簒奪の魔術師

 ハインは、焦燥したリタの感情を知り、顔を暗くした。

「助かった――すまないな、リタ」

 愛犬は首を振るばかり。

 ハインは血振りして剣を納めた。破れた袖から覗く腕には、もはや傷跡ひとつない。対するエッカルトは、あえぐように息をする。もう長くはあるまい。

 ハインは、ひとつひとつ言葉を選んで告げた。

「エッカルト・オッペンハイム……。

 領主と代官二名、ならびに司教一名を暗殺し、殿下から預かり受けた無辜の民を虐げた罪により、オッペンハイム領は返上される――そういうことになる。いいんだな」

 エッカルトは息をするのもやっとの状態で、笑った。

「よろしいですとも。当たらずとも遠からず。ふふ――貴殿のような力と聡明さが、私にもあれば……いえ、何でもありません」

 彼は顔をあげ、晴れやかにほほえんだ。

「これでよかったのです。民は守られました」

 その声音には、受難の果てに天に召される殉教者のような、安らぎがあった。

 ハインにとってそれは、とても正視できないものだった。

「最後に、お聞せ願えませんか。貴殿の、名を」

 ハインは、目を背けた。

「では“簒奪さんだつの魔術師”の情報と、引き換えではいかがでしょう?」

 その申し出は、ハインにとって渡りに船だった。

 ハインは、目の前の敗残者を見おろした。皇国式の敬礼、朗々と宣言する。

「――俺は、ハイヌルフ。ハイヌルフ・イルムフリート。ベルテンスカ家を守護する騎士伯が末席、その三男」

 エッカルトは目を剥いた。ハインの顔はどうみてもコボルトのそれであったのもある。だが、もっと重大な誤謬があった。

「ハイヌルフ・イルムフリートといえば、現在のベルテンスカ女帝、マルガレーテ殿の懐刀……では」

「いかにも」

 ハインの首肯に、エッカルトは笑った。

「なんと名高い方に、私は看取っていただけるのか。これは僥倖、我が人生の誉れでありましょう」

 ハインは、なんと返したものか、言葉に困った。その脇に、リタが控える。

「……貴殿の道程に、フラフィン様の加護があらんことを。

 約束通り、私の知ることをお伝えしましょう。とはいっても、私に分かることはごく限られているのですが」

 エッカルトは、時にせきこみながら語った。ドラコーンという名で言い寄った魔術師のこと。意志の弱さゆえに誘惑に敗れ、竜の刻印ドラゴンマークを刻まれたこと。そして。

「自我を潰した魂と……最期には、私の魂を、捧げる。これは、そういう契約……なのです。私が、子供たちにした行為は……自我を潰すためでもあったのです」

「魂……だと。奴は魂を求めていると?」

「危ないご主人マスター!」

 ハインがエッカルトの返事を聞くことはなかった。リタがハインを突き飛ばす。


 それは、突然だった。

 轟音と閃光。

 ハインの目前、エッカルトに天雷が降り注いだ。鼓膜が無為になる。

 閃光に焼けた瞳孔の向こう、煙立つ遺骸の後ろに、誰かがいた。

 

 ハインは、我を忘れそうになった。

 憎悪と憤怒に満たされ、リタを押し退けて対峙した。

「――この日を、八年待ったぞ」

 長剣を抜き、構え、左手でポーチをまさぐる。

 

 エッカルトだったものの後ろには、竜の仮面がいた。

 仮面の男は、闇のように暗いマントから腕を出し、遺骸に掌を向けた。

 ハインには、天か地に至るべきものが――無色の力が収奪されるのがわかった。

「ここに、契約は満了となった。確かに受領した、“冒涜”の運命に生まれつきし者よ」

 男の声は、地響きのように低かった。男は再び腕をマントの闇にゆっくりと戻すと、ハインには見向きもせずに背を向ける。

「待て、“簒奪の”!」

 男は――“簒奪の魔術師”は、無視しようとして、途中でやおら振り返った。

「誰かと思えば。いつかの少年騎士ではないか。見てくれでは判別がつかぬな」

「誰のせいだと思っている!

 おまえを今、ここで捕縛する! そして、しかるべき裁きを受けさせてやる!」

 仮面の男はからからと笑った。

「捕縛する? 私を?

 その思いあがりも滑稽だが、もっと愉快なことがあるな。仇討ちしか思いつかぬような前のめりな男ではなかったかね、貴様は」

 ハインは歯ぎしりする。剣も軋んで悲鳴をあげた。

「ああ、そうとも。今ここで討ち捨ててやりたいさ。だがおまえにはやらねばならないことが――解かねばならない呪いが、告解せねばならない罪が多すぎる。

 神妙にしろ!」

「ほう。やってみるがよい」

ハインの手から、正四面体の金属片がふたつ、飛び出す。男は振り返るが、遅すぎた。そこではリタが同じ金属片をくわえ、全身をバネにして投げていた。

 真鍮製の焦点具は放電し、同じ形に結界を形作る。男は完全に陣のなかに囚われた。それは、ハインとて自力では発動できない高位な呪文。その内部ではあらゆる呪文――あらゆる神秘が無指向の魔力まで分解される。おおよそ人の魔術師が行使しうる、最高至高の魔術の枷。《無垢の檻イノセンス》。

「……どれだけ待とうと、進展するとてその程度か」

 いきなり、真鍮の焦点具すべてにヒビが入った。

 そして次の瞬間には、内からの光を伴って炸裂した。

 後には、ハインの呪文の光が残るばかり。

「そんな……! あらゆる呪文を棄却し、詠唱を無に帰す結界だぞ!

 それなのに、おまえは……ッ!」

 ハインは銀の剣を両手で構え、走った。けれど、動揺の隙は大きすぎた。

。さすればあるいは、私に届くやもしれんぞ」

 銀の剣は、虚無を切った。

 後には骸と、一人と一匹しかいなかった。


 ハインは剣を杖に、立ち尽くした。悪態ひとつ、リタを見つめる。

 リタは鼻を鳴らし、主人を見上げた。

「すまない、リタ」

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