しいのはもはや日常だったから、最初はそれかと思った。だが、間隔を空けて徐々にそれが大きくなるにつれ、ついにその時がきたのだと悟った。

 生まれてはじめての痛みは、これまでに経験したどんなものよりも強かった。少女には産婆の知識なぞなく、準備すべきものもひとつとして用意がなかった。ただできたのは、形見の銀剣とロケットを握りしめ、必死に力むことだけだった。

 そうすれば産まれるということくらいしか、少女は知らなかった。

 股から水が漏れ、地面に広がった。陣痛が思考を奪い、悲しみも、くるしみも、みんな、みんなおしながしてゆく。じぶんがだれかもわからなくなり、なんのためにちからをこめているのか、わからない。

 でも、ふたつのことはわすれちゃいけない。イレーネと、スヴェン。おんなのこなら、イレーネ。おとこのこなら、スヴェン。だいじなこと。

 だれが? だれだったっけ?

 泥のような時間のなかをさまよい、いつか来たる瞬間を待ちつづけた。

 けれど、いつまでもその時は来ない。少女は知らなかった。自分が出産するには幼すぎることを。その未発達の骨盤を、赤子の頭蓋が通ることは叶わぬ話だった。

 ねばりつく時のなかで、ルオッサは周りに誰かいることに気づいた。

 それは、にやにやと自分を見つめ、得体のしれない相談に興ずる男たち。

 四人の手下と、ひとりの――父親になるはずの男。

 子供はうまいよな。肉が柔らかくてよお。

 そうだ。ヴィリーなんか食えたもんじゃなかったぜ。

 若いほどうまいんだ、これが。

 もう野郎の肉は喰い飽きたよなあ。

「よかったなァ、ロスコー。

 ……安心しろよ。何にも、なァんにもムダにはならねえンだ」

 けだものの手が、ナイフが向かってくる。

「なにを、なッ――や、やめ、やめて! 頼む、おねがいだ! あたしの命なら、くれてやる! だから、後生だからこの子は、この子だけは!」

 おねがいだから、どうか――

 少女の祈りは、その時も届かなかった。

 何人もの男がその四肢を押さえつけた。衰弱し陣痛にもだえる少女には、なすすべがなかった。へその上を刃先がとおり、急激に腹部が楽になった。乱暴に刃物が体内を走る。まるで、ぶどうでも収穫するように。陣痛以外の痛みを感じる暇もなかった。

 男たちが去ってゆく。確かな実感があった。、と。

 少女は四つん這いになって、立ち去る男たちの後を必死に追いかけた。

 かえして――あたしの、たいせつなもの。

 あたしはどうなってもいいから、おねがいだから――そのこのいのちだけは。

 白い雪の上に、少女の這った跡が赤く残る。

「かえして、かえして! あたしの――あ……」

 少女は、みた。

 時間が凍りついたようだった。

 ゆれる炎のなか。

 青ざめた肉の袋が、くべられていた。

「ああ――あぁ、あああああ!」

 もし足腰が萎えていなければ、少女はためらうことなく焚火に身を投げたことだろう。そして、煮肉の塊となった我が子を拾いあげたに違いない。たとえそれがなにものも救えず、自らを滅ぼす行動だとしても。

 けれど、今度も少女は死ねなかった。

 冥獄の亡者のように泣き叫びながら、もう戻らないものに手を伸ばしつづけた。

「なンだァ? ああ。分け前がほしいのか。仕方ねえなァ。

 ま、元々オレとオマエのモンだしなァ」

 べしゃ、と濡れた音がした。

 目の前に、片手に収まりそうな小さな腕があった。

 少女は錯乱した。早く手当をしなければ手遅れになると思った。手当?

