二章 再誕の殻
忘れ草
男の拳が、顔面をしたたかに打ちすえた。
「舐めやがって……! お前、おまえ……!」
ロスコーは返事の代わりに、狼牙でその手に噛みついてやった。だが
ことの発端は、どうということもない。吐きかけられた下衆な冗談を、歯牙にもかけずに無視しただけだ。そのヴィリーとかいう男は、首領に気に入られているロスコーが気に食わないらしい。たったそれだけでロスコーを後ろから蹴り倒し、体目当てのぎらついた目で覆いかぶさってきたのだ。
「お前、貴族のボンボンなんだってなあ? それがこんな穴蔵でヤられちまって、慰みものだ。へへへ、お前はもう物乞いにすら劣るガキだ。立ちんぼ以下だ」
そう、男は下半身を裸にして、腰を振りながらささやく。ざらついた不潔な歯が笑みのなかに見え、煙草の混ざった口臭が鼻腔に這い入ってくる。
こんな匹夫に構うな、と己の矜持は言う。相手にするな、同じ地平に立つな、と。けれどそれを実行できるのは、触れられない間だけだ。何より、無抵抗になれば、自らの肉体を好き放題にされてしまう。もう十分に汚された矜持は、到底それを許すことはできなかった。ロスコーはひとつの強い意志を固めてしまう。
「――ことか」
「ああ? よがるならもっと大きく――」
「それは、貴様自身のことか?」
ロスコーの言葉に、男は動きを止める。
「女に相手にされないから、これほど幼い子供で獣欲を満たしているのだろう? 貴様もここから見上げてみるといい。半裸で懸命に腰を振る、無頼漢の名折れというものは、なかなかに滑稽だぞ。まさにみすぼらしい、イヌ以下の匹夫だ」
返事は、脳震盪を起こすほどの拳骨だった。
「お、俺は騎士団員のひとり、ヴィリー様だぞ! それを、小汚い、ガキが――」
「その、小汚いガキとやらに、興奮して勃起しているのか?」
ロスコーは鼻血を垂らし、口の端は切れていた。だが、その冷ややかな見下した笑みは、高貴さを悟らせるものだった。身体は犯せても、魂には決して触れられぬ――そう悟り、男はことの最中だということを忘れた。
「お、おま、お前は! 二度と、誰にも、乞食にすら抱かれねえ顔にしてやる!」
人外の膂力で、顔の形が変わるほどに殴打する。狼の爪で顔を裂き、黄色い牙で幼い
それでも収まらず、彼はねじ切らんばかりに少女の首を絞めた。
酸欠と激痛に意識が追いやられようとするが、ロスコーの怒りは男のそれよりはげしかった。自分の首を絞める手に、全身をよじって食らいつこうとする。男は察して手を引くが、それが悪かった。ロスコーの
ロスコーの細い手が伸びる。狼のそれとなった男の耳へ、指が突きいれられる。逃れようとすれば、耳孔の中に指が潜りこんでくる。どこにそんな力があるのか、手首から牙が外れる前に、ロスコーの背骨が折れそうなほどだった。
鋼のように硬い憎悪を前に、男の脳裏にぞっとする畏怖がかすめた。恐怖から男は我を忘れ、耳ごと頭蓋を裂かんとする腕にかじりつく。手首をおさえられていることも忘れ、頭を押える腕を牙で切り裂きはじめる。肉が裂け、関節が悲鳴をあげる。それでもロスコーは、捕えたものを離さない。男が少女の腕をちぎろうともがけばもがくほど、指は耳に食いこむ。食いつかれた手首も肉がもげ、赤い骨が露出する。
ぶち、と軽い音がした。関節を包む白膜が破れ、骨と骨の滑らかな末端が覗く。もはや少女の腕は靭帯で繋がるばかりとなり、赤黒く濡れた靭帯もひとつ、またひとつと弾けてゆく。だがロスコーは、それでも力をゆるめない。爪が耐えきれず剥がれる。牙もきしむ音がする。二匹の狂乱した狼の間を、命がすりつぶれる音が支配した。
もし、あとほんの少し拮抗が続いていれば、直に男の脳髄が掻きまわされるか、ロスコーの腕と男の手首がちぎれるかしただろう。
鈍い、打撲音。
男は、ヴィリーは糸の切れた人形のようにもたれかかってきた。
ロスコーが自分を取り戻すと、大男が立っていた。その手には、身の丈にあわぬ短いレイピアが鞘に収まったままあった。細く短い刀身であるにもかかわらず、その挙動はひどく重いものと錯誤させる。
「やっぱりやりやがったなァ、ヴィリー」
「ゲオルグ……!」
みりみりと自分の肉体が音を立てている。全身の栄養がもっていかれ、全身を猛烈な倦怠感が包む。生き残るため、肉体が無理に修復しようとしている。負傷が重すぎて変身を維持できなくなり、体が人間へと戻っていく。
ロスコーはよだれを拭おうとして、折れた中指の痛みに顔をしかめた。
「悪かったなァ、ロスコー。お楽しみのトコ邪魔しちゃァ悪いかと思ったんだが、ま、壊れちまいそうだったンでな、しゃァねえよな」
ロスコーはそれがボロ布であるかのように男を押しのけ、土の上に転がる己の断片を冷静に拾った。傷がふさがる前に、よだれまみれのそれを胸に押しあてる。毛皮のついたそれはすぐさま接合し、思い出したかのようにヒトの皮膚へ戻る。
