松明の群れ

 ハインとルオッサは、星々と三日月の照らす道を黙々と歩いた。互いに思うこと、問いただしたいことはいくつもあった。けれどいまだ期は熟していないからと、沈黙を選びあった。ハインはかたわらにリタのいないことを残念に思った。もし彼が経絡を開けば、リタはハインの気持ちを察して、踵を返してきただろう。それを期待してしまうほど、彼はこの黒い沈黙が意識に忍びこんでくることに心を痛めていた。

 ドラウフゲンガーの外れに到着したのは、夜の鐘もとうに鳴った後だった。サーインフェルクの夜は長い。とっくに農奴たちは寝藁に入り、村は静まり返っている時間だ。

 本来ならば。

「……騒がしいな」

 村は起きていた。暗闇の中、農地のあちこちに松明たいまつが動き回っており、お互いに大きな声をかけあっている。ハインは犬によく似た耳をそばだてた。「どうやら何か探し回っているらしい」そうつぶやき、次には悟って走り出した。

「ルオッサ、新たな神隠しだ!」

 ハインは村人のひとりに駆けより、誰がさらわれたのかたずねようとした。しかし、彼が喋るよりも早く、村人は叫んだ。

犬人コボルトだ!」

 ハインはぎょっとした。その絶叫で、あたり一面の松明が彼をにらんだからだ。

「アントンをどこにやりやがった!」

「ハインってえコボルトは、貴様か!」

 それは問いかけではなくだった。振りおろされた唐竿からさおにこめられた、明確な殺意。それをかわしてハインは逡巡し、次には説得を諦めて脱兎のごとく走り出した。

 ルオッサに指示を出そうとしたが、そこに少女の姿はなかった。

「逃げたぞ! 追え追え!」

「逃がすな! 今までの分も償わせるんだ、神もお許しになる!」


 ハインは《不可視インヴィジビリティ》を解いて、森のなかで息をついた。四半刻ほどが経過した。ハインは尖兵として教育を受けているが、さすがに村ひとつをまくには時間が必要だった。

