魂の殺害

 鉄格子に鍵はなかった。手枷だけで充分だと思われているのだろう。

 アントンは手探りで通路に出た。目覚めた場所の近くを簡単に探したが、靴も鞄もなかった。もう少し探そうかとも思ったけど、たぶん没収されたのだろうし、明かりを探すのが先決だと考えた。

 決して、二人分のスペースしかない牢屋をこれ以上詮索すると、を触ってしまうのではないか、と危ぶんだわけではない。アントンはそう自分にいいきかせた。

 目は開いても閉じても大差ない。鼻も悪臭でつまって役に立たない。

 使えるのは耳と触覚だけだった。

 暗闇のなかでは、音が大きく聞こえる。ヘルタと別れてから、急に頭がはっきりしてきた。水滴が落ちる規則正しい音の間に、すすり泣く声や痰のからんだ呼吸音、はなをすする音がひっきりなしに割りこんでくる。アントンは愕然とした。いったい、どれだけの人数がいるんだ――考えるだけでめまいがする。

 アントンは気配を頼りに、囚われた子供に出口をたずねてみた。だがほとんどは無反応だった。たまに返事があっても、あわれまれてしまうだけ。

 みな、自由をあきらめてしまっていた。

 それはアントンにとって、理解しがたいことだった。なぜあきらめられるんだ、とその無気力を怠惰だとすら思った。

 もう少しアントンが成長していたなら、自分と彼らが本質的に違うことを理解しただろう。農奴の子である彼らは領主の所有物であり、領地の設備であった。領地を“耕す機能”でしかない彼らは、領主の財産以上でもそれ以下でもない。その一方で彼は――彼の家系は、酒造権と引き換えに農奴を監視する役割を課せられた、いわば管理者の側にあった。間に横たわる壁は、あまりにも高い。

 けれど、幼いアントンは幸いにして、そんな難しいことは分からない。

 分かるのは、自分と同じ姿形のものは、みな仲間だということだ。

 

 手探りで進むうち、アントンは階段上に細長い光をみつけた。

 それは半開きのドアから漏れる光だった。ここも鍵がないのか、とアントンは不思議に思った。だが、これは好機だと勇気を出して、隙間から向こうを覗きこんだ。

 その部屋は広くはなかった。レンガ造りの壁に鞭と鍵束がこれ見よがしにかけてある。鍵が数本しかないのも妙だった。

 だがアントンの気を引いたのは、壁に大きな影が前のめりになっていることだった。

 彼からみて死角になる、部屋の角に誰かいる。

 小さな女の子の苦痛にもだえる声、その合間に荒い呼吸が聞こえる。

 いらだった少年の声、皮膚をぶつ音と少女の悲鳴。

 ギードだ、と分かるのと、体が飛びだすのは同時だった。

 ドアのく音にギードは振り返ったが、その時にはもうアントンは躍りかかっていた。突き倒し馬乗りになって、顔面を拳で殴った。一発お見舞いしたところで、相手がアントンの記憶よりはるかに大きいことに気づいた。

 ギードのにらむ顔に勇気がしぼみ、反撃が怖くなり、続けて何度も何度も殴った。

「こんな小さい子に、よくも!」

 ギードが腕をあげたので、アントンは反射的にその腕をつかんだ。

 もう片方の腕が続く。ふたりは膠着状態になり、にらみあった。

 アントンの必死な顔をみて、ギードは鼻血を流しながらにやりと笑った。

「まぜてほしかったのか?」

「なにいってんだ?」

 ギードはアントンの背後をあごで示した。アントンが振り返ると、寝台に全裸の幼女が、股を開いて力なく寝転がっていた。歳はアントンの半分くらいしかないだろう。

 彼は赤面した。

 酒場で手伝いをしていれば、ただ泊まるためだけにやってくる客ばかりではない、ということは知っている。だが、そういうことは大人のものだと言い聞かされてきたアントンにとって、それは十分すぎる隙を生んだ。

 ギードの拳がアントンの頭をしたたかに打った。アントンには人を殴るためらいがあった。他方、この少年にはそういうものが微塵もない。よろめくアントンをそのまま引きずりおろし、立ちあがると腹に深く蹴りを入れた。アントンはくの字に折れ曲がり、反吐を吐いて悶絶する。

