三章 歪んだ瘢痕

罪科の在処

 ふたりの少女が祈る。

 生草が焼け、白い煙が洞窟内にたつ。その煙が虹蛇こうだに届くよう祈りながら、桑の柔らかく産毛のない葉をむ。儀式をともにしはじめて、どれだけになるだろう。深い切れこみのある葉を火にくべながら、ルオッサは思う。洞窟のそとでは、大きな森に似た入道雲が立ちのぼっている。ニイニイゼミの合唱が近い。火をたくのも苦しくなってきたな、と汗を拭いながら思う。

「それは、どういう意味があるんだい」

 奥に座るスヴェンの問いに、この儀式か、とルオッサは聞き返す。その返事は、不愉快を隠しもしないものだった。

「神に食事を捧げ、あたしたちも相伴に預かっているのだ。神には神食を、人には人食を。定められたもの以外は毒になる――あっているだろうか」

 イレーネは、喜色満面にうなずく。ルオッサが「あたし」と言うことが嬉しくて仕方ないらしい。事の発端は、ルオッサの貴族らしい口調をイレーネがこわいと言ったことだった。ルオッサは善処しようとしたが、一朝一夕に変えられるものでもなく、できたことは付け焼き刃にすぎなかった。けれど、イレーネは存外にも気にいってくれた。それでつい、「あたし」が口をついて出てくるようになった。

 イレーネはそらんじられたアンギスの教えに、手をあわせてにっこり笑った。

「すごいね。一度きいたことなら、なんでもおぼえてるの?」

 何でもではないが、とルオッサは謙遜した。桑の葉を飲み下す。ひどく青くさい臭いと、歯にまとわりつく繊維。人食とはよくいう、蚕にでもなった気分だ。

 蚕の真似をしているのは、神事だからという理由だけではなかった。森の中で見つけた数少ない桑の実はとうに食べ尽くし、三人とも頬がこけはじめていた。三人は来る日も来る日も、盗賊どもの目を盗んでは食べられそうなものを探してまわり、苔ですら口にして糊口をしのいでいる。言葉にはしないものの、みな焦りを感じていた。

 その時。突然、獣の咆哮が耳をつんざいた。

 洞窟の外をうかがうと、みすぼらしい身なりの人狼が暴れている。黄ばんだ牙、流れ落ちるがままの唾液。ゲオルグの手下が何人か押さえこもうとしているが、逆に手傷を負い、獣化して暴れる者が増える始末。

 それに血相を変えたスヴェンが遮二無二、飛び出してゆく。イレーネは衝動的にその背を追いかけようとするが、ルオッサがそれを止めた。「やめたまえ」

 心配そうにするイレーネを尻目に、ルオッサは愚かなことだと胸裏で毒づいた。スヴェンは非力だ。相も変わらず獣化もしない。案の定、殴りあいに巻きこまれ、すぐに卒倒した。

 スヴェンを心配しているイレーネを見ていると、ルオッサは気分が悪くなった。イレーネから目を背け、その騒乱に目をやって警戒する。いつ何時、誰がこちらに向かって牙を剥いてもおかしくはない。

 ふと、イレーネがルオッサの裾を引っぱり、最初に暴れはじめた男を指差す。

「あの人、前からずっと……」

 ルオッサは首肯した。その男には見覚えがある。確かに以前の獣化時も、正気を取り戻すのが遅かった。

 奴隷の身に甘んじているうち、ルオッサは段々と狼人病ライカンスロピーのことが分かってきた。咬傷かみきずから感染し、発症すれば人外の再生力と狼の能力、そして苦痛を引金トリガーとして変身する力を得る。だが、これは狼人“病”なのだ。利益ばかりではない。

 たとえば、あそこで暴れている男。奴は何度も瀕死の重傷を負ったことがあるらしい。推測するに、自然治癒のたびに進行し、やがてけだものから戻れなくなり――正気を失うのだろう。

 ここに来る前に聞いた話では、発症する前なら、噛まれた者を教会が癒やしてくれるとか。では、発症したものは?

 答えは「悪魔とみなされる」だ。かつては、悪魔祓いが施されることもあった。だが人狼は人の魂に獣の血がまざっており、分離は不可能である――そう唱える学説が神学者の間で席巻するや、教会の態度は変わった。

 鏖殺おうさつせよ。羊や人を喰い、善良なる隣人を悪魔にする前に、根絶やしにせよ。

 その強硬な態度も、今なら分からなくもない。目の前で狼男が暴れ、それに巻きこまれた者も獣化し、興奮して取り押さえるどころではなくなる。

 宴だ、とルオッサは思った。“狂乱の宴”――そう表現するにふさわしい。

 願わくはこのまま全滅してくれないものか――そう思いながら様子を見ていた。だが、宴は唐突に終わりを告げる。

 絶叫とともに倒れ伏す、狼男。

 ある者はその骸に食らいつこうとし、ある者は骸をこさえた者に飛びかかる。

 いずれもが巨大な剣の側面に叩き落とされ、ぎゃんと鳴いて転がった。

「もう二度目か。さすがに飽きてきたなァ……」

 ゲオルグ。その大男は漆黒の闇がごとき剣を肩に担ぎあげ、あたりを見渡した。その、泥沼のような目に射抜かれ、人狼たちは尻尾を巻いて震えた。一歩、二歩、と後ずさるうち、変身がとけてゆく。

