花開けど、既に遠き

 赤髪の少女は、歩いた。

 これ以上、歩を進めるとまずい――そう分かっていた。けれど、全身の皮膚のむずがゆさと、反吐が出るほどの衝動の渦が、理性を阻む。

 ルオッサは、震える手で別館の扉を開いた。

 ほこりと、使いこまれた木材の匂い。壁にはびっしりと豪華な装丁の本が並んでいる。窓の外では遠い空が明るくなってゆく。窓の前にはひとつのランプがともっており、ひとりの老人が安楽椅子で寝息を立てている。

 ルオッサはその顔をみただけで、虫酸が走った。できる限り、足音をたてずに忍びよったが、年老いた浅い眠りを妨げるには十分だったらしい。

 老人は目を覚まし、少女をみとめた。

「……デリアかね。少し、眠ってしまったらしい」

 衰えた低い声は、どこか焦点があわない。かつては先陣を切って戦場を走り抜けた勇士も、老いればこれか。ルオッサは我慢をあきらめた――手綱を離す。

 もう、なるようにしてやろうと思った。

「起こしてしまいましたか、アルフレート老」

 ルオッサの声音は、ハインの前でも、リタの前でも聞かれないものだった。冷ややかな響きのなかに――白刃が閃くような。

「ようやく戦乱の世が終わり、平穏な日々が来ようとしておる。……すまないな、公務が立てこんでおるのだ。お前をひとりにすまいと思っておるのに」

 老人は、窓の外、そのさらに遠くを見つめていた。噂通りの呆けぶりに、ルオッサは心底軽蔑する。なぜ早くこうなっていなかった。もっと早くこうなっていれば。

 テーブルのカップを取ると、ルオッサは後ろを向いた。液体がカップのなかで弾ける音がして、湯気が立ちのぼった。

「お茶が入りましたよ」

 ルオッサは、ひとつ震えた。

 老人は――アルフレートは振り返り、にこりと笑った。そしてカップに口をつける。

「お前の淹れたものはいつでもおいしいな、デリア」

 ああ。

 ルオッサは興醒めした。やはりもう、何も判っていない。こいつは最も幸せだった時間に浸って、自分だけ幸福に没しようとしている。

 どす黒い感情が、あの日、ルオッサを染めあげた感情が沸騰しはじめる。

「また、行こうじゃないか。私達が出逢った、あの湖に」

 ルオッサはやにわに歩み寄るや、カップの黄色い液体をアルフレートにぶっかけた。呆然とする老人に、ルオッサは残忍な笑みを浮かべる。

「デリア? ババアはとっくにおっんだじゃないか。気が狂って、オマエのことさえ判らなくなって」

 アルフレートは目を白黒させた後、いきなりルオッサを見据えた。

 焦点があった瞳は、小刻みに震えた。

「ロスコー……?」

 ルオッサは高笑いした。一時のことだろうが、アルフレートが自我を取り戻した。

 それはつまり、ルオッサがという意味だ。

「おうよ。久しいねェ、アルフレート。アルフレート・ルク・ドラウフゲンガー。

 ざっと三年ぶりかァ? さしもの“桜花公”も寄る年波には勝てないと見えるぜェ」

 さあ、どんな苦痛を与えてやろう。ルオッサは胸を踊らせて、言葉と方法をいくつも思い浮かべた。


「……すまなかった」

 ルオッサは、静止した。「――なに?」

 アルフレートは、自分を凝視する少女を前に、言葉を溜めこんでいた。

「お前を悔やんで、デリアはずっと泣いていた。お前の戦死の知らせを聞いた日から、私がわからなくなった。

 よく、よく生きていてくれた。

 私が悪いのだ。私はずっと、お前が私よりも有能なのではないかと恐れていた。まだ幼く、そして女であるお前が。目の前にお前という怪物がいることに、“桜花公”は耐えられなかったのだ」

 ルオッサは口をつぐんだ。手のひらを握りしめた。指が甲まで突き抜けそうだった。

「本来ならば、お前という跡取りがいることを喜ぶべきだったのだ。

 ドラウフゲンガーは安泰だと」

 やめろ。

 やめろやめろやめろ!

