幼命の鏖殺者

 犬人コボルトはレンガの壁に背中をこすりつけ、五感を総動員していた。

 ヌルのいったとおり、地下への入り口はエントランスにあった。その床板はごく簡単な機械じかけで、易々と跳ねあがった。それはいい。気になったのは、その鍵となるしかけがほぼ隠されていなかったことだ。リタほどではないとはいえ、ハインも腕利きの斥候スカウトである。こんな初歩的なギミックを見逃していたことに、ハインは動揺していた。

 思えば、これはルオッサと組んで初めての仕事になる。その決断が正しかったのか、今となっては自信がない。ルオッサとの不和か、あるいはその決断への迷いが自分の覚悟をくもらせるのではないか。そんなことが脳裏をよぎり、彼は背筋が寒くなった。

 ハインは回路を切り替えるように感情を切り替え、決意を流しこんだ。それは五年以上かけて彼が会得した、最も効率よく自分を使方法だった。自分は今、自分のせいで巻きこまれたアントンを救う義務もある。こんなところで戸惑っている場合ではない。

 地下には豪勢にも燭台がいくつもかけてあった。明かりは陰を生む。おかげでハインは身を隠す場所に困らなかった。ハインの手が届かないほどに天井は高く、回廊は入りくんでいる。部屋のひとつを覗いてみたが、地下とは思えないほど広々としていた。うまやにすれば八頭はゆうに収まるだろう。中では十人以上のが剣の稽古をしている。兵士が鍛練することはめずらしい。ふつう、兵は農奴を徴兵したり傭兵を雇ったりして、必要に応じて用意するものだ。時折、廊下を見回りにくる者も、稽古している者たちと似た背格好だ。

 いったいどれだけの兵士がここに詰めているんだ。息がつまりそうだった。多少は手勢をつけていると予想していたが、この数は想定外だ。これが、館の地上部に人気がなかった理由か。これだけの人数を相手にしてはひとたまりもないだろう。まんまと誘いこまれてしまった形になる。

 だが、これではっきりした。間違いなくエッカルトはここに潜んでいる。

 ハインは己の魂の上にある呪文書を確かめて、覚悟を決めた。《不可視》は使いきった。後は身を隠しながら乗り切るしかない。

 監視の目をかいくぐり、ハインは角から角へ素早く飛び出した。

「ようこそ、ハインくん」

 飛び出す体から、ぐん、と頭がおいてけぼりになった。

 喉がつまる。ハインは状況が飲みこめずに混乱した。

「エッカルト……?」

 ハインは持ちあげられる。首にかかった麻縄を引っかきながら、空中でもがき苦しむ。彼を宙吊りにしていたのは、あろうことか暗殺対象の男だった。

「やはり、ヌルは君に寝返ったのですね。たいそう君に惚れこんでいましたから、こうなるのではないかと思っていましたよ」

 さて、再会したばかりで残念ですが、お別れです。

 エッカルトはコボルトの細い首を締めあげようとした。しかし、その時には既にハインはくびきから逃れ、前転してエッカルトにナイフを向けていた。

「おお、なんと俊敏な。まるで野火のびのよう」

 エッカルトは手のなかで切断されたロープを見、驚嘆した。

 ハインは乱れた呼吸を整えながら、背中へ手をやり、剣の柄を握る。

「そちらから出向いてくれるとはな。手間が省けて助かる。さあ、大人しく子供たちを解放しろ。そうすれば、法の正義の下に、正当な裁きを受ける権利を与えてやる」

 ハインの口と頭は解離する。頭には焦りがあった。索敵は万全だったはずだ。それなのになぜ奇襲を受けた。その理由はなんだ。

「解放? はて、不思議なことをおっしゃいますね。彼らは何者にも束縛されておりませんよ。彼らは自らの意志で、私に仕えてくれているのですから」

 エッカルトが指を鳴らす。巡回していた兵士が気づき、控えていた者たちもおっとり刀で駆けつける。

「噂はかねがね、“黒犬のブラックドッグ”ハインくん。まずは前菜をお楽しみください」

 エッカルトが身を翻し、兵士たちと逆方向に走りだす。対するハインは追いかけない――追いかけたいのは山々だが、この人垣ではこちらの身が危ない。

 舌打ちひとつ。ハインは朗々と、大の男たちに声を張りあげた。

「貴殿らに宣告する!