 ルオッサは唾を吐いた。あの男を見ると、気分が悪くなる。胸焼けが――

「うっ……!」いや、胸焼けだけではない。「うぇ、おええ……」

「だっ、大丈夫なの! ルオッサ……?」

 咀嚼された青葉が、目の前でてらてらと光っている。

「大丈夫だ……ちょっと胸焼けが、な」

「ここずっと、そうじゃない? ねえ、病気じゃ……」

 ふふ、と苦しまぎれにルオッサは笑った。元より人狼の身、今さら病気などと。だがここ一月ほど具合が悪いのは事実だった。体がだるく、何度も吐いてしまう。

 戦さは長引き、治安は悪くなる一方。戦場近くを通る通商路は閑散としていた。獲物がいなくなったことで、盗賊どもですら飢え始めている。だから、このようにわずかな食料ひとつで揉め、殺しあいに至っている。奴隷である三人は語るに及ばない。こんな状況で飢えはすれど、病気ひとつしないイレーネが奇跡なのだ。

 イレーネのいうとおり、なにか患ったのかもしれない――ルオッサは思った。

「しゃあねえなァ。こうまでなっちゃ、っきゃねえか」

 ゲオルグの言葉に、手下たちは顔をあげた。その顔つきは多様だったが、残忍な笑みを浮かべる者が目についた。


 盗賊騎士団はぎらついた目で、黙々と準備をし始めた。短剣や斧の手入れをし、革鎧のベルトを確かめ、後は水を飲んで寝る。みながそうして夕暮れまで時間を潰した。ルオッサは胸騒ぎがしたが、何もできることはない。しいてあげるなら、今晩はゲオルグに犯されずにすむだろうか、と淡い期待をかけることのみ。

 けれど、やはりそんなうまい話はなかった。

 日が山向こうに沈み、日暮ひぐらしが鳴きはじめるころ。ゲオルグは穴蔵にやってきた。三人分のダガー――とはいえ、刃渡りはルオッサの腕ほどもある――を放り投げ、足の重りを外させた。

「どういうつもりだ。あたしと決闘でもしたいのか?」

 ルオッサのいぶかしむ声に、ゲオルグはくつくつと笑った。

「いいや、違うぜ。今までさんざタダ飯食わせてやったんだ。今晩はオレのために働いてもらうぜェ」

 スヴェンは顔を暗くし、イレーネをかばい前に出た。イレーネがその手を握るのを尻目に、ルオッサは舌打ちしてゲオルグをにらむ。

「いい加減、腹が減って仕方ねえだろォ?

 今晩は好きなだけ食っていいぜ。――麓の村のモンならなァ」

 ルオッサは鼻で笑う。やはりか。

「いずれこうなるとは思っていたが、最後には略奪せずにはいられないか。だが、騒ぎを起こせば草人アールヴどもに感づかれるぞ」

 これでも元同盟軍の一団。ゲオルグが反旗を翻したせいで、ドーファは大きな痛手をこうむった。後顧の憂いを断つためにも、見つければ殲滅せんめつにかかるだろう。

「あァよ。ちょっとエンルムを潰したら、うるせえ草人ににらまれて、今の今まで森に閉じこめられちまってた。だがよ、さすがにもうこうなっちまえば仕方ねェ。今まで我慢させた分、好き放題させることにした」

 だから、オマエらも奪ってこい。歯向かう者は殺せ。金目のもの、食えるものはみな奪え。持てねェ分はその場で食え。満足したら、ぜんぶ灰にしろ。残さずな。

「……嫌だと言ったら?」

「なンだァ? 言わなきゃわからねえほど粗末なおつむだったかァ?