少女の上半身は、顔面に至るまで血だらけだった。ロスコーは股間からも赤い血を流しながら、ゲオルグを見上げた。興奮の後の、冷めきった表情で。
「なぜ私を生かし続ける」
ゲオルグはいつものニタニタ笑いを深めて、喉の奥で笑いを転がした。
「オマエは面白いからなァ」
ロスコーの唇から、鮮血がにじむ。
「何をしでかすか、わかったものではないぞ」
「やってみりゃァいい。オレはいつも通りオマエを抱くし、オマエはオレに噛みつけばいい。気が強ェ女は好みだぜェ」
「この、変態性欲者め……!」
ロスコーの罵りにも、ゲオルグは気の触れた笑いしか返さない。
ゲオルグはヴィリーを片腕で拾いあげると、無造作に洞窟の外に放り捨てた。そしてそのまま出ていこうとする。が、そうそう、と不意に立ち止まる。
「まァ、部下の落とし前は付けてやらねえとな。イレーネが戻ったら、水汲みに行ってこい。今日は見張りを付けねえからよ」
そう言い捨て、ゲオルグは出ていった。
再生の反動がなければ。ロスコーは魂の炉に憎悪をくべる。この体が動くなら、ゲオルグを同じ目にあわせてやりたかった。自分の誇りを踏みにじった者には、何倍もの代償を支払わせなければ。胸の澱は溜まれど、決して減りはしなかった。
空は晴れ渡り、背の高い雲がもくもくと立ちのぼる。
「なぜ逃げなかったのだ、イレーネ」
イレーネは大きな桶と、そのなかにいくらかの雑貨を買って戻ってきていた。
身丈の半分ほどもある大きなおけを手に、ふたりは開けた山道を歩く。以前の逃亡劇以来、ふたりの足には重い鎖の音が付きまとっている。それでも、麓までのお使いは絶好の機会のはずだ。
「にげたら、ひどい目にあうでしょ」
「足枷があろうと、半日もあれば十分逃げきれるではないか。そのために従順にしていたのではないのか?」
「……そんなことしたら、きっとロスコーがひどいことをされるわ」
「構うものか。何をされようと口は割らぬ」
イレーネはふと立ち止まり、首を振る。
「そんなこといわないでよ。人狼じゃなかったら、たすからなかったでしょ!
そんなにひどいことされて、どうして――」
ロスコーはにわかに自らの過ちに気づき、自分の言葉を恥じた。今まで、自分のことは自分で始末してきた。自分のことを真に気にかけてくれる者なぞ、今までひとりとていなかったから。ゆえに、いまだに忘れてしまう。
「……ありがとう、イレーネ。そうだな、自由になる時はふたり一緒だ」
涙ぐんだ目尻を拭いて、イレーネはうなずく。
「うん。スヴェンもね」
ロスコーはそれに、あぁ、と曖昧に答えた。
夏に向かう日差しを、まだ冷たい風がやわらげる。育ち盛りの柔らかい下草は、緑の木漏れ日と踊る。腐葉土のよいにおいが鼻をくすぐる。
山道を降りてしばらくすると、小さなせせらぎに到着した。黒い岩間を流れる水は、手が切れるほど冷たい。
「みて、ロスコー! カニよ!」
「こんなところにもか。……かつては気にも留めなかったが、まさかこれを見て食欲を覚える日が来ようとはな」
「たべる?」
「私が食す動物は魚のみだ。イレーネは食べたことがあるのか?」
ううん、とイレーネはどちらとも取れない返事をする。ロスコーは詮索せずに、桶に水を汲む。
手ですくって飲むと、山歩きでほてった体に染みわたる。つい水をすくう手が二度、三度と続く。隣を見ると、イレーネもがぶがぶと水を飲んでいる。思えば、食い物も水もろくに与えられていない。洞窟の壁面から滲みでる泥水をすすり、盗賊どもの残飯をなめ、文字通り糊口をしのいで生きてきた。束の間、生き返ったような気持ちになる。
「ロスコー、血だらけだよ。ぬるぬるもついてるし、あらってみたら?」
ロスコーは自分の右腕を触る。痛々しい瘢痕は残ったものの、幸いにして腱は繋がり、少し握力が弱まっただけで済んだ。だが、まだ動かしただけで傷が開く。そんな状態では気も進まないが、確かに洗った方が治りは早いかもしれない。
「そうだな。イレーネも行水するといい。……試したいことがある」
ふたりは粗末な服を脱ぎ、生まれたままの姿で体を洗った。案の定、全身のそこかしこが悲鳴をあげるが、構わずごしごしと汚れを落とす。
ふと、ロスコーが顔をあげると、イレーネが自分の体をみていた。目があって、イレーネは目をそらしてしまったが、その顔は悲痛にくしゃくしゃになっていた。自ら見下ろしてみると、確かにそこかしこに古傷がある。今後も増えるだろうが、特にそれを憂えたことはない。
自分には、女としての魅力に訴える必要がないのだから。
それと比べると、イレーネはずいぶんと綺麗なものだ。ひとつふたつは首元に
「――ねえ、ロスコー」
「何だ?」
「ロスコーのむね、ふくらんでるね」
見ると、イレーネは乳輪がわずかに出てきたくらいだ。自分と比べれば、確かにそのとおりかもしれない。
「……そうだな」
けれど、面と向かってそう言われると面映ゆい。そして何より、不愉快だった。