 吐くべき言葉が違うだろう。違うのだ。

 ――ドラウフゲンガーの世継ぎが帰ってきたな、そう言え。思わぬ拾い物をしたと。デリアもこれで喜ぶと、

 三年前のように、保身的に、利己的に言え!

「お前のような幼子を、義理とはいえ他ならぬ父が戦場にやるなぞ……。

 ――すまなかった、ロスコー」


 もう、ダメだ。

 顔をあげた少女は、野獣の顔になっていた。

「ふざけるな……!」

 爪でつかみかかった時には、もうあぎとが喉笛に食いこんでいた。

 引きちぎる。

 ほとばしる鮮血。

 ふざけるな。ふざけるなふざけるなふざけるな!

 獣と化した少女は、痙攣するアルフレートを蹂躙し続けた。

 皮を裂き、肉を咀嚼し、吐きかけた。

 なぜアタシを利用しようとしない。なぜ悔悛する。なぜ後悔する。なぜ罵倒しない。なぜ謝罪する。なぜ贖罪しようと。

 骨を折り、頭蓋を踏み割り、臓腑をあらわにした。

 誰のせいでこうなったと思っている。オマエは復讐されるべき男であって、懺悔を垂れる男ではない。なぜ、なぜだ、なぜ、今になって!

 顔面を形がなくなるまで殴った。烈火のごとき怒りのまま、それを破砕し続けた。

 心の臓を食いちぎり、飲みくだした。クソにしてやるために。


 ルオッサには、許せなかった。

 その男は完膚なきまでに復讐すべき者であり、最後まで自分を軽蔑すべき者だった。認めるわけにはいかなかった。そいつが自分と同じ人間で、唯一の神が罪をあがなう機会を与えうるなどと。

 何よりも。

 何もかも遅すぎる謝罪は、あの日の罵倒の何倍も傲慢にすぎた。茹でタマゴを生タマゴに戻す奇跡が、自分には起こせると信じているのか。そのおごりは、発作に耐えて耐えていたルオッサにとって、雷管を叩くも同然の行いだった。


「はあッ……はあッ……」

 原型を留めぬ肉塊――否、もはや塊でさえない、その床の染みの中心で、ルオッサは荒く呼吸していた。少女にしてみればあっという間の出来事で、夢のようなもの――悪夢のようなものだ。

 分かっていたのに。自分が殺してしまうことくらい――復讐したからといって、さわやかな朝を迎えられる道理などないことくらい。

 ルオッサは口元を手で拭った。が、血の汚れは伸び、ひどくなった。

 いつの間にか指に鋭利な爪はなく、毛皮もない。

 周りを見渡した。夜はとうに明けていて、部屋は一面茶色と黒。

「……つまんねえなァ」

 ルオッサはポーチからいつもの聖印イコンを取りだしかけ、これじゃないと首からさげたロケットを握りこんだ。翼もつ蛇の紋章が、ルオッサを見つめる。

 ルオッサは呪文をひとつ唱えた。

 すると、自分の体から乾いた血痕が剥がれはじめた。それを確かめると、ルオッサは部屋を後にしようとした。そこで思い出したように少女は口に指をつっこみ、嘔吐した。


 ルオッサが迎賓館を出ると、何人もの子供たちが寒さに身を寄せあっていた。

 ルオッサの身なりはぼろぼろでみすぼらしいものだったから、子供たちはルオッサを同じく囚われていたものだと思った。

 大人であってもそう思っただろう。その、泥のような目を見れば。


 朝日が差した。

 屋敷を後にしようとしていたルオッサは、後ろであがった歓声に思わずふり返った。

 少女は、目を見開いた。思わず漏れたため息は、鮮やかな橙に染まる。

 見事な桜だった。

 ふかふかと花弁をこさえ、雪のように身にまとう桜花。それは朝日に照らしだされて、輝いていた。まだ肌寒い春風にさらわれて、花びらが風に色をつける。

 その桜花は、解き放たれた子供たちに希望を――ルオッサに絶望を与えた。

 そのまだか細い桜は、ルオッサがドラウフゲンガーの地を踏んだ日に、養父の手で植えられたものだったから。


 なぜ。

 なぜこんなにも、美しいのだ。


 崩れ落ち、ひざまずく少女。そんな少女に、声をかける者がいた。

「大丈夫かよ」

 ルオッサが顔をあげると、そこには深い隈のある少年がいた。少年は――アントンはルオッサのことを知っていたが、目の前の少女がそれとはわからなかった。彼の目には、強姦されるのが仕事の――すれた少女しか映っていなかった。