 このハイン・ランペールはヴェスペン同盟盟主、ビルギット・ヘンネフェルトの命で参上した。エッカルト・オッペンハイムにはいくつもの領主殺し、および賃借にすぎぬドラウフゲンガー領の民草をいたずらにかどわかした容疑がかけられている!

 主君に捧ぐその忠義には敬意を表しよう。だが、貴殿らの主君は盟主への反逆が疑われている。主君への義を願うならばその剣、今一度、誰に向けているか再考せよ!」

 ハインの一喝は、しかし、兵士たちに戸惑いを与えるに至らなかった。顔を見あわせはするものの、それは「何言ってんだこいつ?」と言わんばかり。

 彼らは次の瞬間には襲いかかってきた。

「警告はしたぞ! 今、この瞬間より、貴殿らを同盟の和を乱す者とみなし、排除する」

 敵の振り下ろす剣をハインは回避する。

 何の工夫もない太刀筋で、回避していたはずだった。

「なッ――?」

 ハインの頬と右腕から血が舞った。傷は浅い。だがどこから?

 虚を突かれた隙に兵士たちは有利な位置に陣どった。至近距離での殺しあいは陣形が運命を左右する。大きく切りこみ体勢を立て直したいが、この至近距離ではハインの剣は取り回しが悪い。後退しようにも後ろは壁。

 敵は群れをなすが、同士討ちをさけるためか密集しようとしない。代わりにお互いの剣の間合いをはかって回りこもうとする。

 挟撃はまずい。ハインは素早く攻撃に転換する。足払いからソードブレイカーの突き。確実に首をえぐることができる、殺すためだけに洗練された動き。

 だがそれは、全く手応えなく空を切った。空振りで体勢を崩れ、目の前の兵士がにやりと笑った。ハインはぞっとした。今、あの剣を振り下ろされたら。

 しかし、そうはならなかった。その兵士は両手持ちの剣から手を離し、空いた手でハインを突き飛ばした。何をする気だ。よろけたハインを、後ろの別の兵士が肩で受けた。金属のこすれる音。背中が軽くなる。ハインは冷や汗をかいた。

 剣を奪われた!

 まわりの兵士の顔が笑っている。ハインは焦燥に駆られそうになった。だが、その時、ハインはあることに気づいた。

 

 おかしい。そういえば、それなりの練度があるのに、彼らが連携する声を一度も聞いていない。

 ハインは振り返る。ひとりの兵士がふたふりの同じ剣を持っている。周りの兵士が指差して、何か言っているようだ。無音だがはやし立てているようにもみえる。

 そして、二刀流となった兵士が、左手で剣を振り下ろす。

「なるほどな」

 ハインはその剣を素手で受け止めた。兵士たちは仰天し、互いに顔を見あわせる。

 ハインはそのまま剣をきつく握りしめた。相手は剣を取り返そうとする。だが切っ先を握られるという出来事を信じられず、動揺から剣はびくともしない。

 ハインは圧縮した詠唱と片手の儀式動作をもって、発動条件をわずか数秒で満たした。それは兵士たちに構える隙も与えない、熟練した秘術師のわざだった。刹那、ハインの指先から相手へ向けて、青い火炎が一本の長い針となってほとばしった。

 相手の腰を狙った一撃は今度こそ命中し、炎上した。

 ひるんだ隙に剣を奪い返し、手の中で回転させて柄を握った。

 なるほど、さっきは真白銀ミスライアの軽さに驚いていたのか。兵士の手では双子のようだったハインの剣は、今や本来の輝くミスライア銀の剣に戻っている。

 ハインは確信した。幻術か何かをかけられている。だから相手の剣は異なる軌跡でハインに切りこみ、ハインの短剣は空を切ったのだ。

 人ひとりが燃えあがるさまを目撃し、兵士たちはうろたえた。声はなく、炎が燃える音のみが反響する。好機を逃すまいと、ハインは次の呪文を唱えた。

 事前に詠唱・励起した後、待機させた呪文を発動させるキーワード。

「汝、フラフィンの御技による真の聖体を開帳せよ」

真実の瞳トゥルーシーイング》。術者の技量を下回るあらゆる呪文、あらゆる神秘を貫通し、本質を見抜く目を降臨させる呪文。はたして、成人の男ばかりの兵士という虚像は、一度歪んだだけで次の瞬間にはかき消えた。

