竜の刻印
「ただいまー」
場違いに明るい声で、家令が私のアトリエに入ってきた。その男は私や兄、父の代からオッペンハイムに仕えている。当然、私にそんな軽い調子で挨拶するような、ぞんざいな口の利き方はしない。
瞬きをする間に、その姿はくちなし染めの黄色い衣装、道化師のそれに包まれていた。
「ヌルくん。首尾はどうですか」
「ギードくんに引き渡したよ。それでいいんだよね?」
道化師の顔つきは、まさしく主人をいさめる知性にあふれている。しかしながら、その口調と表情はまるで子供のようだ。駄々をこねる子供のそれ。
「不服でしたか? ハインくんに濡れ衣を着せ、おびき寄せるというのは」
「そりゃ……でも、エッカルトくんのお願いだからね」
私はうなずき、絵筆を置く。ヌルは目を落とし、そして顔をあげた。
「変わったね。エッカルトくんは」
「そうですかな?」
むしろ、今までが異常だったのだと私は思う。私は思いつめすぎていた。やるべきこと、やらねばならないこと、やってはならぬこと――それらすべてを己の頭に詰めこみすぎていた。その結果、水袋が裂けるように私は破裂するところだったのだ。
「今のこの私こそが、私だと思いますがね」
「ちがうよ」
断定する言葉。私はカンバスから顔をあげ、彼へ目をやった。じっと彼を見つめる。口を利くが、口を利くものならざるそれを。それはまた目をそらし、喉の奥から声を絞りだす。
「キミは、自分の悪性を御せる人だった。悪い欲望をあるべき形にできる、ただしい人間だった。ボクは、そんなエッカルトくんが好きだったよ」
ふふ、と私の口からほほえみがこぼれる。
「それが、領主という必要悪なのですよ。今なら、兄の考えもよく分かります。
ヌル、あなたも変わりましたね。私の姿を許す前のあなたからは、とても想像できない。あの頃のあなたは、まさしく道化師でした。皮肉しか知らぬ機械のようで、ええ、とてもいじらしかったのですが」
「……知ってしまったからね。キミを、彼らを」ヌルは立ち去ろうと私が雇っている盗賊騎士の姿になり、「――竜の刻印。それがキミを変えてしまった」とつぶやく。
「私は変質する。それは最初に言われていたことです。そんな自覚はありませんがね。ああでも、今はとても愉快な心地です。晴れやかといってもよいでしょう」
「……決めた。ボクは彼の下へは戻らない」
「よろしいので? まあ、私には関係のないことではありますが、あなたにはよく助けていただきました。忠告して差しあげましょう。彼は私の知る限り、この世で最も秘術の最奥に到達している魔術師です。ええ、止水卿よりも、です。
そんな彼から離反して、どこへ逃げるというのです?」
「ボクの心配をしている場合? キミが彼と交わした契約、それをお忘れかな」
「忘れてなどいませんとも。すべて織りこみ済みです」
私は窓の外を見る。日は傾きつつある。止水卿が送りこんできた犬人が、私の悪徳を暴きにゆく頃あいだろう。待ち遠しかった一瞬が、ようやく来ようとしている。
目をカンバスにやる。あらかた仕上がったそれを見るに、急激に関心が失われてゆく。それを仕上げる意味を感じなくなったのだ。絵筆は思うように走り、学び、聞きかじった技法も瞬く間にわがものとできるようになった。
それゆえ、頭のなかにあるそれを、カンバスの上に描きだす意味を感じなくなっていた。私はパレットナイフでカンバスを十字に切り裂く。無造作に、無感動に。
ヌルに目をやると、彼は息をのんで私をみた。信じられないものを見る目で。
「饗宴の準備をしなくてはね。ようやく、私の待ちのぞんでいたものが訪れるのです。私の方にもそれ相応の準備が必要です」
「エッカルトくんは――そんなことをする人間じゃなかった。ボクのなかのエッカルトくんが悲鳴をあげてる。キミは――誰よりもカンバスの向こうに神様がいることを信じていたのに」
「それは、刻印を受けた直後の私でしょう? そうそう、あなたとハインくんの話した内容ですが、確認させていただきました。確かに、私らしい。私があの日のままで、ハインくんが止水卿の犬でなければ――あのままでけっこうでした。