「泣いてんのか? ……ずいぶん、ひどい目にあったんだな。

 うわ、下着しか着てねえじゃん。寒いだろ、きろきろ」

 アントンは一枚しかない上着を脱ぎ、かけてやろうとする。

 けれど、ルオッサは悲鳴をあげ、反射的にその手を振り払ってしまった。

 互いに唖然あぜんと見つめあい、ルオッサは自分の手を見た。

 赤い気がした。気のせいだった。爪が出ていないことに安堵する。

「……んだよ。ヒトがせっかくさ」

「よッ、余計な世話だ――ほっといてくれ」

 動悸がする。ルオッサは自分が何におびえているのか分からなかった。施しを受けるなど、侮辱もいいところのはずだった。前髪のあいだからアントンを見上げる。

 こいつは、アタシの皮膚の下に毛皮があるとも知らない。

 だからか、といらだった。自分を年下のガキだと思っているから、だから不愉快だったのだと思いこむことにした。

「泣いてなンかねェ。馬鹿にしやがって。女も抱いたことのねえガキのクセに」

 立ち上がったルオッサにそう罵倒されると、アントンは眉を下げ、目を伏せる。

「……痛かっただろ」

 ルオッサは呆気にとられた。そして、自分を売女ばいたと思っていると気づくと、げらげら笑った。同情に過敏なルオッサでも、年端もいかない子供の勘違いは滑稽に映った。

 気持ち以上に過剰に笑う少女に、きょとんとしたのはアントンだ。

「アタシが立ちンぼに見えッかい。まあ、確かにそういうこともしてるがな。ああ、おかしい。アタシが――ククッ、純潔を銀貨一枚で買われ、泣き叫ぶ生娘だとでも?」

 ルオッサは、困惑するアントンを肴に一杯やれるとまで思った。ニヤニヤと笑って少年を見つめ、いつまでそうしているだろうと楽しんだ。

 しかしアントンは、全く別のものを見ていた。

「あんた、そっくりだな。代官さまに」

 ルオッサの顔が凍りつく。「なんだと――」

「顔じゃ笑ってるけどさ。……笑わなくたって、いいんだぜ」

 言外の言葉に、頭では激昂するべきだと考えた。

 けれど、ルオッサの瞳は、ひとりでに涙をこぼした。

「そうか。そうかよ。くそッ、くそッたれが……!」

 感情を制御できないことに、はらわたが煮えくりかえる。

 憎しみが煮詰められる。悪態がとまらない。


 ――死なんて、くれてやるべきじゃなかった。

 いつでも醜悪さを確認できる生者のまま、生き恥をさらさせるべきだった。

 分かっていたはずなのに。

 死ねば誰でも、洗い清められてきれいになってしまうということを。

 ルオッサは自らの行いに悶え苦しむ。定義しなおした己のなかにいまだ潜む、不純物に。自ら腹をかっさばき、つまみだしてやりたかった。

 それは腹を裂かれた時ほどの苦痛だった。

 アントンを、とまどい差しのべられた手を拒絶する。

「クソが! どいつもこいつも忌々しい!」

 ルオッサの咆哮。それはアントンにとって、孤独にむせび泣く狼のように見えた。

 少年は齢十にして、あまりにも多くのものを背負っていた。

 だがそんな少年にも、それはもはや手出しできないケダモノであった。


「ルオッサ……?」

 不意に呼ばれ、ルオッサは振り返った。地金をさらしていた少女は、言葉を失う。

「リタ……!」

 そりゃ、いつかはバレると思っていた。

 だから、バレるまででいい。そう、だましだましリタの隣でけらけら笑っていた。

 でも。ああ、主よ。

 

「ルオッサだって? じゃああんた、ハインの仲間の……!」

 アントンは逃げ腰になり、嫌悪に顔を歪ませた。

 その顔にルオッサは、侵犯を見てとった。

「違うよ! ハインはきみを助けるために――ルオッサ?」

 リタの言葉を遮って、ルオッサはアントンに追いすがった。そして、吠えかからんばかりに犬歯を剥き出しにした。

「オマエもハインがひとさらいだと思いこんでやがンのか?