 その時、枯れ枝をふむ音がした。ハインは柄に手をやり振り返るが、

「おつかれさん。ククッ、さすが、コボルトだけあって逃げ足は速えなァ」

「……驚かすな」と、ハインは尻餅をついた。

「ここに来ると思ったぜ。もう索敵はしてある。内緒話でもしようじゃあないか」

 ハインは自分を落ち着けようと、煙草をくわえようとした。が、自分がおろかなことをしようとしていると気づき、煙草をしまった。そしてふと気づいて、

「ルオッサ、満月は好きか?」

「あァ? ンなもん決まってるだろうが。大嫌いさ」

 その返答に、ハインはほっと嘆息した。

「おまえがいうと嘘も本当に聞こえるな。やれやれ、気づいていたなら、黙って消えずに止めてくれよ」

「そう言うな。オマエがばっちり陽動してくれたおかげで、情報を得られたんだろ?」

「……まあな」

 ひとつ。アントンがさらわれた。

 ふたつ。ハインが神隠しの犯人として扱われている。

「なるほどなァ。これまでの神隠しと違って犯人がいる。そら、怒りが一気に噴出するわな。……まるで政治の一手だなァ?」

「ああ、ハメられたな。アントンをさらったのも、俺の名を広めるためだろう」

 ルオッサは含み笑いをした。その顔をみて、ハインはもう何を言いたいか理解した。それでも、問いたださずにはいられなかった。

「……何が言いたい」

「いやなに、アタシの言ったとおりになっちまったな、と思ってさあ。残念だったなァ?」

「ッ……!」

 確かにそのとおりだった。その危険は分かっていたが、必要な経費として払った。

 その結果がこれだ。

 分かってはいても、その罪はハインにとってやはり重いものに違いない。

「……確かに、アントンがさらわれたのは俺が名を明かしたからだろう。それについては言い逃れする気も、釈明するつもりもない」

「そうとも。オマエは血にまみれた犬の騎士さ。今頃、罪を改悛しようとも――」

「――だから、必ず救いだしてみせる」

 そう宣言するハインの眼差し。それは、ルオッサをたじろがせるに十分だった。

 少女は舌打ちする。

「……気に入らねェ。気にくわねえぜ、ハイン」

「良いとも。もとよりおまえに気に入られようとは、毛ほども考えていない」

 月光の木漏れ日は、ふたりを対照的に照らしだした。


 かたや光。

 闇がいくらその身にさそうとも、絶対の正義が、口を利くものが必ずもって生まれる善性があることを疑わない騎士。

 かたや影。

 広大無辺の闇に身を浸し、光潰える時を、自らと同じ絶望に狂える時を虎視眈々と待ち続ける怪物。

 光は抗い続け、影はわらい続ける。

 やがて、雌雄決する日に至るまで。


 ハインが逃げ回っている間に、ルオッサはざっと村人の分布を把握していた。その情報から、ドラウフゲンガーがオッペンハイムと接する北方面に人員が誘導されており、領主の館の衛兵も減っていることが分かった。ハインが誘引したのだから当然の帰結だが、ルオッサは確信を得た。エッカルトはハインを罠に陥れておきながら、敵が暗殺に来る可能性を考えていない。もしくは、なんら対策をしていない。ハインを敵だと認識していなければ罠などしかけないはずなのに、その後の手はずが杜撰ずさんにすぎる。その理由を説明するには、そう数はあげられない。ハインを過小評価しているか、エッカルトの能力――それが命令系統にしろ、個人の命令能力にしろ――がお粗末か。このふたつならハインの敵ではない。だが、残るひとつの場合、問題は厄介になる。

 エッカルトが竜の刻印ドラゴンマークを既に制御できておらず、自我が破綻しかかっている可能性だ。この場合、ハインがエッカルトを討ちとれるかはだ。

「事態は最悪を想定しておくに限る。やはり、おまえの力を借りる必要があるか……」

 ハインの露骨に不快な顔へ、ルオッサはにっこりと太陽のような笑みを贈った。

 これはルオッサの言葉で「いい顔だな快感だぜ中折れ野郎」という意味だ。

「なら、アタシも館へ忍びこむんだな。まァ、得体のしれねえ擬態野郎ミミックもいるんだ。

 分断は避けるべきさなァ?」

「不服ながら、おまえの聖儀僧クレリックとしての腕は本物だからな、この破戒僧め。

 俺は《不可視》を使いながら包囲を突破し、館に潜入する。そして、エッカルトを見つけだしする。おまえはどうする? おまえの分の《不可視》はないぞ」

「まァ、それには及ばねえ。顔が割れてて厄介だが、人目を避けながらオマエについてくさ。もし見つかっても、聖印イコンを振りかざしゃァ命まではとられねェ」

 聖職者は教会法でしか裁けない。もしこの法律を破れば、教皇庁は彼らなりの制裁を下すだろうが、普通の村人には教会の教えに逆らおうという発想すらない。教義は常識を形作っているのだ。

「見つかれば置いていく。いいな」

「あァよ。。こちとらずいぶん長いことしてる。

 それで犯され、なぶられるなら、アタシは得しかねえからなァ」

「……できる限り、拾っていくことにする」

「あッあッ。そうでなくちゃなァ。祭りに置いてけぼりはあんまりだぜ」


 ハインは最後に装備を確認し投げナイフを取りだすと、《不可視》を起動した。自分の手が、体が透明になってゆくのを確認する。ルオッサはマントのフードを目深にかぶり、前髪を下ろしてメイスを取りだした。精神がいくら狂暴であっても、ルオッサの肉体は齢十ほどの少女にすぎない。だから彼女は聖儀僧クレリックの伝統的な武器に頼る。

 ルオッサはメイスに包帯を巻きつけおわると、ハインに不敵な笑みを送った。

 ハインはうなずく。身を屈め索敵しつつ、足早に森を進みだす。ルオッサはその後ろ、足音をたてないように追随しながら、森の向こうに見える松明の動向をうかがう。

 夜の森は、昼以上にうるさいものだ。この季節では鳴く虫もいないが、夜にしか活動しない生き物も多い。そうした人喰いを恐れてか、村人はなかなか森を探索しようとしない。ウォーフナルタに比較的近い立地ゆえ、森賢者ドルイドに由来する森信仰があるのかもな、とルオッサは思った。もっとも、その国民である草人アールヴ岩人ドヴェルグは夜目がきくのだが。

