二章 再誕の殻

忘れ草

 男の拳が、顔面をしたたかに打ちすえた。

「舐めやがって……! お前、おまえ……!」

 ロスコーは返事の代わりに、狼牙でその手に噛みついてやった。だが狼人病ライカンスロピーは向こうもおなじ。馬乗りになった大人の腕力には到底およばない。相応の手傷は与えてやったが、何度も殴られ意識はおぼろげ。股ぐらの痛みもさることながら、尊厳を汚される恥辱が意識を塗りつぶす。

 ことの発端は、どうということもない。吐きかけられた下衆な冗談を、歯牙にもかけずに無視しただけだ。そのヴィリーとかいう男は、首領に気に入られているロスコーが気に食わないらしい。たったそれだけでロスコーを後ろから蹴り倒し、体目当てのぎらついた目で覆いかぶさってきたのだ。

「お前、貴族のボンボンなんだってなあ? それがこんな穴蔵でヤられちまって、慰みものだ。へへへ、お前はもう物乞いにすら劣るガキだ。立ちんぼ以下だ」

 そう、男は下半身を裸にして、腰を振りながらささやく。ざらついた不潔な歯が笑みのなかに見え、煙草の混ざった口臭が鼻腔に這い入ってくる。

 こんな匹夫に構うな、と己の矜持は言う。相手にするな、同じ地平に立つな、と。けれどそれを実行できるのは、触れられない間だけだ。何より、無抵抗になれば、自らの肉体を好き放題にされてしまう。もう十分に汚された矜持は、到底それを許すことはできなかった。ロスコーはひとつの強い意志を固めてしまう。

「――ことか」

「ああ? よがるならもっと大きく――」

「それは、貴様自身のことか?」

 ロスコーの言葉に、男は動きを止める。

「女に相手にされないから、これほど幼い子供で獣欲を満たしているのだろう? 貴様もここから見上げてみるといい。半裸で懸命に腰を振る、無頼漢の名折れというものは、なかなかに滑稽だぞ。まさにみすぼらしい、イヌ以下の匹夫だ」

 返事は、脳震盪を起こすほどの拳骨だった。

「お、俺は騎士団員のひとり、ヴィリー様だぞ! それを、小汚い、ガキが――」

「その、小汚いガキとやらに、興奮して勃起しているのか?」

 ロスコーは鼻血を垂らし、口の端は切れていた。だが、その冷ややかな見下した笑みは、高貴さを悟らせるものだった。身体は犯せても、魂には決して触れられぬ――そう悟り、男はことの最中だということを忘れた。

「お、おま、お前は! 二度と、誰にも、乞食にすら抱かれねえ顔にしてやる!」

 人外の膂力で、顔の形が変わるほどに殴打する。狼の爪で顔を裂き、黄色い牙で幼い乳房ちぶさを食いつき、引きちぎり、吐き捨てる。

 それでも収まらず、彼はねじ切らんばかりに少女の首を絞めた。

 酸欠と激痛に意識が追いやられようとするが、ロスコーの怒りは男のそれよりはげしかった。自分の首を絞める手に、全身をよじって食らいつこうとする。男は察して手を引くが、それが悪かった。ロスコーのあぎとは、男の手首を深々とくわえこんでしまう。男は引き剥がそうと渾身の力をこめて引くが、びくともしない。

 ロスコーの細い手が伸びる。狼のそれとなった男の耳へ、指が突きいれられる。逃れようとすれば、耳孔の中に指が潜りこんでくる。どこにそんな力があるのか、手首から牙が外れる前に、ロスコーの背骨が折れそうなほどだった。

 鋼のように硬い憎悪を前に、男の脳裏にぞっとする畏怖がかすめた。恐怖から男は我を忘れ、耳ごと頭蓋を裂かんとする腕にかじりつく。手首をおさえられていることも忘れ、頭を押える腕を牙で切り裂きはじめる。肉が裂け、関節が悲鳴をあげる。それでもロスコーは、捕えたものを離さない。男が少女の腕をちぎろうともがけばもがくほど、指は耳に食いこむ。食いつかれた手首も肉がもげ、赤い骨が露出する。

 ぶち、と軽い音がした。関節を包む白膜が破れ、骨と骨の滑らかな末端が覗く。もはや少女の腕は靭帯で繋がるばかりとなり、赤黒く濡れた靭帯もひとつ、またひとつと弾けてゆく。だがロスコーは、それでも力をゆるめない。爪が耐えきれず剥がれる。牙もきしむ音がする。二匹の狂乱した狼の間を、命がすりつぶれる音が支配した。

 もし、あとほんの少し拮抗が続いていれば、直に男の脳髄が掻きまわされるか、ロスコーの腕と男の手首がちぎれるかしただろう。

 鈍い、打撲音。

 男は、ヴィリーは糸の切れた人形のようにもたれかかってきた。

 ロスコーが自分を取り戻すと、大男が立っていた。その手には、身の丈にあわぬ短いレイピアが鞘に収まったままあった。細く短い刀身であるにもかかわらず、その挙動はひどく重いものと錯誤させる。

「やっぱりやりやがったなァ、ヴィリー」

「ゲオルグ……!」

 みりみりと自分の肉体が音を立てている。全身の栄養がもっていかれ、全身を猛烈な倦怠感が包む。生き残るため、肉体が無理に修復しようとしている。負傷が重すぎて変身を維持できなくなり、体が人間へと戻っていく。

