月下の宴
翌日の訓練は、全体的にあまり身が入っているとは言いがたかった。
あの時計じかけのような
そんな様子だったので、ハインはあきらめて午後は自由とした。集中できないまま真剣を振るわせれば、いらぬ面倒を増やすことになる。
それに、ハインやギエムリョースリの兄弟にも時間が必要だったのもある。
ヴァルターから直々に、ハイン含む四人の指揮官は働きすぎだ、と一喝された。実際に過労気味だったのはハインだけなのだが、その要件は「風呂に入れ」というものだった。祭事に出席するにあたり、多少なりとも体を清め、休めておけということらしい。ハインはヴァルターがどうかしてしまったかと疑念すらいだいたが、至極まっとうな指摘だったため粛々と従った。
ハインが森から小川の水を汲んでくると、ちょろちょろと兵士の間を駆けずりまわる“仔犬”の姿が目にはいった。あらためてみると、仔犬の風体は目に余る。かなり長い髪なのに乱れ絡まりきっているし、こってりと垢がへばりついている。ハインは仔犬の相手をしていた兵士たちを呼びとめ、必要なら行水するといいと棒石鹸を何本か渡した。兵士たちは目を白黒させたり、にやついたりした。
はあ、とハインはため息をつく。
「全員に伝えろ。希望するなら沐浴するといい。足りなければダンから出させる。だが『失くした』は通用しないぞ!」
そう釘をさされると、彼らはぴゃっと散る。その背をにらむ目を戻し、
「ほら、おいで」
と、ハインが優しい声で仔犬を呼ぶ。
すると仔犬は、長い前髪のなかから、だらしない笑みでハインを見上げた。
「ぎゃんだぁーっ!」
「犬かおまえは! 仔犬だったな!」
平野の見える森の裾、小さなせせらぎの脇。ハインは仔犬と格闘していた。水につけられると悟るや大暴れし、服を脱がせようとするとかんしゃくを起こした。髪も切ってやるかと考えていたハインだったが、過ぎた望みだったとあきらめた。
ひとまず両脇を抱え、水に足をつけさせる。仔犬はこの期に及んでも、
「ほら、きれいにしてやるから」
その青鹿毛の上半身には、いくつも被毛の欠けた箇所があった。白墨で子供が落書きしたように、そこだけが無毛の瘢痕になっている。
仔犬はそれを見るや、急に大人しくなった。観念したか、とハインは仔犬の一枚しかない服をひっくり返して脱がす。
今度はハインが大人しくなる番だった。
裸体となった仔犬――その白い肌には、あまたの古傷がひしめいていた。
それも、ちょっとやそっと傷ついた程度ではない。明確な悪意、害意がなければ残らないもの。それらの瘢痕の一部は、顔にまでかかっている。
「なんて、むごい……」
「だぁ……?」
仔犬の肌はそれを見る者に、石の下でびっしりと身を寄せるミミズを思わせる。酸鼻極まる虐待を受けていたのは想像にかたくない。よくこれだけの傷を負って、生きているものだ。そうハインは心を痛めた。
いや、違う。ひょっとすると、
ハインは己の力不足を恥じた。決してそれは、彼の責ではない。けれど、それを自らの罪だと彼はしょいこんだ。それが、ハインという騎士の在り方だったから。
次にはひとつ深呼吸して、ハインはこわい顔をほぐした。頭を洗ってやろうと石鹸を泡立てていると、仔犬はハインの指をつかむ。その指には義兄弟と同じく、止水卿から授かった指輪がある。
「どうした。指輪がほしいのか?」
だが、どうも違うらしい。仔犬は川岸の一点を指さし、にへら、と笑っている。みると、そこだけ薄く青い光を放っている。言われなければ夜でも気づかないほどの、かすかな燐光。ハインは血相を変え《
仔犬の顔があらわになる。無邪気でしどけない表情だが、利発そうな太い眉が全体を引き締める。特に目を引くのは、ざくろ石を思わせる緋色の瞳。
ハインはめずらしい瞳だな、とその目をじっとみつめた。みつめられることが不思議だったのか、仔犬はまさしく犬の仕草で首を傾ける。その様子があんまりにもほほえましいものだから、ハインもつられて笑った。