ですが、今の私は違う。私はこの後、不当な借用契約を無効と認めさせるために戦わねばならない。腐り果てた司教どもと、我が領土を妬む近隣領主どもと、ね。今、私がいなくなれば、オッペンハイムの名は潰える。十二代に渡るオッペンハイムの名誉を守るために、サーインフェルクに口出しはさせない」
ヌルはこちらに向きなおる。そして、あのコボルトの姿になる。
「元はといえば、キミが蒔いた種でしょ。キミがあんなことをしなければ、サーインフェルクも動かなかったはず」
「必要なことでした。何分、兵にできる男も食糧も足りないのです。やむを得ないことではありませんか」
ハインの姿をしたヌルは、鼻声になる。「どうして――」
「どうしました? 何か、悲しいことでも?」
「悲しいよ。口を利くものたちは、みんなきれいだ。その使い方が分からず、泥にまみれたままの人たちももちろんいるよ。でも――キミの魂は、きれいだった。どんな宝石よりも煌めいていて、黄昏にとろける夕日のように
それが損なわれてしまったことが、とてもくやしいんだ」
私は首を傾げる。竜面の魔術師は、「これには魂がない」と言っていた。対面した時にはその言葉に納得したものだ。それが、こんなことを口走るとは。
「私にはわかりかねますがね。それはつまり、これから私とともにドラウフゲンガーへ向かうのは御免だ、という意味ととらえて構いませんか?」
「ボクにもっとハインくんを苦しませろ、という意味なら、そうだよ。
ボクは
私はひげを撫で、ふむ、と彼を見た。子供のように小さな、けれど固い信念を宿した犬人の姿を。
「
ヌルは再び盗賊騎士の姿をとると、ドアノブに手をかけた。けれど、そのまま去ろうとして、ふとその顔を沈痛に歪ませた。
「さよなら、エッカルトくん」
そう言い残して、ヌルは出ていった。
ふう、と私は長い溜息をつく。
椅子から立ちあがり、アトリエのものをみな木箱に放りこむ。貴重なイタチ毛の絵筆から司祭に頂いたパレットナイフから、苦労して手にいれた青い絵の具まで。そして誰か、と人を呼び、すべて売却なさい、と命令する。呆気にとられた召使いが「よろしいので」とおどおどするのを、かまいません、と肯んずる。
「ヴァルターも――兄上も、司祭様ですら戦死されたのです。私ばかりが、ベッドの上での死を望むわけにはまいりません」
そうして、私のかつての魂が運びだされてゆくのを淡々と見守った。あとに残るは空虚なこころのみ。枯れた草と干からびた灌木しか見えぬ、見渡すかぎりの荒野が私の胸のなかに広がった。ああ、これくらいは描いておけばよかったか、と思わなくもない。だがもう、アトリエには木炭のかけらもない。それを惜しく思う気持ちがまだ残っていたことをヌルに教えてやればよかったか、とも。けれど、今となってはすべてが過ぎたこと。
ヌル。それなりの愛着はあったのだと自覚する。あれは鏡だった。それも不思議な鏡だ。最初は私そのものが映っていたのに、私が変わっても彼は変わらなかった。そしていつしか、そこに私でない姿が映るようになった。それなのに、私はその姿が決して私から遠いものとは思えなかった。
そうか、と私は納得がいく。あれは、私が愛するものとよく似ていたのだ。形を変えながら成長するもの。何枚もの絵を重ねあわせながら、その中間を探すような煩雑な作業の果てにその像は形を結ぶ。そうして私から離れることを自ら選べるほどに、あれは自分だけの意志を得たのだ。
なんという奇跡だろう、と私は思う。それを魂なきモノがなしえたというのか。
「楽しみですね。ヌル、あなたはどこまでゆけるのですか。
ああ――運命が許せば、ずっとその成長を見守りたかったものですね」
私は突剣を手に取り、アトリエを後にする。すべて、清算するため。私の犯した罪を、私の犯した過ちを、その代償を支払うために。私の冒涜を、血塗られた愉楽の末路へ。
私の脳裏には、荒野がある。
その蒼く日の落ちた空には、七つ角の星座が煌々と光を放っている。
いまや、私はその
それをたどることだけが、私に許されたすべてだった。
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