 ロスコーはよだれを拭おうとして、折れた中指の痛みに顔をしかめた。

「悪かったなァ、ロスコー。お楽しみのトコ邪魔しちゃァ悪いかと思ったんだが、ま、壊れちまいそうだったンでな、しゃァねえよな」

 ロスコーはそれがボロ布であるかのように男を押しのけ、土の上に転がる己の断片を冷静に拾った。傷がふさがる前に、よだれまみれのそれを胸に押しあてる。毛皮のついたそれはすぐさま接合し、思い出したかのようにヒトの皮膚へ戻る。

 少女の上半身は、顔面に至るまで血だらけだった。ロスコーは股間からも赤い血を流しながら、ゲオルグを見上げた。興奮の後の、冷めきった表情で。

「なぜ私を生かし続ける」

 ゲオルグはいつものニタニタ笑いを深めて、喉の奥で笑いを転がした。

「オマエは面白いからなァ」

 ロスコーの唇から、鮮血がにじむ。

「何をしでかすか、わかったものではないぞ」

「やってみりゃァいい。オレはいつも通りオマエを抱くし、オマエはオレに噛みつけばいい。気が強ェ女は好みだぜェ」

「この、変態性欲者め……!」

 ロスコーの罵りにも、ゲオルグは気の触れた笑いしか返さない。

 ゲオルグはヴィリーを片腕で拾いあげると、無造作に洞窟の外に放り捨てた。そしてそのまま出ていこうとする。が、そうそう、と不意に立ち止まる。

「まァ、部下の落とし前は付けてやらねえとな。イレーネが戻ったら、水汲みに行ってこい。今日は見張りを付けねえからよ」

 そう言い捨て、ゲオルグは出ていった。

 再生の反動がなければ。ロスコーは魂の炉に憎悪をくべる。この体が動くなら、ゲオルグを同じ目にあわせてやりたかった。自分の誇りを踏みにじった者には、何倍もの代償を支払わせなければ。胸の澱は溜まれど、決して減りはしなかった。

 

 空は晴れ渡り、背の高い雲がもくもくと立ちのぼる。

「なぜ逃げなかったのだ、イレーネ」

 イレーネは大きな桶と、そのなかにいくらかの雑貨を買って戻ってきていた。

 身丈の半分ほどもある大きなおけを手に、ふたりは開けた山道を歩く。以前の逃亡劇以来、ふたりの足には重い鎖の音が付きまとっている。それでも、麓までのお使いは絶好の機会のはずだ。

「にげたら、ひどい目にあうでしょ」

「足枷があろうと、半日もあれば十分逃げきれるではないか。そのために従順にしていたのではないのか?」

「……そんなことしたら、きっとロスコーがひどいことをされるわ」

「構うものか。何をされようと口は割らぬ」

 イレーネはふと立ち止まり、首を振る。

「そんなこといわないでよ。人狼じゃなかったら、たすからなかったでしょ!

 そんなにひどいことされて、どうして――」

 ロスコーはにわかに自らの過ちに気づき、自分の言葉を恥じた。今まで、自分のことは自分で始末してきた。自分のことを真に気にかけてくれる者なぞ、今までひとりとていなかったから。ゆえに、いまだに忘れてしまう。

「……ありがとう、イレーネ。そうだな、自由になる時はふたり一緒だ」

 涙ぐんだ目尻を拭いて、イレーネはうなずく。

「うん。スヴェンもね」

 ロスコーはそれに、あぁ、と曖昧に答えた。

 夏に向かう日差しを、まだ冷たい風がやわらげる。育ち盛りの柔らかい下草は、緑の木漏れ日と踊る。腐葉土のよいにおいが鼻をくすぐる。

 山道を降りてしばらくすると、小さなせせらぎに到着した。黒い岩間を流れる水は、手が切れるほど冷たい。

「みて、ロスコー! カニよ!」

「こんなところにもか。……かつては気にも留めなかったが、まさかこれを見て食欲を覚える日が来ようとはな」

「たべる?」

「私が食す動物は魚のみだ。イレーネは食べたことがあるのか?」

 ううん、とイレーネはどちらとも取れない返事をする。ロスコーは詮索せずに、桶に水を汲む。

 手ですくって飲むと、山歩きでほてった体に染みわたる。つい水をすくう手が二度、三度と続く。隣を見ると、イレーネもがぶがぶと水を飲んでいる。思えば、食い物も水もろくに与えられていない。洞窟の壁面から滲みでる泥水をすすり、盗賊どもの残飯をなめ、文字通り糊口をしのいで生きてきた。束の間、生き返ったような気持ちになる。

「ロスコー、血だらけだよ。ぬるぬるもついてるし、あらってみたら?」

 ロスコーは自分の右腕を触る。痛々しい瘢痕は残ったものの、幸いにして腱は繋がり、少し握力が弱まっただけで済んだ。だが、まだ動かしただけで傷が開く。そんな状態では気も進まないが、確かに洗った方が治りは早いかもしれない。

「そうだな。イレーネも行水するといい。……試したいことがある」

 ふたりは粗末な服を脱ぎ、生まれたままの姿で体を洗った。案の定、全身のそこかしこが悲鳴をあげるが、構わずごしごしと汚れを落とす。

 ふと、ロスコーが顔をあげると、イレーネが自分の体をみていた。目があって、イレーネは目をそらしてしまったが、その顔は悲痛にくしゃくしゃになっていた。自ら見下ろしてみると、確かにそこかしこに古傷がある。今後も増えるだろうが、特にそれを憂えたことはない。

 自分には、女としての魅力に訴える必要がないのだから。

 それと比べると、イレーネはずいぶんと綺麗なものだ。ひとつふたつは首元に咬傷かみきずがあるが、自分のように胸が溝に囲まれるようなことはない。――願わくば、今のまま、元の生活に返してやりたい。ロスコーはそんな思いに再びとらわれた。

