光を冒涜するもの

 ショートソードの一撃を紙一重でかわす。

 足先を相手の腹部にめりこませ、そのまま蹴り飛ばして壁に叩きつける。

「次に来る奴は殺す。心臓を貫いて殺す。喉笛を切り裂いて殺す。火の矢で焼いて殺す。酸の弾丸で顔面を潰して殺す。魂を削って狂い殺す。

 ――さあ、どいつからだ?」

 犬人コボルトは短い鼻先にしわを寄せ、群がる兵士を威嚇した。足元では無力化された兵士たちが何人も呻いている。兵士といってもせいぜいが十代の少年少女で、その腕前はその辺の雑兵に毛が生えた程度だった。子供にしてはかなりの練度といえるが、《真実の目》をんだハインの敵ではない。

 子供たちはみな、互いの顔を見あわせて立ちすくんだ。剣を持つ手が震えている。

「バカにしやがって! たかがコボルト一匹に、なに手間どってやがる!」

 廊下の向こうから、何人かの少年が現れた。

 一番年上らしい少年が鎖帷子チェインシャツを着終えるや、隊長格の少年に怒鳴った。

「で、でもギード。こいつ、魔法を使っ――」

 隊長は、鼻をへし折られて倒れた。

「ったく、使えねー連中だ。いいか、オレたちはエッカルトさまの兵隊だ! これまでも戦争をこなしてきただろ。それがコボルト一匹に――バカバカしい。向こうにゃオレたちの声は聞こえてねえんだ、勝てて当然だろうが!」

 ハインはという言葉をきいて、顔の上の射殺さんばかりの殺意を失う。

 それは一瞬のことで、威嚇する犬の顔にすぐさま戻る。

 だがその一瞬の表情は、沼の底の泥のように、一筋の光も差さぬ暗いものだった。

 ギードと呼ばれた少年は、その表情の変化が意味するところを理解しない。

 ギードは剣を抜いた。

「しかたねえ、オレが手本を見せてやる」

 雄叫びとともに、少年は突撃する。いつものように袈裟斬りにしようと。

 しかしそれは、愚劣な行いだった。

 後ろにいた子供たちは、銀色の剣がギードの背中から生えてくるのを目撃した。

 ギードが自らの死を知覚するよりも早く、ハインはソードブレイカーで気管を完全に切断した。ギードが『いつの間にか目の前にコボルトがいる』と気づく頃には、ハインはその胸を蹴り倒して剣を抜きとっていた。

 ギードは自分の体が横たわっていることを知ったが、そこで急激に体が冷めてゆき、意識を失った。鉄の鎖かたびらは、まるでバターのように無惨に貫通されていた。

 かひゅう。

 末期の吐息が、剥き出しの気管から鳴いた。

 子供たちは目の前のできたての死体を見つめながら、理解できずに棒立ちしていた。やがて、湯気たつ真っ赤な血だまりが広がりはじめるや、子供たちは大声をあげて恐慌状態に陥りそうになる。

 その頭上を、《火矢フレイムボルト》がかすめた。全員がハインをみる。

「言ったじゃないか――殺すと。何を当たり前のことで騒ぎたてる?

 今から三つ数える。それまでに剣を捨て、俺の後ろの出口から出てゆけ。いいな。

 ひとぉつ!」

 子供たちはすぐにも、剣を捨てようとした。しかし、

「これはこれは、情け容赦のないことで」

 乾いた革靴の音が響く。子供たちの後ろから、柔和なほほえみをたたえた男が現れる。幼子のひとりはやおら頭をなでられて、がたがたと震えた。

「エッカルト……!」

「かわいそうに。ギードくんはとてもよい子でした。私の言葉をよく理解し、私を通して天の主によく奉仕してくれました。

 きっと、我らが主は必ずや天宮に導いてくれるでしょう」

「ふざけるな! 子供に、剣をたずさえる覚悟もない子供に剣をとらせ、神の代理人のつもりか!」

「おや、あなたとて年端もゆかぬ少女を、斥候のように使役していたではありませんか」

 ルオッサのことを突かれ、ハインは口ごもった。

 ただそれは、エッカルトの意図するところではなかったが。

「領主とは民を預かる主の代理人。そして、ただ年齢をもって子供と成人を区別するとは、理解しがたい話です。働ければ大人ではありませんか」

「黙れ!」

 ハインは一喝する。エッカルトはほほえんで次の言葉を待った。

「子供には可能性がある。戦乱の血錆になるは騎士の役目だ!