「ごめん、イヤだった?」
「……イレーネのせいではない」
顔を背けている自分が、イレーネに見せたくない目付きをしているのが分かる。
なぜ、私の許しもなく、この体は――。
「イレーネが羨ましいだけだ。許してくれ」
銀髪の少女は、何かを吐きだそうとして、口をつぐんだ。
ロスコーはしばらく裸で過ごそうかとも思ったが、さすがにはしたないか、と簡単に服をすすぐとそのまま着てしまった。イレーネもそれにならおうとするが、
「少し待ってくれないか」
イレーネは裸のまま、きょとんとする。「ちょっとそのあたりを歩いてみてくれ」と言われて、首を傾げながらも服を置き、気の向くままそこから歩きだす。
ロスコーは目を閉じ、意識を嗅覚に集中させた。少し甘みと尿臭のある臭いが、明瞭に距離まで判別できる。その方角に顔を向けて、ゆっくり目をあける。臭いの像とイレーネがぴったり重なった。
「やはり、駄目か」
「なになに?」
濡れた髪を揺らしながら、イレーネが足早に近寄ってくる。
「嗅覚を試していた。ゲオルグは臭いで追跡してきたといったが……これではな」
狼人病を発症してから、傷の治りが異様に早くなりつつある。それだけでなく臭いにも過敏になった気がしていたが、気のせいではないようだ。人の姿のままここまで鋭いとなると、変身すればどうなろう。ゲオルグ一味の間では、狼人病が蔓延しているのだ。
「隙をみて逃げる、というのは無理筋だろうな」
「そっか……」
イレーネの表情がくもるのを見て、ロスコーは明るい声を出した。
「心配するでない。他にも策はある。必ず、ともに故郷に帰ろう」
イレーネは小さく、うなずいた。
それにしても、理解しがたいのはゲオルグだ。ロスコーは
「うん? ねえ、ロスコー。なにか、あまいにおいがするよ。いってみない?」
ロスコーが考えごとから顔をあげると、イレーネはもう服を着ていた。
イレーネの思いつきに気持ちが踊るが、あまり時間をかけるとまた殴られるのではないか。そんな考えがよぎる。
けれどロスコーは、いい考えだと歩きだした。どうせ気分次第で殴られるのだ。それに、次に足枷の音を忘れられるのは、いつになるか分からない。
ふたりは背の高い木々のなか、薄暗い道を登る。甘いにおいを探しつつ歩いていると、少し登ったところでロスコーの鼻にも香りがちらり、とかすめた。
「ん?」
「どうしたの?」
ロスコーは草むらをかきわけて進む。ゆるやかな傾斜を降りてゆくと、下草の少ない大きな窪地になった。
「あったぞ!」
「わあ……!」
そこには、いくつも紫色の液果が実っていた。小指の先ほどの木の実をひとつつまみ、ロスコーは口に運んだ。強い酸味の後、甘みが口の中いっぱいに広がる。久しぶりの果実に、ロスコーは年相応の笑顔になる。その笑顔にイレーネも笑い、一緒になって、小さな木の実を摘んでは食べた。
「見かけないベリーだが、たまらないな!」
「これ、ユノミっていうんだよ。おいしいね……!」
「ユノミ……このようなベリーもあるのか。しかし、野に実るベリーを手摘みで雀のようについばむ日がくるとはな。だがどうあれ、これは頬が落ちそうだ」
「……あれ? あたしのかいだにおい、これじゃないかも」
「なに?」
イレーネは立ちあがり、ふんふんと鼻を鳴らす。そして「やっぱり!」と呟いて歩きだす。ロスコーは追いかけようとして、山のように実っているそれから目が離せない自分に気づいた。少し悩んだが、結局、服の前をめくりあげ、そこに入るだけ摘んでから後を追った。
そこからは急な斜面が続いた。足枷が重荷になる中、ロスコーは小さくなったイレーネの背を懸命に追う。
息を切らせてようやく追いつくと、イレーネは立ち尽くしていた。その背より向こうが妙にまぶしく、目を細めてもよく見えない。
不思議に思いながら、その隣に並びたった。
視界が、オレンジに開ける。
ロスコーの足元に、紫の実がばらばらと落ちた。
そこは、緑豊かな山のなかにあって、青く澄んだ空が広がっていた。
雄大な雲が空と地の間を白く埋め、さんさんと照る陽が照らす、その原は。
見渡すかぎり一面、たくさんの花が咲き乱れていた。
黄と橙のまだら模様の、百合によく似た花。
太陽に祝福され、花々は心地よい風に揺れる。
「きれい……!」
イレーネは目を輝かせ、見入っていた。ロスコーもそれは同じだが、イレーネの紅潮した微笑みに涙がこぼれそうになる。
それはこの世の冥獄にあって、今まで見たことのない、澄み渡った笑顔だったから。イレーネもロスコーの顔を見て、思わず感じ入り、涙がこぼれた。
ふたりは何も口にできなくなって、その場にへたりこむように座った。
そしてただ、目の前の宝石のような花々と、手の届きそうな空を見つめていた。
ほど近い空からくる柔らかな風に、体が洗われるようだった。
服が乾ききった頃に、ようやく言葉がこぼれおちた。
「この花は、忘れ草というのだ」
「わすれぐさ――」