「――ねえ、ロスコー」

「何だ?」

「ロスコーのむね、ふくらんでるね」

 見ると、イレーネは乳輪がわずかに出てきたくらいだ。自分と比べれば、確かにそのとおりかもしれない。

「……そうだな」

 けれど、面と向かってそう言われると面映ゆい。そして何より、不愉快だった。

「ごめん、イヤだった?」

「……イレーネのせいではない」

 顔を背けている自分が、イレーネに見せたくない目付きをしているのが分かる。

 なぜ、私の許しもなく、この体は――。

「イレーネが羨ましいだけだ。許してくれ」

 銀髪の少女は、何かを吐きだそうとして、口をつぐんだ。

 

 ロスコーはしばらく裸で過ごそうかとも思ったが、さすがにはしたないか、と簡単に服をすすぐとそのまま着てしまった。イレーネもそれにならおうとするが、

「少し待ってくれないか」

 イレーネは裸のまま、きょとんとする。「ちょっとそのあたりを歩いてみてくれ」と言われて、首を傾げながらも服を置き、気の向くままそこから歩きだす。

 ロスコーは目を閉じ、意識を嗅覚に集中させた。少し甘みと尿臭のある臭いが、明瞭に距離まで判別できる。その方角に顔を向けて、ゆっくり目をあける。臭いの像とイレーネがぴったり重なった。

「やはり、駄目か」

「なになに?」

 濡れた髪を揺らしながら、イレーネが足早に近寄ってくる。

「嗅覚を試していた。ゲオルグは臭いで追跡してきたといったが……これではな」

 狼人病を発症してから、傷の治りが異様に早くなりつつある。それだけでなく臭いにも過敏になった気がしていたが、気のせいではないようだ。人の姿のままここまで鋭いとなると、変身すればどうなろう。ゲオルグ一味の間では、狼人病が蔓延しているのだ。

「隙をみて逃げる、というのは無理筋だろうな」

「そっか……」

 イレーネの表情がくもるのを見て、ロスコーは明るい声を出した。

「心配するでない。他にも策はある。必ず、ともに故郷に帰ろう」

 イレーネは小さく、うなずいた。

 それにしても、理解しがたいのはゲオルグだ。ロスコーはいぶかしむ。可能であることと実行することは別だ。臭いで追跡することは労力がかかる。最初は自分やスヴェンの身代金を取るつもりかと思ったが、そんな素振りは微塵もない。ただていのいい慰みものが欲しいなら、使い古しの自分たちが逃げたとて、また村からさらってくればいい。なぜ自分たちを執拗に捕らえておこうとするのか、それが理解できない。第一、自分たち三人以外は、早々に殺してしまっている。

「うん? ねえ、ロスコー。なにか、あまいにおいがするよ。いってみない?」

 ロスコーが考えごとから顔をあげると、イレーネはもう服を着ていた。

 イレーネの思いつきに気持ちが踊るが、あまり時間をかけるとまた殴られるのではないか。そんな考えがよぎる。

 けれどロスコーは、いい考えだと歩きだした。どうせ気分次第で殴られるのだ。それに、次に足枷の音を忘れられるのは、いつになるか分からない。

 ふたりは背の高い木々のなか、薄暗い道を登る。甘いにおいを探しつつ歩いていると、少し登ったところでロスコーの鼻にも香りがちらり、とかすめた。

「ん?」

「どうしたの?」

 ロスコーは草むらをかきわけて進む。ゆるやかな傾斜を降りてゆくと、下草の少ない大きな窪地になった。

「あったぞ!」

「わあ……!」

 そこには、いくつも紫色の液果が実っていた。小指の先ほどの木の実をひとつつまみ、ロスコーは口に運んだ。強い酸味の後、甘みが口の中いっぱいに広がる。久しぶりの果実に、ロスコーは年相応の笑顔になる。その笑顔にイレーネも笑い、一緒になって、小さな木の実を摘んでは食べた。

「見かけないベリーだが、たまらないな!」

「これ、ユノミっていうんだよ。おいしいね……!」

「ユノミ……このようなベリーもあるのか。しかし、野に実るベリーを手摘みで雀のようについばむ日がくるとはな。だがどうあれ、これは頬が落ちそうだ」

「……あれ? あたしのかいだにおい、これじゃないかも」

「なに?」

 イレーネは立ちあがり、ふんふんと鼻を鳴らす。そして「やっぱり!」と呟いて歩きだす。ロスコーは追いかけようとして、山のように実っているそれから目が離せない自分に気づいた。少し悩んだが、結局、服の前をめくりあげ、そこに入るだけ摘んでから後を追った。