 安心しろ。オマエの大事なイレーネは、オレが連れてってやるさァ。スヴェン、テメエはオレの副官に任せる」

 ルオッサはもう一度、軽蔑しきった目で舌打ちした。

「抜け駆けしたら、残った者がどうなるか――か。それで、あたしは?」

 ゲオルグはニヤニヤと笑い、背中越しに人差し指でくいくい、と呼び寄せる。

 現れたのは、以前にルオッサが男だった。

「旦那、本当に好きにしていいんで?」

「あァ。逃げようとしたり、反抗的だったならなァ。村娘にイイのがいなけりゃァ、貸してやってもいいぜ」

 ヴィリーはにたり、と獰猛な笑みを浮かべた。だが、ルオッサを見る目は決して笑っていない。左耳を押さえ、腰からさげたダガーをきつく握りしめている。

 あれから不具になったと耳にした。ルオッサは当然の報いだとにらみ返す。

 ルオッサはダガーを拾いあげた。

「いいだろう。だが、約束は守ることだ」

 イレーネがダメっ、とルオッサの手をとる。ルオッサは拒否すれば殺されるぞ、とイレーネに囁いた。

「僕らは追従するだけだ。自ら罪を犯す必要はない。そうだよね、ルオッサどの」

 スヴェンが小さな声で言う。ルオッサは不意にかちんときた。

 頭上のスヴェンの襟を鷲づかみにし、真っ黒い声ですごんだ。

「あたしをその名で呼ぶな」

「ルオッサ!」イレーネが柄にもない大声をあげる。

 スヴェンはすぐ、すまなかった、と目を伏せる。ふん、とルオッサは襟を離す。

「なンだァ、えらい仲がイイじゃねえかァ」

 肩を揺らしてゲオルグが笑い、ヴィリーも嘲笑する。ルオッサは無言で、翡翠の瞳に憎悪を燃やしていた。自らも焼き尽くすほどの、煉獄の炎にも似たそれを。


 村は寝静まっていた。こおろぎや蛙の声だけが夜を埋め尽くす。

 月夜になったことは具合が悪かったが、もはや盗賊どもはこらえられなかった。

 三人程度の班に分かれて村を取りかこむ。ルオッサはヴィリーらに連れられ、イレーネとは森を降りる前から別れている。臭いしか手がかりはなく、そう遠くない場所にいると分かるだけだ。

 作戦もなにもない。教えられていないだけかもしれないが、あったとて最後に焼き討ちするだけだろう。なんと愚かしい、とルオッサは蔑んだ。自分だけは罪を犯すまい、と心に誓う。かつての神も今の神も、報復は許しても、一方的な殺戮をゆるさない。ましてや、罪を重ねて略奪など。

 遠くから狼の咆哮が聞こえた。

 ヴィリーとその仲間が飛び出す。ルオッサも無表情に追従する。

 田畑のあぜを走り、集落へ向かう。田には青い水稲が穂を伸ばし、畑には葉菜が育ち始めている。ぐう、と腹がなる。ゲオルグも馬鹿なことをしたものだ。ほんの一月もすれば、収穫し終わっていただろうに。

 ヴィリーが家屋のひとつに目をつけ、戸を蹴り倒す。仲間が続く。大きな悲鳴と怒号、重いものの倒れる音。ルオッサはそれを、冷徹なかおで聞いていた。

 呆気ない、そう思った。自分の時も、背中を取ったのだから同じだっただろう。片端から殺し、奪うことでしか生残できぬ者。心の底から、軽蔑する。神の求める在り方をまっとうする者たちを蹂躙し、神のたまわった恵みを収奪する。それに罪を覚えないのか?

 返り血に濡れたヴィリーが麻袋を持って現れる。月光に袋は黒く映しだされる。ヴィリーはそれをルオッサに投げつけ、唾を吐きかけた。そして次の獲物へ。

 ――罪など、見えないのだろう。ルオッサは頬を拭い、確信した。

でなければ、狼に成り代わることに抵抗するだろう。あのようにはずがない。

 わずかに開いた扉から、女の死骸と子供のそれが折り重なっているのがみえる。一刻も早く、こんな連中とは縁を切らねばと痛感する。ルオッサは傘十字を切り、麻袋を背に追いかけた。

 三軒目、四軒目となると、盗賊たちは戦利品を集めることに執着しなくなった。手段と目的が入れ替わりつつあった。残飯を食らい、男たちを殺しては女子供をなぶり、赤子ですらくびり殺した。彼らには血の味が麻薬であるかのようだった。

 五軒目で盗賊どもは長居しはじめた。ルオッサが催促しようと屋内に足を踏み入れると、ひとりが女を犯していた。それをみても、少女は無感情のままだった。

 ――その後ろに、目をやるまでは。ルオッサは目を見開き、息をのんだ。

 女は母親だった。恐怖のあまり粗相するふたりの子供の前で、母親は犯されていた。ルオッサはそう理解して、たじろいだ。口元を抑え、ふるえ、それでも目を離せなかった。黙ってみつめ、黙殺するほかない、と判断した。

 ――本当に?

 本当にそうなのか?

 星が瞬く間ほど、ルオッサは自問した。押し入って止められなかったのか? 欲情した男ひとりくらい、後ろから刺せなかったのか?

 ――できない。そんなことをすれば、次に同じ目に遭うのは自分だ。下手をすれば、先に殺される。無為に、無意味に。

 それは、悪徳を見殺しにする理由になるのか? あの母子ははこの魂を殺したのは、おまえではないのか?

 自らの追及を否定できず、ルオッサは硬直した。

 それでもなお、詰責する己の声は、さらに大きく少女のうちに鳴り響く。

 おまえは、イレーネを強姦から守れなかったではないか。

 ――のではないか?

「ちがう……」

 ルオッサは戸口へ、外へ一歩ひいた。ならば、死ねというのか。こころが死に、陵辱される親を虚しく見つめる少年はどうなのだ。母親を助けようとしなかったこの幼子も、同じく罪深いというのか。盗賊に襲われ、互いに助けあわず全滅した犠牲者は罪人だというのか。

 その時、脳天に光が走る。飛躍した論理が、結論へ結びつく。

 ずっと疑問だった。なぜ神は死後の安息を約束するのに、現世の不幸を防いでくれない。なぜ、あたしは娼婦がごとく扱われ、強盗の幇助ほうじょをさせられている?