 ハッ、そこらの連中が誰に逃がしてもらったか聞いてみろ。どうせ、オマエは勝手にハインに惚れこんで、勝手に失望したんだろうさ。どうだ、図星だろう」

「な、何だよ。急に……」

「ハインはオマエに気安く見損なわれるような、そんな男じゃァねえッつってんだ!

 憧れたんだろ、ワクワク胸踊らせたンだろ! 自分もああなりたいってな。どうしてハインを、信じた自分を信じられなかった! そんなに惚れこんでいたのになぜ!

 ――。オマエが憧憬を抱いた偶像が、まさにそれだ。

 ハインはそれと寸分の狂いもねェ。ハインは“それ”なんだ! 次にそんな腑抜けたこと言ってみろ、オマエのお粗末なチンポをぶっこ抜いて、犬に食わしてやる!」

 ルオッサの叫びにも近い言葉に、アントンは泣きそうになった。気狂いのような少女の言葉でありながら、 アントンは抗う言葉がなかった。

「それなら、そうなら……なんで、こんなに死んだんだ。なぜみんな助けられなかった」

 なぜ、

「それは英雄の仕事じゃァないからだ。それは神の仕事、あまねくすべてを救うなんて大言壮語は、口を利く者にゃァ許されちゃいねえ」

「じゃあなぜ神さまは助けてくれない!」

! じゃァ教えてやる! 神はオマエのママじゃねェからだ! オマエは一生、神にオシメを替えてもらうになりてェのか!」

 アントンには分からなかった、気づかなかった。

 ルオッサが艱難辛苦かんなんしんくの果てにたどり着いた、その真意には。

「……あのコボルトが人さらいじゃなくたって。

 って聞いたぞ。を。おれは許さない。絶対に許さない」

 そう言い残して、アントンは帰っていった。ルオッサはその背中をにらみつづけた。次の言葉があれば、少女は抜くものを抜いていたかもしれなかった。

「ね、ルオッサ」

 犬に呼ばれて、ルオッサは顔をしかめた。リタがどんな顔をしているのか、知りたくなかった。けれど勇気をふりしぼって見たリタは、笑って尻尾を振っていた。

「……軽蔑したろ。これがアタシさ。ルオッサという名の、売女だ」

「ううん、ぜんぜん。ちょっとは驚いたけどね。

 でも、なんとなくそんな気はしてたんだ。おかしいと思ってたんだよ。ハインは幼子にはふさわしい幸福を、と戦さの前には必ず祈るんだ。なのに、どうしてきみみたいなちっちゃな子を、仲間に引きいれたのかな、ってさ」

 ルオッサが沙汰を待つ咎人のように地面を見つめていると、リタは突然、ぴょんと両肩に足をかけた。

 慌てるルオッサの赤い瞳を覗きこんで、リタはハインへ向けるのと同じ顔をした。

「ぶっきらぼうだけど、カッコいいよね! ルオッサはさ」

 ルオッサは、太陽のようなリタに面食らった。

 そして次には、思わず笑顔を返してしまう。そんな自分に気づいて、無理やりニヤついた。リタを突き放し、けたけたと笑う。

「ハインは底抜けのクソだが、オマエも見る目がねえなァ、リタ。アタシが格好いいたァ、先が思いやられる。

 アタシがハインに取り入るまで、何して生きてきたか教えてやろうか?」

 少女は犬をあざ笑う。けれど、犬は肯定する。

「ルオッサは、ルオッサだよ」

 少女は牙を抜かれそうになり、押し黙った。

 その顔を見てもそうだと気づき、目をそらす。

「ハインはどこだ。とっとと退散するぜ。ほったらかして帰って、ハインが縛り首になンのも愉快だがなァ」

「すぐ来るよ。そんな物騒なことにはならないし。あ、ほら」

 振り返った少女は、いつもの顔をした。

 悪態を考えながら、リタの後ろをついていった。

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