 そこからは急な斜面が続いた。足枷が重荷になる中、ロスコーは小さくなったイレーネの背を懸命に追う。

 息を切らせてようやく追いつくと、イレーネは立ち尽くしていた。その背より向こうが妙にまぶしく、目を細めてもよく見えない。

 不思議に思いながら、その隣に並びたった。


 視界が、オレンジに開ける。

 ロスコーの足元に、紫の実がばらばらと落ちた。

 そこは、緑豊かな山のなかにあって、青く澄んだ空が広がっていた。

 雄大な雲が空と地の間を白く埋め、さんさんと照る陽が照らす、その原は。

 見渡すかぎり一面、たくさんの花が咲き乱れていた。

 黄と橙のまだら模様の、百合によく似た花。

 太陽に祝福され、花々は心地よい風に揺れる。

「きれい……!」

 イレーネは目を輝かせ、見入っていた。ロスコーもそれは同じだが、イレーネの紅潮した微笑みに涙がこぼれそうになる。

 それはこの世の冥獄にあって、今まで見たことのない、澄み渡った笑顔だったから。イレーネもロスコーの顔を見て、思わず感じ入り、涙がこぼれた。

 ふたりは何も口にできなくなって、その場にへたりこむように座った。

 そしてただ、目の前の宝石のような花々と、手の届きそうな空を見つめていた。

 ほど近い空からくる柔らかな風に、体が洗われるようだった。

 服が乾ききった頃に、ようやく言葉がこぼれおちた。

「この花は、忘れ草というのだ」

「わすれぐさ――」

「恋人を想うこの苦しみを忘れさせてくれ、という願いがこめられた名だ」

「ロスコーの村ではそうなんだ。あたしは、いやな気持ちをわすれさせてくれるくらい、とってもきれいなお花だってきいたよ」

「なるほど、まさにそのとおりだ」

 ロスコーはいくつか木の実を拾い、イレーネに渡す。自分もそれをつまみつつ、イレーネと忘れ草を何度もみた。今だけは、逃げることを考えないようにした。だって、これほどの温かい気持ちは、故郷ですら感じたことがなかったから。

「これほどの幸福をくださった主に、感謝を捧げよう。友と禍福をともにできるとは、これほどまでに得がたいことだったのだな」

 そうロスコーは銀の短剣の柄を捧げもち、祈りを捧げる。

 その姿にイレーネは、複雑な面持ちで胸に手をやった。その手の中には、何かが握られている。

 ロスコーはその顔のかげりに、喜色の陰にある不安を読みとった。

「イレーネ?」

「ロスコー……ロスコーは、友だち?」

「そうだ。何度でも言ってやろう。我らは友だ。それとも、私の思い違いか?」

「ううん……うれしい。とってもうれしい。でも……」

 木々がざわめく。

「……イレーネ。私に聞かせたいことがあるのなら、ぜひ聞かせてくれ」

「でも、それは……」

 鳥の声が、風の音が、遠くなる。

 ロスコーは上体をそらし、空を見上げた。かつてあんなに遠かったものが、今はこんなにも近い。

「――私は、貴族の長女として生まれた。とはいっても、年の離れた兄がいた」

 ゆっくりと話しはじめたロスコーに、イレーネは伏し目がちに顔を近づける。「おにいさんがいるの?」

「病弱な兄だった。生を受けた時から世継ぎになるさだめであったのに、幾度となく生死の境をさまよい、お父様をやきもきさせるような」

 ゆえに、私は男として育てられた。

「あ……」

 イレーネは、その名の意味を理解した。どれだけの無理を通すためつけられた、重荷でしかない名であるかを。

「そう同情しないでくれ。私はそのこと自体に恨みはない。ただ――そう扱うと決めたなら、最後までそうと――私を後継者にするよう貫きとおしてほしかった」

 ところが兄は完治した。どこの誰とも知れぬ魔術師が、代償もとらず治療した。

「今思うと、高い代償だったのかもしれないが――まあ、それは別の話だ。

 もとより領主は男がなるものだ。兄が使えるとなれば、私の席はもうなかった」

「……その、りょうしゅ、ってよく分からないんだけど。

 その、どうしてもならないといけないものなの?」

 そうだな、とロスコーは言葉を探す。

 次の言葉までの刹那に、ふと思う。そんな選択肢が、自分にあったものかと。

「領主になれないということは、大人になれないという意味だ。私にとってはな。子供扱いのまま、何ひとつ自分の意志では決められず、政の道具にされることになる。挙句、顔も知らぬ男の世継ぎを産むだけの装置にされる。

 ――そんなものは真っ平御免だった」

「……それなのに、なれなかったの」

「なお悪かった。私はお役御免と言わんばかりに、別の領主の元へ養子にされた」

 ようし、とイレーネはおうむ返しにする。ふふ、とロスコーは自嘲する。

「ヴェスペン同盟にはな、孤児を減らすため、子を求める夫婦へ子供をあてがう仕組みがあるのだ」

 ロスコーが見ると、イレーネは言葉を失い、自分を見つめていた。

 もう続きがわかるというのか。ああ、なんと聡い少女だろう。ロスコーは願う。

 ――イレーネならば、理解してくれるだろうか。

「私はな、イレーネ。織りたてなのに、気に入られなかった衣服のように、ぽいと捨てられたのだ。――使用に難ありですが、まだまだ使えるものです、よかったらどうぞ――と、言うように。ああ、そうだ。

 まるで、

 イレーネの表情は悲痛なものだった。だが、ロスコーの不細工に歪んだ笑みは、イレーネの何倍も悲壮だった。

 天を目指して伸びるはずだったのに、嵐に雷火に炎天に、幾度となくゆくてを阻まれて、不気味に歪まざるをえなかった、一枝の椿のように。

「私をのは、世継ぎのいない貴族だ。それなりに政のわかる老爺だったが、生家以上にうとまれたよ。『いくさも知らぬの子が、ひとつでも口出しできると思うてか』――そう罵られたのがそもそもの発端だった。『では、いくさを知ればよいのだな』、私はそう口火を切り、結果としてナズルトーの地を踏んだ」

 あれから二年以上の月日が経つ。思えば自分も未熟で、正論ならば押し通ると考えていたきらいがある。いずれは自分の誇りに泥を塗られ、同じことになっていただろうが、早くに人心掌握に努めていれば、こうはならなかったろうに。

「じゃあ……ほんとうにロスコーは、いくさのためにここへ……?」

「そうとも。しかし、私の隊は少々特殊でな。味方から恨みを買う性質があった。いずれは何らかの造反を招くだろうと思っていたが……」

 傭兵団のひとつが人狼だらけと分かり、神意にそむく異端として隔離したのがまずかったのか。攻勢に出た極めて重要な局面で、それは謀反を起こした。

「本陣を背後からおそい、私のいた隊の指揮官はもちろん、全員を皆殺しにした。生き残ったのは私とスヴェンだけだ。指揮系統を失った同盟軍は散り散りになり、戦線は大きく後退した」

