月下の宴

 翌日の訓練は、全体的にあまり身が入っているとは言いがたかった。

 あの時計じかけのような草人アールヴが浮足だって森に帰る。そんな異常事態を兵らは目の当たりにした。さぞ豪華絢爛なのだろう、いや儀式ばかりのつまらんものさ――昼飯時はその話題で持ちきりだった。ただ、残った草人にどのようなものかとたずねるに、決して退屈なものではなさそうだった。普段は空虚な仮面のような顔を、その時ばかりはほころばせ、面映ゆい、ないし我らの幸福、と答える。具体的な中身が語られないだけに、人間は犬人と一緒になってあれこれ予想した。

 そんな様子だったので、ハインはあきらめて午後は自由とした。集中できないまま真剣を振るわせれば、いらぬ面倒を増やすことになる。

 それに、ハインやギエムリョースリの兄弟にも時間が必要だったのもある。

 ヴァルターから直々に、ハイン含む四人の指揮官は働きすぎだ、と一喝された。実際に過労気味だったのはハインだけなのだが、その要件は「風呂に入れ」というものだった。祭事に出席するにあたり、多少なりとも体を清め、休めておけということらしい。ハインはヴァルターがどうかしてしまったかと疑念すらいだいたが、至極まっとうな指摘だったため粛々と従った。

 ハインが森から小川の水を汲んでくると、ちょろちょろと兵士の間を駆けずりまわる“仔犬”の姿が目にはいった。あらためてみると、仔犬の風体は目に余る。かなり長い髪なのに乱れ絡まりきっているし、こってりと垢がへばりついている。ハインは仔犬の相手をしていた兵士たちを呼びとめ、必要なら行水するといいと棒石鹸を何本か渡した。兵士たちは目を白黒させたり、にやついたりした。

 はあ、とハインはため息をつく。

「全員に伝えろ。希望するなら沐浴するといい。足りなければダンから出させる。だが『失くした』は通用しないぞ!」

 そう釘をさされると、彼らはぴゃっと散る。その背をにらむ目を戻し、

「ほら、おいで」

 と、ハインが優しい声で仔犬を呼ぶ。

 すると仔犬は、長い前髪のなかから、だらしない笑みでハインを見上げた。


「ぎゃんだぁーっ!」

「犬かおまえは! 仔犬だったな!」

 平野の見える森の裾、小さなせせらぎの脇。ハインは仔犬と格闘していた。水につけられると悟るや大暴れし、服を脱がせようとするとかんしゃくを起こした。髪も切ってやるかと考えていたハインだったが、過ぎた望みだったとあきらめた。

 ひとまず両脇を抱え、水に足をつけさせる。仔犬はこの期に及んでも、水面みなもから逃げようともがく。激しく飛び散る水をまともに浴び、ハインまでびしょ濡れになる。ハインはもはやこれまでと自分も半裸になった。コートとナイフベルトを置き、シャツを脱ぐ。

「ほら、きれいにしてやるから」

 その青鹿毛の上半身には、いくつも被毛の欠けた箇所があった。白墨で子供が落書きしたように、そこだけが無毛の瘢痕になっている。

 仔犬はそれを見るや、急に大人しくなった。観念したか、とハインは仔犬の一枚しかない服をひっくり返して脱がす。

 今度はハインが大人しくなる番だった。

 裸体となった仔犬――その白い肌には、あまたの古傷がひしめいていた。

 それも、ちょっとやそっと傷ついた程度ではない。明確な悪意、害意がなければ残らないもの。それらの瘢痕の一部は、顔にまでかかっている。

「なんて、むごい……」

「だぁ……?」

 仔犬の肌はそれを見る者に、石の下でびっしりと身を寄せるミミズを思わせる。酸鼻極まる虐待を受けていたのは想像にかたくない。よくこれだけの傷を負って、生きているものだ。そうハインは心を痛めた。