 手当はどうするのだ? 赤い手。紅葉したもみじのような手。早く。助けなきゃ。

 少女の手には、まだあの銀の短剣が握られていた。

 どういう因果がそうさせたのか、それは分からない。とかく少女は、長く忘れていた短い呪文を唱えていた。最初に友と一緒に習った呪文、《封傷ステイ・ブラッド》を。その信仰は報われるはずがなかった。少なくともかつての少女はそう信じきっていた。もはや神は自分を見放している、と。

 しかしながら。不思議なことが起こった。

 小さな手の断面が、傷がふさがりはじめたのだ。白い光に包まれて。

 少女は最初、やった、間にあった、と思った。

 けれど、次には自分がどれだけ狼狽しているかを知覚した。

 顔をあげる。

 男たちがそれを切り分け、かぶりついていた。はらわたも、骨も、脳髄すら、喰らいつくされる。それを呆然と見ていることしかできなかった。

 あとに残ったのは、黒焦げの子袋とへその緒、後産の残骸だけ。

「あァ、こンなにうめェとはなあ。ハハ、つい気がせって子袋ごと出しちまった。こんなにうまいなら、もッかい孕ませりゃよかった。

 ン? なんだァ、要らねえのか。もったいねえなァ」

 目の前の小さな手へ、悪魔の腕から伸びる。

「やめッ――」

 少女の手は、届かなかった。

 ひょいとつまみあげられ、ぽり、こり、と音を立ててなくなった。

 それは軟骨のように柔らかく、はかない音だった。

 ――ルオッサという少女は。この日、この時に死んだ。

 少女は何も、かつて求めたような――大それたものが欲しかったわけではない。ただありふれた幸せが、両の手で抱きしめておけるだけの幸福がほしかっただけ。

 そんな、ほんの小さな祈りは、無惨に踏みにじられた。からっぽの少女は、もう戻らないものをかき集めようとして、やみくもに這った。

 叫んでいた。付けられるはずだった名を。

 けれど、その行動は雪を真っ赤に染めるばかりだった。そして、ほとんど進めぬまま、少女の意識は潰えてしまう。


 ――少女は、夢をみた。

 まだ明けやらぬ空。故郷の美しい、蒼い空に朱色の雲が浮かんだ空。

 見渡すかぎり、地平には何もなく、天と地の境は曖昧。

 冷たい風が吹いていた。

 前に人影がある。ふたり。それは、とても大切な誰かだった気がする。

 なのに、名前は思い出せない。それでも無性に顔を見たくなって、走りだす。

 けれど、どれだけ走っても、近づけない。風は追い風なのに、体に力が入らない。

 少女は気づいた。今は暁ではなく、黄昏なのだ。

 風は友の方へ流れてゆく。押し流されるように、友は離れてゆく。

『ま……まって!』

 置いてけぼりはいやだ。もうひとりにはなりたくない。一生懸命に走る。

 でも、手を伸ばせば届きそうなのに、顔は見えず、ちっとも近づけない。

 少女は立ち止まって、肩で息をした。もうだめだ、走れない。

『ルオッサ』

『ロスコー』

 名前を呼ばれた。少女は嬉しくて、息が切れるのも忘れて走った。

『もう、かみさまにたすけてほしいの?』

 顔のない友だちが、抑揚のない声で言う。

 ――どういう意味か分からなくて、少女は立ち止まる。

『ぼくらはよわかった。すぐかみさまにたすけてもらってしまった。

 ――でも、ロスコーはそうじゃないよね』

 どうなんだろう。少女は分からなかった。昔は、自分よりえらい人間はいないと思っていたような。でも今は、よく分からない。助けてほしかった気もするけど、自分ひとりでぜんぶやりたかったような気もする。

『ルオッサはつよいよ。あたしたちなんかより、ずっと。だから――』

 

 目の前の友が、全身から血を吹き出すイレーネになる。

 四肢の肉を削がれたスヴェンになる。

 風が強く、強くなる。押し流す。すべて。

「いやだ……あたしも、いっしょに! もう、もうつかれたんだ……!」

 ふたりの影が、消える。吸いこまれてゆく。


 ルオッサは、ひとりぼっちで目を覚ました。

 腹は膨らんだままだったが、大きな傷痕が現実を教えてくれた。

 そとの森は、なにも変わっていなかった。

 青い雪に覆われた、白い森。柵に切りとられた、冷たい森。

 手の中には、銀のナイフがまだあった。ふと、あの時のことを思いだす。夢中で唱えた呪文に神はこたえた。神の奇跡はあった。その証拠に、獣化もできないほど消耗していたのに、深々と裂かれた自分の腹も癒えている。