 そして、私とスヴェンは囚われ、何度も代わる代わる犯されることになった。

「そうだったの……」

 イレーネの顔を見て、そんな顔をするな、と肩でこづく。

「確かに、悪いことばかりだ。だが、たったひとつだけ天の宮の主に感謝していることがある」

 君だ、イレーネ。

「えっ……!」

「君に出会えたことこそが、たったひとつの祝福なのだ。

 だから――どうか聞かせてくれないか。私は、もっと君のことを知りたく思う」

 イレーネの瞳が、木漏れ日のなかで揺れまどう。何か言いかけ、けれど言えず。ロスコーにはその気持ちがわかるような気がした。

 そしてようやく、長い葛藤の末にイレーネは口を開いた。

「あたしは……エンルムの村にいたの。おとうさんとおかあさんはけものの皮をはいだり、すじをとったりしてくらしてた。あたしたちは、村の人としゃべっちゃダメだったの。……だから、友だちはひとりもいなかったよ」

 なんだ、不可触民だということか。ロスコーはそんなことか、と安堵する。

「案ずるな。私を助けてくれた恩は、その程度でくすみはしない。

 君はそれだけで、その辺りの使えない男爵より価値がある」

 イレーネは、ほんと、とぽつりとこぼす。「ああ、本当だ」

?」

 無遠慮に投げ出された、秘匿されるべき神の名。

 空はくもり、にわかに肌寒くなる。ロスコーは戦慄し、空白の時がうまれた。

「な、何をいう。エンルムは同盟内の領地ではないか」

「あたしたちは、ずっと蛇神様へびがみさまを信じてきたんだって。

 フラフィンを信じているとうそをついて――あたしもそうなの」

 あの日、イレーネの手を引いて逃げだした日のことが思いおこされる。あの時、ロスコーの呼びおこした奇跡は、イレーネを癒やすことはなかった――神聖なる唯一の神より下賜かしされる奇跡は。

「ロスコーは――奇跡をもらえるくらい、フラフィンを信じてるんだよね」

 ロスコーは、あたしをどうするの?

 ロスコーは答えられなかった。真教が少数派であった頃であればいざしらず、真教はもはや異教徒を容赦しない。改悛と改宗を迫ったのも遠い過去。大いなる主以外への崇拝は償いがたい大罪となり、残るは火刑による残酷な刑死のみ。

 そして、聖儀僧クレリックは異端審問官でもあった。

 ロスコーは思わず、聖印の刻まれた短剣を手から振りはらった。

 それが、熱をもったように思えて。

「……やっぱり」

「イレーネ、これは違う。ちがうのだ……」

 沈黙がふたりに突き立つ。異端者を見てみぬふりをすることは、真教の教えに背くことになる。もし、ロスコーがそこまで敬虔な真教徒でなければ、イレーネを“良い異教徒”と看過することもできたかもしれない。教典にもある、救世主を助けた異教徒のように。しかしながら、ロスコーは真教を心の底から信じていた――それを“真なる教え”だと確信していた。