「恋人を想うこの苦しみを忘れさせてくれ、という願いがこめられた名だ」
「ロスコーの村ではそうなんだ。あたしは、いやな気持ちをわすれさせてくれるくらい、とってもきれいなお花だってきいたよ」
「なるほど、まさにそのとおりだ」
ロスコーはいくつか木の実を拾い、イレーネに渡す。自分もそれをつまみつつ、イレーネと忘れ草を何度もみた。今だけは、逃げることを考えないようにした。だって、これほどの温かい気持ちは、故郷ですら感じたことがなかったから。
「これほどの幸福をくださった主に、感謝を捧げよう。友と禍福をともにできるとは、これほどまでに得がたいことだったのだな」
そうロスコーは銀の短剣の柄を捧げもち、祈りを捧げる。
その姿にイレーネは、複雑な面持ちで胸に手をやった。その手の中には、何かが握られている。
ロスコーはその顔のかげりに、喜色の陰にある不安を読みとった。
「イレーネ?」
「ロスコー……ロスコーは、友だち?」
「そうだ。何度でも言ってやろう。我らは友だ。それとも、私の思い違いか?」
「ううん……うれしい。とってもうれしい。でも……」
木々がざわめく。
「……イレーネ。私に聞かせたいことがあるのなら、ぜひ聞かせてくれ」
「でも、それは……」
鳥の声が、風の音が、遠くなる。
ロスコーは上体をそらし、空を見上げた。かつてあんなに遠かったものが、今はこんなにも近い。
「――私は、貴族の長女として生まれた。とはいっても、年の離れた兄がいた」
ゆっくりと話しはじめたロスコーに、イレーネは伏し目がちに顔を近づける。「おにいさんがいるの?」
「病弱な兄だった。生を受けた時から世継ぎになるさだめであったのに、幾度となく生死の境をさまよい、お父様をやきもきさせるような」
ゆえに、私は男として育てられた。
「あ……」
イレーネは、その名の意味を理解した。どれだけの無理を通すためつけられた、重荷でしかない名であるかを。
「そう同情しないでくれ。私はそのこと自体に恨みはない。ただ――そう扱うと決めたなら、最後までそうと――私を後継者にするよう貫きとおしてほしかった」
ところが兄は完治した。どこの誰とも知れぬ魔術師が、代償もとらず治療した。
「今思うと、高い代償だったのかもしれないが――まあ、それは別の話だ。
もとより領主は男がなるものだ。兄が使えるとなれば、私の席はもうなかった」
「……その、りょうしゅ、ってよく分からないんだけど。
その、どうしてもならないといけないものなの?」
そうだな、とロスコーは言葉を探す。
次の言葉までの刹那に、ふと思う。そんな選択肢が、自分にあったものかと。
「領主になれないということは、大人になれないという意味だ。私にとってはな。子供扱いのまま、何ひとつ自分の意志では決められず、政の道具にされることになる。挙句、顔も知らぬ男の世継ぎを産むだけの装置にされる。
――そんなものは真っ平御免だった」
「……それなのに、なれなかったの」
「なお悪かった。私はお役御免と言わんばかりに、別の領主の元へ養子にされた」
ようし、とイレーネはおうむ返しにする。ふふ、とロスコーは自嘲する。
「ヴェスペン同盟にはな、孤児を減らすため、子を求める夫婦へ子供をあてがう仕組みがあるのだ」
ロスコーが見ると、イレーネは言葉を失い、自分を見つめていた。
もう続きがわかるというのか。ああ、なんと聡い少女だろう。ロスコーは願う。
――イレーネならば、理解してくれるだろうか。
「私はな、イレーネ。織りたてなのに、気に入られなかった衣服のように、ぽいと捨てられたのだ。――使用に難ありですが、まだまだ使えるものです、よかったらどうぞ――と、言うように。ああ、そうだ。
まるで、
イレーネの表情は悲痛なものだった。だが、ロスコーの不細工に歪んだ笑みは、イレーネの何倍も悲壮だった。
天を目指して伸びるはずだったのに、嵐に雷火に炎天に、幾度となくゆくてを阻まれて、不気味に歪まざるをえなかった、一枝の椿のように。
「私を
あれから二年以上の月日が経つ。思えば自分も未熟で、正論ならば押し通ると考えていたきらいがある。いずれは自分の誇りに泥を塗られ、同じことになっていただろうが、早くに人心掌握に努めていれば、こうはならなかったろうに。
「じゃあ……ほんとうにロスコーは、いくさのためにここへ……?」
「そうとも。しかし、私の隊は少々特殊でな。味方から恨みを買う性質があった。いずれは何らかの造反を招くだろうと思っていたが……」
傭兵団のひとつが人狼だらけと分かり、神意にそむく異端として隔離したのがまずかったのか。攻勢に出た極めて重要な局面で、それは謀反を起こした。
「本陣を背後からおそい、私のいた隊の指揮官はもちろん、全員を皆殺しにした。生き残ったのは私とスヴェンだけだ。指揮系統を失った同盟軍は散り散りになり、戦線は大きく後退した」
そして、私とスヴェンは囚われ、何度も代わる代わる犯されることになった。
