月光の声

 柱に寄りかかり、ルオッサは荒く息を吐いていた。

 発作が近かった。朝夕と二度も抑えたために、いつまでか定かではない。

 ルオッサはいっそのこと、手綱を手放して楽になってしまおうか、とも思った。だが、今だけは駄目だ。エッカルトはハインだけでかなう相手ではないだろう。その時のために自分はいつでも動ける駒でなくてはならない。

 ――そう、頭ではわかっている。けれど、少女は欲望を解き放ちたくてたまらなかった。それを遅らせているのは、ひとえにのちの愉悦を損なわないためだった。

 全身の皮膚の下で、何かがひしめき、うごめいている。その正体を少女は知っている。それがいずれ、自分をどう変えてしまうのかも。それがざわめくたび、全身を業火に舐められるような痛みにさいなまれるとしても――否、だからこそ、少女はそれを拒絶しなくなっていた。

 ルオッサは、もはや“それ”に依存していた。

 

 ハインと別れてから、ルオッサはドラウフゲンガーの館を簡単にあらためた。ほとんどすべての部屋が、彼女が最後に見た時のままだった。臭いも痕跡もない。ルオッサの知る限り、館の地下には簡単な牢しかない。子供とはいえ百人以上の人間が収まるわけがない。

 だが、竜の刻印ドラゴンマークは不可能を可能にする――そう止水卿は推測していた。これまでの事件でも、奇跡や神罰としか考えようのない事象が、刻印者の手によってなされていたからだ。だとすれば、何が起こってもおかしくはない。

 念のためルオッサは、本命である牢にハインが向かうように誘導し、自身は他の可能性を潰してまわった。使える限りの手段をもって呪文やそれに類する痕跡を探し、伏兵や他の危険要素がないかを調べた。

 結果はことごとくハズレ。呪文の痕跡もなければ、人がいた痕跡すらなかった。

 だが、それはなのだ。

 別館には、ふたりの人間が住んでいる。耄碌もうろくした老爺ろうやと、それに負けないくらい年老いた召使いの老婆。召使いは今でも日課である迎賓館の手入れをしている。その痕跡がまるでない――正確には、迎賓館と別館を繋ぐ廊下の途中で、すっぱりとなくなっている。

 生物は生きるだけで大気中の魔力をかき乱す。その痕跡がないということは、少なくとも一ヶ月は生物が出入りしていないことになる。迎賓館の埃の積もり方は、週に一回は手入れされていることを示している。もし、この魔力痕跡を呪文でかき消すと、今度はその呪文を唱えた痕跡がどこかに残ってしまう。

 つまり、呪文以外の手段で、何かが秘匿されている。

 そして、それがどこかといえば、もう地下牢しか可能性はなかった。

 ルオッサは自分を抱きしめて、毛一本にいたるまでさいなむ苦痛に耐えた。もし自分がハインについてゆけば、凄惨なことになっただろう。それも悪くはないが、今ではない。もっと信頼を勝ち得てからでなければ、旨味に欠ける。青い実を収穫するのは、せっかちな愚者だけでいい。だからルオッサは、エッカルトをハインに任せた。

 ああ、でも。

 ルオッサは思った。

 

 今晩だけは、殺さずにいるには惜しい名月だった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る