「……今からでも遅くはない。私は洗礼の秘蹟を施すことができる。どうか――」

「アンギスさまは許してくれないよ。きっと今よりたいへんな目にあう。あたしだけじゃない、ロスコーもだよ。それに――あたし、神さまからもらっちゃった」

 もらった? 自分のように、信仰の褒賞として得たというのか。「……何を」

「――友だち」

 ざあっ、と早すぎる夕立が飛来した。

 イレーネの顔を濡らしていたのは、果たしてどちらだろう。

「あたし、神さまにおねがいしちゃったの――友だちがほしいって。

 あたしにできることなら、なんでもするって」

 だから、神さまはみんなを連れてったの。

「あの日、おとながたくさんやってきて、村に火をつけたの。剣をもってた。

 みんな、みんなみんな、あかいシミをつけて、うごかなくなっちゃった」

 そしてイレーネは、子供はみな拉致された。その先で、友を得た――友以外は、みな死んだ。両親のみならず、故郷まるごとを贄として、友を得たのだ。

「なんという。それは、それではまるでっ――!」

「あたしのせいなの。あたしが、友だちがほしいっておねがいしたから」

 不可触民として生まれ、友もおらず、親にならい異教の神を信じ、その神に祈りすがり、ようやく得た運命が、自分だというのか。

「そんな、そんな残酷な神がいてたまるものか! それだけの代償を支払わせておきながら、与えられたのが……」

 よりによって、異端者を許すことのできない、私だというのか。

「うん。だから……きっと、祝福なんかじゃなかったんだよ。

 これは、罰。みのたけにあわないおねがいをしちゃった、あたしへの罰」

 ロスコーは歯噛みした。これだけ悪辣な定めを、自らのせいだと思ってしまう少女。そんな清廉な少女が、どうしてこのような運命を甘受せねばならない。

 苦しかった。喉の奥に石がつまっているようだった。少女が今まで積み重ねてきた信仰心、そのすべてが反転し、それは悪徳だとでも言うようにさいなむ。

 ずきり、と思いだしたように傷が痛んだ。

 ロスコーは自分の肘を見るが、傷は完全に塞がっていた。

 ではどこが、と手のひらを返す。

 手は狼のそれだった。太い蹴爪が握りしめた手に食いこんで、血だらけの穴が三つもあいていた。流血で赤く染まった手。

 顔をあげると、銀髪の少女と目があった。けれど、少女は無言で顔を背けた。

 ああ、そうか。ロスコーは理解した。

 選ばなければならないのだ。今のこの手では触れられない。

 初めてにして唯一の友か――生まれ落ちた時から身も心も捧げてきた信教か。

 どちらかを捨てなければ、そのどちらからも捨てられると。

 夕立は激しくなり、木々を叩き、忘れ草を濡らす。

 しらずしらずのうちに自ら傷つけた手は、雨粒に洗われてゆく。

 なのに、その思いだした痛みは、消えることなくずっとそこにあった。

「……っ!」

 沈黙を破ったのはイレーネだった。

 立ちあがるや転げるように斜面を駆け下りてゆく。

「ま、待ってくれ!」

 雨に濡れた森を、ふたりの少女が駆ける。大いなる自然の中では、何も差はないはずなのに、ふたりの距離は遠かった。来た道と違う道を、イレーネは前も見ずに走った。ロスコーはそれをがむしゃらに追いかけた。

 分かっていたからだ。それが、今、手を離したら、二度と取り戻せないものだと。

「きゃっ!」

 雨にぬかるんだ土がえぐれ、イレーネの両足が宙に投げだされる。

手がかりのない斜面は、そのままはるか彼方の川底へ吸いこまれてゆく――

 その手を握り、繋ぎとめたのは、赤髪の少女だった。つい先程ちぎれかけた肘が軋み、靭帯がぶちり、ぶちりと弾ける音がする。けれど、少女は手を離さなかった。痛まなかったわけではない。より鋭く、突き刺すような痛みがあっただけだ。

 ふたりは一瞬の空中遊泳のあと、折り重なるように倒れこんだ。遅れてやってきた恐怖と安堵に放心するも、イレーネは飛びのいた。

 そしてそのまま、返すべき言葉も選べずに見つめあう。

 先に違和感に気づいたのは、ロスコーだった。

「君、その指は……」

 イレーネの左手には、薬指がなかった。けれど、断端はきれいに皮膚に覆われている。ロスコーは、その先が自分の手の中にあることに気づく。包帯代わりのぼろ布の中には、枯れ枝のように干からびた指があった。

 それが啓示だった。ロスコーはようやく取るべき選択を知り、目の前の谷より深い後悔とともにその指を握りしめた。

 間にあわなかったのだ。それを、イレーネの体は、あきらめてしまった。

 ロスコーは銀の短剣を取りだすと、イレーネの前に差しだした。

「イレーネ。君に、これを預けたい」

 それを見て、イレーネは泣きそうな顔で首を振った。

 その刃には傘十字の聖印がかたどられている。

 それを異教徒に託すということの意味くらい、イレーネにだって分かった。

「ちがう……ちがうの! あたしは、ロスコーにこんなたいせつなものをすててほしかったんじゃない! ただ、あなたと――」

「ああ、私もそうだ」

 イレーネが、ロスコーを見る。

 ロスコーの瞳は、翡翠のような緑に透きとおっていた。

「私は元より、主から見捨てられていたのだ。あの日、私はたまわったはずの奇跡を行使できなかった。あれから試してみたが、ろくに成功しない。それもそのはず、私は主にこの身を捧げていながら、人狼に成り果ててしまった。

 悪魔に取り憑かれ、神の威光はもはや私を見放した」

 そして、異教徒にうつつを抜かし、神の御名をけがした。それらひとつひとつは、個人と場合によっては許されると考える者も多かろう。だが、尊厳を砕かれ、肉体を汚されつづけた少女にとって、それらは耐えがたい冒涜だった。