「そうだったの……」
イレーネの顔を見て、そんな顔をするな、と肩でこづく。
「確かに、悪いことばかりだ。だが、たったひとつだけ天の宮の主に感謝していることがある」
君だ、イレーネ。
「えっ……!」
「君に出会えたことこそが、たったひとつの祝福なのだ。
だから――どうか聞かせてくれないか。私は、もっと君のことを知りたく思う」
イレーネの瞳が、木漏れ日のなかで揺れまどう。何か言いかけ、けれど言えず。ロスコーにはその気持ちがわかるような気がした。
そしてようやく、長い葛藤の末にイレーネは口を開いた。
「あたしは……エンルムの村にいたの。おとうさんとおかあさんはけものの皮をはいだり、すじをとったりしてくらしてた。あたしたちは、村の人としゃべっちゃダメだったの。……だから、友だちはひとりもいなかったよ」
なんだ、不可触民だということか。ロスコーはそんなことか、と安堵する。
「案ずるな。私を助けてくれた恩は、その程度でくすみはしない。
君はそれだけで、その辺りの使えない男爵より価値がある」
イレーネは、ほんと、とぽつりとこぼす。「ああ、本当だ」
「
無遠慮に投げ出された、秘匿されるべき神の名。
空はくもり、にわかに肌寒くなる。ロスコーは戦慄し、空白の時がうまれた。
「な、何をいう。エンルムは同盟内の領地ではないか」
「あたしたちは、ずっと
フラフィンを信じているとうそをついて――あたしもそうなの」
あの日、イレーネの手を引いて逃げだした日のことが思いおこされる。あの時、ロスコーの呼びおこした奇跡は、イレーネを癒やすことはなかった――神聖なる唯一の神より
「ロスコーは――奇跡をもらえるくらい、フラフィンを信じてるんだよね」
ロスコーは、あたしをどうするの?
ロスコーは答えられなかった。真教が少数派であった頃であればいざしらず、真教はもはや異教徒を容赦しない。改悛と改宗を迫ったのも遠い過去。大いなる主以外への崇拝は償いがたい大罪となり、残るは火刑による残酷な刑死のみ。
そして、
ロスコーは思わず、聖印の刻まれた短剣を手から振りはらった。
それが、熱をもったように思えて。
「……やっぱり」
「イレーネ、これは違う。ちがうのだ……」
沈黙がふたりに突き立つ。異端者を見てみぬふりをすることは、真教の教えに背くことになる。もし、ロスコーがそこまで敬虔な真教徒でなければ、イレーネを“良い異教徒”と看過することもできたかもしれない。教典にもある、救世主を助けた異教徒のように。しかしながら、ロスコーは真教を心の底から信じていた――それを“真なる教え”だと確信していた。
「……今からでも遅くはない。私は洗礼の秘蹟を施すことができる。どうか――」
「アンギスさまは許してくれないよ。きっと今よりたいへんな目にあう。あたしだけじゃない、ロスコーもだよ。それに――あたし、神さまからもらっちゃった」
もらった? 自分のように、信仰の褒賞として得たというのか。「……何を」
「――友だち」
ざあっ、と早すぎる夕立が飛来した。
イレーネの顔を濡らしていたのは、果たしてどちらだろう。
「あたし、神さまにおねがいしちゃったの――友だちがほしいって。
あたしにできることなら、なんでもするって」
だから、神さまはみんなを連れてったの。
「あの日、おとながたくさんやってきて、村に火をつけたの。剣をもってた。
みんな、みんなみんな、あかいシミをつけて、うごかなくなっちゃった」
そしてイレーネは、子供はみな拉致された。その先で、友を得た――友以外は、みな死んだ。両親のみならず、故郷まるごとを贄として、友を得たのだ。
「なんという。それは、それではまるでっ――!」
「あたしのせいなの。あたしが、友だちがほしいっておねがいしたから」
不可触民として生まれ、友もおらず、親にならい異教の神を信じ、その神に祈りすがり、ようやく得た運命が、自分だというのか。
「そんな、そんな残酷な神がいてたまるものか! それだけの代償を支払わせておきながら、与えられたのが……」
よりによって、異端者を許すことのできない、私だというのか。
「うん。だから……きっと、祝福なんかじゃなかったんだよ。
これは、罰。みのたけにあわないおねがいをしちゃった、あたしへの罰」
ロスコーは歯噛みした。これだけ悪辣な定めを、自らのせいだと思ってしまう少女。そんな清廉な少女が、どうしてこのような運命を甘受せねばならない。
苦しかった。喉の奥に石がつまっているようだった。少女が今まで積み重ねてきた信仰心、そのすべてが反転し、それは悪徳だとでも言うようにさいなむ。
ずきり、と思いだしたように傷が痛んだ。
ロスコーは自分の肘を見るが、傷は完全に塞がっていた。
ではどこが、と手のひらを返す。
手は狼のそれだった。太い蹴爪が握りしめた手に食いこんで、血だらけの穴が三つもあいていた。流血で赤く染まった手。