 ハインの目の前では、上は彼と同じ背格好の少年、下は齢五つほどの少女、ひとり減って十余名が立ち尽くしていた。手にしているのは錆の浮いた粗悪な剣で、ぼろ布をまとうばかりでろくな防具もない。

 ハインは通常、《火矢フレイムボルト》を陽動のための呪文と割り切って使っている。金属鎧を貫通できないため、まっとうな戦士なら直撃しても軽い火傷しか与えられないからだ。だが、彼らにとっては致命的だった。ハインの前には、黒焦げになって末期まつごの息をする小さな体躯があった。

 髪は焼けただれ、はたして彼だったのか彼女だったのか。それすらもわからない。

 もはや助かるまい。

 ハインは魂に、をまたひとつ刻んだ。

 そして子供たちをみやった。みな、ハインをたかが犬人とあなどっていた。だがいまや、彼が本物の魔法使いと知ってしまった。歯がかちかちと鳴る。剣を持つ手は震え、腰が逃げる。

 声が聞こえる。まだ火が消えない者の名を呼ぶ声。

 その名は、女の子の名前だった。

 逃げようというおびえた声。命令に逆らうのか、という裏返った声。

 しゃらん、という銀の音が響き通り抜けた。鍔迫つばぜりあいを思わせるその音に、びくりと子供たちは飛びあがる。彼らがみたのは、燦然さんぜんと輝くミスライアの剣だった。

「この剣は、俺が魔力を通して初めて剣になる。砥ぎたての刃だ、次はよく斬れるぞ。さあ、誰から死にたい? 俺はチビだからな、一瞬、というわけにはいかないぞ。

 胸を刺されたのなら冷たくなる自分をゆっくり観察できるし、今のように火傷の痛みを味わいながら窒息して死なすこともできる。大火傷は悲惨だぞ。皮膚が焼け落ちて、あんなに熱かったのに凍えて死ぬ。もちろん、望むのなら氷漬けにもしてやるぞ」

 ハインは無詠唱で手中に氷塊を生み出し、握り砕いた。その耳がひくひくと動く。

 冷たい地下を沈黙が支配した。寒さか恐怖か、あるいはその両方から、歯が鳴り衣擦れする音だけがやけに大きかった。

「俺はエッカルトを殺しにきた。おまえたちはどうでもいい。通ってきた隠し扉は開けたままだ。おまえらがどうしようと知ったことではないさ――俺に剣を向けなければな」

 門が、あいてる?

 代官さまが通るとこ?

 “よいこ”になれば通れるっていう?

 ミスライアの剣が水平に円を描き、子供たちの顔をかすめた。彼らにとってその風切り音は、どんな猛獣の唸り声よりも恐ろしかった。

「剣を捨てろ! くと去れ! さもなくば皆殺しだ!」

 ひとつ間があった。だが、恐怖で前が見えなくなったのだろう、ひとりの少年が走りだした。少年はハインの横を通り抜けたが、彼はなにもしなかった。

 それを子供たちは目撃した。

 そうなればあとは、水が坂を滑るように早かった。我先に重い剣を投げ捨て、一目散に走りだした。くぐもった金属音と逃げ去る子供たちの流れのなか、ハインは仁王立ちのまま微動だにせずに立っていた。

 足音が遠くに消えた後、ハインは剣に魔力を巡らせるのをやめた。すると、刃は輝きとともに消え失せ、後にはただの銀の板となった剣が残った。

「……クソが」

 彼の視線はただ一点、焼け焦げ息絶えた骸に向けられていた。


 わけなど、あるはずもなかった。

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