聖告

 ふたりは、いよいよ薄暗くしめった洞窟から離れられなくなった。イレーネは意識を失って目を覚まさず、薬草を煎じてもろくに飲ませられなかった。高熱に濡れる銀の髪、荒い呼吸。ルオッサは紅潮する顔に手を当て、ただその回復を祈ることしかできなかった。

 枯葉と藁のベッドでイレーネが目を覚ましたのは、さらに翌日の夜更けだった。スヴェンは安堵のあまりへたりこみ、ルオッサはきつく友を抱きしめた。彼女はそれ以後、薬を飲ませたり、米や魚を盗賊どもからくすねたり、包帯代わりの布を洗って替えたり、とかく動き続け、できることは何でもやった。そうでもせねば、不安でわんわんと泣きだしてしまいそうだったから。

 おぼろげな夏が、終わろうとしていた。

 意識が戻ったとはいえ、イレーネの容態は良くなかった。熱はなかなか下がらなかったし、食事もほとんど喉を通らなかった。それを気に病み、ほとんど飲まず食わずで昼も夜もなく看病するルオッサは、火種の放りこまれた火薬庫のようだった。その鬱憤はもっぱら、スヴェンにぶつけられた。

 彼女自身、なぜそんなに腹が立つのかわからなかった。そんな有様でも文句のひとつも口にせず、粛々と水をくんだり、盗賊どもと折衝したりするスヴェンは、ルオッサにとってなおのこと腹立たしかった。

 盗賊どもはしばらく、略奪した食料で豪勢に暮らしていた。在庫があるうちは、体で払えば食わせてくれた。けれど、村から運べる量には限度があり、そう長くは食べてゆけなかった。村を焼いてしまったのは悪手だったが、再びあんな思いをせずに済んだのは、子供たちにとっては幸福だったのかもしれない。

 秋が深まると、盗賊どもは食うに困り、いらだち始めた。稲の脱穀すらできない彼らには、猪や鹿を射殺す程度がせいぜいだった。武器の手入れも矢玉の補充もろくにできない有様で、もはや傭兵団とは言えなかった。みな髭や髪は伸び放題、そのていで食えるものを求めて森をうろつく。それはまるで、幽鬼のようだった。

 イレーネがなんとか歩けるまでに回復したのも秋口だった。だがとても遠出はできず、ふたりの子供は重い足枷を引きずって、盗賊と同様に食料を探し求めた。盗賊も食うや食わずであり、次第にふたりが遠出をしても気にしなくなっていた。

 見つけたイチジクや柿を、見つからないように三人で分けあう日々が続いた。水だけで過ごす日も少なくなかった。ふと気づけば、貪るように食べられるのはルオッサだけになっていた。スヴェンは元から食が細かったが、山ぶどうを一粒含んで残りを譲るようなことが増えた。輪をかけて顕著だったのはイレーネで、ほとんど食べずに吐き戻すこともしばしばだった。

 このままでは八方塞がりだ、とルオッサが感じだしたのは、秋も深まり木々が彩られだした頃だった。イレーネどころかスヴェンまでもが衰弱しはじめていた。ルオッサも少し痩せ、腹がせりだしはじめていた。自分にも飢餓の兆候が出るに至り、とても冬は越せないことを悟ったのだ。ルオッサはやむなく苦渋の決断を下し、自らゲオルグのもとへ足を運んだ。

 ルオッサはゲオルグに、皇国軍と草人アールヴの戦況についてたずねた。意外なことに、ゲオルグはべらべらと何でも喋った。不気味だったが、その情報は有用だった。

 ゲオルグ一味が森に立てこもっているのは、ひとえに草人の報復を恐れているからだった。しかし、だからといって皇国軍は味方にはならない。盗賊団にもはや退路はなかった。そんなことも予見できなかったのか、とルオッサは蔑んだ。だが脱出のため、前線の動きを見張っていたことには感心した。