小一時間をかけて、ハインは仔犬をきれいさっぱり洗いあげた。棒石鹸を丸々ひとつ使い、くしを一本ダメにした成果は、それは見事なものだった。長い赤髪は見違えるほど美しくなり、垢を落とせば子供特有の柔らかく血色のいい肌が顔を出した。けれどもそれは苦難の道のりだった。目に石鹸が染みるたびにハインはどつかれ、体をこすればくすぐったいと蹴りを入れられた。
しかし、やはりすっきりすると本人も気持ちがいいらしい。河岸を全裸で走り回る少女を見ていると、ハインは満たされた気持ちでいっぱいになった。最後に仔犬の一張羅である肌着を洗って着せてやると、野犬から素朴な村娘くらいにはなった。
「この戦いが終わったら、必ず郷里に返してやるからな」
そういって仔犬を解放すると、仔犬は鎖を切られたように走りだす。
兵士たちの元へかえってゆくその背に、ふとハインは思う。
――あの子がいれば、このように世話をしたのだろうか。
せんないことだ。そう分かっているのに、ハインは考えずにはいられない。
「これも、罰か」
彼はひとつ伸びをすると、寝癖のひどい自分の体を洗いにかかった。
「あぁ……うあっ……」
馴染みのある喃語に顔をあげると、仔犬が木の陰からこちらを見ている。
「なんだ、まだいたのか。もうひどいことはしないぞ」
「うぅ、あっ、ああぅ……るぃ……」
あ、り、が……。
つたない、感謝の言葉。
ハインは我もなく涙ぐんだ。その言葉は、なにものにも代えがたい喜びだった。自分の希望的観測――少女の唖が一時的で、治りつつあること――が正しかったこともある。けれど一番は、
今まで自分が犯してきた、無数の血塗られた罪。それが決して独りよがりではないと、正しい理想のもとに積みあげられた行いなのだと――赦されたのだと。
ハインはそんなふうに思いたくて、たまらなかった。
ほの暗い森を、暗緑色の蛍光が照らしだす。満ちたりた月明かりとあわさって、かろうじて景色に色がつく。
草人たちの砦の上、猫の額のような広場。無数の
ドルイドに取り囲まれて、百人に満たない草人たちが踊る。森の葉がこすれる音だけが広場を満たす。ハインと兵士たちはそれを、高台から見ていた。その異国情緒を感じさせる儀式を、野次ひとつ飛ばせずに見守っていた。あの静止すると死ぬような犬人ですら、子供のように目を輝かせていた。
草人たちがいっせいに口笛をふく。草笛と頬笛が続き、
「あれが頬笛?」
らしいな、とハインはリタに答えた。頬に糸を当て、口の中で音を反響させる。それが、あんな滑稽な音をびよん、と跳ねさせるのだろう。
優美で可憐で、そして切ない旋律。今この一瞬がいとおしくてたまらなくなるような、胸に染みいる音色。教養はむしろ不要だった。
リタの心がうるみ、遠いところをみている。それがわかって、ハインは愛犬をそっとなでる。耳と首が腕に沿わされる。リタはそれ以上ともにいると、離れられなくなるような気がしたらしい。「通訳がいるよね」と歩いて行った。ハインも、それを咎めなかった。
草人たちの髪の中、いくつもの花が開いていた。柳のような枝から咲くそれは、藤の花によく似ていた。ただ一点、その色だけがみな異なった。昼の陽のなかでは空色や桃色、
等間隔に並んで控えめに踊っていた草人たちは、その秩序を崩していっせいに入り乱れた。そして迷うことなく、相手を見つける。同じ花を咲かせた二人組は、それぞれ両手を結び、くるくると世界をまわす。
みんなが、笑っていた。どの草人も、今だけは冷たい仮面がこわれ、血の通ったほほえみを浮かべていた。――まるで、一生分のしあわせをみつけたように。
「やるかね」
ハインが顔をあげると、おおむね隣にいてよいはずのない人物が立っていた。磁器のように美しき
「よろしいのですか、フェルゼン殿。戦中に酒などいただいても」