 ――もしや、神は。主は、生者は救ってくれないというのか。

「死ね!」

 戸口から後ずさるルオッサは、その裏に隠れた村人に気づきようがなかった。それは向こうも同じで、不意に中から現れた人影を半ば反射的に攻撃した。結果、背丈の低いルオッサは肩を農具で刺されたが、致命傷にはならなかった。

 ――それは果たして、幸か、不幸か。

 肉体が絶叫する。肩が熱い。ルオッサは声をあげまいと腕を噛んだ。

 ……!

「こ、子供? ち、違うんだ! 俺はただ……!」

 あやまって子供を刺したと、村人は動転した。フォークが転がる。ルオッサは、必死に発作を抑えこもうとした。今だけはまずい、頼む、神よ――

 けれど、その祈りは届かなかった。焦燥した精神では耐えられなかった。

 ぞわぞわと少女の赤髪が逆立ち、全身を覆う。骨格が変形し爪と牙が研がれる。

 苦痛から舌を出し、荒く呼吸する黒い人狼が、そこにいた。

 その背後の室内では、狼男がよだれを垂らして女を犯している。

 もはや、言い逃れの余地も余裕もなかった。

 村人は恐れおののき、フォークをつかむやおどりかかった。

「し、正体を表したな――あ、悪魔め!」

 自身に向けられた殺意に、意志よりも肉体が先に反応した。

 変身を経て思いだされた強い飢餓に、思考が塗りつぶされる。

 次には、を咀嚼していた。ああ、なんて……嚥下えんげする。

 ルオッサは我に返った。

 男が血だまりに沈んでいた。喉笛を喰いちぎられている。背中を冷や汗が伝う。ルオッサの口吻と胸元は、べっとりと温かいもので濡れていた。

 あたしが、やったのか?

 男が手足をばたつかせる。何かを返せというように。もがいていたのはほんの短い時間で、やがて動かなくなった。その無惨な姿を目のあたりにし、ルオッサは目の前が暗くなる。

 あたしは罪を償わねばならなかった。それなのに異教の神を信じるという罪の上に、さらに償いがたい罪を重ねた――二度と、償えない罪を。

 そればかりではなかった。

 鼻腔を満たす、濃い血の臭い。いま飲み下したものの味。そのすべてに高揚し、さらなる欲望がうちから湧きあがる。

 その高揚は、殺戮の愉悦。神の御技からなる尊き人の子、それを殺めることは、すなわちその存在すべてを掌握すること。神の奇跡をも凌駕する存在へ昇華した証――そんな全能感と歓喜が、脳髄を鈍麻させる。鈍った思考が食欲に埋めたてられそうになる。空腹を思い出す。生の血肉の味が、何度も何度も脳裏を走る。

 活きのいい生肉は、まだ目の前にあった。

「があッ……!」

 ルオッサはダガーを腕に突きたてた。鋭い痛みが頭の霧を晴らす。

 いずれそうなる、と聞いていた状態が眼前に迫っていた。

「そんなに欲しいなら、くれてやったのによ」

 振り返ると、獣化した盗賊のひとりがせせら笑っていた。

 ぽい、と何かを無造作に投げた。

 それは、ルオッサよりも細く――幼い太腿。

 ルオッサは虚無のなか、顔をあげる。家のなかは、鮮血に赤黒く染まっていた。

 犯されていた母親は乳房ちぶさを食いちぎられ、子供は胴体だけが転がっていた。

「ガキがうまいんだよなあ……へへ……」

 ルオッサはめまいがした。罪がなくなるわけでもないのに、必死に飲みこんだ肉片を吐き戻そうとした。けれど、いくら指をつっこんでも戻せなかった。

 それが――おいしかったから。

 食べて血肉にしたものは、もう元には戻せない。

 茹でたタマゴが、もう生タマゴには戻らないように。

 気が狂いそうな嫌悪感のなかで、少女は――ルオッサは、悟ってしまった。

 自分は、もう立派な悪魔なのだと。


 火が放たれる。

 にわかに明るくなった村のなかで、ルオッサは這いつくばっていた。赤い舌に舐められる村を見つめていた。もしかしたら、煉獄の代わりに火で焼かれたなら、罪も燃えて浄化されるかもしれない。罪人を火葬に処すのは、死後の楽園に復活させないためでなく、罪を清めるためではないだろうか。

 ルオッサは、今ここで焼かれて死ねば、まだ間にあうのではないかと夢想した。きっと神は、死ねば救済してくれる。生残するうちは受難させ続けるとしても。

 けれど、自殺者は例外だ――大罪だ。少なくとも、唯一の神はそう教えている。アンギスの拝火教はどうだろう。聖なる火なら、許されるだろうか。

 ルオッサは堂々巡りの迷宮に迷いこんでいた。何も目に入らなかった。けれど。

「たす、たすけて!」

 そのからからに乾いた悲鳴。それを聞いた途端、ルオッサは全ての罪を忘れた。荷物を投げ捨て、弾きだされたように走った。たったひとりの友の悲鳴、それが、ルオッサの明晰さを取り戻させた。気づけば四足で疾走していた。