 どういう意味だろうか。ルオッサは考えた。神に見放されたはずの自分に、なぜ奇跡が再び与えられたのか。なんらかの善行が赦しをもたらし、聖儀僧クレリックとしての資格を取り戻したのか。

 その時、ルオッサは考えたくない可能性に気づいた。

 神は、あたしを――人間を見ることなどないのではないか。

 だから罪深い人間が見過ごされ、永遠に救いは訪れないのではないか。

 だが、そんな罪深い考えを、友の声が打ち消した。

『もう、かみさまにたすけてほしいの?』

 もしや、神に助けを求めることが誤りなのか?

 では何のために神に祈る? 冥福のため? 二度と変わらない死者のみを神は尊ぶというのか。それなら、それならば、産まれる必要すらない。

 母の胎から産まれてきたことそのものが誤りだというか?

 あんなに苦しみ、もがいて、それでも必死に生きて、あんなにも美しかった――友たちが、懸命に生まれ落ちようとした我が子が、間違いだと?

 そこで、ルオッサは気づいた。

 逆なのだと。

 神は死者を尊ぶのではない、生を賞賛するのだ。

 死後の幸福を約束されたからといって、簡単に生を捨てる者を選別するのだ。

 死という祝福は生きて苦しみ、この世の苦痛と悲哀、怨嗟と憎悪に耐え、矛盾を超えて葛藤しつづけた者にのみ与えられるのだ。

 

 ――きっと、必ず。

 なぜなら、神は在る。どこかは知れぬ、知りようもない。

 だが間違いなく。神は在る。

 

「はは、ハハハハハ! そうか、そうだったのか!」

 狂ったように笑いながら、ルオッサはに到達した。

 狂気と理性の狭間で、たったひとつの答えにたどりついた。

 人は葛藤し、矛盾する機関だと。矛盾こそ人である証明。人は意味を食うもの。存在事由を見出みいだし続けねばならず、意味のためならば人を殺す。

 しかし、人は壊れやすい。神父の騙る真の愛は、人の子には実現できない。仮にできたとすれば、それは人ではなくなる。

 でも。神は必ず、常に、あまねく存在する。そして神は必ず人を愛してくれる。正しきを勧め、悪を裁いてくれる。それが神という物差しによる絶対の愛。たとえ人には不可解で理不尽であっても、絶対に正しい。

 

 だから、あたしは人であることを捨てない。あたしという自我が消え去るまで、欲望と矛盾を抱えつづけよう。いつか受けるはずの神の愛を授かるために。

 そしてその時、あたしは人であらねばならない。ゆえに――

 。それがあたしであること。そこから得る罪と心痛があたし。矛盾と葛藤こそが、あたしの証明。

「なんだ、たったそれだけ――こんな簡単なことに、どうしてあたしは……はは、ははは、ハハハハハ!」

 その日。少女が壊れたその日が、ルオッサが生まれた日になった。

 ロスコーという名の少女は死に、ルオッサという悪魔が生まれ落ちた。

 悪魔は、泥の中をゆっくりと這いずりはじめた。

 ようやく自分の居場所をみつけ、嬉々として笑いながら。


 盗賊たちは最後のひとりになった子供が、焦点のあわない目で笑っているのを見つけた。あれだけ生意気だった子供も、とうとう気が狂ったかと蔑んだ。試しに股を開かせてみると、別人のようにへらへら笑いながら自ら求めてきた。それを見て、生き残り――食料にならなかった四人は、舌なめずりをした。

 ただひとり、ゲオルグだけが声なく肩を揺らしていた。

 乱暴に少女をかわいがり、ひと息ついた彼らは、雑談ついでに首領にたずねた。あのガキもやわらかいうちにどうだ、と。ゲオルグの答えは、いいんじゃねえか、という淡白なものだった。それまで特別扱いだったのに、と手下たちは急な手のひら返しに当惑した。