 ゆえに、ロスコーはこう考えた。

 いくら祈ろうと、もはやこの祈りは赦しを乞うに等しいのだと。

 もはや奇跡が降りないことこそがその証左。

「だから、君の信ずる神に、ともに祈らせてくれ。君に赦しが与えられんことを」

 イレーネは、静かにその短剣を手にとった。

 そして、ゆっくりと首からロケットを外すと、ロスコーに差しだした。

「あたしも、ロスコーのためにいのるよ」

 ロスコーは受けとると、しずしずとそのロケットを眺めた。翼の生えた蛇が、じっと自分を見つめている。

「イレーネ。これも貰ってしまって構わないだろうか」

 死んだ指を目の高さまで持ちあげる。

「いいけど、なんで?」

「これは、私の罪なのだ」

 その指は、すっぽりとロケットに収まった。それを首からさげると、ロスコーは安心した――ずっと見えないふりをしてきたものが、胸にあることに。

「ロスコー……でも、いいの?」

「よい、これでよいのだ」

 ロスコーは不意に、崖の向こうを見た。イレーネもつられて顔をあげる。

 黒い雨雲の向こう、遠くに青空がまだあった。

「人は、安らぎのために神に祈る。私はそう教えられた。

 けれど、優越感を与えこそすれ、神の存在が私に安寧をくれることはなかった――同じ列に並んでいたみなが与えられ、私だけが与えられなかった。

 私に真の安らぎをくれたのは、君だ」

 そう。神という絶対者の威光に安堵するには、ロスコーはさかしすぎた。

 他の年経た為政者と同じく、形なき真なる神体と偶像の差異が、ロスコーには生まれ落ちた時から理解できなかった。

 神が奇跡をたまわっていたことだけが、神の存在証明だったのに。

「あなたにそうおしえてくれた人は、かなしまないの?」

 イレーネの言葉に、ロスコーは不意に思いだした。神を信じるということ、それそのものを誰に与えられたのかを。


『ロスコー。きみも祈るといいよ。天の宮の主はみていてくださる。きみの正しき行いを、ほかの誰もみていなくとも、主だけは覚えていてくれる。だから――』

 きみの才で、多くの人へ幸福を――。


 目の前から、色の薄い赤髪の青年が消えた。ベッドから体を起こし、はかなげにほほえむその姿が。

「……構わない。もう覚えていないだろう」

 イレーネは小さくうなずき、傷だらけの手をとった。

「じゃあ、ロスコーにあたらしい名前をあげる。ほんとはみこさんしかダメなんだけど……ううん、どんなのがいいかな。ロスコーの名前って、もっとながいの?」

 洗礼名のようなものか、とロスコーは得心する。

「私の名か? 正式には、ロスコーLwoscoeサイSaiドラウフゲンガーDraufgangerという。クライナードラッヘともいうが」

 ロスコー、ロスコーと何度か口の中で名前を転がし、ミドルネームもそうして、イレーネはいきなり顔を輝かせた。

「どっちもあたまをとって、ルオッサLwossaっていうのはどう?」

 ロスコーはその奇妙な響きに、思わず笑ってしまった。異教に帰依するための名に、真教の洗礼名が混ざっていることもだ。

 でも、そんな奇天烈さがますます気に入った。その名の響きが女っぽいことは嬉しくもあり、少し不満でもある。けれどなにより、それをくれたのが誰かということが、とびきりその名前を上等にしてくれた。

「ルオッサか。それはいい」

「きまりね! じゃあルオッサ、あたしにつづけてね」

 あたしたちをみてる神さま。あたしたちの心を、あなたにささげます。ですからどうか、あたしたちを見守っていてください。あたしの友だちが、あなたのもとでいのることをおゆるしください。

 そのつたない、洗練されぬ祈りの言葉を、ロスコーは復唱する。

 その背徳にロスコーの背はぬれる。自分はいい。自分の身ひとつで償いきれる罪ならば。ただ、唯一の神が友にまで罰をくだすことを恐れた。

 このような、しどけない純真な願いをもつことが、神に反することなのか。

 ロスコーは――ルオッサは、イレーネをみた。

 雨に濡れた銀の髪に、木漏れ日がさす。

「ルオッサ……みて!」

 指差されるまま、空を見上げた。ルオッサは目を見開いた。

 そこには七色のアーチがかかっていた。つややかに輝くイレーネの髪と同じく、ルオッサのなかの霧雨を晴らす美しさだった。

「虹――これは、なんと……」

「ああ、ありがとう、アンギスさま! ルオッサをむかえてくださるって!」

 五色の体を持つ、空駆ける蛇の神。普段は地中にいるものの、どの神よりも多く地上に顕現し、そのたびに信仰者を祝福するもの。

 虹蛇こうだの化身、アンギス。

「……私は、勘違いしていた」

 ルオッサは悟ってしまった。唯一の神の他に神はないと教えられ、それ以外は神を僭称する悪魔だと信じていた。だが、これほど美しいものが、神でないはずがない。この美しさも邪悪さの現れだというのか。

 ――いいや、違う。

 悪魔祓いの教科で学んだ、ぎらつき、蠱惑的な美ではない。断じてない。たとえ心を酔わす調律された美ではなくとも、これは完成した美なのだ。自然に現れた、間違いなく自分と同源と感じさせる――安堵を、ルオッサは感じていた。

 ロスコーは唯一神を否定しない、否定できない。生を受けた時から共にあったものを、一朝一夕に切り離せるわけがない。だが同様、異郷の神も否定する必要はないのではないかと思った。唯一の神が、唯一でなければならないと誰が言った。唯一でなければならないほど、その神聖性はおぼろげだとでもいうのか。

 ……そうではないはずだ。なぜならあなたは偉大で尊きものなのだから。

 だから、アンギスを許容することを赦したまえ。聖なる四つ文字テトラグラマトンよ。

「イレーネ。私は、ルオッサは、この神とともにあろう。

 ことここに至っては、私は教えを乞う側になる。頼めるだろうか」

 イレーネの喜色満面な顔が、少し申し訳なさそうにすぼむ。

 けれど次には、屈託なくルオッサを抱きしめる。ルオッサはその体温を感じた。心地よく冷えたなかに、同じあたたかさを。

「じゃあ、あれをとってかえろうね」

 指し示された先には、赤子の手のような葉を茂らせるくさむらがあった。まだ花は咲いていないが、その葉にルオッサは覚えがあった。

「二輪草か?」

「ううん、ちがうよ」

 笑ってその草をつむイレーネにならい、ふたりで数株を引っこ抜いた。短剣で根だけを切りとり、ふたりで半分ずつ隠しもつ。

 ふたりだけの秘密を手に、少女たちは帰路につく。その秘密がかけがえのない絆に思えて、ルオッサは笑う。洞窟ではいつも怒りに眉根を寄せているその顔が、忘れ草のように開いている。それだけで、イレーネはごきげんだった。

「ねえ、ルオッサ。あたし、いつか、ルオッサの村がみたいな」

 ルオッサは「村?」とおうむ返しして、言いたいことがわかると含み笑いした。イレーネは貴族というものを知らない。自分もイレーネと同じような、あるいは多少、羽振りのいい村に住んでいたと思っているのだろう。

「そうだな。約束しよう」

 本当は、忌まわしい自らの領地なんて二度とごめんだった。けれど、イレーネの気持ちをくんで、ルオッサはおくびにも出さずに指切りをした。

 ――――もしかしたら、イレーネとなら、素晴らしい旅になるかもしれない。

 そう思えたことが、とても得がたいものだったから。

 