 炎のせいで鼻は利かない。ただ一度、聞こえた声を頼りに駆けた。

 橙から赤に燃える炎が、村を侵食し始めていた。ルオッサは獣毛が焦げるのも構わず、火事のなかを走った。どれだけ罪に蝕まれようと、それだけは失うわけにいかなかった。いわばそれは、自らを繋ぎとめる最後の碇だった。

 炎をかきわけ、遂に大切な姿をみつける。

「い、イレーネ……!」

「ルオッサ、に、にげて!」

 よろよろと逃げる、銀の人狼。ルオッサは見間違いかと思った。へたりこむその背に追いすがる男に気づくや、ルオッサはためらいなく殺した。喉笛を噛み切り、心の臓にダガーを突き立てた。だが、ルオッサが口の中のものを吐き捨てて振り返っても、何もかもそのままだった。

 イレーネの腹は、ばっさりと切り裂かれていた。おびただしい流血で下半身は真っ黒にぬれて、細長い臓物がずっと後ろまで垂れている。流血に赤味を帯びた腸は、白く、黄色く――うねうねとうごめいていた。

 絶望のとばりが降りた。いかな人狼とはいえ、自然治癒を超える再生はできない――ただ単に、傷の治りがはやいだけなのだ。欠損は埋められず、あの指のようにうまくくっつかないこともある。これほどの重傷、自分に何ができるというのか。可能性があるとしたら、もはや信仰呪文しかなかった。けれど、必要な焦点具も――その資格も、もはやここにはなかった。

「イレーネ――しっかりしたまえ、イレーネ!」

 目の焦点はあわず、顔は土気色。まるで長く息を止めていたように呼吸が荒い。腹の傷は空しく塞がろうとするものの、はみでた腸がこすれるたびに傷は開く。――もはや、一刻の猶予もない。

「少し、痛むぞ」

 イレーネの中身だったものを手にとり、泥まみれになったところで切断する。ルオッサは悟ってしまい、愕然とした。それは踏みつけられた痕。イレーネは腸を牛の手綱がごとく扱われ、追いかけられたのだ。――悪魔だと指弾されて。

 それを腹にしまってやり、裂けた衣服で腹をきつく縛る。

「しっかりしろ。さあ、戻るのだ。いっしょに帰ると約束したではないか!」

 内臓痛と出血で、イレーネの意識はもうろうとしていた。だが、ルオッサに肩をかされて、なんとか立ちあがる。

「うん……おぼえてる、おぼえてるよ。かえる。かえるの」

 猛火のなか、ふたりの少女が歩く。

 ルオッサはふと、自分を肩の上から見下ろしている気持ちになる。自分は見ず知らずの母子を見捨て、友を命懸けで助けた――あたしは、命を選別した。

 命の価値は人の子にはかれるものではない。それができるのは、神だけだ。

 けれど、これがそんなに赦しがたい罪なのだろうか。――傲慢だ、利己的だと、奇跡を奪われるほどの罪なのか。

 燃えさかる村を抜けるまでの、永遠にも思える時間。ルオッサは考えつづけた。誰だって、いざとなれば順位を付けて命を選ばねばならない。もしこれが罪なのなら、あらゆる人は罪人だ。

 ならば、これが原罪げんざいだと?

 そこでルオッサは思い出した。

 血の竜が創造した最初の人は、自ら善悪を決めた罪で、天の竜国を追放された。それが原罪。だがそれならば、善悪を考えることも罪だというのか?

 フラフィンの尺度は、何がく何が悪いとおぼし召すのかなんて、教典だけでは分からないというに。その解釈も善悪を決めることにはならないのか?

 それとも、神罰が下るのを待てというのか。その間に少女が腸をこぼし、聖者の受難以上の苦しみを受けたとしても?

 頬を焼く熱さが、やわらぐ。

 水田に炎はせきとめられ、それ以上広がりはしなかった。振り返ると、村だったものがごうごうと唸りをあげ、煉獄に変わり果てていた。

 業火の壁の向こう、踊り狂う人影が見える。逃げ遅れた者が、火葬されてゆく。真にあつく神を敬っていた者も、火で弔われれば竜国に復活できない。

 火葬は、尊厳を焼く。少女は友の腕をぎゅうと握り、歯を食いしばった。

「――これだけの罪に、いつ神は罰をくださるのだ。

 いつまでかような大罪をのさばらせているのだ!」

 ルオッサは狼のそれで吠えた。イレーネの重みを思い出し、涙を流した。だが、それでも、ルオッサは信仰を捨てることだけは考えなかった。なぜなら。

 神は在るのだ。クレリックが奇跡を生み出すことこそ、その証左。神の存在は、誰にも否定できない。ゆえにルオッサは、信じるしかなかった。

 聖なる四文字よつもじが、罰を与えてくれることを――イレーネを救ってくれることを。異教徒ではあっても、少なくとも自分よりは、清廉なはずだったから。

 物音にルオッサは向きなおった。

 たった今、焼け落ちる村から出てきた男。それはあのヴィリーだった。返り血で赤茶けて、誰かの手を引いている。その子供を、ルオッサは知っていた。

 その少年は、母親を強姦され、兄弟を殺された。母の乳房と兄弟が、生きながら喰われるのを見ていた少年。あそこでともに殺されるはずだった、幼子。

 ヴィリーはその手を離した。

「さあ、どこへなりと行っちまえ」

 放心した子供をそのままに、ヴィリーは近づいてくる。

「んだよてめえ。戦利品はどうした。チッ……使えねえ。とっとと引きあげるぞ」

 そう言い捨てて、ヴィリーは森へ走り去ってゆく。

 ルオッサは目の前で起こったことを、理解できずに呆然としていた。

 自分を犯し、殺そうとした男が――助けたのか? たったひとりの少年を?