 だが実際に許されてみると、年端もいかない少女ながら、淫靡いんびに鳴くのはなかなかにそそられた。殴るとべそをかいてやめてと懇願するのに、ことに及ぼうとするとあきらめたように簡単に股を開いた。人狼の力は少女の貞操まで再生しており、毎回毎回初めてのように大声で鳴く。それを、締まりがいいと口々に言いあった。なにより痛がるのは最初だけで、じきに少女は娼婦のように笑い、大きな声でがった。

 盗賊たちはそんな大きな変化を怪訝には思ったものの、すぐに気が狂ったのだと受け入れてしまった。「飽きるまでは飼っておくか」が「食料が尽きるまで」に変わるには、そう時間はかからなかった。

 そうして少女は家畜になった。言葉少なにとらえどころのない笑みを浮かべる少女。自分からは何をするでもなく、殴ればただ許しをこい、呼べばちょろちょろと寄ってきた。いつでも、飯を食っていても、用を足していても、殴れば最初こそ泣いて懇願するのに、ことに及べば良い声で鳴いた。そんな所作が男の支配欲をくすぐり、満たさせた。

 人は、矛盾する機関である。ヴィリーが示したように、こんなケダモノのような人間どもにも人の心があった。かつてはあんなに虐げてきたのに、従順で無害になった少女には餌を投げてよこした。少女はその茹でられた肉が何かも知らない顔で、おいしそうに食べ、笑っていた。

 まだ食料は数ヶ月分あった。雪に埋められた死体の山。それらを五人と一匹は仲良く分けあい、当分は誰も殺さなくてすむなと笑いあった。

 大罪の塊を食べ、腹を満たし、その日も藁に包まって眠った。

 そんな平穏は、神への冒涜と狂気のもとにある――

 そのことを忘れていなかったのは、たったのふたりだった。


 その男が息苦しさにうとうとと目を覚ますと、目の前にあの少女がいた。

「なんだ、もうお目覚めか? もう少し寝ていれば、楽できたのになあ」

 目が覚めた。男は縛られていた。後ろ手に立ち木にくくられ、裸にされている。逃げようともがき、男は気づいてしまった。

 両足がないことに。 

 気づいてしまうと激痛がやってきた。誰がやったかは明白だった。

 あの、癪にさわる喋り方。猫をかぶっていたのだ。

「やってくれたな……! タダじゃおかねえ!」

 へえ。ルオッサは笑った。男はぞっとした。その笑みは、とてもよく知っていたから。その男は腕利きの無頼漢だったが、逆らえば死ぬしかないと服従したのは、後にも先にもたったひとりだけ。

「おまえ、なんて名だったっけ。……そうそう、ヤンだったな。それで、ヤン。

 いつになったらタダじゃなくなるんだ?」

 ――おかしい。その盗賊、ヤンは、違和感を覚えていた。追い詰められたことは何度もあった。その度に切り抜けてきた。こんな荒縄程度、わけなく引きちぎれるはずだ。なのに、なぜ――

「なんだ? なぜ変身できない?」

 ルオッサは、喉の奥で笑いを転がした。邪悪な愉悦に魂を震わせた。

「さぁ? なんでだろうなぁ?」

 ヤンには知る由もなかった。この世には、人の手になる奇跡があることを。

 一歩、ルオッサは前に出た。

 その手には銀のナイフがある。命をとるには、あまりにも小さな刃物。

「お、おいおい、何を――」

 暗い笑みがへそを突き刺す。ヤンは不意に恐怖を覚えた。両足の痛みが腹部の痛みを感じさせない。ただ刃先が上へ、上へと移動するのが見えるだけ。それが、恐ろしかった。やめ、やめてくれ! 男が叫び、暴れれば暴れるほど、ルオッサはそれがピアノのメロディであるかのように、目を閉じて耳を澄ませた。

「そぉだヤン。ヴィリーがどうやって死んだか、しってるか?」

 ぬう、と白いものが腹から現れる。

「こいつを喉に詰まらせて死んだんだ」

 にやにやとした、赤髪の少女の笑い。

「たっ、頼む! 何がほしい、何を知りたい!」

 耐えきれずに飛び出た懇願。ルオッサは顔色ひとつ変えなかった。

「そうだな。じゃあ、いつおまえらは半分以下になったんだ?