 いや、違う。ひょっとすると、のかもしれなかった。

 ハインは己の力不足を恥じた。決してそれは、彼の責ではない。けれど、それを自らの罪だと彼はしょいこんだ。それが、ハインという騎士の在り方だったから。

 次にはひとつ深呼吸して、ハインはこわい顔をほぐした。頭を洗ってやろうと石鹸を泡立てていると、仔犬はハインの指をつかむ。その指には義兄弟と同じく、止水卿から授かった指輪がある。

「どうした。指輪がほしいのか?」

 だが、どうも違うらしい。仔犬は川岸の一点を指さし、にへら、と笑っている。みると、そこだけ薄く青い光を放っている。言われなければ夜でも気づかないほどの、かすかな燐光。ハインは血相を変え《魔力感知ディテクト・マジック》を唱える。その結果にハインはほんの一拍、黙考した。だが次には「でかしたぞ」と、仔犬の頭をなでた。仔犬は呆けた笑顔のまま、ただそのきれいな光を共有できた喜びに浸っている。ハインは不思議な子供だ、と思い仔犬の前髪をかきわけた。

 仔犬の顔があらわになる。無邪気でしどけない表情だが、利発そうな太い眉が全体を引き締める。特に目を引くのは、ざくろ石を思わせる緋色の瞳。

 ハインはめずらしい瞳だな、とその目をじっとみつめた。みつめられることが不思議だったのか、仔犬はまさしく犬の仕草で首を傾ける。その様子があんまりにもほほえましいものだから、ハインもつられて笑った。

 小一時間をかけて、ハインは仔犬をきれいさっぱり洗いあげた。棒石鹸を丸々ひとつ使い、くしを一本ダメにした成果は、それは見事なものだった。長い赤髪は見違えるほど美しくなり、垢を落とせば子供特有の柔らかく血色のいい肌が顔を出した。けれどもそれは苦難の道のりだった。目に石鹸が染みるたびにハインはどつかれ、体をこすればくすぐったいと蹴りを入れられた。

 しかし、やはりすっきりすると本人も気持ちがいいらしい。河岸を全裸で走り回る少女を見ていると、ハインは満たされた気持ちでいっぱいになった。最後に仔犬の一張羅である肌着を洗って着せてやると、野犬から素朴な村娘くらいにはなった。

「この戦いが終わったら、必ず郷里に返してやるからな」

 そういって仔犬を解放すると、仔犬は鎖を切られたように走りだす。

 兵士たちの元へかえってゆくその背に、ふとハインは思う。

 ――あの子がいれば、このように世話をしたのだろうか。

 せんないことだ。そう分かっているのに、ハインは考えずにはいられない。

「これも、罰か」

 彼はひとつ伸びをすると、寝癖のひどい自分の体を洗いにかかった。

「あぁ……うあっ……」

 馴染みのある喃語に顔をあげると、仔犬が木の陰からこちらを見ている。

「なんだ、まだいたのか。もうひどいことはしないぞ」

「うぅ、あっ、ああぅ……るぃ……」

 あ、り、が……。

 つたない、感謝の言葉。

 ハインは我もなく涙ぐんだ。その言葉は、なにものにも代えがたい喜びだった。自分の希望的観測――少女の唖が一時的で、治りつつあること――が正しかったこともある。けれど一番は、からだった。

 今まで自分が犯してきた、無数の血塗られた罪。それが決して独りよがりではないと、正しい理想のもとに積みあげられた行いなのだと――赦されたのだと。

 ハインはそんなふうに思いたくて、たまらなかった。


 ほの暗い森を、暗緑色の蛍光が照らしだす。満ちたりた月明かりとあわさって、かろうじて景色に色がつく。

 草人たちの砦の上、猫の額のような広場。無数の蛍袋ほたるぶくろが咲き乱れるなか。

 森賢者ドルイドたちは《妖精光ダンシング・ライツ》の制御をしながら、静かに小さく、踊っていた。

 ドルイドに取り囲まれて、百人に満たない草人たちが踊る。森の葉がこすれる音だけが広場を満たす。ハインと兵士たちはそれを、高台から見ていた。その異国情緒を感じさせる儀式を、野次ひとつ飛ばせずに見守っていた。あの静止すると死ぬような犬人ですら、子供のように目を輝かせていた。