 自分の首を絞めた手で、同じ幼子の命を救ったのか?

 ルオッサは憎悪に震えた。理解不能だった。なぜいまさら、人間のふりをする。みな仲良く悪魔のはずだ。悪魔は悪魔らしく、悪徳の泥を浴び、血と膿をすすって生きていなければならない。罪を償う気があるのなら、はなから清廉に生きればよい。お前は罪を重ねて笑っていなければならない。罪の愉悦に笑うのだ!

 ――そうでなくば、お前が殺した者たちに傲慢にすぎる。後から償えば、いくら罪を重ねても問題ないとでもいうのか。

「そんな――そんな人間性があるのなら、なぜあたしには向けなかった!

 なぜイレーネをこんな目に遭わせた! き、貴様には――冥獄すら生ぬるい!」

 ルオッサの咆哮は、自身をも傷つけていた。聡明な少女は、理解していたのだ。

 そんな矛盾は、どこにでも、自分のなかにすらありふれていることを。


 洞窟のなか、空では月が沈みかけていた。

 ルオッサはこんな穴ぐらに戻りたくはなかった。けれど、イレーネのためにはそうするしかなかった。森の獣と人の獣を比べて、盗賊どもを取るしかなかった。

 イレーネはずっと脂汗をかき、獣化が解けない。傷はとうに塞がっているのに。

「イレーネの容態は?」

 隣のスヴェンが問う。人に戻ったルオッサは答えない。胃のが煮え立つ。

 ――なぜ、こいつは五体満足で戻ってきた?

「……薬が必要だ。取ってくる」

 スヴェンが止めるのも無視して、ルオッサは立ちあがる。

「どこへいく気だァ?」

 大男が立ちふさがった。血の臭いを隠しもせず。

「薬草を取りにゆく。イレーネが死んでも構わないというのか!」

 ルオッサはゲオルグにどなった。ゲオルグにとっては、換えのきく娼婦でしかないことを知りながら。だが、その答えは予想と異なった。

「なるほどなァ……そりゃあちっと困った。そいつが死ぬと手下どもが溜まって仕方ねえ。だいたい、そうなったのも錯乱して前も見ねェで走ったせいだが……まァ、オレのせいとも言えなくもねえ。いいぜ。オレが直々に見張ってやらァ」

 ルオッサは言葉をなくした。不可解だったが、時間を惜しんで走りだした。


 夜の森で、ルオッサはイレーネに教わった薬草を集めた。アンギスの秘儀には、薬になる草本に関する知識が多かった。その知恵を借りて、解熱と鎮痛、病を跳ね除ける薬草を探す。後ろからついてくるゲオルグの圧力は、夜の森ということもあって異様な恐怖を掻きたてた。しかし、それは獣にとっても同じだったらしい。ついぞ、夜の獣に襲われることはなかった。

「これで最後だ。速やかに戻るぞ」

 ルオッサが告げると、ゲオルグは笑った。

「あッあッあッ。まあ、そうくな。少し寄り道していこうじゃァねえか」

「イレーネは危篤なのだぞ!」呑気な言葉に、ルオッサは怒鳴るが、

「あの程度の傷じゃァ死なねえよ。オマエよりゃ再生力は劣るが、それでもなかなかの人狼に育ってやがる。安心しろ」

 こっちだ、とゲオルグは別の道をゆく。その背から有無を言わせぬ殺気を感じ、ルオッサは悪態をついて従った。

 たどりついたのは、かつてロスコーがルオッサとなった断崖だった。

 何のつもりだ、とルオッサは言いかけ、憎悪と憤怒に頭蓋を満たされた。

 そこには、ヴィリーがいた。

 岩を背中で抱くように、手足をくくりつけられ、猿ぐつわをはめられていた。

「確か、コイツだったよなァ? オマエをメチャクチャに犯したのはよ。

 ハハ、さっきのコイツ、見たか? オレは見たぜ。オレは『皆殺しにしろ』と言ったな。なのにヴィリー、オマエはガキをひとり見逃してやったよなァ?」

 ヴィリーは首を必死に振る。ルオッサの鼓動と呼吸が荒らぐ。

 ダガーがひとふり、差し出された。

「ロスコー。コイツ、オマエにやるよ」

 手が震えた。手があがる。ルオッサは葛藤した。

 駄目だ。それを取っては――

 けれど。あの日、食いちぎられた幼い乳房が傷んだ。へし折れられた肘が叫ぶ。

 自分を見下す憎悪のまなこと、天涯孤独になった少年を見る目。その両方が交互に眼前に現れる。

 その時、ダガーに暁光が映った。

 ふと、思う。

 ゲオルグもヴィリーも、神罰なぞくだらなかった。数えるのが億劫になるほど、体を使いまわされ、体液をすすられ、食うものもろくに与えられず――このままきっと、あたしやイレーネは使い潰される。悪徳は、もう十二分に満ちていた。