 この世界の隅から隅まで、唯一の神の加護が満ちていることを――神の祝福が何たるかも知らない子供が、誉れに欠けた戦さに巻きこまれ何を知る!

 ――彼らが知るは、ただ酸鼻なる戦場のむごたらしさ……それだけだ。

 物事には順序がある。ものの道理も分からない子供に剣をとらせることなど、言語道断。邪魔なものは斬り殺す、それしか能のない悪鬼に育てるに等しい!」

 エッカルトは一笑に付した。

「では、みな牧歌的に米を育て、牛を追い、はたをおって暮らせと? 戦争が起きて真っ先に徴兵されるのは、そうした農民ではありませんか。あなたの考えでは、子供を手厚く保護する割に、成人にその分を負担させることになりませんか?」

「当然だろう」

 ハインは大小の剣を構えなおした。エッカルトは小さなハインを見下ろす。

「私は、成人の農奴を評価します。これはいわば分業なのですよ」

「何……?」

 エッカルトはやおらしゃがみこむと、子供たちに笑いかけた。

 その笑みは、子供たちを絶望させるに十分だった。

「ギードは大変素晴らしい、よいこでした。あなたたちもですから、私の兵隊に選ばれたのです。もちろん、私の領土を脅かす敵を目の前にして剣を捨てたり――あまつさえ逃げ出したりなんて――しませんよね?」

 エッカルトの細い目が、薄く開かれた。

 子供たちはその瞬間に、あらゆる可能性を失った。

 いくつものショートソードが、ハインに向けられた。その形だけの構えのいくつが、ハインに届くだろう。千にひとつか、万にひとつか。

「やめろ――降伏しろ!

 俺は剣を持たない者を決して傷つけない、騎士の誇りにかけて!」

 ハインの叫びは、裏返って虚しく響いた。

 その言葉が葛藤を生んだのか、それともただ死への恐怖が限界に至ったのか。少女のひとりが、剣の重みに耐えかねて、手を滑らせた。

「駄目だと言ったではありませんか、ヤスミン。あなたは“わるいこ”ですねえ」

 ハインが剣の落ちる音を聞いたのは、少女の悲鳴と同時だった。ハインは少女がエッカルトの手元に移動する瞬間さえ見れなかった。気づくと少女は、エッカルトに宙吊りにされていた。少女は力なくエッカルトの腕をつかみ、かよわくうめいていた。喉を潰され、口を俎上の魚のように開けていた。少女は苦しみから粗相し、雫が床を濡らす。