 草人たちがいっせいに口笛をふく。草笛と頬笛が続き、つづみが後を追う。

「あれが頬笛?」

 らしいな、とハインはリタに答えた。頬に糸を当て、口の中で音を反響させる。それが、あんな滑稽な音をびよん、と跳ねさせるのだろう。

 優美で可憐で、そして切ない旋律。今この一瞬がいとおしくてたまらなくなるような、胸に染みいる音色。教養はむしろ不要だった。

 リタの心がうるみ、遠いところをみている。それがわかって、ハインは愛犬をそっとなでる。耳と首が腕に沿わされる。リタはそれ以上ともにいると、離れられなくなるような気がしたらしい。「通訳がいるよね」と歩いて行った。ハインも、それを咎めなかった。

 草人たちの髪の中、いくつもの花が開いていた。柳のような枝から咲くそれは、藤の花によく似ていた。ただ一点、その色だけがみな異なった。昼の陽のなかでは空色や桃色、浅葱あさぎ色に臙脂えんじ色だったつぼみたちは、今や蛍光のみの暗がりで、モノトーンの花弁をいくつもふりまいていた。

 等間隔に並んで控えめに踊っていた草人たちは、その秩序を崩していっせいに入り乱れた。そして迷うことなく、相手を見つける。同じ花を咲かせた二人組は、それぞれ両手を結び、くるくると世界をまわす。

 みんなが、笑っていた。どの草人も、今だけは冷たい仮面がこわれ、血の通ったほほえみを浮かべていた。――まるで、一生分のしあわせをみつけたように。

「やるかね」

 ハインが顔をあげると、おおむね隣にいてよいはずのない人物が立っていた。磁器のように美しき岩人ドヴェルグ、草人らの主。あわてたハインは、差し出された酒器を反射的に受けとった。小さな土器かわらけ猪口ちょこには、濁った酒が入っている。素朴な甘い香りは、濾過する前の清酒を思わせる。ふと首をめぐらせると、兵士たちも相伴にあずかっている。

「よろしいのですか、フェルゼン殿。戦中に酒などいただいても」

「酒も糧食も、口に入らなければ無用の長物。

 案ずるな、これは私からのささやかな贈り物だ。少ないが存分に味わってくれ」

 フェルゼンはハインの隣に足を開いて腰かけると、にごり酒で口を濡らした。礼にならいハインも口をつける。穀物の甘みのある薄い酒で、子供の飲むような甘い酒だった。それを味わいながら草人たちの舞う姿を見ていると、だんだんと分かりかけてきた――草人たちが、森のなかでどのような生活を育んでいるのか。

「部下も分かってくれるとよいのですが。草人も犬人も、同じヒトであると」

「そうだな。違うところを数えあげてもキリがない。剣と弓をとらば、みな等しく志を同じくする戦士。その一点だけは変わるまい」

 戦士という言葉に、ハインはぴくりと反応した。彼は何も口にはしなかったが、フェルゼンはそれを見咎めた。

「ハイン。貴殿は草人が刀をとること、それ自体を忌避しているようにみえるが」

 ハインは言葉を探した。今は大切な時期、適当にはぐらかすのが賢明だろう。

 でも、けれど。明日のことなど頭にないかのように笑う、天真爛漫な草人たちをみていると、耐えられなかった。

「……分かってはいるのです。彼らは成人であると。しかし、彼らが剣を取らねばならなかったのか、本当に彼らでなければならなかったのか――一度そう思ってしまうと、私はいてもたってもいられないのです」