顔をあげると、銀髪の少女と目があった。けれど、少女は無言で顔を背けた。
ああ、そうか。ロスコーは理解した。
選ばなければならないのだ。今のこの手では触れられない。
初めてにして唯一の友か――生まれ落ちた時から身も心も捧げてきた信教か。
どちらかを捨てなければ、そのどちらからも捨てられると。
夕立は激しくなり、木々を叩き、忘れ草を濡らす。
しらずしらずのうちに自ら傷つけた手は、雨粒に洗われてゆく。
なのに、その思いだした痛みは、消えることなくずっとそこにあった。
「……っ!」
沈黙を破ったのはイレーネだった。
立ちあがるや転げるように斜面を駆け下りてゆく。
「ま、待ってくれ!」
雨に濡れた森を、ふたりの少女が駆ける。大いなる自然の中では、何も差はないはずなのに、ふたりの距離は遠かった。来た道と違う道を、イレーネは前も見ずに走った。ロスコーはそれをがむしゃらに追いかけた。
分かっていたからだ。それが、今、手を離したら、二度と取り戻せないものだと。
「きゃっ!」
雨にぬかるんだ土がえぐれ、イレーネの両足が宙に投げだされる。
手がかりのない斜面は、そのままはるか彼方の川底へ吸いこまれてゆく――
その手を握り、繋ぎとめたのは、赤髪の少女だった。つい先程ちぎれかけた肘が軋み、靭帯がぶちり、ぶちりと弾ける音がする。けれど、少女は手を離さなかった。痛まなかったわけではない。より鋭く、突き刺すような痛みがあっただけだ。
ふたりは一瞬の空中遊泳のあと、折り重なるように倒れこんだ。遅れてやってきた恐怖と安堵に放心するも、イレーネは飛びのいた。
そしてそのまま、返すべき言葉も選べずに見つめあう。
先に違和感に気づいたのは、ロスコーだった。
「君、その指は……」
イレーネの左手には、薬指がなかった。けれど、断端はきれいに皮膚に覆われている。ロスコーは、その先が自分の手の中にあることに気づく。包帯代わりのぼろ布の中には、枯れ枝のように干からびた指があった。
それが啓示だった。ロスコーはようやく取るべき選択を知り、目の前の谷より深い後悔とともにその指を握りしめた。
間にあわなかったのだ。それを、イレーネの体は、あきらめてしまった。
ロスコーは銀の短剣を取りだすと、イレーネの前に差しだした。
「イレーネ。君に、これを預けたい」
それを見て、イレーネは泣きそうな顔で首を振った。
その刃には傘十字の聖印がかたどられている。
それを異教徒に託すということの意味くらい、イレーネにだって分かった。
「ちがう……ちがうの! あたしは、ロスコーにこんなたいせつなものをすててほしかったんじゃない! ただ、あなたと――」
「ああ、私もそうだ」
イレーネが、ロスコーを見る。
ロスコーの瞳は、翡翠のような緑に透きとおっていた。
「私は元より、主から見捨てられていたのだ。あの日、私は
悪魔に取り憑かれ、神の威光はもはや私を見放した」
そして、異教徒にうつつを抜かし、神の御名を
ゆえに、ロスコーはこう考えた。
いくら祈ろうと、もはやこの祈りは赦しを乞うに等しいのだと。
もはや奇跡が降りないことこそがその証左。
「だから、君の信ずる神に、ともに祈らせてくれ。君に赦しが与えられんことを」
イレーネは、静かにその短剣を手にとった。
そして、ゆっくりと首からロケットを外すと、ロスコーに差しだした。
「あたしも、ロスコーのためにいのるよ」
ロスコーは受けとると、しずしずとそのロケットを眺めた。翼の生えた蛇が、じっと自分を見つめている。
「イレーネ。これも貰ってしまって構わないだろうか」
死んだ指を目の高さまで持ちあげる。
「いいけど、なんで?」
「これは、私の罪なのだ」
その指は、すっぽりとロケットに収まった。それを首からさげると、ロスコーは安心した――ずっと見えないふりをしてきたものが、胸にあることに。
「ロスコー……でも、いいの?」
「よい、これでよいのだ」
ロスコーは不意に、崖の向こうを見た。イレーネもつられて顔をあげる。
黒い雨雲の向こう、遠くに青空がまだあった。
「人は、安らぎのために神に祈る。私はそう教えられた。
けれど、優越感を与えこそすれ、神の存在が私に安寧をくれることはなかった――同じ列に並んでいたみなが与えられ、私だけが与えられなかった。
私に真の安らぎをくれたのは、君だ」
そう。神という絶対者の威光に安堵するには、ロスコーは
他の年経た為政者と同じく、形なき真なる神体と偶像の差異が、ロスコーには生まれ落ちた時から理解できなかった。
神が奇跡をたまわっていたことだけが、神の存在証明だったのに。
「あなたにそうおしえてくれた人は、かなしまないの?」
イレーネの言葉に、ロスコーは不意に思いだした。神を信じるということ、それそのものを誰に与えられたのかを。
『ロスコー。きみも祈るといいよ。天の宮の主はみていてくださる。きみの正しき行いを、ほかの誰もみていなくとも、主だけは覚えていてくれる。だから――』