 ギードは血の混じった唾を吐きかけた。下半身は裸だった。

「そういや、お前は調教がまだだったな。まったく、手間がかかる」

 アントンはギードを見上げた。半裸の少年は、彼の知るギードという名のそれとは天と地ほどの差があった。

 かつては卑屈にヘラヘラ笑い、顔色をうかがってばかりだった少年。

 彼は今、力に酔っていた。

 ギードは、アントンを路傍の石のように見下ろす。ギードはアントンの腹を踏みつけ、体重をかけた。アントンはうめき声をあげながらも、目を離さない。

「いいか、お前らは家畜だ。そして俺は牧童だ。

 わかるか、俺の命令は絶対なんだ。当然だよな? 俺がケツ剥いてでんぐり返れと言ったら、必ずそうするんだ。犬でも分かる命令だ。分かるな?」

 アントンの顔が怒りと酸欠で赤くなる。ギードは侮蔑を顔にのせる。

 アントンの顔にかかとが落ちた。悲鳴。

「やっぱ分かんねえか。これだから、十を超えたヤツはめんどくせえ」

 ギードは悶えるアントンの襟首をつかむと、何度も床に叩きつけた。後頭部が衝突するたび、アントンの脳裏に火花が走る。思考が弾けとび、意識が薄れる。

 そして、もうろうとした彼の頭を寝台に向けた。

「ほれ、ライラを見てみろ。あんなにおとなしいだろ? 最近じゃあ、ハメてやってもうんともすんとも言やあしねえ。最初の一週間はそりゃあもうぎゃあぎゃあ泣きわめいたもんだが、今じゃあえがせるのに殴ってやらなきゃならねえ」

 汚れたベッドの上で、幼女は虚空を見つめていた。

 顔と胸にはいくつもあざがあり、股ぐらは血で濡れている。ただ、寒さに震える生理反応があるばかりで、そこにはいくばくの人間性もなかった。

 アントンの頭に、意志が戻ってくる。

 死んでいる、と思った。ライラは死んでいる、いるのだ。

「――なんで、こんなことができるんだ。お前は人間じゃない、人でなし!」

「そうだな、。なんせ、畜生なんだからな!」

 ギードはベッドの角に叩きつけようとする。だがアントンは片手でつっぱり、もう片手で机の上の鞭をつかみ、後ろに振るった。乾いた音が響き、襟首が自由になる。

「こ、この野郎! 畜生の分際で俺に、一度ならず二度までも……!」

「おれはみんなを助けるぞ、必ずだ! さあ、鍵をよこせ!」

 へっぴり腰で鞭を両手に持つアントンに、ギードは激しい憎悪をあらわにした。

 しかし、次の瞬間にはあわれむような笑みに変わった。

 アントンが不審に思うが早いか、首輪が背後から現れ、少年にくびきを与えた。鎖のこすれる耳障りな音。上方に吊りあげられ、アントンは足がつくかつかないかの瀬戸際でもがくほかなかった。冷たい鉄の首輪に指をいれ、魚のようにあえぎながら頭上を見上げる。鎖がはりにかかり、滑車のように返ってきている。

 その鎖の一端を手にしているのは。

「駄目ですよ、ギード。アントンくんは大切なお客なのですから。丁重に扱いなさい――そう言いつけたではありませんか」

「しかし、エッカルトさま……」

 晴れやかな笑みの男が、アントンの隣に立っていた。

 アントンは不可解さのあまり混乱した。この部屋には今の今まで、自分とギードのほかは誰もいなかった。子供ならいざ知らず、代官のような背の高い大人が隠れる場所などなかったはずだ。

 目を白黒させるアントンをよそに、ギードは顔を伏せ弁解しようとする。

「もとより、。そうでしょう?」

「……はい。面目ありません」

 待て、今なんと言った?

 アントンは今にもおぼれそうになりながら、エッカルトの方を見ようとした。それに気づいたのか、エッカルトは鎖の手綱をギードに持たせ、アントンの正面に回った。

「アントンくん。君に見せたいものがあります。きっと気に入りますよ」

 アントンは悲鳴をあげそうになり、吐きかけたかった言葉を忘れた。

 エッカルトの瞳が、新月の沼のように、底知れぬ淀みを宿していたから。


 後ろ手に手枷をはめられ、アントンは再び階段をくだる。

 彼の首輪を引くのはギード。その前ではエッカルトが、ギードに慰み者にされていた幼女の手を引いている。エッカルトに手ずから毛布をかけられると、その少女は進んで歩きはじめたのだった。

「さあ、ライラ。お戻りなさい」

 エッカルトの言葉に、幼女はまるで魔法でもかけられたように自ら牢に戻った。

 エッカルトは牢を閉めるが、鍵はやはりかけない。

 ギードが持っている燭台で、さっきよりも牢のなかが鮮明に見える。牢に戻った幼女は何ら枷を付けていない。他の子供たちもほとんどがそうだ。

「お気づきですね、アントンくん。

 彼らはここをだとちゃんと理解しているのですよ」

 アントンは愕然とした。

 ? 彼はと言ったのか?