 秋口には十五人もいたじゃないか」

「一月くらい前だ……お頭が口減らしと食料調達が同時にできるなっつって……」

 へえ。ルオッサは腹の中につっこんだ手を止めない。目も向けない。

「あ、そうだ。アタシのカラダは良かったか?

 おまえ、ずっとイレーネばっか抱いてただろ。どっちがよかったんだ?」

 ヤンは答えられず固まった。この少女は、拷問者は、どんな答えを求めている?

「おい。どっちがキモチよかったかといてるんだ」

 どすのきいた声。内臓がぎゅうと痛んだ。それは、両足の痛みとは別物だった。

 少女は、きつく腸を結んでいた。ヤンは思わず、本音を口にしてしまった。

「どっ、どっちも――おれは好みじゃなかった!」

 口が滑ってしまってから、しまったと思った。ヤンは青くなった。

 しかしルオッサは一瞬、きょとんとした。そしてくすくすと笑った。

「そうかぁ。それで? それはなんでだ?」

 まるで、他愛のない話をするかのように。先ほどまでの底知れぬ異様さは影を潜め、、にこやかに言った。そのさまにヤンは、畏怖を深めた。青ざめた愛想笑いで、犠牲者は答えかけた。

「おれは……子ど……いや」

「ははは! そうだな、妙齢の女の方が、きつすぎなくていいんだろ?」

「え……?」

 それは、機嫌取りのために言わなかった言葉。

「インゴは教えてくれたぞ。あいつのアレは小さすぎる、溜まるモンは仕方ねえから、あのガキで我慢してるんだ――そんなふうに毒づいてたってな」

 少女は親指で後ろを指す。

 インゴ? 仲間の名に、ヤンは思わず後ろを見てしまった。

 見なければ、よかったのに。

 インゴという名だった男は、爪先と手先から肉という肉を削ぎ落とされていた。その胸には穴が三個くり抜かれ、しなびた陰茎が立たされていた。その両脇には、白い膜を露出させられた睾丸。

 口に腸ごと大便を詰められ、涙を流しながら事切れていた。その腸は肛門から引きずりだされ、木の枝にぐるぐる巻きになっている。辺りには削ぎ落とされた肉片が散乱し、びく、びくりと不規則にうごめいている。その痙攣が、ついさっきまで生命があったことを教える。

 ヤンはインゴの名を何度も呼んだ。くびきから逃れようとがむしゃらに暴れ、単音を叫び続けた。

「感動の再会か。はは、慌てんなよ。奴は今頃、主の言葉を直に拝聴してる頃さぁ。そんなことより、さっきの楽しいおしゃべりを続けようぜえ。なぁ」

 ヤンはぴたりと静まった。

 ルオッサが立ちあがったから。

 その目の中の、闇夜の沼のように深い黒にみいられたから。

「なんで、子供を犯したいわけでもねえのに、イレーネを犯した?」

「すっ……すま、わ、わるい、悪かっ、あっあや、あやまる、あやまるから――」

 突然、ルオッサは快活に笑った。

「そっか。『汝、罪を許さば、主も憐れみて汝が罪を許さん』ってな。

 じゃあ、せっかくだから教えてくれねえか。

 スヴェンのケツが好きだった奴、誰だっけ? アイツ、男にしか興味ねえのかと思ってたら、イレーネやアタシにもハメに来ただろ? それが不思議でさあ。教えてくれたら、チャラにしてやるよ」