 フェルゼンは、我が子たちに視線を向ける。人間と比べれば、見てくれだけとはいえ、まだほんの子供のような草人たち。

「――ハイン。貴殿が同盟軍の使者でよかった。私は心の底からそう思う」

 ハインは、贖罪者の顔を隠せないまま、フェルゼンの顔を見上げた。

「そういえば、伝えていなかったな。これはな、つがいを見つける祭りなのだ」

 つがい、と口の中で言葉を転がす。配偶者。伴侶――新たなる芽を育む相手。

「私も、私の言葉に何の疑いもなく従う彼らを前にすると、ためらいを覚える――私が死ねといえば死ぬのだ。ドーファのように割り切ることはできぬ」

 だがな、と岩人は前置きを終えた。

「心せよ、ハイン。それは、我が子らにとっては侮辱だ。百歩譲って、我が子らがまだものの道理をわきまえぬ童子だとしよう」

 だからといって、彼らの意志を無下にしてよいのか?

「それは……」

「人間でも同じことだ。幼子がなけなしの勇気をもって手にした剣は、庇護者がむしりとってよいものではない。その意志の萌芽は、きっと尊いものなのだ」

 ハインは何度も、フェルゼンの言葉を咀嚼した。

 素朴な笛の音が、ふたりの間を満たす。

「……そうか。そうだったのか。俺は、子供の頃の記憶を忘れていた」

 ハインは少しだけ、背中が軽くなった気がした。

「ありがとうございます、フェルゼン殿。今のお言葉、決して忘れません」

「大したことではない」

 そう、フェルゼンは酒器を差し出す。

 目線はあわせないが、ふたりはかちんと猪口をあわせた。

「――ああ、まこと大したことではない。

 私もいまだ、年端もゆかぬ若輩者。……おそろしいのだ」

 その震えた声に、ハインは思わずその顔をみる。その顔はみにくく歪んでいた。

「酔いが回られたのですか」

「これは化身だ。私を酔わせるならば、サーインフェルクの大河ほどの酒が要る。……まこと、酔えればよかったのだがな」

 ハインは隣にいる存在の急変に、かける言葉がなかった。

「ハインよ」

 暗色のコボルトは、じっと耳をすませた。蛍光の光が通りすぎてゆく。

「貴殿は、犬を拾った」

 たとえばの話だ、とひと呼吸おく。

「犬は貴殿の命令なら何でもやるほど懐いた。そこに理由などない。そして時が経つと、犬はつがいを得て子をなした。犬は子にこう教えこむのだ」

 我らはこのお方に命を与えられた。ゆえにお前の命も主のもの。主が没されるまで、末代に至るその日まで、すべてを捧げてつくすのだ――と。

「ハイン。貴殿の過ちが犬を何匹死なせようとも、彼らは自らの力不足を恥じるのみ。どれだけ時が経とうと、彼らは雨の後のたけのこのように増えてゆく」

 終わらない。永遠に貴殿は犬を死なせ続ける。

「何を――何をおっしゃっているのです」

 ハインが静かに鋭くいうと、フェルゼンは我にかえったように空を見上げた。

「……かたじけない。酔っているのかもしれぬな」

「貴女は、ずっとそのような思いで……?」

「――もう、我らは子のなし方も忘れてしまった。私は最後の岩人なのだ。ゆえに最後に集結するのは、私のもとだろう」

 それが、おそろしくてたまらない。

「フェルゼン殿。さっきおっしゃられた言葉をお忘れになりましたか」

 ハインはそういうと、猪口を空にした。フェルゼンは土器を置き、立ちあがる。

「そうだな、そうなのだが――ああ、今は悩むまい。我が子らを頼む、ハイン殿」

 承知しました、とハインは答えた。

 相手を見ることなく。フェルゼンの化身は、森の影に消えてゆく。

 祭りは終わりに向かう。音色が減り、森の声が大きくなる。

 だが、月花祭が円満に終わることはなかった。


 その時、無数の鳥が飛び立った。

「敵だ、敵だあ!」

 祭りを切り裂く、叫び声。ハインは既に駆けだしていた。耳をぐるりと回して、周囲の音を聞き分ける。ざわざわと森が騒ぐなかに、南から接近してくる足音がいくつも混ざっている。