「エッカルト、貴様!」

 ハインは思わず取り乱した。しゃにむに少女を助けるために飛びこまんとした。

 けれど、幼い剣たちが人垣となってその道を阻む。

「ヤスミン。貴女は大変賢くて、持ち前の明るさでいつも友達を元気づけていましたね。

 残念です」

 ヤスミンは、やにわに呼吸しようとあえぐのをやめた。

 支えを失った肢体がだらりと垂れた。その骸が床に転がる。路傍の石のように。

「ヤスミンは残念でした。でもあなたたちは、彼女の分も働けますよね?」

「エッカルト――貴様だけは、貴様のような外道だけは許さん!」

 エッカルトは微笑みで答えた。そしてまた、背後の闇にとけて消える。

 ハインは子供たちに殺意を向ける。それだけで静かな回廊に物音が倍増してゆく。

「俺はエッカルトを止めねばならない――剣を、戦意を持つものは殺す。

 これが最後の警告だ。いいな、おまえたち」

 子供たちはおびえきっていた。進んでも退いても死ぬことを理解していた。もう、ここにはどんな可能性もないのだと。それでも彼らは逃げなかった。

 ――選択することは、死を意味したから。

 ハインは胸のうちで怒り狂った。エッカルトに、子供らしく「やーめた」と言えぬようにした、残虐な領主に。

 ハインは目にも止まらぬ早業で呪文をひとつ呼び起こした。それはごく初歩的な呪文にすぎなかったが、呪文とその体系を知らぬ子供たちにとっては、必殺の魔法にみえた。呪文の発動が口火を切った。ハインは手のひらから吐息で霧を放つ。先陣を切った隊長格は、呪文の発動に間にあわなかった。むしろ霧をまともに吸いこみ、真っ先に昏倒した。続いて、後ろの子供たちがばたばたと意識を失う。初歩的な呪文だが、《微睡みの霧スリープ》の効果は絶大だった。

 だが、ただの子供でも呪文への抵抗性は個人差がある。数人の子供は眠気に耐えきり、仲間が倒れたことでかえって恐怖が抑制を解いてしまう。

 パニックに陥り、無鉄砲に突貫してきた少年と少女を、ハインは造作もなく首と胸を裂いて殺した。ひとつの無駄もない、洗練された刃の曲線。数の差などものともしない、技量と俊敏さが彼には備わっていた。

 幼子たちは倒れ、赤い花が床に咲く。

 ハインはほんの数瞬、立ち尽くしていた。《微睡みの霧》に一度耐えた者は、同じ呪文に完全耐性を得る。そうでなくとももうひとつ呪文を唱える隙などなかった――そう、頭では理解している。殺さねばならなかったことなど、理解している。体格で負けている以上、そうせねば重傷を負うか、さもなくば死んでいた。

 けれどハインには、割り切ることは不可能だった。これまでも、これからもそうだ。ハインにできることは、自らの罪の数をかぞえ、魂の呪文書に刻むこと。殺害した無辜むこの魂の、来世の祝福を願うこと。それだけだった。たとえそれがどれだけ独りよがりな行いであっても――自らの魂の慰みにはなろうとも、彼らを救うことにはならない偽善であったとしても、やらずにはいられなかった。

 ハインは、断腸の思いで断念することに決めた。アントンの救出は後回しにしなくてはならない。今のこの状況でアントンを探せば、それだけ剣を持った子供たちに出会う危険が増えてしまう。そうなれば、自分は彼らを少なからず殺さねばならない。アントンひとりを助けるために、子供をふたり殺してしまうような愚は犯せなかった。

 縁を結んだ誰かを特別扱いすることは、縁を結べなかった誰かを虐げることになる。それが、長きに渡る戦いのなかでハインがみつけた理由だった。本音を言えば、目に映るすべての苦しむ人々を救いたい。けれどそれを成すほど、ハインは強くなかった。今、無理を通そうとすることで、いつか自分が無理なく救えた誰かを殺してしまう。

 ――それが、自分を騙す方便だと分かっていても、師はそれを飲みこませた。今だってそうだ。妥協がアントンを殺すかもしれない。だが、それでふたり以上の子供が救えるのなら、それは仕方ない犠牲だと思いこめ――自分の中に根付く、自分の顔をした師がそう囁く。

 ハインは赤い花弁を踏んで、駆けた。また、魂が擦り切れてゆくのを感じながら。

 その行く手、部屋のなかから次々と子供たちが立ちふさがる。覚悟も決意もない刺客を、ハインは残存する呪文が許す限り無力化した。あるものはノコギリを振りかざして背後を取った。その少年は麻薬に酔って笑っていた。間にあわず刺殺した。

 《微睡みの霧》がなくなると《影縫》で足止めした。あるものは夜伽の途中だったのか、ろくな衣服もまとわずに小さな包丁をもって突進してきた。やむを得ず未熟な乳房ごと胸を切り裂いた。低級呪文がなくなると、扉につっかえ棒をし、遺骸や椅子を立てかけ、閉じこめた。