 ヤンは、話題が自分でなくなり、急に気分が軽くなった。仲間を売るぶんには、自分が恨みを買うことはないと思ったのだ。

「な、ナータンか? ああ、あいつは昔から男でもイケる口でな……。

 ほ、ほら、人数が多かっただろ? だから――」

「なるほどなぁ。はは、ひでえ味だな」

 ヤンは固まった。会話がかみあっていない。

 ヤンが見下ろすと、ルオッサはヤンの中に顔をつっこんでいた。悪寒がした。

「おまえも食うか?」

 青味がかった、黒く平べったいもの。

 口を血だらけにして、少女はそれをかじっていた――ヤンのきもを。

 いまさら理解した。

 拷問の問いは、でしかなかったのだと。

 自分の死は、もう確定していたのだと。


 ふたりめ。おわり。

 さんにんめ。暴れて怪我をしてたので、屎尿をすりこんでやった。あまり従順にならなかったので、胸腔に小さな穴をあけてやった。息苦しそうだったので、穴を指で押さえてやっておはなしした。穴のむこうにどくどく動くものがあったので、少しずつナイフできずつけてみた。よにんめは子供がすきらしい。楽しみだなあ。

 どくどくがやぶれたらおわっちゃった。また傘十字をきって、つぎ。

 よにんめ。こどもがすきなのに、アタシのことはすきじゃないらしい。そんなにこわがらなくてもいいのに。あんまりおびえるから、カオがすきじゃないのかなと思って、めだまをとってあげた。片方はあめだまがわりにしゃぶって、のこりもなかよくはんぶんこした。せっかくわけてあげたのに、すぐにのみこんじゃった。それでつまっちゃったみたい。お水をあげなきゃと思ったんだけど、まわりにはゆきしかないし。そういえば、よにんめはまえ、こうしてあげるのがすきだったなって思いだしたの。あおむけでよかった。おくちにまたがってね、おしっこしてあげたの。ちょっとはずかしかったけどきもちよかった。けっこういっぱいでた。

 そんなにうれしかったのかな。もっとたのしみたかったのに、おわっちゃった。


 ルオッサは死体から興味をなくし、最後の玩具へ、ゆっくり歩いていった。

 その男は、既に目を醒ましていた。

 いつもと変わらぬ歪んだ笑いのまま、ルオッサを見つめた。

「なんだ。もう起きてたのか、ゲオルグ」

「あァよ。あンだけ騒がれりゃ、うるさくておちおち寝られやしねェ」

 ゲオルグは縛られていながら、まるでいつもどおりに答えた。目の前の少女は血と消化物にまみれ、手にナイフを持っているというのに。

「こりゃ、アレか? クレリックの奇跡か? ははっ、オレまで獣化できねえ!」

 ルオッサはのどの奥でくつくつと笑った。

「そうさぁ。毎日時間をかけて、一枚一枚、樹皮で巻物スクロールを作ったのさ。しっかし、やっぱ発症しちまえば《病魔退散リムーヴ・ディジーズ》じゃ狼人病は治せねえのな。

 まぁ、そりゃあどうでもいい。それでもしばらく獣相は封じられる」

「なるほどなぁ。ははは、お前が聖儀僧クレリックたァ、世も末だ! それで? どうやってオレらを縛りつけた? いやァ、気づいちゃいたがまるで身動きできなかったぜ。何を盛った?」

「これさぁ」

 ルオッサが巾着から取りだしたのは、切れこみの深い草だった。

 あの日、ルオッサがイレーネに教わりながら摘んだ草。

「コイツは附子ぶすさ。なんでも、神の食いもんなんだと。人食は神には毒で、神食は人の毒になるとか」

 ゲオルグは笑った。

「まるで、テメエが門外漢みたく言いやがる。死にゃしねえが動けなくなる量を、ぴたりと盛りやがったくせによォ」

 ルオッサは、へらへら笑いながら、はーぁ、とため息をつく。

「おまえは変わらねえのな。おまえの手下どもは、あんなに楽しませてくれたぜ。おまえもちょっとはさあ、おびえたり震えたりしてみせろよ」

「怖いぜ――チビりそうなくらいな。だがそれ以上に――興奮してンだ。

 なァ、ロスコー。何をしてくれンだ?