 戦端がひらかれてから半年以上経ち、両軍は疲弊し始めていた。戦闘の間隔は当初と比較すれば大きく間延びし、次の動向を予測するのは容易だった。同時に冬が近づくにつれて草人は動きがにぶくなり、前線は大きく後退していた。その結果、ゲオルグ一味のアジトからそう遠くはない位置に、皇国軍の陣が敷かれている。森づたいに回りこめば、見つからずに接近できそうな地形だった。

 ルオッサはこの陣を襲撃し、兵糧を略奪することを進言した。ゲオルグはその案を愉快そうに聞いていたが、最後にこう口を開いた。

「その兵站部隊だがよ。こいつをつついたが最後、近隣の歩兵もあわせて数百の兵が血眼になってやってくるぜェ。こっちの生き残りはオレを入れても十六。

 さァ、オマエならどうる?」

 狙われたが最後、数十倍の人数に袋叩きにされる。草人とのにらみあいは既に数週にも及んでおり、出陣を待っていてはこちらが餓死してしまう。ルオッサの答えは必然だった。

「草人を使う」

 ゲオルグは意外だったらしく、めずらしく笑わなかった。

「草人を陽動し、皇国軍へ引きつける。そうすれば皇国軍も動かざるをえまい」

「陽動と略奪の二隊が必要だなァ。だが、皇国軍が動くほどの草人を釣れるか?」

「釣れる。草人は森の遮蔽を利用し、ごく少数による狙撃と撹乱、各個撃破を基本戦術にしている。ひとりでも草人を見つかれば、それは敵襲に違いないと考えるはずだ。それに、我々の存在を皇国軍は知らない。もし仮に見つかっても、人間が襲われているというだけで兵を動かす理由にはなる」

 ルオッサの答えに、ゲオルグは笑った。そしてこう続けた。

 それで、誰が陽動すンだ?

「――あたしがいこう」

 それは、当然の帰結だった。。ゲオルグはどれだけ飢えようと、手下たちに何の命令も下さなかったのだ。ルオッサも薄々勘づきはじめていた――この黒狼騎士団そのものに、ゲオルグは興味がない、ということに。この話はそもそも、ルオッサが身の危険の代わりに、盗賊どもを貸せと言っているのに等しかった。

「ただし、弱っているイレーネを慰みものにするのは止めさせろ。それが条件だ。貴様も、飢えた部下に謀反を起こされたくはないだろう」

 熾火のように静かな、それでいていつ森ごと焼き払うか分からぬ怒りとともに、ルオッサは言い放った。イレーネは意識を取り戻すがはやいか、また日に何度も犯されるようになっていた。人狼の再生力でどうにもならない何かがあるのに、盗賊たちは構うことなくその肢体を貪り続けた。ルオッサもゲオルグに犯され、スヴェンも同様にイレーネを守れなかった。みさおを汚され、尊厳を蹂躙され、魂を削られることに、慣れはじめていた。

 なのに、ゲオルグは肩をすくめる。

「女をあてがわなけりゃ、それこそアイツらは辛抱しなくなる。次にゃあオレの首を狙うだろうなァ。で、その代わりは誰がやるンだ?」

 ルオッサは舌打ちし、忌々しくにらんだ。

 そんなもの、分かりきっているだろうに。


 薄曇りの空。濁った太陽は天頂にあった。ルオッサは深い草原のなかを走っていた。葦の原をかき分け、足も手も鋭い葉に血だらけになりながら。

 哨戒しょうかいする草人にルオッサが名乗りをあげると、血であがなえ、の返答とともに矢が放たれた。どう挑発しようかと悩んだのは無意味だった。ルオッサの知らぬ間に盗賊たちは草人を襲って略奪し、時にはその肉を貪りすらしていたのだから。

 ルオッサは決死の思いで走った。姿を見せぬように背のたかい草の間を逃げ、逃げ切らぬよう、そして矢が届かぬように距離をとった。

 冬が近づき、ルオッサの腹には水しかはいっていなかった。すぐに息があがり、喉がきりきりと傷んだ。獣化すれば少しはマシになるだろうが、皇国軍に姿を見られた時にまずいことになる――ベルテンスカの国教も、真教のひとつなのだ。