 それでも、天罰は兆しすらなかった。

 

 ダガーがその手にあった。少女はヴィリーの前に立つ。

 猿ぐつわを頬ごと裂き切ると、ヴィリーはむせて詰め物を吐きだした。

「てめえ……ハッ、そのナイフでどうしようってんだ?」

 ヴィリーは揺らめく目で、その少女を見上げていた。

 その瞳に映る少女は、前髪をだらりと垂らしている。男の頬を鮮血が伝う。

「ついさっき獣化したばかりだ。しばらく獣化はできねえ。

 さァ、ロスコー。オマエならどうするよ?」

 少女はヴィリーの服を裂き、上半身を裸にした。そして、右の胸に噛みついた。けれど、少女のそれでは文字通り歯が立たない。

「いッ……はは、馬鹿にしやがって! 獣化できないのはお前も――」

 ヴィリーが気づくと、そこには黒い狼が立っていた。

 がつん。

 男の絶叫が響き渡る。鳥たちが飛び去る。

 少女だったものは、もぐもぐと咀嚼する。けれど、口元を歪めて吐き出した。

不味まずいのだな、お前は」

 ヴィリーの胸には、ぽっかりとえぐりとられた穴が開いていた。ほの白い骨が見えていたのも一瞬、血がそれを覆い隠す。

「なぜ、あの子供を助けた」

 黒い狼が問う。

 ヴィリーは頭に血がのぼるより前に、その顔を見て血の気が引いた。

 怒りならば、憎悪ならば分かる。ヴィリーはそれだけのことをしてきた自覚がある。愉悦ならば、快楽ならば分かる。ヴィリーも陵辱と殺戮に酔い、優越感に浸ってきた。

 少女は、虚無だった。星々の輝きさえも届かぬ、空の果て。その虚空を思わせる、虚ろな瞳。巨大にすぎるのせいで、なにも見てとれぬ深淵。

 ヴィリーの悲鳴は、口内に突き立てられた刃物に防がれた。舌の傷が瞬く間に癒えてゆくのを、少女はじっと見ている。

「なぜ、子供を助けたかいている」

 ヴィリーはがたがたと震えていた。口から出る音はもう言葉にはならなかった。ダガーが再び、ヴィリーの眼前に迫る。ゆっくり、ゆっくりと。

「コイツにゃァ、ガキがいたのさ」

 ゲオルグの言葉に、ヴィリーは何度も何度もうなづいた。虚空がざわめく。

 がり、と金属がこすれる音がした。

 肋骨ごと、ヴィリーの腹が裂けていた。ダガーで淡々とその肉を切り取り、少女は口に運ぶ。喉が枯れるほど叫ぶヴィリーを、少女はじっと観察していた。

「息子を思いだしたから、罪滅ぼしをしたくなったのか?」

 黒い狼は肉を飲み下し、男の肋骨から肉をこそげとりながら言った。

 ヴィリーは答えない。答えられなかった。

 少女は腹からはらわたをつまみあげた。苦痛に嗚咽するのが聞こえないかのように、そのまま繋がっている白い膜を引きちぎった。その腹にまたがり、繋がったままの腸を本人の目の前まで持ってくる。

「お前は、あたしに同じことを二回も言わせるのが趣味なのか?」

 ぎゅうと、人狼の腕力で小腸を挫滅する。

 ヴィリーは泣き叫び、言葉にならない声をあげる。

「そ、そうだ! 俺は、俺は息子を見殺しにした!

 村が巻きこまれたと聞いた時、恐ろしくて助けにいけなかった! だから――」

 復讐の獣は、その口に腸を詰めこむ。

?」

 ヴィリーは自らの内側の臭いに、嘔吐した。吐瀉物に溺れそうになって、何度もせきこんだ。

「少年は助けたいが、少女はもてあそんでもよいと?」

 矛盾に答えられず、ヴィリーは恐怖のあまり捨て鉢になった。拷問者の機嫌をとるのをやめた。

「お前の、お前のどこがガキなんだ! 化け物め、大人しくしてりゃよがらせてやったのによお!」

 笑った。

 虚空がわらった。

 犠牲者はもはや、言葉を失った。――永遠に。

「そうだな。あたしも、ずっとそう思っていたところなのだ」

 その後ろから、少女の手が何かを持って近づいてくる。

 それは、陰茎だった。――誰の?