「代官さまが、こんなことを……?」

「ええ、そうです。前の飢饉はひどく、今年も蓄えが充分ではありません。飢えて死ぬ者を減らし、そして国防に備えるには、残念ながらこれしかなかったのですよ。

 理解してもらえますね、アントン?」

「なんで――なんでこんなひどいことを!」

「では、君は友達が飢えて死ぬ方がよかったと?」

「そうじゃない! みんな傷だらけじゃないか!

 不作のせいだっていうなら、こんなところに閉じこめる必要はないじゃないか!」

 エッカルトはほほえんだ。

「アントンくん、君はさといですね。喜ばしいことです。

 ギード、君は仕事に戻りなさい。いつも通り、手が空いているなら構いません。私はこれから、アントンくんを案内しますので。頼みましたよ」

 アントンはもはや、この男に対する敬意を失っていた。エッカルトをどうにかせねばならないと思った。けれど――それがおれにできるのか?

 ギードはアントンを見下した。

「農夫の子じゃなくて命拾いしたな、アントン」


 三人は再び階段を昇った。首輪があるから、と自分に言い聞かせ、アントンは抵抗しなかった。ギードを監視部屋に残し、エッカルトはアントンと部屋の外に出た。

 そこは、エッカルトがゆうゆうと背を伸ばせるだけの広い回廊だった。回廊はどこまで続いているかもわからない。燭台が壁面に一直線に並び、その下に小さなドアが並んでいる。そのドアの高さは、ちょうどアントンが通れる程度しかない。

 ふたりが出てきたドアの脇には、アントンより少し年下の少年が立っていた。彼は綿の入った上着と、その上に鎖帷子チェインシャツを着こんでいる。そして何よりいびつだったのは、剣を携えていたことだ。それはただのショートソードに過ぎなかったが、彼がくとグレートソードのようにすらみえる。

「エッカルトさま。なんら異常ありません。今日にかぎって、ぼくらの家を警備する意味なんてあるんですか?」

「ご苦労様です。ええ、あるのですよ。教えたとおりの働きを期待しています。

 そうすればきっと、天の主も君を天宮に迎え入れてくださることでしょう」

「おまかせください!」

 アントンはふたりが何を喋っているのか、理解しがたかった。それを問いただすよりも早く、エッカルトはドアのひとつをくぐるように促した。

 ドアを開けると、強い鉄の臭いがした。それに混ざって、大小の排泄物の臭い、垢の臭いがした。アントンが顔をしかめながら渋々と中に入ると、そこには何人もの子供たちが円になって座っていた。先ほどの少年のように兵士に似た装いの子もあれば、手枷をはめられた子もいる。

 そして、中心にはひとりの少年が吊り下げられていた。

 アントンが思わず声を上げそうになるのを、エッカルトが遮った。

 その少年の名は、ホルガー。アントンの友達のひとりで、早くに戦争で父親を失い、母と妹を養うために何でもしていた奴だ。同じく父親のいないもの同士として、アントンはホルガーを兄のように慕っていた。失踪したと聞いた日は夜通し泣いたのを今でも覚えている。

 それが、こんなところで再会するなんて。

 ホルガーは猿ぐつわをかまされ、目には乾いた涙の跡がある。衣服は薄いローブのほかは何もなく、下半身は裸だ。その足元には長方形の黒い台があり、隣ではノコギリを持った少年がエッカルトに笑いかけている。彼の周りでは、死んだ魚の目をした少年少女が立っている。その手には鋏、ナイフ、金槌――

 それら金属はすべて、黒く錆びついている。

「お待たせしました。さあベルント、始めてください」

 なにを、と問おうとすると、エッカルトは石のステージを指さした。

 ホルガーはいやいやするように首を振りはじめた。ベルントと呼ばれたノコギリの少年は、その姿をうっとりと眺めている。よく見るとその少年の傍らにも、ノミや包丁、玄翁げんのうなどの道具が整然と並んでいる。

 アントンも冷や汗をかきはじめた。

 ベルントは作業台から杯をとると、一息に飲み干した。むせる。杯が転がる。ひとしきりせきこむと、うめく犠牲者を見上げ、けらけらと笑いだした。

「ベルントは昔から、自分の体の中身が気になって仕方なかったのだそうです。それでこのお仕事を与えたのですが、だんだんと心が混乱してきたようです。最近ではお薬を飲みつつ仕事にとりくんでいます。がんばり屋さんですよね」