 手足の痛みが衝動を呼び起こす。ルオッサの矮躯のあちこちが悲鳴をあげる。忘れた頃に黒曜石の矢が飛来し、四肢をかすめる。大きくはった腹が邪魔だった。

 頬を矢がかすめ、火がついたように熱くなる。まだだ、まだ変身してはまずい。

 後ろを振り返る。森の斜面、二箇所から矢が射られている。背の高い草のせいで見えないが、背後に気配がふたつ、みっつ感じられる。

 その時。視界から葦が消えた。

 小高い丘の上に、皇国の軍旗、竜の紋章がみえる。たどり着い――

 風切り音。

「ぐっ……!」

 左腕に矢が突き刺さり、獣化の衝動がルオッサの理性を飛び越えた。

 だが、間にあった。ルオッサは握りしめていたダガーを空に投げる。

 雲間の太陽が、その錆びかけた刀身をきらめかせる。

 その瞬間、森のなかから十あまりの矢が放たれた。ダガーが陣地内に飛びこみ、まとまった矢が飛来するのを、警戒していた兵は目の当たりにした。

 敵襲、敵襲と号令がかかる。飯時だった兵たちは慌てて飛び出す。

 よろよろと木陰にかくれる少女。その姿に気づく者はいなかった。黒い体毛に覆われながら、ルオッサは苦悶を押し殺して矢を抜きとった。

 やや時間があって、ほとんど空になった陣に盗賊が押し入った。

 彼らは待機していた兵や非戦闘員を音もなく殺し、その場で食えるだけ食った。そして腹が膨れると、持てるだけの食料を背負って、きびすを返しはじめる。

 ルオッサも潮時かと陣地に入り、人狼の膂力りょりょくで米の入った麻袋をふたつ抱えた。

 撤退の間際、盗賊どもは上機嫌だった。ゲオルグの命令ゆえルオッサの作戦に従ったが、まさかうまくゆくとは思っていなかったのだ。すれ違う彼らは口々に軽口をたたき、あとで可愛がってやると笑った。

 それを無表情に聞き流していたルオッサだったが、ふと気づいてしまった。

 まともな食事が手付かずのままあるのに、喰い殺され貪られた死体がいくつもあること。口を血まみれにした盗賊は、ひとりやふたりではないこと。

 そして――自分の口から、よだれが垂れたこと。

 ルオッサは慌てて自らの口元を拭い、理性にしがみついた。自分を確かにもて、と暗示をかける。

 だが、そんな健気な抵抗は、無惨にも砕かれることになる。

「しっかり食っておけよなァ」

 肩を叩かれ、ぞっとして振り返る。そこには、いつかの晩のように、耳まで裂けそうなほど口角をつりあげたゲオルグがいた。

「なんせ、オレの子なンだからよォ?」

 しゃがみこみ、つう、とその下腹部をなぞる指。

 米の袋が、落ちた。

 その瞬間、ルオッサは理解した。認識してしまった。

 なぜ自分の腹が膨らむのか、その疑問が氷解し――納得を否定した。拒絶した。

 飢餓ゆえではない――そう、うっすらと勘づいていた。もしそうだったのなら、他のふたりが先にそうなっているはずだ。だから、それはちがう――

 ――でも、そうでなければならなかった。

 でなければ、あの吐き気が収まった理由、腹のなかで何かがうごめく理由は――。

「違う、そんなはずは――そんなはずはない!」

「じゃァ、ヴィリーか? アイツとヤったのも随分前じゃねえのか?

 ハハ、よかったな。今なら孕む心配もねェ、存分に楽しめるぜ」

 自分のはらに、他の誰ならいざ知らず――こんな、こんな見下げ果てた男のたねが?

「うそだ、嘘だッ……! ああ、あああああ――!」

 少女は顔を両の手で覆う。金切り声が漏れる。

 だがそれは、殴打に意識ごと消し飛ばされる。

「馬鹿かァ? バレちまうだろうが。ほれ野郎ども、引きあげだ!」

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