「酒も糧食も、口に入らなければ無用の長物。
案ずるな、これは私からのささやかな贈り物だ。少ないが存分に味わってくれ」
フェルゼンはハインの隣に足を開いて腰かけると、にごり酒で口を濡らした。礼にならいハインも口をつける。穀物の甘みのある薄い酒で、子供の飲むような甘い酒だった。それを味わいながら草人たちの舞う姿を見ていると、だんだんと分かりかけてきた――草人たちが、森のなかでどのような生活を育んでいるのか。
「部下も分かってくれるとよいのですが。草人も犬人も、同じヒトであると」
「そうだな。違うところを数えあげてもキリがない。剣と弓をとらば、みな等しく志を同じくする戦士。その一点だけは変わるまい」
戦士という言葉に、ハインはぴくりと反応した。彼は何も口にはしなかったが、フェルゼンはそれを見咎めた。
「ハイン。貴殿は草人が刀をとること、それ自体を忌避しているようにみえるが」
ハインは言葉を探した。今は大切な時期、適当にはぐらかすのが賢明だろう。
でも、けれど。明日のことなど頭にないかのように笑う、天真爛漫な草人たちをみていると、耐えられなかった。
「……分かってはいるのです。彼らは成人であると。しかし、彼らが剣を取らねばならなかったのか、本当に彼らでなければならなかったのか――一度そう思ってしまうと、私はいてもたってもいられないのです」
フェルゼンは、我が子たちに視線を向ける。人間と比べれば、見てくれだけとはいえ、まだほんの子供のような草人たち。
「――ハイン。貴殿が同盟軍の使者でよかった。私は心の底からそう思う」
ハインは、贖罪者の顔を隠せないまま、フェルゼンの顔を見上げた。
「そういえば、伝えていなかったな。これはな、つがいを見つける祭りなのだ」
つがい、と口の中で言葉を転がす。配偶者。伴侶――新たなる芽を育む相手。
「私も、私の言葉に何の疑いもなく従う彼らを前にすると、ためらいを覚える――私が死ねといえば死ぬのだ。ドーファのように割り切ることはできぬ」
だがな、と岩人は前置きを終えた。
「心せよ、ハイン。それは、我が子らにとっては侮辱だ。百歩譲って、我が子らがまだものの道理をわきまえぬ童子だとしよう」
だからといって、彼らの意志を無下にしてよいのか?
「それは……」
「人間でも同じことだ。幼子がなけなしの勇気をもって手にした剣は、庇護者がむしりとってよいものではない。その意志の萌芽は、きっと尊いものなのだ」
ハインは何度も、フェルゼンの言葉を咀嚼した。
素朴な笛の音が、ふたりの間を満たす。
「……そうか。そうだったのか。俺は、子供の頃の記憶を忘れていた」
ハインは少しだけ、背中が軽くなった気がした。
「ありがとうございます、フェルゼン殿。今のお言葉、決して忘れません」
「大したことではない」
そう、フェルゼンは酒器を差し出す。
目線はあわせないが、ふたりはかちんと猪口をあわせた。
「――ああ、まこと大したことではない。
私もいまだ、年端もゆかぬ若輩者。……おそろしいのだ」
その震えた声に、ハインは思わずその顔をみる。その顔は
「酔いが回られたのですか」
「これは化身だ。私を酔わせるならば、サーインフェルクの大河ほどの酒が要る。……まこと、酔えればよかったのだがな」
ハインは隣にいる存在の急変に、かける言葉がなかった。
「ハインよ」
暗色のコボルトは、じっと耳をすませた。蛍光の光が通りすぎてゆく。
「貴殿は、犬を拾った」
たとえばの話だ、とひと呼吸おく。
「犬は貴殿の命令なら何でもやるほど懐いた。そこに理由などない。そして時が経つと、犬はつがいを得て子をなした。犬は子にこう教えこむのだ」
我らはこのお方に命を与えられた。ゆえにお前の命も主のもの。主が没されるまで、末代に至るその日まで、すべてを捧げてつくすのだ――と。
「ハイン。貴殿の過ちが犬を何匹死なせようとも、彼らは自らの力不足を恥じるのみ。どれだけ時が経とうと、彼らは雨の後の
終わらない。永遠に貴殿は犬を死なせ続ける。
「何を――何をおっしゃっているのです」
ハインが静かに鋭くいうと、フェルゼンは我にかえったように空を見上げた。
「……かたじけない。酔っているのかもしれぬな」
「貴女は、ずっとそのような思いで……?」
「――もう、我らは子のなし方も忘れてしまった。私は最後の岩人なのだ。ゆえに最後に集結するのは、私のもとだろう」
それが、おそろしくてたまらない。
「フェルゼン殿。さっきおっしゃられた言葉をお忘れになりましたか」
ハインはそういうと、猪口を空にした。フェルゼンは土器を置き、立ちあがる。
「そうだな、そうなのだが――ああ、今は悩むまい。我が子らを頼む、ハイン殿」
承知しました、とハインは答えた。
相手を見ることなく。フェルゼンの化身は、森の影に消えてゆく。
祭りは終わりに向かう。音色が減り、森の声が大きくなる。
だが、月花祭が円満に終わることはなかった。
その時、無数の鳥が飛び立った。
「敵だ、敵だあ!」
祭りを切り裂く、叫び声。ハインは既に駆けだしていた。耳をぐるりと回して、周囲の音を聞き分ける。ざわざわと森が騒ぐなかに、南から接近してくる足音がいくつも混ざっている。
踊っていた草人たちがとまどうなか、砦から草人の戦士が飛びだす。ハインは兄弟をさがすが、薄暗い雑踏ではみつけられない。リタの視界をのぞくが、人垣に邪魔されて位置がつかめない。
ハインは断念し、草人たちの舞台へ飛びおりた。まっすぐ舞台を突っ切る。
眼下には夜の森が広がっている。ハインはためらうことなく、森へ飛びこんだ。
《
ハインは、ぞっとした。
「ご主人、お待たせ!」
足音なくリタが並走する。リタが現れ、ハインはとても心強く思った。わずかに浮遊したリタの背にまたがり、命令を下す。
「二時の方向へ頼む!」
リタは地形を無視し、あらん限りの力で走った。ハインは覆いかぶさるような前傾姿勢で、五感を研ぎ澄ます。魂の呪文書を確認し、手ごろなものをふたつほど詠唱、待機させた。
ハインとリタは同時に察知した。
人の声。木々の隙間に動く影。誰かが追いかけられている!
「やめたまえ、ぐぁっ……!」
悶絶する声に、矢も盾もたまらずリタは飛び出した。森の中の、わずかな広間。青白い月光が
火花が散り、襲撃者の姿を照らしだす。
黄金色の鎧、沼の底のような漆黒の剣。
「黄銅の騎士――!」
ハインとリタの突撃は、鎧に弾かれた。刹那の会敵の後、再び月明かりの薄闇に満たされる。リタは宙で身を翻し、体を敵に向ける。
ハインの背を冷や汗が伝う。よりにもよって、最も出会いたくない相手と。
「ハインどの……?」
聞き馴染みのある声は、アーレント司祭のものだった。見ると、仔犬が彼の陰に隠れている。司祭は敵に背を向け、仔犬をかばって両腕を広げる。
その両手は、月の光に黒く濡れていた。
「まさかあなたが、黄銅の騎士だとは……。夜襲のような真似をしただけでなく、このような幼子まで巻きこむ。貴方に騎士の誇りはないのですか!」
満月に照らし出された、赤いはずの僧衣。いま、その背中は黒くにじんでゆく。月明かりのもとでも、その傷の重篤さは容易にみてとれた。
黄銅の騎士は、剣を構えたまま動かない。その篭手が、かたかたと震える。
「命拾いしたな、犬の騎士」
一歩。黄銅の騎士の足が退く。
「ハイン!」
別の声が割り入った。それを引き金に、土砂が舞いあがる。思わず目をかばったハインは、音を追って空を見上げる。輝く一対の翼が、闇夜を飛翔してゆく。
「退いてくれたのか? だが、なぜ……?」
「ハイン! 早く、姉さんのところへ!」
走ってくるのはウラだった。ハインは嫌な予感がした。ウラは麓の本陣に残り、ガルーは部下と
「ウラ、何があった?」
「別働隊がいるんだ! 姉さんひとりで砦の方へ追っかけてって――」
まさか――まんまと釣られたのか?
「ウラ、アーレント司祭と仔犬を頼む。リタ、砦へ急げ!」
「うん、わかった! ガルーさん……待ってて!」
その月毛の犬人は、生まれながらの俊敏さと体力で追跡し続けていた。
ひとりを音もなく殺し、ひとりをもみあいの末に殺し、瞬く間に人間の斥候はふたりになった。本来なら、深追いする必要はなかった。息子やその仲間は祭りに参列している。自分の仕事は異常を知らせることで、あとは挟撃で袋のネズミにしてやれば済むはずだった。
だが、胸騒ぎがした。ロンとパテンが死んだ日と同じ悪寒があった。
斥候の統率者が、どうも人間とは思えないことも拍車をかけた。気づけば自分らしくない行動をしていた。
頭上。白刃が閃く。
「な、に……!」
頭巾と装束が切れ、はだける。白いむく毛を血が染める。
樹上から降ってきた人影の手の中、刃が光を照り返す。月明かりとはいえ、白い体毛は十分すぎるほどその姿を浮き彫りにした。
「犬め、イルムフリート様に楯突くとは、相手を間違えたな!」
斥候が短剣を振りかぶる。腕をあげるのが間にあわな――
「ぎゃっ!」
夢中だった。刃が振り下ろされるより速く、彼女は体当たりで飛びつき、喉笛に食らいついた。必死に食いちぎり、短剣で胸を刺した。恐怖のあまり不要な止めを刺していると気づいたのは、三度胸を刺してからだ。
――イルムフリート?
彼女は弾かれるように駆けだした。確かにそう聞こえた。ではあれは、ハインの
あいつのなかには、
視界が開ける。人間がひとり、目の前を走っている。あいつだ、と月毛の犬人はナイフを手の中で握りなおす。
その人間は、短剣を抜いた。
白刃が月の色に光る。
その先には、ひとりの草人の少女がいた。
少女が気づく。少女は目を見開き、刀の柄に手をやるが、抜くには――
「ぐぁッ、こ、のぉ……!」
「なっ、なんだてめえ! まだいやがったのか!」
メスのコボルトは自らの腕で凶刃を防ぎ、弧の残像とともにナイフを振るった。男は宙で身を翻してかわす。
「あんたがハイヌルフだね! あたしのかわいい弟にそんな真似はさせないよ!」
コボルトは自分の行動を信じられずにいた。
無我夢中のあまり、自分はなにを?
「なに言ってんだ? てめえにゃ用はねーんだよ!」
素早い身のこなし、フェイントをおりまぜたナイフさばき。それは見事なものだった――そう、人間には到底不可能なほどに。
コボルトはそれらをさばき、紙一重でかわしながら、返す刃で胴を切り裂いた。
「いッ――な、なんだこいつ!」
「そりゃコボルトのナイフだね。人間にゃ軽すぎるものさ」
そう。男の――ハイヌルフの技量は大したものだ。もしこの男がコボルトなら、一瞬のうちに切り伏せられていただろう。だが、人間の肉体でコボルトの動きをすれば、それは劣化品でしかない。人間には、犬人ほどの機敏さはないのだから。
彼女は攻めた。ここでこの男を捕らえると決意した。そして、似ても似つかない弟に返してやるのだ。
「ばっ、バカにしやがって!」
男はナイフをもうひとつ抜いた。四丁のナイフが衝突する。二振りのナイフ相手には、僅差で相手の技量が物を言う。じわじわと劣勢になる。
まずい、と一歩退き――
「はあッ!」
彼女の後方から、草人が刀を下から上へ振りあげた。
舌打ち、男の前髪がはらり、と落ちる。
その少女に、彼女は見覚えがあった。たしか、スアイドとかいう――。
――まさか、狙いは草人の指揮官?
そう感づいた時だった。
「うぜえよ、本当にうぜえ」
男の側頭部が、青白く光った。
七つ角の紋章。
それが目に入った途端、彼女は魂の底から恐怖にのみこまれた。
逃げなきゃ。にげなきゃ殺される。死ぬ、しんじゃう、しにたくない。
本能が恐怖を叫び、腰が逃げた。
けれど、動けなかった。
まるで時間そのものが体にへばりついているかのように、ごくゆっくりとしか動けない。到底逃げられないと悟り、恐慌に陥りそうになる。
ナイフが宙にあった。回転している。
隣のスアイドも動けないようだった。
ナイフはひとつ、スアイドに向かって宙を滑っている。
それを知るや、彼女の一部が歓喜した。
けれど。
変わってしまったのだ。卿から知恵の指輪をはめられ、ロンとパテンが死んだあの日から変わってしまった。学んでしまった。ハインとかいう気高い生き方を。そんなものを知らなければ、自分は悩むことなく生きることができたはずなのに。犬人というものが、浅はかで愚劣な生き物だと知らずにすんだのに。
ガルーは――自分の中のコボルトがだいきらいだった。
ナイフが、突き立つ。
喀血、血が下草を濡らす。
「はっ、はあ?」
バカなのか、とハイヌルフがいう。
「馬鹿なんだよ。あたしらはね」
胸からあふれだす血液が、染め残しの毛皮を赤く染める。
時間はねばったまま。
「二度も手間をかけさせやがって……!」
ハイヌルフは再びナイフを構えた。
その背に短剣が突き刺さる。
「いッ、いてえ! 誰だちくしょう!」
「そこまでだ!」
リタに騎乗したハインが、男の後ろから飛び出してくる。銀のロングソードに、研ぎたての刃が現れる。突進の速度が乗った剣が迫る。
男は恐慌した。
ハイヌルフは目をつぶった。現実は消えてなくならないのに。
空をつんざく轟音。
ハインの剣が届く寸前、光の翼が目の前の
粉塵が収まると、空では流星のような光が南へ滑空していた。
「姉さん、ねえさん!」
ようやく追いついたウラが、泣きながらガルーへ駆け寄る。抱き起こしながらスアイドは森賢者を呼びたてる。ハインも血の臭いに血相を変え、飛び起きた。
「わたしをかばい、この傷を……」
「ねえさん、しっかりして!」
ガルーの手にすがり、ウラは震える声で懇願した。だれか、誰か助けてくれと。もはや《奇跡》でも起こさない限り、助かりようのない深手だと知りながら。
ハインの隣には、いつの間にかダンが立っていた。
憔悴しきったその顔は、言葉が喉に詰まったように歪んでいた。
ダンもいつ倒れてもおかしくないほど、過呼吸になっていた。
黒い水たまりは広がらない。命が地に吸われてゆく。
「ガルー、なぜ……」
コボルトは末期の息に肩を上下させながら、ハインを見上げた。
「買い、かぶって、くれるなよ……これは、誇りとか……名誉のためじゃ、ない」
ただ、たださ。
「最期くらいさ――かっこつけたかったんだよ」
ガルーの目から、月光が消えた。
ウラの慟哭が、砦じゅうに響きわたる。
少なくとも、彼女はひとりではなかった。
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