 村人の様子を見るに、どうも彼らは領主から命令を受けているようには見えない。自発的な怒りによる夜警団といったほうが近い。とすると、やはり指揮を受けているわけではないのだろう。昼に出会ったエッカルトが偽物とすると、本物はどこで何をしているのか。短絡的に結びつけるのなら、さらった子供をどうこうしているのだろうが。

 ルオッサはハインの後ろで、退屈しのぎに幼子の使い道を考えた。

 幼子はいい。暴力に簡単に屈するから、洗脳しやすいのだ。ある程度時間があれば、男は従順で裏切らない兵士にできるし、女は娼婦にも間諜にもなる。技術を仕込むまでにため数が必要だが、それを集められるなら優秀な暗殺者に仕立てあげることも可能だ。黒魔術――というとハインは笑うだろうか。正確には悪なる秘術呪文の起動にかかる生贄としても重宝される。生命は若く健康なほど、そして知性が高く高等なものほど優れた魔力源になる。聖儀僧クレリックも信仰する神によっては使う――邪神といわれるような神も、使いようによっては役に立つのだ。

 いずれにせよ、ろくでもない目的であることは間違いない。

 ルオッサはほくそ笑んだ。


 ハインは優れた尖兵だった。首尾良く館近くまで接近すると、衛兵ふたりを背後から音もなく無力化した。猿ぐつわをくわえさせ木々に縛りあげるや、時間を惜しんで彼は《解錠ノック》を唱えた。リタがいれば衛兵を縛っている間に開けさせたのだが、彼の腕ではリタの倍はかかってしまう。

 ふたりは素早く館に忍びこむと、後ろ手に閂を通した。月明かりに照らされたエントランスは時代遅れの調度品で飾られており、カビとほこりの臭いが充満していた。

 ほこりまみれになったシャンデリアを見上げて、ふとルオッサは郷愁をいだいた。

 遠い季節が思い起こされる。春を待つ寒さのなか、従者とともに足を踏みいれた記憶。――土のにおい。それは手のひらを返すように、少女に方針を改めさせた。

「……長いこと、人が住んでいないのか?」

「こっちは迎賓館だからな。“桜花卿”が耄碌したなら、当然さァ。

 人がいるとしたら別館だな」

 そうつぶやきながら、ルオッサは大きなホールのまんなかで、くるりと回ってあたりをみつめた。その細部に至るまで、風化のさまを目に焼きつけるように。マントが穴だらけでシュミーズが黄ばんでいなければ、その姿は踊り子のように優雅であった。

「おい、待て。何か知っているのか?」

 ルオッサは答えない。フードから赤髪をあらわにして、ハインに言った。

「なあ、ハイン。別館はアタシがゆく。オマエはこっちを探索しないか。ガキをとやかくしてンなら、それは地下のはずだ。でなけりゃ、こんなに静かで無臭なワケがねェ」

「何を企んでる、ルオッサ」

 おまえが別行動は避けるべきだと言ったんだぞ。ルオッサはにやけたまま、黙った。ハインはしばらくルオッサを観察した後、

「……時間が惜しい。好きにしろ。ただし、これだけは誓約しろ。『自身と他者の命を、故意に傷つけない』、とな」

「ハイハイ。『ルオッサは次に日が昇るまでに限り、アタシと他人の生命を故意に傷害しない。以上、フラフィンの名の下に誓約する』。これでいいか?」

 ハインは自らが過ちを犯しているのではないかと自問した。だが、次にはアントンのことを思い、言い捨てた。

「ああ。余計なことはするなよ」

 後に残されたルオッサは、顔から笑みを捨て、反対の――右手側の廊下へ向かった。


 館は石と木でできていた。砦として守護の役目のあるオッペンハイムの城と異なり、この館は純粋に居住のためのものだ。城の代わりにこの館があるということは、ドラウフゲンガーが内地にあり、平和に長い時間を過ごしてきたことを意味する。

