英雄の立ちあがる時

「オッペンハイム……? あなたが、代官さま……?」

 エッカルトは柔和な笑みを浮かべた。

 アントンには理解できなかった。ドラウフゲンガーの代官といえば、自分たちの生活を与えてくれている神様にも等しい存在だ。なにしろ、今の今までその人相を拝したことすらなかったのだ。

 そんな人物が、なぜ今、ここで出てくる?

 アントンがエッカルトを呆然と見つめていると、控えた少年が怒鳴った。

「代官様が直々にお前なんかの名をおたずねになっているんだ! さっさと答えろ!」

 ぎょっとしたアントンは反射的に少年を見上げ、驚きに目を丸くした。

「ギード? おまえ、ギードだよな?」

 アントンの問いかけに、少年は眉をあげたのみ。

 ギードはアントンの友達のひとりだった。しかし半年も前に神隠しに遭い、行方知れずとなっていた。ギードは貧しい農奴の子で、友達のなかでも痩せていた。それが今や、ふくよかに太って燭台と鞭を持っている。アントンは恐ろしいことに気づきそうになり、慌ててその考えを捨てた。

「ギードくん、知り合いかな?」

「ええ。こいつ、“群青亭”のアントンです」

 エッカルトは、その名を何度か口のなかで反芻した。その名を頭に書きつけると、彼はにこやかにアントンに笑いかけた。そして手を上げて立ち去る。ギードは唾を吐き、アントンに背を向けた。

「待てよギード、なんでここにいるんだ! みんなお前を心配してんだぞ!」

 ギードは彼に、軽蔑した眼差しと鞭をくれてやった。アントンの顔に鋭い痛みが走る。

「黙れ、家畜め」

 アントンがひるんだすきに明かりはなくなり、静寂が訪れた。

 後には扉が閉じる音が残響するのみ。

 アントンは自らを縛する鎖を引っ張った。

 鎖の耳障りな音が響くばかりで、びくともしなかった。

 完全に虜囚となったと悟るや、アントンはがっくりとうなだれた。腕はずっと持ちあげられていたためか痛むし、頭はがんがんと誰かに殴られ続けているようだ。けれど、彼をさいなむのは別のことだった。

 ――

 彼は犬人コボルトを弁護することをあきらめ、それが真実だと飲みこんでしまった。そうしてしまうと、後には空しさと悔しさだけが残った。泣きたくもないのに涙があふれてくる。

 だまされた自分がばかみたいだし、自分よりも小さい亜人を信用したということは、“みたい”でもないことを証明してしまったことになる。

 自分は、これ以上ないマヌケだったのだ。

「……くそっ」

 声に出すと悔しさが二倍になった。あの犬ヅラを殴ってやりたい。

 だが、それは叶わないと子供の頭でも理解していた。

 行方不明になった子供たちは、ひとりたりとも見つかっていない。今まで子供たちを何がなんでも取り戻そうとした大人は、あのコボルトしかいなかったからだ。

 そしてそれは冷たい嘘だった――少なくとも、アントンにとっては。

 アントンは力なく冷たい泥の中に沈んだ。

 自分も同じ運命をたどるのだと、絶望した。

 その時、ふと、自分の横に小さな影があることに気づいた。

 彼は上体を起こした。

 闇に慣れた目が、それを見出だす。

「誰か、隣にいる?」

 影が、うごめいた。

「……君も、ハインにさらわれたの?」

 岩肌を引っ掻くような声がした。

 その、おおよそ人の声とは思えない声をもう一度反芻して、アントンは「だれ?」とたずね返されたことを理解した。人だ。アントンは確信した。

 自分と同じように、連れさらわれた子供に違いない。

「コボルトのオヤジだよ、犬と女の子を連れた――」

 影は、しらない、と答えた。

「おれ、アントン。君は?」

 ヘルタ。

 何度か聞き直してくみとったその名に、アントンは聞き覚えがなかった。分かったのは女の子の名前だということだけ。こんな干からびた声が女の子ということにも驚いたが、今はそれどころではない。