 どれだけ痛くて、どれだけ怖くて……どれだけ神サマの顔に泥を塗れンだ?」

 ルオッサは、にや、と笑った。

「じゃ、始めようぜぇ。三人分の苦しみだ。しっかりと味わえよ」

 それは、奇妙な拷問だった。

 ルオッサが足の指の肉を削ぐと、ゲオルグは「もっと右だ、血管を傷つけるンじゃあねえ。簡単におッ死ぬぞ」という。痛みに悶絶しないわけではない。むしろ、手下のだれよりも苦悶していた。それなのに、やれ、爪の間は命に関わらねえのに痛みはすげェだの、腹は切り開いてもいいが胸を開くとすぐ死ぬだの。そのたび、ルオッサは指図すんなと文句を垂れたが、実際にはそのとおりに責め苦を施した。

 どちらが誰を拷問しているのか、わかったものではなかった。

 ゲオルグは顔で泣き、心で笑っていた。

 ルオッサは顔で笑い、心で泣いていた。

 きて帰るもの、これから下るもの。

 もう二度と出会わぬ者同士が、すれ違うような交わり。

 ルオッサは死んでいたのだ。とうの昔、寄る辺を亡くしたあの日。

 少女は抜け殻、空の器だった。空白を埋めるため、それを求めてしまった。

「なァに泣いてンだ?」

「泣いてなンか、ねぇよ」

「笑え。オマエは征服者だ。オレという命を支配してンだ。楽しいだろォ」

「……あァ、楽しいさ」

「そうだ。その顔だ。忘れンじゃねえぞ。オマエは必ず、オレ以上のモンになる。このゲオルグ様が――“真祖”が認めたクソ野郎なンだからよォ」

「野郎……? ハハッ、アタシが“野郎”ッてか!」

「あァよ。ブン殴りてェっつーのとブチ犯してェっつーのはおンなじさァ。

 オマエもそう思うだろォ?」

「あァ……そう……そォだな! 一発ヤりたくなッてきたぜェ」

「ハハハハハ! ンだよテメエ、ムラムラしてきやがったのかァ?」

「おうよ。ちッとナニ貸せ。

 うわァ、ンだよオマエ、娘みてェなガキに切り刻まれて興奮してンのかァ?」

「たまンねえよ。もうイッちまいそうだぜ」

「くァ、ホント、オマエは容赦ねェよなァ。こんなにデカいから痛ぇンだよ」

「おい。、ロスコー」

「……あァ。こんなガキにすら根本まで食われるンだ。大したことねェんだなァ。無様だな、オマエ」

「ハハハハハ! そォだ。泣くな、笑え。オマエは今、男を犯してンだぜ?」

「あァ、なんだ。ずいぶん簡単だったな。こンなことか。

 たったこンだけのことかァ。こンなことのためだけに押さえつけて、殴ってよォ」

「悪くねェ気分だろ?」

「あァ。たまンねえ。イッちまいそうだ」

「はは、ははは……! そうだ、それでいい。もうオマエは立派な畜生だ。悪魔だ。もう誰もオマエを止められねェ。オマエがどこまでやってのけるのか、楽しみで仕方ねェ」

「……やっぱ、若い肉の方がうまいな。食えたモンじゃァねえぜ、オマエ」

「だろォ。あァくそ、ヴィリーが羨ましいぜ。

 オレもオマエを一口かじっておきゃァよかった」

「キモでも食うかァ?」

「気が利くじゃァねえか。こンなモン、一生に一度しか味わえねェからなァ」

「最期の晩餐だぜ、しっかり味わいなァ」

「ン……ハハッ、ンだよこれ! 血の味しかしねえ!

 ――あァ、そォか。オレもそろそろか。残念だなァ、もう終わッちまうのか」

懺悔ざんげでもすンのか?」

「馬鹿にすンじゃねえ。これァ、オレだけの罪だ。オレが冥獄に沈むための大切な重りだ。神とかいう気狂いにゃァくれてやらねえ」

 ――その時。ふとルオッサは、こんな問いを投げかけた。

「……今まで、神が祈りに応えてくれたことはあったか?