 ハインは迎賓館の一階を手早くあらためたが、何も得られなかった。苛立ちを覚えながら二階に昇る。

 ホールから伸びる、左手側の廊下を覗きこんだ時だった。

 廊下の奥。月光をあびて、少女が青白く輝いていた。

 長い赤髪、きりりと引き締まった顔つき。赤い瞳は月明かりに弱められて、表情も野犬に似たところは鳴りを潜めている。錆色のマントの下に見える肌着は薄汚れており、その二枚の他には何も重ねていない。見える限り、古傷のないところはない。完膚なきまで、とはまさにこのことだった。

 それなのに。

 少女は、安らいでいた。月を見上げて。

「ルオッサ……?」

 ハインが声をかけると、少女はコボルトに顔を向けた。

「……どうしたハイン。アタシの顔に何かついてるか?」

 ハインは少女に近づき、たずねた。

「ルオッサ。おまえ、満月は好きか?」

 少女は窓の外の月を見やり、にたりと笑った。

「あァ? ンなもん決まってるだろ。大好きさァ」

 抜剣と斬撃は同時だった。

 ハインの銀の剣は少女のメイスに受け止められ、甲高い悲鳴をあげた。

「ついに馬脚をあらわしたな、ミミックめ!」

 ルオッサの顔をした誰かはケタケタと笑い、その剣を押し返した。

「ははァ、さては合言葉だなァ? 真実と反対のことを言う、とかなんとか“アタシ”が提案したか? さすがアタシ、抜け目ねえなァ」

 ハインは真白銀ミスライアの剣を構え直し、ソードブレイカーを左手で抜いた。

「貴様には聞きたいことが山ほどある。覚悟はしてきたか」

「いいや、全然?」

 そうおどけて返すや、少女はメイスを手放した。鈍い落下音。唖然とするハインを前に、次にはベルトを外してレイピアを投げ捨て、マントもポーチを捨てた。後には黄ばんだ肌着一枚の、ひとりの少女があるばかりだった。

「――どういうつもりだ」

「降参こうさん。ハハ、キミとやりあうつもりはないよ」

 声音は同じながら、口調が変わった。ハインは剣を握りなおす。

「馬鹿か。それで俺が剣をさげるとでも?」

「さげるさ。キミは戦意のない者に決して手を出さない、誇り高い騎士だ。違うかい?」

 ハインは面食らって、息をのんだ。

「貴様が俺の何を知っている」

「すべて。キミの罪、キミの願い、キミの目的、キミの愛を。ボクはキミなのだから」

「……一度しか言わない。《擬態》を解け。真の姿を見せろ」

「それは無理だ。キミには見せられない」

 ハインは剣を振り下ろした。

 赤髪の一房が舞い落ちると、そこには少女とその装備の代わりに、長身の道化師が立っていた。気づけば一房の髪もかき消えている。ハインはその姿を見、即座に呪文を唱えようとした。

「やめて。《真実の瞳トゥルーシーイング》は使わないで。お願いだ」

 ハインは動きを止めた。自分が何をしようとしていたのか見透かされたこともそうだが、その泣き笑いの化粧の男が、本当に悲しそうな声を出したからだ。

 ハインが詠唱をやめ、呪文を差し止めると、道化師はそれらしく笑った。

「ありがとう。キミにはんだ」

「……おまえは、エッカルトの魔術師じゃないのか?」

 道化師は晴れやかな笑みになった。そして、大仰に挨拶した。

「ボクのことはヌルとお呼びください、ハインくん。どうぞ、これからもひとつ、この哀れな道化師とお付きあいくださいますよう。ああ、どこからお話しすれば。そうだ、まずはエッカルトくんとの関係だ。ボクは彼のお手伝いさ。ただ、気が変わっちゃってね」

 べらべらとまくしたてる道化師に、ハインは眉をひそめた。

「もう少し、俺を納得させられる釈明はできないのか」

 うぉう、と大げさに驚くと、ヌルと名乗った男は諸手を挙げ、先ほどと同じく武装のないことを示した。

「おお、ゴメンゴメン。ただ、ボクは混沌の化身みたいなものだから、その注文はなかなか難しいな。ただ、述べるときは真実のみを口にしよう。

 ボクはキミの味方だ。いや、ファンかな? エッカルトくんはつまらない。いや、最初はおもしろかったんだけどね。最近はワンパターンだ。テンドンはいいものだけど、そればかりじゃ胸焼けするのさ」