 ハインは一本道の回廊を走り抜ける。曲がりくねった道の途中、彼は幾度となく体術や刃をなくした峰打ちで済ませたい誘惑にかられた。けれど、若き日の彼はそれで何度も死にかけ、リタを悲しませ、止水卿に叱責された。幼子といえど弓を引くことはできるし、混戦中は投石ですら致命的となりかねない。五年を越す月日のなかでハインが学んだのは、そんな残酷な現実だった。

 

 ――わかっていたのに。そんな理由で、庇護されるべき幼子を殺す罪が、軽くなることなどないと。

 だから彼が考えるのは、その罪を忘れないことだった。無数の数字でもいい。浴びた返り血の味でも、負った向こう傷の痛みでもいい。自分が成した、犯した罪を、決して忘れないようにと祈る。それを忘れてしまえば、自分で自分が分からなくなるだろうと、ひとりの司祭に教えられた言葉を反芻する。

『あなたの行いが、あなたを形作るのです』

 俺の行い、俺の罪こそが俺自身。ハインのうちには、ふたりの彼がいた。もう罪を犯したくないと泣き喚き、耳目をふさいで震える自分。それでも自分がやらねばならない、そう一心不乱に前を見つめる、殺人鬼の自分。切り離され孤絶されたふたり、そのどちらもが彼だった。

 危うい綱渡りのまま、彼は戦いつづける。あの子を、彼女を、誰も彼もを救いたい。その一心で、自らの救いを忘れたコボルト――それが、彼だった。


 そしてハインは、最奥の扉に到達した。足元に転がる子供たちに息がないことを確認し、速やかに自らの手と柄の返り血をぬぐう。手早く警戒行動を終え、残る呪文を確認した。後は《蜘蛛の巣ウェブ》と《火球ファイアボール》がひとつずつ。《火矢》ならふりしぼれば何本かは放てるかもしれないが、それっきりだ。

 秘術呪文は日の出とともに瞑想を行い、毎日準備するもの。つまり、これから呪文を補充することはできない。奥の手もなくはないが、それもひとりでは不可能な代物だ。

 もう後はない。ハインは覚悟を決めた。そして怒りの炎を鎮めようとした。そんなことは不可能だったが、せめて騎士の矜持という手綱を着ける努力はしたかった。自分は感情で戦っているのではない、そう戒めるため。


 ハインは奇襲を警戒しながら、大扉を開いた。

 そこは、天井が見えないほど高かった。

 装飾は華美ではないが、礼拝堂を思わせるつくりだった。

 ハインの目の前、赤い祭壇の前で、エッカルトは待っていた。彼は変わらないほほえみを浮かべていたが、ハインは気づいた。その顔色に、末期まつごの乾いた穏やかさが含まれていることに。