 救いの手が、たったの一度でも差し伸べられたか?」

 ゲオルグの狂気は不意に鳴りを潜め、水底の泥のような怒りが表出する。

「――ねェよ。ンなモンよォ。神サマはオレのことなんか見ちゃいねえ。

 もし見てンなら、オレはオマエをここまでねェ」

 ルオッサは笑った。もう空の器ではなかった。

 ルオッサの瞳は、赤く染まりあがっていた。そこにはゲオルグがいた。

「良かったな、オマエ。やっと神に見つめてもらえるぜ。その罪をひとつひとつ、品定めするためになァ。オマエという男がどれだけの重みがあったのか、やっとはかってもらえるンだ。重けりゃ重いほど、罰とかいう神サマの愛も大きいぜェ」

 ゲオルグは一瞬、空虚な目をした。「なにを、バカな――」

 けれど、もう次には元の狂った笑みで顔面をいっぱいにした。

「――いや。はは、そいつァいい。素敵だ。最高じゃァねえか。

 礼を言うぜ、ロスコー。ハハハ、代金がわりに、オレのレイピアを持ってけ」

「なんだそりゃァ。まあ、そこまで言うなら、貰っといてやるか。

 ……じゃあな。こいつはイレーネの分だ。先に冥獄で待ってな」

「ああ。楽しみで仕方ねェ。オマエが来る時、オレより深く沈むのかどうかがよォ」

 銀の短剣が、狼人病の呪いを、解く。

 血があふれだす。だが、もう噴き出すだけの血液もなかった。

 夜が、明ける。

 暗い暗い、明けないはずの夜が。

 代わりに始まるのは、ほの暗い永遠の曇天。

 夜でないものは、明けることはない。


 薄暗い朝。太陽よりも火は明るかった。

 ルオッサは座りこみ、燃え盛る火炎を見つめていた。干からびたソーセージをかじりながら。髪の焼ける、硫黄の臭い。腐敗した肉の焦げる、鼻の曲がる臭い。自分の体からするのとは違って、格段に不快だった。

 まずい。これなら金玉を食った方がマシだろう。それでも、まともなものを腹につめなければ。ルオッサは義務感から食べ続けた。盗賊どもの病状は、末期も末期だったらしい。少なくとも、まともな食料を残したまま共食いするくらいには。

 赤い火炎は、十を超す死体を包んでいた。焼け焦げた死体が、焼かれて収縮する皮膚に引っ張られてうごめく。救済を、神の愛を求めるように。

 じゅうじゅうと溶けだした脂肪が垂れ、燃える。太陽の姿は見えない。聞こえる音といえば、死体の声と下品な咀嚼音だけ。

 少女は、亡者の王だった。

 木々から雪は消え、雪の隙間からは草が萌えはじめていた。

 風は厳しい冷たさを失いつつあり、川の水が増えはじめていた。

 ルオッサは、食いちぎる。味など分からない。

 当然の末路。神の御技である生命を奪うことは人の子の身には許されていない。だから自分は、必ずや冥獄に導かれるだろう。

 、アタシは心の安寧とかいうくだらない理由で、神の御技を手放したりしない。今、ここにある地獄など、この乱世ではあまりにもありふれている。冥獄はきっと超満員だ。今の世界と大差ない。違いなど神の有無だけだろう。

 アタシにとっては、籠の中の小鳥のように飼われることこそ地獄だった――

 ――はずだ。なのに、なぜアタシは動けないのだろう。ひとつの動作を繰り返すことしかできないのだろう。友の仇を討った。受けたすべての侮辱と陵辱を倍にして返し、その尊厳を根こそぎ奪ってやった。

 復讐は、果たした。

 なのに、動けなかった。ただ生きている。生きているだけで実感がない。火中の亡者と変わらない。食って寝てクソして、食って寝て小便して、やっと友を冷たい土へ弔い、ようやく仇を火で辱めた。――ようやく冬が終わるというのに。

「……飽きたな」

 やっと――理由をみつけた。

 たったそれだけのことを見つけるのに、膨大な時間をかけた。

 ルオッサは食料の残りを食い散らかすと、最後に燃え殻に用を足し、日が昇りきる前に歩きだした。

 右手に銀の短剣を、左に黒のレイピアを。胸にはロケット、こころは空。

 なにも祈らず、なにも求めず。

 少女の魂は、もはやロケットにしかなかった。

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