「テンドン……?」

「フライをコメに乗っけたやつ。いや、それはどうでもいい。忘れて。

 そうだ、キミの探している地下への入り口はエントランスにある。ここにはないよ」

 ハインは道化師の顔をみつめたが、真贋をはかりかね、「誓約するか?」とたずねた。

「それはできない。ボクには。いや、言葉の上ではできるけど、拘束力があるものにはならないんだ。知ってると思うけど」

 信仰がない。そう聞いてさらにハインの表情が深くなるにつれ、ヌルは困って考えこむ動作をした。

「参ったな……。何を言えば信用してくれそう?」

「味方だというなら、おまえの正体ぐらいは言ってみろ」

 実際のところ、人のいいハインは奇襲を警戒してはいたものの、危害がないなら捨て置いてもよいかと考え始めていた。

「正体ときましたかー。ヌルじゃダメ? ダメそうだー。うーん、ホントはイヤなんだけどなー。よし、仕方ない。アントンくんを助けるためです、多少は身銭をきりましょー」

 ヌルは前屈みの道化師のポーズをやめ、直立した。

「ボクはいわゆる“口を利くもの”の範疇にない。けれどボクは、“口を利くもの”であると確信している。そして、現時点でボクを最も正確に表す名称はこうだ」

 影盗みドッペルゲンガー

「……正気でいってるのか?」

「キミならこれで信用してくれると思ってね」

「そんなわけがあるか」

 ハインはそういいつつ――実際に、目の前の道化師がドッペルゲンガーだとは考えていないが――仮にそうだと考えれば多くのことで辻褄があうことに気づいた。

 ドッペルゲンガーとは姿を盗む魔物だと解されている。しかし、文献に現れることはあれど、実際にそれだと認められた魔物はいない。いわば伝説、うわさのたぐいだと考えられている。ハインもそうだった。

「おまえは、俺やルオッサ、エッカルトに自由に化けられると?」

「そう。ついでにこの道化師の男も。ボクのものはヌルという名前だけさ。髪の毛一本あれば、その口を利くものを理解し、そのほとんどを再現できる。最初は盗賊に、次にキミに、最後にルオッサちゃんのことを盗み知った」

 喋りながら、道化師は瞬く間に朝にハインがこらしめた盗賊になっていた。そしてハインを指差し、次にルオッサの姿に変わってから、道化師に戻った。

「なるほど、《擬態》呪文ではなかったわけか。では、俺に濡れ衣を着せたのはなぜだ」

「あれはエッカルトくんのお願い。いろいろよくしてくれたから、断れなくて。最後の恩返しさ。でも、今では後悔してるんだ。どうにかごまかせばよかったのに……」

「……じゃあ。味方だなんて言った理由は、鞍替えしようと思った動機はなんだ」

 その質問には、ヌルは先ほどのわざとらしいもったいぶり方でなく、本当に恥ずかしそうにためらった。

「……キミのことを知ったからさ」

「はぁ?」

 ハインがもう一度問いただすが、

「ここで待っていたのも、ルオッサちゃんのため。この部屋は彼女の部屋なんだ。キミがこの部屋を荒らしたと彼女が知ったら、必ず彼女はイヤがる。ああ、そりゃあもう、殺したくなるくらい。だから――」

「……ああ、もういいぞ。信用する」

 ヌルは顔をあげた。

「いや、おまえの話は正直、信じがたいし、意味の分からないところも多い。

 だが、ことは一刻を争うし、おまえは俺が隙をみせても道化の芸に専念するばかりで、一向に襲ってくる気配もないし……。

 なにより、アントンのためだと言った。それなら信用してやってもいい」

 道化師の男は、少年のように飛びあがった。

「地下への入り口はエントランスにあるんだな?」

「そう、引き出しのなかに仕掛けがある! 早く行ってあげて!」

 ハインはうなづき、ヌルと周囲を警戒しながら立ち去ろうとする。警戒するのをやめ、曲がり角を曲がる段になって、

「ハインくん。ルオッサちゃんを、頼むよ」

 ハインが振り返り、聞きなおそうとすると、そこにはもう誰もいなかった。

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