きみの才で、多くの人へ幸福を――。
目の前から、色の薄い赤髪の青年が消えた。ベッドから体を起こし、はかなげにほほえむその姿が。
「……構わない。もう覚えていないだろう」
イレーネは小さくうなずき、傷だらけの手をとった。
「じゃあ、ロスコーにあたらしい名前をあげる。ほんとはみこさんしかダメなんだけど……ううん、どんなのがいいかな。ロスコーの名前って、もっとながいの?」
洗礼名のようなものか、とロスコーは得心する。
「私の名か? 正式には、
ロスコー、ロスコーと何度か口の中で名前を転がし、ミドルネームもそうして、イレーネはいきなり顔を輝かせた。
「どっちもあたまをとって、
ロスコーはその奇妙な響きに、思わず笑ってしまった。異教に帰依するための名に、真教の洗礼名が混ざっていることもだ。
でも、そんな奇天烈さがますます気に入った。その名の響きが女っぽいことは嬉しくもあり、少し不満でもある。けれどなにより、それをくれたのが誰かということが、とびきりその名前を上等にしてくれた。
「ルオッサか。それはいい」
「きまりね! じゃあルオッサ、あたしにつづけてね」
あたしたちをみてる神さま。あたしたちの心を、あなたにささげます。ですからどうか、あたしたちを見守っていてください。あたしの友だちが、あなたのもとでいのることをおゆるしください。
そのつたない、洗練されぬ祈りの言葉を、ロスコーは復唱する。
その背徳にロスコーの背はぬれる。自分はいい。自分の身ひとつで償いきれる罪ならば。ただ、唯一の神が友にまで罰をくだすことを恐れた。
このような、しどけない純真な願いをもつことが、神に反することなのか。
ロスコーは――ルオッサは、イレーネをみた。
雨に濡れた銀の髪に、木漏れ日がさす。
「ルオッサ……みて!」
指差されるまま、空を見上げた。ルオッサは目を見開いた。
そこには七色のアーチがかかっていた。つややかに輝くイレーネの髪と同じく、ルオッサのなかの霧雨を晴らす美しさだった。
「虹――これは、なんと……」
「ああ、ありがとう、アンギスさま! ルオッサをむかえてくださるって!」
五色の体を持つ、空駆ける蛇の神。普段は地中にいるものの、どの神よりも多く地上に顕現し、そのたびに信仰者を祝福するもの。
「……私は、勘違いしていた」
ルオッサは悟ってしまった。唯一の神の他に神はないと教えられ、それ以外は神を僭称する悪魔だと信じていた。だが、これほど美しいものが、神でないはずがない。この美しさも邪悪さの現れだというのか。
――いいや、違う。
悪魔祓いの教科で学んだ、ぎらつき、蠱惑的な美ではない。断じてない。たとえ心を酔わす調律された美ではなくとも、これは完成した美なのだ。自然に現れた、間違いなく自分と同源と感じさせる――安堵を、ルオッサは感じていた。
ロスコーは唯一神を否定しない、否定できない。生を受けた時から共にあったものを、一朝一夕に切り離せるわけがない。だが同様、異郷の神も否定する必要はないのではないかと思った。唯一の神が、唯一でなければならないと誰が言った。唯一でなければならないほど、その神聖性はおぼろげだとでもいうのか。
……そうではないはずだ。なぜならあなたは偉大で尊きものなのだから。
だから、アンギスを許容することを赦したまえ。
「イレーネ。私は、ルオッサは、この神とともにあろう。
ことここに至っては、私は教えを乞う側になる。頼めるだろうか」
イレーネの喜色満面な顔が、少し申し訳なさそうにすぼむ。
けれど次には、屈託なくルオッサを抱きしめる。ルオッサはその体温を感じた。心地よく冷えたなかに、同じあたたかさを。
「じゃあ、あれをとってかえろうね」
指し示された先には、赤子の手のような葉を茂らせるくさむらがあった。まだ花は咲いていないが、その葉にルオッサは覚えがあった。
「二輪草か?」
「ううん、ちがうよ」
笑ってその草をつむイレーネにならい、ふたりで数株を引っこ抜いた。短剣で根だけを切りとり、ふたりで半分ずつ隠しもつ。
ふたりだけの秘密を手に、少女たちは帰路につく。その秘密がかけがえのない絆に思えて、ルオッサは笑う。洞窟ではいつも怒りに眉根を寄せているその顔が、忘れ草のように開いている。それだけで、イレーネはごきげんだった。
「ねえ、ルオッサ。あたし、いつか、ルオッサの村がみたいな」
ルオッサは「村?」とおうむ返しして、言いたいことがわかると含み笑いした。イレーネは貴族というものを知らない。自分もイレーネと同じような、あるいは多少、羽振りのいい村に住んでいたと思っているのだろう。
「そうだな。約束しよう」
本当は、忌まわしい自らの領地なんて二度とごめんだった。けれど、イレーネの気持ちをくんで、ルオッサはおくびにも出さずに指切りをした。
――――もしかしたら、イレーネとなら、素晴らしい旅になるかもしれない。