 踊っていた草人たちがとまどうなか、砦から草人の戦士が飛びだす。ハインは兄弟をさがすが、薄暗い雑踏ではみつけられない。リタの視界をのぞくが、人垣に邪魔されて位置がつかめない。

 ハインは断念し、草人たちの舞台へ飛びおりた。まっすぐ舞台を突っ切る。

 眼下には夜の森が広がっている。ハインはためらうことなく、森へ飛びこんだ。

 《空梯子エア・ラダー》で落下の衝撃を抑える。着地するや走りだし、耳をぴんとたて、森の声を聞く。足音のなかに、風を切る音が混ざっている。

 ハインは、ぞっとした。

「ご主人、お待たせ!」

 足音なくリタが並走する。リタが現れ、ハインはとても心強く思った。わずかに浮遊したリタの背にまたがり、命令を下す。

「二時の方向へ頼む!」

 リタは地形を無視し、あらん限りの力で走った。ハインは覆いかぶさるような前傾姿勢で、五感を研ぎ澄ます。魂の呪文書を確認し、手ごろなものをふたつほど詠唱、待機させた。

 ハインとリタは同時に察知した。

 人の声。木々の隙間に動く影。誰かが追いかけられている!

「やめたまえ、ぐぁっ……!」

 悶絶する声に、矢も盾もたまらずリタは飛び出した。森の中の、わずかな広間。青白い月光が血飛沫ちしぶきを黒く映しだす。大小ふたつの人影と、大剣を振りぬいた影。肉体の命ずるまま、ハインはナイフを突きだす。さながら騎兵のランスのように。

 火花が散り、襲撃者の姿を照らしだす。

 黄金色の鎧、沼の底のような漆黒の剣。

「黄銅の騎士――!」

 ハインとリタの突撃は、鎧に弾かれた。刹那の会敵の後、再び月明かりの薄闇に満たされる。リタは宙で身を翻し、体を敵に向ける。

 ハインの背を冷や汗が伝う。よりにもよって、最も出会いたくない相手と。

「ハインどの……?」

 聞き馴染みのある声は、アーレント司祭のものだった。見ると、仔犬が彼の陰に隠れている。司祭は敵に背を向け、仔犬をかばって両腕を広げる。

 その両手は、月の光に黒く濡れていた。

「まさかあなたが、黄銅の騎士だとは……。夜襲のような真似をしただけでなく、このような幼子まで巻きこむ。貴方に騎士の誇りはないのですか!」

 満月に照らし出された、赤いはずの僧衣。いま、その背中は黒くにじんでゆく。月明かりのもとでも、その傷の重篤さは容易にみてとれた。

 黄銅の騎士は、剣を構えたまま動かない。その篭手が、かたかたと震える。

「命拾いしたな、犬の騎士」

 一歩。黄銅の騎士の足が退く。

「ハイン!」

 別の声が割り入った。それを引き金に、土砂が舞いあがる。思わず目をかばったハインは、音を追って空を見上げる。輝く一対の翼が、闇夜を飛翔してゆく。

「退いてくれたのか? だが、なぜ……?」

「ハイン! 早く、姉さんのところへ!」

 走ってくるのはウラだった。ハインは嫌な予感がした。ウラは麓の本陣に残り、ガルーは部下と警邏けいらに当たっているはず。麓からここへは生半可な距離ではない。

「ウラ、何があった?」

「別働隊がいるんだ! 姉さんひとりで砦の方へ追っかけてって――」

 まさか――まんまと釣られたのか?

「ウラ、アーレント司祭と仔犬を頼む。リタ、砦へ急げ!」

「うん、わかった! ガルーさん……待ってて!」


 その月毛の犬人は、生まれながらの俊敏さと体力で追跡し続けていた。

 ひとりを音もなく殺し、ひとりをもみあいの末に殺し、瞬く間に人間の斥候はふたりになった。本来なら、深追いする必要はなかった。息子やその仲間は祭りに参列している。自分の仕事は異常を知らせることで、あとは挟撃で袋のネズミにしてやれば済むはずだった。

 だが、胸騒ぎがした。ロンとパテンが死んだ日と同じ悪寒があった。

 斥候の統率者が、どうも人間とは思えないことも拍車をかけた。気づけば自分らしくない行動をしていた。

 頭上。白刃が閃く。

「な、に……!」

 頭巾と装束が切れ、はだける。白いむく毛を血が染める。

 樹上から降ってきた人影の手の中、刃が光を照り返す。月明かりとはいえ、白い体毛は十分すぎるほどその姿を浮き彫りにした。

「犬め、イルムフリート様に楯突くとは、相手を間違えたな!」

 斥候が短剣を振りかぶる。腕をあげるのが間にあわな――

「ぎゃっ!」

 夢中だった。刃が振り下ろされるより速く、彼女は体当たりで飛びつき、喉笛に食らいついた。必死に食いちぎり、短剣で胸を刺した。恐怖のあまり不要な止めを刺していると気づいたのは、三度胸を刺してからだ。

 ――イルムフリート?

 彼女は弾かれるように駆けだした。確かにそう聞こえた。ではあれは、ハインの身体からだ。道理で人間の姿をしているのに、人間には思えなかったはずだ。

 あいつのなかには、が入りこんでいる。

 視界が開ける。人間がひとり、目の前を走っている。あいつだ、と月毛の犬人はナイフを手の中で握りなおす。

 その人間は、短剣を抜いた。

 白刃が月の色に光る。

 その先には、ひとりの草人の少女がいた。

 少女が気づく。少女は目を見開き、刀の柄に手をやるが、抜くには――

「ぐぁッ、こ、のぉ……!」

「なっ、なんだてめえ! まだいやがったのか!」

 メスのコボルトは自らの腕で凶刃を防ぎ、弧の残像とともにナイフを振るった。男は宙で身を翻してかわす。

「あんたがハイヌルフだね! あたしのかわいい弟にそんな真似はさせないよ!」

 コボルトは自分の行動を信じられずにいた。

 無我夢中のあまり、自分はなにを?

「なに言ってんだ? てめえにゃ用はねーんだよ!」

 素早い身のこなし、フェイントをおりまぜたナイフさばき。それは見事なものだった――そう、人間には到底不可能なほどに。

 コボルトはそれらをさばき、紙一重でかわしながら、返す刃で胴を切り裂いた。

「いッ――な、なんだこいつ!」

「そりゃコボルトのナイフだね。人間にゃ軽すぎるものさ」

 そう。男の――ハイヌルフの技量は大したものだ。もしこの男がコボルトなら、一瞬のうちに切り伏せられていただろう。だが、人間の肉体でコボルトの動きをすれば、それは劣化品でしかない。人間には、犬人ほどの機敏さはないのだから。

 彼女は攻めた。ここでこの男を捕らえると決意した。そして、似ても似つかない弟に返してやるのだ。

「ばっ、バカにしやがって!」

 男はナイフをもうひとつ抜いた。四丁のナイフが衝突する。二振りのナイフ相手には、僅差で相手の技量が物を言う。じわじわと劣勢になる。

 まずい、と一歩退き――

「はあッ!」

 彼女の後方から、草人が刀を下から上へ振りあげた。

 舌打ち、男の前髪がはらり、と落ちる。

 その少女に、彼女は見覚えがあった。たしか、スアイドとかいう――。

 ――まさか、狙いは草人の指揮官?