 小川につくと、ずぶ濡れの少年が桶を抱え、うとうとと居眠りをしていた。

 その姿をみるや、ルオッサの眉が寄り集まる。

「スヴェンさん?」

「ん……やあ。おかえり。楽しかったみたいだね」

「えへへ……。スヴェンさんはどうして?」

「いや、大したことではないんだ。おむかえに来ただけさ」

 そういうスヴェンの顔には、殴られたあとがある。ルオッサはぴんときた。

「私たちの帰りが遅いから、探してこいと言われたのだな」

「あはは……さすがはロスコーどの。すべてお見通しだね。

 さあ、日も傾いてきている。みんなで帰ろう」

 スヴェンは立ちあがり、水桶を手に歩きだす。イレーネはスヴェンを見上げて、だいじょうぶなの、と尻上がりな声音を出す。

「平気さ。ふたりのためにも、僕が気張らなくてはね」

「強がりはよしたまえ。私よりも生傷が多いではないか」

 スヴェンは曖昧に笑って、答えない。ルオッサはふと気づいた。

 スヴェンが変身するところを、ルオッサは見たことがない。スヴェンも自分やイレーネと同じように、噛まれたり犯されたりしているはずなのに。

「ありがとう、スヴェンさん。そういえばスヴェンさんのこと、ぜんぜん知らないなあ。るっ……ロスコーとはおさななじみ?」

「滅相もない。ほんの二年前に知りあったばかりさ。きっと君のほうが詳しいよ」

「えへへ……」

 道すがらイレーネとスヴェンが談笑するのを、ルオッサは怖い顔で聞いていた。警告をすべきかと考えてから、どちらになんと言えばいいのかさえ、分からないことに気づいた。

 それに、自分の気持ちを噛み潰すしかなかったのだ。

 あの、イレーネの顔を見てしまえば。


 戻った三人は、腹いせに殴られた。

 戦争が長期化するにつれ、商人は寄りつかなくなり、盗賊どもは実入りが悪いようだった。その鬱憤が回りまわって少女たちに叩きつけられていた。

 ルオッサは手下たちからほとんど陵辱されなかった。ゲオルグに気に入られているばかりか、仲間のひとりに一生残る傷を負わせた凶暴さが疎まれた。

 代わりに虫唾が走るような邪淫を一手に引き受けたのは、イレーネだった。

 いや、いやとわめき、泣きじゃくる活きの良さが男どもをそそらせた。その貴重な幼く柔らかい肉をついかじってしまわないように、有り余る加虐欲はスヴェンに向けられた。彼はカカシのように黙ってそれに耐えた。スヴェンも傷のなおりは早く、人狼でないとすれば何度死んでいてもおかしくなかった。だがやはり、彼は一度も獣化することがなかった。

 洞窟の中を、罵声と悲鳴、絹をさくような音が満たす。

 その晩もルオッサは犯されていた。空腹と渇きが力を削ぎ、睡魔が脳髄を責めたてる。いかにルオッサが凶暴であっても、ゲオルグには勝てなかった。長い髪をつかまれ、狼の口吻に手を押しこまれる。片手で口角の両方に指をかけられては、噛みつくこともできなかった。決死の思いでなんとかつかんだ腕も、ルオッサの爪ではその獣皮を貫けない。

 牙と爪を封じられ、無念のなかでルオッサはゲオルグを受け入れた。

 あがけば顎関節が悲鳴をあげる。後頭部を岩床に叩きつけられる。もうろうとする意識のなかで、ルオッサはついにあきらめてしまう。どうして自分がこんな目に遭うのか、神は自分を見放したのか――以前はそう救いを求めていた。だが、唯一神は助けてくれないと理解してしまった。神は、この世で助けてくれるとは限らない。けれど死後には神の庭に引きあげてくれる。そう教えられていた。

 なぜ、。この苦難も、救世主の受難には及ばないというのか。この苦しみは私が受けるべきものだというのか。

 この試練を超えられれば、神の庭に招待してやろう、とでも?

 なぜ神は私を試すのに、私は神を試してはならない?

「あぁ、いい女だなァ。鏡がありゃ見せてやりてえモンだ。なあ、ロスコー?」

 胎内が裂ける痛みと、熱いものが股から流動するのを知覚する。

 ルオッサはぼろぼろと泣いていた。

「こ、ころす、殺してやる。聖者の受難以上のくるしみをあたえて、ゆ、ゆるしをこわせ、むごたらしく、尊厳なき死をくれてやる――いつか、かならず」

 ゲオルグはにんまりと口の端をつりあげて、くつくつと笑った。

「いいぜェ。今から楽しみで仕方ねえ」

 尊厳なき夜伽がおわり、銀の月が遠く、遠くにあった。

 ふたりの荒い呼吸を聞き、ルオッサは隣をみた。スヴェンは切り裂かれた顔と胸を押さえ、尻のあたりを赤く濡らしている。イレーネは魂の抜けた目で、遠くに真昼の花を見つめていた。衣服はまくりあげられ、裸体の上にいくつかの瘢痕と精液が模様をえがく。

 拒絶したかった考えが、自分の中に浸潤してゆく。

 私は神を信じられず、神を試してしまった。異端の神を信じてしまった。

 ――唯一の神に背いてしまった。

 私は、自らの信心を信じられなかった。その罪が私だけでなく、イレーネにまで振りかかった――自分がすべて悪いのではないか、と。

 かたわらでは、淡い紫のちいさな花が群れる。小指の半分もない、四枚の花弁のかよわい花。そのほとんどが椿のように花を落とし、風にながされてゆく。

 ルオッサは――ロスコーは知っていた。かつての学び舎を埋めつくしていた、聖ヴェロニカと同じ名の花。

 ルオッサは祈った。救済を、せめて友の救済を。

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