「ねえ、ヘルタ。なんでギードが代官さまといっしょにいるか知ってる?」

 ギードの名を聞いたとたん、鎖の揺れる音がした。かちかちと歯があたる音も。

 アントンはヘルタがふるえているのだと知り、

「ごめん! ……怖がらせるつもりはなかったんだ」

 こわくないの? 少女の震えた声に、アントンは顔をしかめた。

「怖いもんか。おれたちの中で一番ひょろい、ハリガネみたいなヤツだったんだぜ? そりゃ、今はヒモくらいにはなってるけどさ。あんなヤツ、一発でのしてやるさ」

 代官さまは分からないけど、という言葉はのみこんだ。大人で神様のようなお方なのもそうだったが、アントンにはそれ以上に恐ろしいことがあった。


 エッカルトはただの子供好きにしか見えなかった。

 なのに、繋がれた自分をみて満足そうに立ち去った。

 ――まるで、屠殺される牛がくことを、活きがよいと喜ぶように。

 

 けれど、口から出たアントンの言葉は純粋で、ヘルタを勇気づけた。

 彼女の震える音が収まると、アントンは自分にも勇気がわいてきた。

「その声、熱湯でも飲まされたのかい? かわいそうに……」

 自分の手も見えないような闇のなか、アントンは少女をみた。自分よりもひとまわりも小さい影だった。顔どころか輪郭も闇にとけてよくわからなかったけれど、アントンはひどく憤った。

 おれだっていたずらを叱られることはあるし、母さんにぶたれることだってある。でも、どんないたずらをしたって煮え湯をのまされることなんてない。よもや、こんな小さな女の子が何をしたというのだ。こんなひどいことをするヤツは、たとえ大人だろうが貴族だろうが、きっと神様は許さないだろう。おれだってそうだ。怒りで頭から湯気が出そうだった。

 そして少年の怒りは、少女の痛みへの共感に色を変えた。

 なんとかしてあげたい、という想い。

 それは稚拙な祈りで、大人になる時に多くが捨ててしまうもの。

 けれども同時に、最も純粋で輝かしい意志の萌芽でもある。

 しくもそれは、彼が心の底から憧れて、そして失望してしまった、あのコボルトの魂の底に根付くものと同根だった。

 アントンは小さな光の芽に導かれて、枷と鎖を力任せに引っ張った。当然、彼の手首の肉が押しつぶされるばかりだが、アントンはあきらめない。鎖は長く、片手でもう片方の枷を触ることができた。半円の鉄板をふたつ繋いだ、粗悪な代物だ。両手で一個になった枷でないことは幸運だった。

 アントンは何度か枷を壁に叩きつけてみて、蝶番ちょうつがいが軋むのを確かめた。次に蝶番をレンガの壁にこすりつけ、手ごたえを確かめるとさらにこすり続けた。軋みがだんだん大きくなってくる。今だ、と渾身の力で枷をうちすえる。

 あっけなく、蝶番は離ればなれになってしまった。枷が緩んでしまえば、鍵がかかっていようが関係ない。アントンの細い手首はするりと抜けだした。

 もう片方にも同じことを繰り返しかけて、アントンは嫌なことに気づいた。

 どうして、

 つまり、この枷を作らせたヤツは、本当に子供しか牢につなぐ気がなかったってことじゃないか。その悪意に彼の背筋は凍ったが、次にはその悪意を義憤の炉にくべた。

 ならばなおのこと、許せない。ヘルタのおびえかたからしても、ギードは間違いなく同じ仲間こどもをいいようにもてあそんでいる。少しでも気に入らなければ、あるいは機嫌が悪ければ、すぐに鞭をふるうのだろう。――まるで、牧童が羊を打つように。

 そんなことが許されてたまるか!

 もう片方の枷が、鎖の音を伴って落ちた。


 少年は、少女の影に向きなおった。

 立ちあがって見てみると、本当に小さな女の子なんだな、と彼は思った。

 手のひらをぎゅっと強く握りしめる。

 

 少女のかすれた声が、やめて、とつぶやいた。

 


「ヘルタ。必ず助ける。だから待ってて」

 鎖がゆれる音。いやいやするようにかぶりを振っているのだ。

「君はこんなところで、家畜みたいに繋がれてちゃいけないんだ。

 おれが何もしなかったら、きっと神様に叱られる。

 ――でも、だから、必ず神様は力を貸してくれるはずさ」

 

 少年の言葉に、ためらう音はかき消えた。

 ――まってる。

 その言葉に、アントンの体は武者震いした。それは、桜花公の気品に満ちあふれた演説や、司祭による世界の祝福を説く言葉など、彼の半生の中で聞いたあらゆる言葉のすべてをさしおいて、彼に勇気と力を与えた。

 アントンという子供は、今この場においては、ひとりの英雄となっていた。

 英雄とは宿命で、宿命とは呪いである。

 

 なぜなら、選択の余地などないのだから。

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