 エッカルトの冒涜的な台詞は、アントンには届いていなかった。それは幸福なことだったのかもしれないが、円座の中心に釘付けになっていることはさらに不幸だった。

 ベルントは台の中央にある指ほどの穴に、赤茶けた金属の棒を差しいれた。かつて、その先は鋭利だったようだが、今では使い古され鈍ってしまっている。アントンにはそれがすぐには何か分からなかったが、背筋を毛虫の群れが這い回るような悪寒がした。

 そして、アントンは分かってしまった。その太い針が何のためのものか。

 あれは河魚を焼くときのと同じものなのだ、と。

 犠牲者は裸にされ、足を揃えてくくられた。足をあげた格好のまま、鎖が滑る音と、絹を割くような悲鳴がこだました。アントンは思わず目を背けたが、エッカルトがその顔をつかみ、無理やり目を開かせた。

「しっかり見ておきなさい、アントンくん。君のためになることなのですから」

 犠牲者は台の上に足を伸ばして座らされ、両腕は鎖で吊るされた。

 ベルントが囁く。

「さあ、まずは固定だね。麻紐と革紐、どっちがいいかな」

 ホルガーは答えない。

「どっちもいや? わかった。じゃあ、杭を打ってあげよう」

 犠牲者は目を見開いて首を振る。

「なんだ。じゃあどっちの紐がいい?」

 交互に紐を持ちあげ、それにしたがって革紐を選んだ。ベルントは笑ってうなずく。足を助手の少女が押さえ、ベルントが近づくと、絶叫が響きわたった。

 ベルントは革紐を持ったまま、木の杭を打ちつけていた。 

 部屋は暗く、最初、杭と肌は一体になったように見えた。けれど、次には血がにじみ、杭をさかのぼって赤く染める。

 彼は抗議するような目をした。

 それをみてとったベルントは、彼の口に噛まされた布を取りはらった。

 なんで。話が違う。

「どれがいいか、って聞いたけどさ。それを使ってあげるとはいってないよ。

 さあ、次。ノコギリとノミ、斧。どれがいいかな?」

 ホルガーは青ざめた。その表情にベルントは顔を奇妙に歪ませた。

「どうして逃げようとしたの?

 エッカルトさまはこんなにもぼくらを愛してくださるのに」

 犠牲者は答えない。ベルントは包丁で切断面の下書きをする。

 いたい! やっ、やめて……。

 ベルントはもう一度、同じ質問を繰り返した。「妹が心配で――」

 ハンマーが振りおろされ、ノミが食いこむ。

 つんざく絶叫。赤い色の混じった、透明な液体が漏れでる。

「キミの妹もすぐここにくるよ。そんなこともわからなかったの? ちがうでしょ?」

 黙秘。ハンマー。悲鳴。ここはきちがいだ。ハンマー。悲鳴。おまえらはおかしい。ハンマー。悲鳴。たすけて。ハンマー。たすけて!

「正直になったらどう? そうしたら、クスリをのませてあげてもいいよ」

 ……ほんとに?

「うん。そしたら、そんな大声をあげずにすむよ」

 だらだらと漏れた液体が、台の上を濡らしつづけている。

 ベルントはもうひとつの杯を、ホルガーの前にさしだした。

 部屋に刹那、静寂がおちた。ベルントが再度、問う。「なんで逃げたりしたの?」

 彼は荒く短い息の合間、口を開いた。

 もううんざりなんだ。家に帰りたい。

 どっと笑いが濁流となって、部屋を満たした。

 アントンはおぼれそうだった。自分の中身を見ているような心地だった。胃のなかのものがせりあがり、彼は嘔吐した。

 ベルントは膝を叩いて喜んでいる。ホルガーは麻薬を求める。早く、いたいよ、早く。

「へーえ、そうなんだ」

 ベルントは杯をあおって、手を離した。ホルガーの瞳孔が、拡大する。

 軽い音をたて、杯のなかの液体は、彼の血潮を希釈した。

「ここが家だよ。ばーか」

 ホルガーは涙を流して暴れた。もがけばもがくほど、自分の体が後戻りできなくなるというのに。ベルントは目を細めてそのさまを眺めていた。エッカルトも同じだった。エプロンの上からでも、ベルントの股から小さな山が盛りあがっているのがわかる。

 アントンは理解した。逃げるという意思を持つことが、ここではどれほどの罪なのか。神様の加護が届かない暗黒の地は、こんなにも近くにあったことを。

 ここでは自分が、異端者なのだと。猟犬に追われる害獣なのだと。

 ぽきん、と音が鳴る。体の一部が手渡される。絶叫は勢いがない。挫滅した断面からはにじむようにしか流血しない。ベルントはあごに手をやり、ふと思いついたように包丁を取った。そして断面の半分を薄切するや、真っ赤な動脈血が噴き出した。覗きこんでいたベルントの笑顔が赤く染まる。床を濡らす流血に、白い湯気がたつ。