 伏兵の気配はない。ハインはいぶかしんだが、エッカルトは作法にのっとった礼をとった――それは、決闘の作法だった。

「お待ちしておりましたよ、ハイン殿」

 エッカルトの声音は、安らいでいる。諦観ではなく、達観でもない。彼はただ待ちわびていた。対するハインは、胸中で熾火おきびのように燃える感情をこらえ、答えた。

「名乗った覚えはないが」

「名乗っていただいたではありませんか、私の城で」

「何……?」

 彼は言いよどんだ。ハインはあの会食でまみえた領主と、目の前にいるエッカルトを結びつけていなかった。

「あれはヌルの擬態ではありませんよ。あれも私、包み隠さぬ私なのです」

「つまらない嘘をつく。なら、今のおまえはなんだ。あれが敬虔な真教徒の行いか!」

 ハインに指弾されると、エッカルトは眉を少し下げた。

 ハインは、燃え盛る火を吐くように続ける。

「答えろ! なぜ子供を巻きこんだ。なぜあの子たちをそのままにしてやれなかった!」

「私がかどわかさなければ、純朴な素晴らしい人物になったと?」

「そういうことじゃない! 子供には、神の愛を受ける権利が、あまたの道を選ぶ自由がある――あるべきなんだ! おまえはそれを不当にむしりとった!」

 エッカルトは、ふと虹でもみかけたかのようにハインを見つめた。

「貴殿は、子供を愛しているのですね」

 その、遠い憧憬を含んだ声音に、ハインは言葉につまった。

 エッカルトは続ける。

「私は、我が子を真の意味で愛することができなかった。

 私は子供を愛したかった。けれど私は、芸術しか愛することが叶わなかった」

 私は、貴殿がうらやましい。

 エッカルトの独白に、ハインは剣が鈍る感触を覚えた。

「違う。違うんだ――俺には、愛する資格がなかった」

 ハインは、代わりに形のない幼子を守らねばと思い詰めていただけ。彼は今になってそれを理解した。リタの顔が思い出される。

 彼は後悔を振り払い、エッカルトを見据えた。

「エッカルト・オッペンハイム。罪を認め、殿下に領地を返上する最後の機会だ」

 領主は、首を振った。返答の代わりに彼は、突剣を抜いた。

「貴殿に決闘を申し入れます。

 代々、オッペンハイム領を守護してきた、最後の領主の誇りにかけて」

 ハインは、まばゆく輝く銀の剣を構えた。

「承知した。しかしながら、条件がある」

 エッカルトは眉をあげる。

「俺が勝者となった暁には、貴殿の持つ情報を貰いうけたい」

「――いいでしょう。何なりと」

 “牙を研げ、銀の剣きたれ、ダスクブレイド”。ミスライア銀の長剣に、まっさらな刃が生まれる。

 ハインは左手でソードブレイカーを抜き、構えた。

「貴殿に竜の刻印を刻んだ者――“簒奪さんだつの魔術師”について。

 何でもいい、とにかく奴に繋がりうることすべてを教えていただきたい」

 エッカルトはかすかに口を開いたが、得心してうなずいた。

「なるほど、貴方だったのですね。を追う者がサーインフェルクにいるという話は。

 では、私からも要望を。貴殿の本名をぜひ、耳に入れておきたいのですが」

 ハインは首を振り、拒絶した。

「俺はハイン・ランペールだ」

「そうですか。残念です」

 静寂しじまが落ちた。それが、開戦の合図だった。


 切りこんだのはハイン。一撃必殺を狙う。しかし。

 銀の剣は空を切った。エッカルトは再び、影にとけるようにして消えた。ハインはこれを予期している。空振りながら隙なく二振りの剣を構えなおし、全方位を警戒した。

 四方上下、どこにも敵の姿はない。これではたとえ詠唱する余裕があろうと、狙いを定められない。

「なぜだ、エッカルト! 子供を愛したかったとうそぶいて、なぜ冥界よりも凄惨な戦場に送りこんだ!」

 ハインは叫んだ。それは糾弾ではなかった。

 彼の背後、その闇のなかから白刃が閃いた。

 エッカルトは笑みを失って、心臓を貫くべくレイピアを突きだす。

 ハインは銀のロングソードを盾にし、からくも弾く。エッカルトの動揺がなければ、防げなかったかもしれない。