そう思えたことが、とても得がたいものだったから。
小川につくと、ずぶ濡れの少年が桶を抱え、うとうとと居眠りをしていた。
その姿をみるや、ルオッサの眉が寄り集まる。
「スヴェンさん?」
「ん……やあ。おかえり。楽しかったみたいだね」
「えへへ……。スヴェンさんはどうして?」
「いや、大したことではないんだ。おむかえに来ただけさ」
そういうスヴェンの顔には、殴られたあとがある。ルオッサはぴんときた。
「私たちの帰りが遅いから、探してこいと言われたのだな」
「あはは……さすがはロスコーどの。すべてお見通しだね。
さあ、日も傾いてきている。みんなで帰ろう」
スヴェンは立ちあがり、水桶を手に歩きだす。イレーネはスヴェンを見上げて、だいじょうぶなの、と尻上がりな声音を出す。
「平気さ。ふたりのためにも、僕が気張らなくてはね」
「強がりはよしたまえ。私よりも生傷が多いではないか」
スヴェンは曖昧に笑って、答えない。ルオッサはふと気づいた。
スヴェンが変身するところを、ルオッサは見たことがない。スヴェンも自分やイレーネと同じように、噛まれたり犯されたりしているはずなのに。
「ありがとう、スヴェンさん。そういえばスヴェンさんのこと、ぜんぜん知らないなあ。るっ……ロスコーとはおさななじみ?」
「滅相もない。ほんの二年前に知りあったばかりさ。きっと君のほうが詳しいよ」
「えへへ……」
道すがらイレーネとスヴェンが談笑するのを、ルオッサは怖い顔で聞いていた。警告をすべきかと考えてから、どちらになんと言えばいいのかさえ、分からないことに気づいた。
それに、自分の気持ちを噛み潰すしかなかったのだ。
あの、イレーネの顔を見てしまえば。
戻った三人は、腹いせに殴られた。
戦争が長期化するにつれ、商人は寄りつかなくなり、盗賊どもは実入りが悪いようだった。その鬱憤が回りまわって少女たちに叩きつけられていた。
ルオッサは手下たちからほとんど陵辱されなかった。ゲオルグに気に入られているばかりか、仲間のひとりに一生残る傷を負わせた凶暴さが疎まれた。
代わりに虫唾が走るような邪淫を一手に引き受けたのは、イレーネだった。
いや、いやと
洞窟の中を、罵声と悲鳴、絹をさくような音が満たす。
その晩もルオッサは犯されていた。空腹と渇きが力を削ぎ、睡魔が脳髄を責めたてる。いかにルオッサが凶暴であっても、ゲオルグには勝てなかった。長い髪をつかまれ、狼の口吻に手を押しこまれる。片手で口角の両方に指をかけられては、噛みつくこともできなかった。決死の思いでなんとかつかんだ腕も、ルオッサの爪ではその獣皮を貫けない。
牙と爪を封じられ、無念のなかでルオッサはゲオルグを受け入れた。
あがけば顎関節が悲鳴をあげる。後頭部を岩床に叩きつけられる。もうろうとする意識のなかで、ルオッサはついにあきらめてしまう。どうして自分がこんな目に遭うのか、神は自分を見放したのか――以前はそう救いを求めていた。だが、唯一神は助けてくれないと理解してしまった。神は、この世で助けてくれるとは限らない。けれど死後には神の庭に引きあげてくれる。そう教えられていた。
なぜ、
この試練を超えられれば、神の庭に招待してやろう、とでも?
なぜ神は私を試すのに、私は神を試してはならない?
「あぁ、いい女だなァ。鏡がありゃ見せてやりてえモンだ。なあ、ロスコー?」
胎内が裂ける痛みと、熱いものが股から流動するのを知覚する。
ルオッサはぼろぼろと泣いていた。
「こ、ころす、殺してやる。聖者の受難以上のくるしみをあたえて、ゆ、ゆるしをこわせ、むごたらしく、尊厳なき死をくれてやる――いつか、かならず」
ゲオルグはにんまりと口の端をつりあげて、くつくつと笑った。
「いいぜェ。今から楽しみで仕方ねえ」
尊厳なき夜伽がおわり、銀の月が遠く、遠くにあった。
ふたりの荒い呼吸を聞き、ルオッサは隣をみた。スヴェンは切り裂かれた顔と胸を押さえ、尻のあたりを赤く濡らしている。イレーネは魂の抜けた目で、遠くに真昼の花を見つめていた。衣服はまくりあげられ、裸体の上にいくつかの瘢痕と精液が模様をえがく。
拒絶したかった考えが、自分の中に浸潤してゆく。
私は神を信じられず、神を試してしまった。異端の神を信じてしまった。
――唯一の神に背いてしまった。
私は、自らの信心を信じられなかった。その罪が私だけでなく、イレーネにまで振りかかった――自分がすべて悪いのではないか、と。
かたわらでは、淡い紫のちいさな花が群れる。小指の半分もない、四枚の花弁のかよわい花。そのほとんどが椿のように花を落とし、風にながされてゆく。
ルオッサは――ロスコーは知っていた。かつての学び舎を埋めつくしていた、聖ヴェロニカと同じ名の花。
ルオッサは祈った。救済を、せめて友の救済を。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます