玻璃のなか

 ルオッサは、いつもの洞窟で目を覚ました。まだ朝日は琥珀色に色づいていて、大気はしんと冷えている。季節が厳しい冬へ向かいつつあった。

 霜柱が立っているのに、不思議と寒くはなかった。人狼は、皮膚の裏に尾を持つという。見えない被毛も換毛するのだろうか、などとどうでもよいことを思う。

 洞窟の外は、美しい森だった。下草や蔦が黄や赤に衣を替え、丸い葉が針葉樹を彩る。紅葉しないシダなどの緑との対比が、目を楽しませる。

 殺風景な洞窟の中とは対照的だ。壁にはバツ印がずらりと並んでいる。

 その数が、ふたつも増えていた。

「ふつか……?」

 ルオッサは体を起こした。妙に頭がすっきりしている。

 なにか、とても重大なことがあったはずだ。胸騒ぎがするのに、思い出せない。

「ルオッサ……! よかった、よかったあ!」

 後ろから抱きしめられ、ルオッサはぎょっとする。けれど、その顔に安心した。

「なんだ、イレーネか。どうしたのだ」

 やつれた顔がぼろぼろ泣いている。つづく言葉も言えない様子に、ルオッサは困惑した。

「ロスコーどの……! 君はもう丸一日以上、眠っていたんだよ。具合は?」

 スヴェンも転がるように近づいてきて、そうたずねた。

 ルオッサは妙に穏やかな気分で、スヴェンを見てもなんとも思わなかった。

「そうか……。いや、頭のなかの霧が晴れたようだ。盗賊どもは?」

 言いながら振り返ると、先ほどは気づかなかった鍋だの骨だのが目に入った。小屋の前に散らかった食器や残飯を見るに、昨晩は饗宴だったようだ。いきなり、ルオッサの腹がぐうと鳴った。

「何か食べるかい?」

「――急に豊かになったな。ではありがたく頂こう。イレーネは食べたか?」

 ふたりはもう食べられるだけ食べたらしい。スヴェンとイレーネが具だらけのスープや握り飯、野鶏の肉などを残り火で温め、持ってきてくれた。そのにおいを嗅ぐや、ルオッサは腹が減って仕方なかった。待ちきれず片端からそれらを貪り、浴びるほど水を飲んだ。久しぶりのまともな食事は、天上の献立かとおもうほど旨かった。なぜこれほど食欲があるのか疑問だったが、それを気にするには腹が減り過ぎていた。

 ようやくものを考えられるようになったのは、満腹になってからだった。握り飯を五つも食べて、ルオッサはやっと人心地がついた。

「そういえば、おとつい、なにがあったの?」

 そうイレーネに聞かれて、ルオッサは思い出した。あの作戦のことは、ふたりに話していなかったのだ。事の顛末てんまつを語って聞かせると、ふたりはなぜ急に食事が降って湧いたのか納得した。

「そんな危険なことを、僕はともかく、イレーネにも黙って……」

 スヴェンの言葉に、ルオッサはばつが悪そうにした。イレーネも、その言葉に乗っかることこそしなかったが、その顔を見れば気に病んでくれたことは分かる。

「ルオッサが気をうしなって運ばれてきたとき、あたし、ほんとうに……」

「ああ、すまなかった。あれきり……え?」

 気を失って?

 何かが妙だった。作戦が成功したことまでは覚えている。だが確かに、自分の足で歩いて帰ったような記憶はない。ゲオルグが奇襲してから何が――

 その時、胎のなかから、何かが蹴った。脳裏に火花が走った。

「ああ、あああ――あああああ!」

 ルオッサはいきなり立ちあがり、洞窟の奥に吸い寄せられるように走った。

 暗がりのなか、三人の少ない荷物を手にとっては投げた。我を忘れて、あの日の贈り物を探していた。

 森ごと体がよじられる気がした。今しがた、口にしたものがせりあがる。猛烈な吐き気がするのに吐けなかった。嫌悪と絶望が脳髄を回転させる。

 できることなら、吐いてしまいたかった。

「――あった」

 それは、あの日、ロケットの代わりに贈った銀の短剣だった。

 その鞘を抜き放つが早いか、ためらいなく腹に振り下ろす。

「やめるんだ!」

 血の臭いがぱっと散った。イレーネの声が後ろにある。ナイフが動かない。

「離せ、離せよおスヴェン!」

「ルオッサ、やめて! なにがあったの、あたしたちにもおしえて!」

 イレーネのほそい手が、自分の腕をつかんでいるのが分かった。その非力さは、初めて出会ったあの日と比ぶべくもなく。その変化にルオッサは悲しくなった。

「う、うぁぁ……うっ、うぅ……!」

 ナイフが落ちる。ルオッサが拭えずに流し続ける涙に、ふたりはかける言葉がなかった。身を寄せあい、その嗚咽に耳を傾けることしかできなかった。

 

 おなかに、ゲオルグの子がいる。

 殺してやると、必ず雪辱を果たすと誓った男のたねが、自分のはらのなかにある。

 それは、初めて自らのうちへ精をそそぎこまれた時の、自分を切り刻んででも穢れを捨てたいという嫌忌を遥かに上回った。

 純潔を奪い、貞操を売り、挙句の果てに胤を寄生させる。その唾棄すべき悪徳にルオッサは気が狂いそうだった。こうして頭をかきむしっている間にも、胎ではあの下劣な男の分身が育っている。自分の血をすすって成長している。そう思うだけで、一刻も早く胎の中身を取り出したくなった。それが叶わないなら、どんな手段をつかってでも胎児を殺してしまいたかった――たとえ、自らも滅ぶことになろうとも。

 ――クライナードラッヘとドラウフゲンガー、ふたつの王領の継承権を持ち、幼くして聖儀僧の奇跡を授かった神童。血脈も才能も、自他ともに至高と認める少女。そんなルオッサには、到底うけいれられない現実だった。もしこんな落胤らくいんが生まれいでてしまえば、自分が大成したとて、その系譜をかような凡骨が継ぐというのか? 幼女を犯し、部下を気分で殺す、気狂いの血脈が?

「なぜだ、あたしは許してなぞいない!

 ――なぜ、あたしの許しなくこの体は女になる。なぜはらんだ、なぜ、受け入れた。神は、なぜあたしの器を女にお選びになったのだ……」

 ルオッサの懊悩おうのうに、ふたりは立ち入れなかった。ただその言葉、呪詛に刻まれた苦しみを共有した。そうすることしか、できなかった。

 やっと声をかけられたのは、スヴェンだった。

「ロスコーどの……。とにかく、今は体をいたわってやらなくては。その腹の子には、何の罪も――」

 スヴェンは、そこで押し黙った。ルオッサはしんと静かになっていた。

 かきむしっていた手を離し、うなだれた頭がわずかにあがる。赤髪の合間から、が光っていた。イレーネも動けなかった。恐怖していた。

 歪んだ笑い。それは、

「スヴェン、お前はいいな。いくら尻に突っこまれても孕むことはないのだから。――男に生まれた貴様に何がわかる!」

 スヴェンは何も反論できなかった。その苦しみはスヴェンに理解しようがない。そして理解できるとうそぶけるほど、彼は傲慢ではなかった。

「そらみろ。お前はいつも口だけだ。あの日からずっと、何も変わってはいない!」

「ルオッサ――!」

 イレーネが勇気をだして言おうとした言葉を、スヴェンは引き止めた。青年は、ただ、夕陽の沈んだ後の空のように、静かに、ただ寂しげにたたずんでいた。

 そんなスヴェンに姿に、ルオッサは真顔に戻る。

「――殺さなくては」

 そうつぶやくと、ルオッサはふらりと立ちあがり、走りだした。そんな、常軌を逸した行動に、ふたりはついていけなかった。洞窟前の広場には、遅く起きだした盗賊たちが集まりはじめていた。

 ルオッサはけらけら笑いながら、ひとりのダガーを腰から抜き、斬りつけた。

 続けざまにふたり。負傷からあっという間に彼らは変身し、ルオッサを追って乱戦になる。何事だ、と寝ていた者たちも慌てて飛び出してくる。

 狂乱の宴がはじまりつつあった。獣化した者から徐々に正気を失い、見境なく攻撃を始める。片端から人間の姿を失い、目覚めた人狼たちは人外の力に理性を飲みこまれてゆく。イレーネには見ていることしかできなかった。

 ルオッサを守ってください――そう震えながらアンギスに祈ることしか。

 それは、手のこんだ自殺だった。いつの間にかルオッサも手傷を負い、黒い狼となっていた。舞い散る血液と、引きちぎれる肉の手ごたえ。それらに魅いられて、刹那の愉悦に酔う。ほんの十分足らずのその時間は、子供たちにとっては永遠に等しい時間だった。ルオッサはその刹那の間だけ苦悩を忘れ、生の実感を得た。

 それは罪なのか、安らぎなのか。そのどちらも、ルオッサにとって真実だった。

 終焉は、いつも突然だ。

 ルオッサが殺気に気づき、振り返った時。その時にはもう、その大剣は目と鼻の先だった。ゲオルグの狂犬のごとき瞳に射抜かれ、身動きひとつできなかった。

 赤い飛沫が散った。

 吹き飛ばされたルオッサは、大木に背中からぶつかった。何度もせきこみ、何が起こったのか把握する余裕もなかった。

 前に、誰かいる。

「スヴェン、おまえ……!」

「無事かい、ロスコー、どの……。よかった……」

 ルオッサの前には、逆袈裟に切られたスヴェンがいた。胸からどくどくと血が流れていた。せきこみ、喀血し、それでも、変わらず笑っていた。安堵していた。

「やってくれたなァ? 見ろ」

 ゲオルグの一撃をみた人狼たちが、理性を取り戻して凍りついていた。

 あたりには死体がいくつも転がっている。ひとつやふたつではなかった。

「さァて、覚悟はできてンだろうなァ?」


 ルオッサたち三人は、洞窟に幽閉された。

 草人の使う強靭な竹で柵を作り、かんぬきのついた扉が付けられた。手下が七人も死んだにも関わらず、幽閉こそすれ、ルオッサは何ひとつ罰を与えられなかった。

 なぜ殺さないのだ、殺せ、殺してくれ――ルオッサは何度も懇願した。楽にしてくれと。そのたびにゲオルグは愉悦の笑みを浮かべていた。

 スヴェンは重傷だった。イレーネがためこんだ薬草を使って手当てしたものの、容態はとても楽観視できるものではなかった。

 ウォーフナルタの本当の冬が、始まろうとしていた。

 次の日から、ろくに食事も与えられない日々が始まった。何も与えられないか、骨一本のような生ゴミか。一人分にも満たない残飯がもらえればよい方だった。水もなく、子供たちは再び洞窟の壁に染みだす水を集めてすすった。

 ルオッサはスヴェンにどう声をかけてよいか分からなかった。イレーネにすら話しかけられなかった。毎日、洞窟の奥に引きこもり、湧き水をすすったり、用を足したりするほかは、足を抱えてうずくまっていた。

 そして晩になると引きずり出され、体をもてあそばれる。

 最初は警戒し憎悪していた盗賊たちも、無抵抗に凌辱されるルオッサを見て、復讐の方法を考えなおした。狂犬のように暴れ狂い、ヴィリーを不具にし、何人も仲間を死なせた少女。

 その少女は、いまやどんな男にも好き放題にされていた。体を許していた。

 ――もはや、何もかもどうでもよかったのだ。

 ひとりでは死ぬまいと自暴自棄になり、あんなことをしでかした。確かにそのとおりになった。スヴェンとイレーネを巻きこむという、最悪の形で。

 ルオッサの誇りは、その罪に打ち砕かれてしまっていた。自害する気力もないまま、時間だけが経過してゆく。

 スヴェンとイレーネはますます痩せ細り、ルオッサも腹だけが大きくなっていった。膝を抱えていると、腹の子が動くのがよく分かった。お前は元気だな、と毒づくことが増えていった。

 雪が、積もりはじめる。

 スヴェンは切傷きりきずが化膿し、高熱を出すようになった。日に日に顔色が悪くなり、意識なく眠っている時間が伸びてゆく。

 やがてスヴェンは昏睡状態に陥った。イレーネは毎日、どうしよう、どうすればいいの、と焦燥していた。ルオッサには何をどうすることもできなかった。だが、もしこのままスヴェンが目を覚まさなかったら――そう思うと、それが何よりも恐ろしいことだと気づいた。

 それは、二度と贖罪の機会が与えられないことを意味していたから。


 その日も、ルオッサはお腹の子とはなしていた。ほかに内心を話せる相手などいなかった。あたしは、ずっとこのままなのかな。道を踏み外し、戻れずに友達を傷つけてしまう。こんな疫病神は、とっとと死んでしまった方がいいのにな。

 胎児が二回、腹を蹴った。いつもと違う反応だった。

「そうか。あたしが死んだら、お前も死んでしまうものな。

 でも……。どうしたら、生きていけるのかな」

 スヴェンに、どの面さげて?

 腹が内から叩かれる。

「……お前は意地が悪いな。いや、あたしの子だ、当然か。でも――」

 その時、ロスコーどの、と名を呼ぶかすれた声が聞こえた。ルオッサはどきりとした。羞恥心と罪悪感が両足に重くぶら下がっている。胎の子は答えない。

 やがて、罪の意識に天秤は傾いた。仕方ないな、と立ちあがる。

 スヴェンは頬を赤くして、大粒の汗をかいていた。ひさしぶりに目を覚ましたらしく、イレーネが薬を飲ませる。ルオッサはその近くにすわり、スヴェンの顔を見た。穏やかな表情に、胸が締めつけられた。

 どんな言葉があるだろう。最初はそう思った。けれど、もはや一刻の猶予もないところに至って、ようやく彼女の自尊心は文句を言うのをやめた。

「――スヴェン。すまなかった。あたしのために、こんなあたしをかばって……!」

 スヴェンは首を振った。荒く息をしながら、息も絶え絶えに言った。

「あの晩、ロスコーどのが敬愛する友を――イレーネどのを、僕は守りたかった。そんな傲慢を抱えたばかりか、果たすこともできなかった。

 どうか、そんな僕を罵ってほしい」

 ルオッサは埒外の言葉についてゆけず、唖然とした。

「そんな――あの傷も、あたしとイレーネのためだと?」

 スヴェンは返事の代わりに重ねる。

「僕にはロスコーどののような、厚い信仰心も、優れた才もなかった。こういうとあなたは不快かもしれないが――」

 。きらきらときらめいて、僕のなかまであたためてくれた。今ですら、あなたをみていると春の陽の下にいるようなんだ。

 貴殿なら、きっと同盟を――いや、この戦乱の世を変えられると感じた。

 僕は凡庸さゆえにあきらめてしまっていた。でも、ロスコーどのを見ていると、こんな僕にも勇気が湧いた。僕は――

「僕は、あなたの家臣になりたかった」

 ルオッサは、あらゆる言葉を失った。景色が遠くに消える。逃げだしたかった、消え去りたかった。これまで犯した罪、全ての骸の顔が交錯する。

「ちがう――違うのだ。私は、そんな高貴なものではない。私に神に祈る資格などない。あたしはな、スヴェン――もう悪魔なのだ。もう何度も取り返しのつかない罪をいくつも犯した。その時あたしは――あたしは笑っていたのだ!」

 自分はもう、背徳の愉悦に溺れてしまった。もはや償いの余地はなく、それゆえに赦しが与えられることはない――永遠に。

 けれど、スヴェンは、静かに首を振り。

「ロスコーどの。どうか思い出してほしい。罪を知りあがないを願う者は幸いである。の者は最も竜国に近い――貴殿のその良心の呵責こそが、信仰のあつさの証明にほかならないはずだ」

 何も変わってはいないんだ。まだ間にあうんだ。

 スヴェンのそらんじた聖句に、ロスコーは反論できなかった。

 教典の一節を否定することは、神を否定することになってしまうから。

 けれど、神はあたしを見ているのか? 神は、確かにそこに在るのか?

 その時、ロスコーの喉に根源がつまった。

 ずっと、受難が始まったあの日から、苦悩し続けてきた命題。

 誰にも打ち明けられなかったそれが、涙とともにあふれ出す。

「ではなぜ、神は――私を助けてくれない。

 盗賊どもは罪人ではないのか。なぜ罰が下らなかった?」

 スヴェンは微笑んだ。その悩みが、救世主の奇跡がごとく尊いかのように。

「罪を感じない者は罪人ですらない――彼らは獣だ。主がわざわざ、獣を罰することはない。それに、何が罪で何が悪か、それは主がお定めになること。

 僕らには理解できなくとも、それはきっと正しい」

 それは、かつてのロスコーなら一笑に付すような、思考放棄に近い答えだった。しかし、今は違った。ロスコーには、スヴェンが考えに考え抜いて、悩み苦しんだ果てに得た答えだと容易に想像できた。

 あの日のひかり。初めて他人に敬意を抱いた、あの夕暮れ。敬意を裏切られたと思い、失望したあの夜。あの時から積もり続けていた鬱屈した想いの深さが、そのまま敬愛の深さになった。誰よりも理解し、誰よりも理解されていたから。

 スヴェンは最後に、祈るようにつぶやいた。

「主は、それを跳ね除けられる者にしか受難を授けない。貴殿の底知れぬ苦難は、そのままあなたの非凡さの証なんだ。少なくとも僕は、そう信じている」

 さめざめと目尻から雫をこぼし、ロスコーは自分の手を見つめていた。子供のように、否――年相応に衣服を握りしめ、震える拳を。幼い手の甲には、いくつもの古傷が重なりあっている。手のひらにはいまだ、ねばつく血液の触感がある。

 けれど、これだけではない。誇りを守るために切り裂いた男ども、無我のなかで食いちぎった喉笛、イレーネのために裂いた心臓、狂乱のなかで殺めた男。

 これらすべてが、償えるのだと。

 それが真実であるのか。そんなことは重要ではなかった。ただそれが、スヴェンという青年の口から、ロスコーのためだけに発せられたことが――。

 その時、ロスコーには見えた。スヴェンの背後に淡く輝く、光の輪が。瞬きする間に消えてしまったそれは、しかし、スヴェンという青年の象徴に思えた。

 ロスコーは悟った。なぜスヴェンが人狼にならなかったのか、その答えを。

「スヴェン……今頃、このようなことを口にするのは、おこがましいことだろう。だがあえて言わせてくれ。今までの非礼、どうか許してほしい。貴殿を見損なっていた私にこそ非がある。私は、貴殿より真に主の御心を解する者を知らない。

 私からも頼む! どうか私の臣下として、力を貸してくれ!」

 だから、どうか。あたしをおいてゆかないでくれ――。

 スヴェンはやっと、あの夕暮れと同じ顔をした。

「すまない。本当に。ああ、ロスコーどの。どうか、僕なんかに落涙らくるいめさらないで。

 僕の生涯に、こんな栄誉はなかった。主よ、感謝いたします。どうか、ふたりに僕の分の加護を施してくださいますよう」

 そして最後に、こう付け加えた。

 どうか、

 夕陽が、敬虔な羊をひとつ、天に召す。ロザリオの光は、幻だったのか。

「嘘だろう……? おい、スヴェン、返事をしろ――スヴェン!」

 現実を認められず、ルオッサはその肩を揺さぶった。

 けれど。彼はもう、いってしまっていた。

 ルオッサは咆哮した。天に向かって吠えた。なぜ先にスヴェンを連れていった。これだけの信心を持つものを、どうしてあたしより先に!

「ルオッサ、ルオッサあ……」

 イレーネが抱きつく。一緒になって、ふたりの少女はあつい涙をこぼした。

 どうして、今なのだ。どうして取りかえしがつかなくなってから、大切なものに気づくのだ。あたしのどこが聡明なものか。

 ――あたしは、この世にあってこれ以上ない、愚か者だったのだ。

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