「貴殿には理解しえませんよ」

 突剣が音叉のように震える音が鳴り響く。

「分かるさ。俺も、背徳者だ。溺れたのは色欲だが」

 エッカルトは眉根をよせ、相手を見つめた。「貴殿が……?」

 ハインは答えず、風が流れるように滑らかな剣撃でこたえた。牽制の一撃ながら、受ければ必死、かわせば流れるような連撃に続くもの。

 エッカルトは相手の土俵に乗らなかった。再び闇のなかに消えたのだ。

「申しあげたではありませんか。私は、子供を愛したかった、と。

 しかし、私は芸術しか――絵画にしか関心がなかった」

 エッカルトの声は四方から反響する。ハインの目にはまだ《真実の瞳》の効力があるにも関わらず、エッカルトは一向にやぶの中。

「だから――のですよ」

 ハインは、背筋が凍り、血の気が引くのがわかった。エッカルトが抱え、理性の中に育てた狂気を理解したから。それは――手段を選ばない、あまりにも歪んだ愛だった。

 エッカルトはこの隙を見逃さない。ハインが意識を向ける死角ではなく、あえて真っ正面から現れた。ハインがエッカルトの苦悩に満ちた顔を見たときには、遅かった。

 飛び散る流血、瞬く血痕。


 ハインは一歩、飛び下がった。ロングソードを持つ右の上腕から、赤い鮮血が滴る。苦痛からハインは呼吸が早くなる。

「利き腕を頂戴いたしました。いかがなさいますか?」

「そんなことはどうでもいい。貴様は、愛するために幼子をしいたげたと――兵士という

“作品”に作りなおしたとでものたまうつもりか!」

 エッカルトはうなずいた。

「その通りです。私の愛はそうしてようやく、子供たちに向けることができたのです。そうでもせねば、私の愛は邪婬に満ちている」

「ならば愛さなくともよかった、そうは思わないのか! 幸福を与えるどころか、不幸せにするだけの間なら、遠い距離のはてに想うばかりの方が幸福だと!」

 その叫びは、ハインそのものだった。ハインを鼓舞し、エッカルトに呪縛を与える、一筋の光。ハインは震える右腕で、銀のロングソードを鞘に収めた。

 この大きな隙に、エッカルトは微動だにしなかった。

「あの、絵を。あれをご覧ください。出来はいくばくのものでしょうか」

 エッカルトがやおら振り返る。

 決闘のさなかとは思えぬ素振りに、思わずハインはその視線を追った。祭壇の上、広大なカンバスの上にそれはあった。金髪の少年が女性に手を引かれ、あまたの天使に召されている。その筆は精緻の極みで、見るものを圧倒する。

 だが。

「――魂が、ない。押し寄せる感情がない。貴様と初めて会った時、後ろに飾られた絵の方が素晴らしかった。技量はなくとも、祝福への感謝があった。

 。命が輝いていた」

 ハインの惜しむ声に、エッカルトは笑った。泣き顔へ化粧した、道化師のように。

「やはり貴殿も、そう感じますか。

 あの日から、筆は冴えた。思う通りに筆は走る。

 それなのに。もう、あの日のようには描けないのです。

 悩み、苦しみ、もがいた末に描いた、あの絵のようには」

「それは、支えられていたからだ」

 ハインに見透かされた気がして、エッカルトは向きなおった。

「やはり、貴殿は見る目をお持ちです。そうだ、一度、お聞きしたかったのです。

 貴殿はなぜ、私のもとへ来られたのですか。

 盟主代理なぞ、大義名分に過ぎないのでしょう?」

「……カネのためだ」

「貴方は嘘が下手ですね」

 喋って稼いだ時間で手当てをしようとしたが、やはり足りない。

 ハインは傷を押さえるのをやめ、短剣を構えなおし、答えた。

「冥土の土産になら、教えてやってもいい」

 エッカルトは微笑んだ。暗い影となって、彼は笑う。今度は様子を伺うことはない。祭壇の蝋燭が揺れるたび、礼拝堂の中の影たちは大きく跳ね回る。影の輪に紛れ、エッカルトは半身を闇にとかした。

 刹那、ハインの剣持たぬ右から突剣が突きだされる。自分の作った隙を使う――愚直すぎる攻め手ゆえ、ハインは防護パリーすることができた。軌道を弾かれた剣はすぐさま黒く、暗くなって影に消えた。ハインは元の構えに戻ろうとした。