 そう感づいた時だった。

「うぜえよ、本当にうぜえ」

 男の側頭部が、青白く光った。

 七つ角の紋章。

 それが目に入った途端、彼女は魂の底から恐怖にのみこまれた。

 逃げなきゃ。にげなきゃ殺される。死ぬ、しんじゃう、しにたくない。

 本能が恐怖を叫び、腰が逃げた。

 けれど、動けなかった。

 まるで時間そのものが体にへばりついているかのように、ごくゆっくりとしか動けない。到底逃げられないと悟り、恐慌に陥りそうになる。

 ナイフが宙にあった。回転している。

 隣のスアイドも動けないようだった。

 ナイフはひとつ、スアイドに向かって宙を滑っている。

 それを知るや、彼女の一部が歓喜した。、あたしじゃないんだ!そう、コボルトの本能がむせび泣いていた。まだ生きていられると笑っていた――ずっとそれが当然だった。そう在るのが犬人の常だった。

 けれど。

 変わってしまったのだ。卿から知恵の指輪をはめられ、ロンとパテンが死んだあの日から変わってしまった。学んでしまった。ハインとかいう気高い生き方を。そんなものを知らなければ、自分は悩むことなく生きることができたはずなのに。犬人というものが、浅はかで愚劣な生き物だと知らずにすんだのに。

 ガルーは――自分の中のコボルトがだいきらいだった。

 ナイフが、突き立つ。

 喀血、血が下草を濡らす。

「はっ、はあ?」

 バカなのか、とハイヌルフがいう。

「馬鹿なんだよ。あたしらはね」

 胸からあふれだす血液が、染め残しの毛皮を赤く染める。

 時間はねばったまま。

「二度も手間をかけさせやがって……!」

 ハイヌルフは再びナイフを構えた。

 その背に短剣が突き刺さる。

「いッ、いてえ! 誰だちくしょう!」

「そこまでだ!」

 リタに騎乗したハインが、男の後ろから飛び出してくる。銀のロングソードに、研ぎたての刃が現れる。突進の速度が乗った剣が迫る。

 男は恐慌した。竜の刻印ドラゴンマークで捕らえる、無理だ、その時には――

 ハイヌルフは目をつぶった。現実は消えてなくならないのに。

 空をつんざく轟音。

 ハインの剣が届く寸前、光の翼が目の前のくうを切り裂いた。余波を受け、リタとハインは吹き飛ばされる。

 粉塵が収まると、空では流星のような光が南へ滑空していた。

「姉さん、ねえさん!」

 ようやく追いついたウラが、泣きながらガルーへ駆け寄る。抱き起こしながらスアイドは森賢者を呼びたてる。ハインも血の臭いに血相を変え、飛び起きた。

「わたしをかばい、この傷を……」

「ねえさん、しっかりして!」

 ガルーの手にすがり、ウラは震える声で懇願した。だれか、誰か助けてくれと。もはや《奇跡》でも起こさない限り、助かりようのない深手だと知りながら。

 ハインの隣には、いつの間にかダンが立っていた。

 憔悴しきったその顔は、言葉が喉に詰まったように歪んでいた。

 ダンもいつ倒れてもおかしくないほど、過呼吸になっていた。

 黒い水たまりは広がらない。命が地に吸われてゆく。

「ガルー、なぜ……」

 コボルトは末期の息に肩を上下させながら、ハインを見上げた。

「買い、かぶって、くれるなよ……これは、誇りとか……名誉のためじゃ、ない」

 ただ、たださ。

「最期くらいさ――かっこつけたかったんだよ」

 ガルーの目から、月光が消えた。

 ウラの慟哭が、砦じゅうに響きわたる。

 少なくとも、彼女はひとりではなかった。

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