 そして彼は、思い出したように断面を玄翁で叩き潰した。

 流血は、終わりを早めてしまうから。

 切りとられた四肢を渡された少女は、台にもたれかかって皮と筋肉、骨、腱をそれぞれに切りわけはじめた。無表情。慣れたナイフさばきだった。

 その合間にも拷問は続いた。家族は、友達は。好きな女の子は、おねしょは。女の子のあそこは。どうでもよいことをベルントはたずね、返答しなければ爪の間に針をいれ、意識を取り戻させた。犠牲者の尊厳が洗いざらい穢されるまでに両足はなくなった。

 同様に、アントンも抵抗しなくなっていた。ホルガーと自分を知らず知らずのうちに重ねていた。善良なアントンの魂は、ベルントに指先から殺されていく。

 四肢がすべてなくなると、ベルントは腑分けを始める。腹を裂き、その中身を覗きこんで、笑顔になる。小さなナイフがその手に握られる。犠牲者の目は虚ろで、もはや涙は枯れ、代わりに唾液がだらだらとこぼれおちていた。

 ひとつひとつ、丁寧に、取り出されていく。それが宝物であるかのように、繊細な手付きで。蒼褪め、横縞の入った細長いもの。黄色味を帯びた縦縞の細長いもの。大きな、けれど空っぽのふくろ。それらを取りだすたび、血管は挫滅されていた。犠牲者の意識が失われないように。

 赤黒く、平べったいもの。それを取りだすと、ベルントは嬉しそうにほほえんだ。ちょうど、河で大きな鮭を捕らえたかのような表情だった。ホルガーは取り戻そうとするように上腕で宙をかく。彼の指は、掌は、肘は、もう彼にしか見えないものなのに。その様子にベルントは「君もほしいのかい。しょうがないなあ」とつぶやいて、一切れを犠牲者の口に押しこんだ。ホルガーは自分の口にあるそれが何か、理解することもできずに嚥下する。それはするりと腹腔へ落下する。骨盤の上の血だまりへ。

 黒い空豆、小さな白い袋。睾丸のなかの白い玉。それらを解説しながら取りだすと、いよいよ胸だった。

 胸の正中から縦にのこぎりが入れられる。肋骨の頭を脊柱から外しつつ、鎖骨を外しながら開かれる。クローゼットのように開かれたそのなかでは、かろうじて脈打つそれが、暁光のように赤く柔らかい綿に包まれていた。犠牲者はがくんと口を開き、あえぐように末期の息をする。いまや吐息は綿を膨らませず、顎が動くは意思なき反射だった。指ほどの太さの管を切って、綿を取る。最後に残ったのは、彼の心だった。微弱に細動するそれは、まだそこに彼の魂が囚われていることを思わせた。

 ベルントは目を輝かせる。

 血まみれのそれにほおずりして、うっとりと目をつむる。

 ベルントは、幼く原始的な絶頂を迎えた。


 そのあとのことを、アントンはよく覚えていない。

 ベルントが頭のなかもどうこうしていたような気もするが、分別されたそれらがどうなってしまったのかはわからない。ただ、ホルガーがそっくりいなくなってしまったことだけは覚えている。皮を剥がれ、毛と肉と筋と骨に分解され、遺体も墓標も残らなかった。残ったのは台の染みと、床にこぼれた赤黒い液体だけだ。

 この晩、アントンは言葉にできないながらも、あまりにも多くのことを学んだ、学ばされた。夜の森に潜む狼や魔獣、人ならざる口を利くものなどよりも、はるかに恐ろしいものがいることを。

 この世にあって最も恐るべきものは、人間だと。

 アントンには信じられなかった。無意味な暴力を娯楽にできるものと、それに自分を重ね傷ついたり、涙したり――我が身を省みず、救いを与えたいと願うもの。それら二者が、ともに同じ人間であることが。

 

 ベルントが犬人コボルトならよかった。コボルトはヒトではないと理解できる。

 ホルガーが魔物ならよかった。自分には関係ないことだと安心できる。

 

 けれど、人が人を凌辱し、人が人を助くのは筋が通らない。

 アントンは幼かった。そんな不合理を当然と飲みこむことはできなかった。

 だから、結論付けるほかなかったのだ。

 

 自分と異なるもの――光でない側に立つものが、悪なのだと。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る