 風を切る音を聞いたのは、痛みの後だった。

「ぐあッ!」

 左腕を貫通するレイピアを見、風切り音を聞いた。

 とっさに腕を上げたが、もう遅かった。肺を貫通し、吐息に血が混じる。

 ハインは己の影をみた。を繋ぐ。

貴方あなたはカネで動くような、他の雑多なコボルトとは訳が違うのではありませんか。

 私を誅する刺客として雇われているとしても、貴方の目的は別にある。違いますか」

 祭壇を背に、ハインは両腕に力をこめ、かろうじて構えをとった。

 腕が震えている。もう、後がない。

「――それを知ってどうする」

 エッカルトは姿を見せない。長椅子と柱の影が笑うなか、彼は言った。

「ただ、知りたいのです。貴方が何を考え、何を思い、何のために戦うのか。

 貴方は美しい」

 その声は、どこかアントンに似ていた。ハインは煙草を取りだし、指先に灯した火で一服した。観念したように、紫煙とともに言葉を吐き出した。

「――ベルテンスカ皇国のため。皇国を侵略者ではなく、正当な皇帝の手に渡すため」

 間があった。揺らるるは灯火ばかりではなく。

「……どういう意味です? ベルテンスカがウォーフナルタに侵攻し、どれだけの時間が経ったとお思いで?」

「分かるまい。だから言わなかった。いいだろう。分からないなら、教えてやる。

 今のベルテンスカは、簒奪者の手にある。永世中立をうたい、ウォーフナルタとエクセラードの仲を取りもっていたようなベルテンスカだぞ。

 あんな理由で一方的に戦端を開くと思うか?」

 今度の沈黙は短かった。

「なるほど。つまり貴方は、忠義のためと仰るのですね」

 ハインは煙草を投げ捨てた。

「そうだ。俺は簒奪者を許さない。簒奪者を玉座から蹴りだし、必ずや正当な後継者の手にベルテンスカを取り戻す。そのためならば、俺は死神にもなってやるとも」

「――貴殿は、自身の忠義が果たされれば命尽きようと構わない、それだけの価値があると仰るのですか」

 その声は惜しむようにこだました。

「当然。主君に尽くすは騎士の誉れ。何を疑うことがある」

「死神となった貴殿を、新たな皇帝は冷遇するやもしれません。戦火の種火とみなされ、暗殺者が差し向けられぬとも言い切れない。それでも、命を賭けるに値すると?」

 ハインは鼻で笑った。

「値するとも。?」

 影たちは身じろぎする。揺らぐ声が、性急に告げる。

「――楽しい歓談も、これにて終幕です」

 殺意。闇のなかの意志が一転、ハインに集中する。

「もうタネは割れている」

 翻り、祭壇上の宙を斬る。あやまたず短剣の刃は蝋燭の炎を掻き消した。

 闇が舞い降りるや、殺意は霧散する。

 しかし。

「……お見事。私が“刻印”から得た力を、よくぞ見抜きました。

 ですが攻め手が甘いですね」

 だというに。

 真の闇のなか、ハインに無数の触手、いや、闇そのものが全身に絡みついた。指一本動かせず、が目の前に迫っていた。

「それがおまえの“祝福”か。なら、終わりだ」

「ええ、貴方の――」

 エッカルトが最後まで語り終えることはなかった。

 瞬間、礼拝堂は閃光に包まれた。起点となったのは投げ捨てられた煙草。《妖精光ダンシングライツ》――火種が炸裂するや、七つの黄緑の光が不規則な動きで飛び出し、等間隔で整列する。

「なっ、何、これは……!」

「なんせ、もう詠唱は終わっているんだ。確信を得るのに時間はかかったがな」

 エッカルトの体から、漆黒の触手が焼けただれて落ちる。大気にとけてゆく。ハインは短剣を手から離し、銀の剣に手をかける。だが。

 エッカルトがそうであるように、ハインも闇に順応した目がまだ慣れていない。既に剣を振りかぶったエッカルトの方が早い。それにあの傷では長剣は振るえまい!

「フラフィンよ、我が誇りをご照覧あれ!」

 蛍光を照り返し、刃がきらめいた。

 吐血。


「な、に……?」

「悪いな。だが、もとより決闘は助太刀自由――暗殺が俺の得意分野なのさ」

 “牙を研げ、銀の剣”。

 ミスライアの剣が閃いた。


 袈裟斬りにされたエッカルトが膝をつく。尋常ならざる出血が、命が漏れてゆく。

 その背には、歯形のある簡素なナイフが突きたっていた。

 背後で鼻を鳴らすのは、悲しい瞳をした犬だった。

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