 ヴィリーに幸運があったなら、局部の痛みを知覚する余裕がなかったことだ。自らがさんざんしゃぶらせてきたものを、こんどは自分が味わうことになった。その上から、自分の腸で新しい猿ぐつわをされて。

 理解の境界を超えた拷問に、ヴィリーは気が触れた。涙と洟と、涎を垂らして。鼻がつまり、呼吸ができないことにさらに狼狽し、ついにはを誤嚥した。

「ははは、落ち着いて鼻で息をしたまえ」

 虚空は笑う。自分の台詞がおかしいかのように、さらに嗤った。

 その顔は、星のない夜のように形ないまま。

「気分はどうだ、ロスコー?」

 窒息した男が暴れなくなるまで、少女はじっとその姿を見ていた。

 少女は、いつの間にか人間に戻っていて。

 振り返る。ルオッサは目元をうるませて、ゲオルグをみた。

「あたしは、貴様のようにはならない」

 その決意に、ゲオルグはくつくつと笑った。心底、愉快でたまらなさそうに。

 少女は手を見た。背を向けて立ち去るゲオルグに、向ける刃がある。あるのに。

 今は、それを己の胸に突き立てたくてたまらなかった。自分が知らない誰かのようで、信じられなかった。聖儀僧の誓いが遠く、遠くにかすんでいた。

 手の中に、まだ肉の温かみがあった。血の味、腸の弾力も。

 。ルオッサは絶望した。精神を、尊厳をけずりとる喜び。他人を平伏させ、少しずつ、少しずつ手の中に存在を切りとってゆく。その人格、その矜持を掌握することの快楽ときたら。

 ロスコーは今まで、何度も何度も自らの才能を認めさせようとしてきた。そのことごとくが拒絶され、女だから、子供だからと否定された。そこに論理はなく、自らが示した道理はすべからくないものとみなされた。

 そう、は。

 たっただけで、もう否定されない。自らが信じる優劣を補強し、耳をかさぬ愚劣な卑怯者の上に立てる。なんと――なんと、簡単なことか。

 少女は、悪徳の万能感に震えた。赦されざる愉悦に褒め称えられて。

 だから。

 だから、ルオッサは。

 ダガーを振りあげた。

 おののく手を、必死に抑えようとした。自分は生きていてはならない。

 少女は悟った。これだけの才をもって、道をあやまれば――自分は、悪魔という言葉でも生ぬるい何かに成り果ててしまう。だって今、ヴィリーにしたことすら、と感じているのだ。

 そうなってしまったら。。それだけではない。自分の罪でイレーネまで巻き添えにしてしまう。それだけは、それだけは――

「ロスコーどの!」

 からからに乾いた、叫び。

 ルオッサは無意識に、その顔を見た。

 汗だくになった、五歳も離れた青年の顔。

 ルオッサは空虚に笑った。

「なんだ、スヴェン。あたしを笑いにきたのか?」

 ダガーを振り下ろす。

「やめてくれ!」

 ダガーはふたりの間で揉まれる。ふたりは刃先で傷つきながら、地面を転がる。

 けれど、男の腕力には敵わなかった。ダガーは取りあげられ、投げ捨てられる。

「ロスコーどの、どうして、こんな……!」

 雑草の海に転がって、ルオッサは肩で息をし、あざわらった――自分自身を。

「……いつもこうだ。どうしてあたしは乳房をもって産まれた。なぜいつまでも子供なのだ。そのくせ、あたしの許しなくこの体は女に近づく。もううんざりだ!」

 スヴェンが覗きこんでいた。その顔が暁光に照らし出される。

 ルオッサは、ぽかんと口をあけた。それは今のルオッサをして、そんなに苦しいのか、と言葉を失わせるほど、苦悩に満ちていた。

「ゆこう。イレーネが待っているよ」

 その言葉で、ルオッサは自分が成すべきことを思い出した。かたわらに固めた薬草に目をやり、けれど、

「イレーネ、イレーネ……いつの間にか、気安くなったものだな」

 ルオッサがそう悪態をつくと、スヴェンは悲しそうにその痩身を縮こまらせた。ルオッサは構わず続ける。

「この際だから警告しておくぞ。イレーネに近づくな! ……何を吹きこんだ」

 その時、朝日が差した。

 スヴェンの全身があらわになる。

 ルオッサは目を見開いた。

「スヴェン、お前……!」

 スヴェンは傷だらけだった、満身創痍だった。腕も胸も、縛った布が真っ黒だ。生きているのが不思議なほどの重傷に、どうして気づかなかったのか。

 スヴェンは、目尻を湿らせていた。切り裂かれた服の下、胸元で十字架が光る。

「――すまない」

 ルオッサは体を起こし、思わず逃げ腰になる。何が、とは問えなかった。

 そしてにわかに、ルオッサは自らの犯した罪が背後にあることを思い出した。速やかに立ち去らなければ、恥をさらすことになると思った。

 立ちあがり、かためた薬草を拾いあげる。

「うっ……?」

 その時、いきなり下腹部でなにかがたじろいだ気がして、ルオッサは固まった。また吐き気がする。それはいつものことだ。でも、自分の内側で何かが動くような感触は初めてで、少女は当惑した。

 後ろでスヴェンが、不安そうな表情をしていることに気づいた。

「戻るぞ。急がねば……」

 スヴェンは沈黙で肯定し、追従した。

 それを背に感じても、ルオッサは拒絶し続けていた。それにすがりついていた。

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