6. つながる点と増える謎と(キリがない)

 トリプルオー、というカタカナの音が、以前ネイティブで発音されていたそれと重なるまでにしばらくかかった。その存在自体はつい先ほど意識したばかりだったから、記憶のインデックスから引き出されるのは結構早かったけど、それでも、和香わかの言葉がただ僕を混乱させて引き止めるだけの虚言なのか、そうでないのかは図りかねた——ジンの顔を見るまでは。


 迅の表情は静かなままだった。でも、その眼鏡の奥の眼が、さっきと同じかそれ以上に苛烈な光を浮かべていた。それまで見たことがないくらい、何かはっきりとした怒りに満ちた色で。

「迅——」

「それは、あいつから聞いたの?」

 僕の言葉をさえぎって迅が問いかける。その声は静かなのに、触れれば切れてしまうような鋭い刃のような響きがする。あるいは今にも噴火する直前のマグマのような。

 和香は少し怯えた顔をしたけれど、気丈に顔を上げて真っ直ぐにその眼差しを受け止めた。

「だったら何?」

「あいつは性格は悪いけど、口は軽い方じゃない。君はいったい何者かな?」

 凍りつくような声に、何か覚悟を決めたように和香の目がすうっと同じくらい冷ややかな光を浮かべる。フォークを置いて、口元を紙ナプキンで拭うと、ぎゅっと拳を握りしめた。

「あいつ——あんたの上司、レン従属者Followerよ。そっちの事情については詳しいことを全部知ってるわけじゃないけど。あの人、ガードが固いから」


 従属者は主人の内心を読める。づきさんは以前そう言っていた。それでも全部ではないんだろう。あるいは死神によっては全く見せなかったりもできるのかもしれない。でも、迅は怪訝そうな顔をした。和香はそれに気づいてああ、と声を上げる。


「そういえば相棒も下僕もほとんど持ったことがないって聞いたけど、もしかして知らないの?」

「……何を?」

従属者あたしたち主人の死神あんたたちの心を読める。従属させられるほうの数少ない特権みたいなものかな」

 瞬間、ぴしり、と何かがひび割れたような音がした。いや、たぶんそれは気のせいだったのだろうけれど、それくらい迅の表情が明らかに変わった。無意識なのか、口元に手を当てて目を見開いている。なのに、その視線は和香を見ていない。もっとずっと遠くを見ているように見えた。

「心を読める……、彼女はあんな馬鹿な真似を?」

 それはきっと独り言だった。でも和香はなんだかせせら笑うように、顎を上げて迅を見つめる。

「一匹狼だから気づかなかった? ちゃんと守れるといいね」

 どこかで聞いたのと同じようなその言葉に、迅の瞳に浮かんだ光をなんと言えばいいんだろう。腰を浮かせた迅の腕をとっさに掴む。ぐらりと歪む視界の中で、その判断を少しだけ後悔したけれど、今その手を掴んでおかなけれればならない気がした。


 不可思議な色を押し隠す眼鏡の奥で、見開かれたまま微かに揺れた眼差しは、今にも泣き出しそうに見えたから。


 反射的に目を閉じて、それでも室内より遥かに明るい光を感じて目を開けた先にあったのは、いつかも来たことのあるどこかのビルの屋上だった。最近塗り直したのか、鮮やかな色のフェンスの向こうに広がる空は、いつの間にか雨が止んで雲の切れ目から日の光が差し込んでいる。天使のエンジェル梯子ラダーとかいうんだっけ。放射状に降りてくる光の筋は、何か別の名のあるただの気象現象だと分かってはいても、やたらと神々しく見えた。

「すげー、綺麗」

 思わず呟いた僕に、一呼吸置いてから、馬鹿にしたようなため息が降ってきた。視線を向ければ迅が呆れた顔でこちらを見下ろしていた。毒気を抜かれたようなその顔には、先ほどまでの悲壮な色はもう見当たらない。切り替えの早い奴だなと、なんだか恥ずかしくなって、迅の腕を掴んだままだった手を離す。でも、少し距離を取ろうとしたら、逆に腕を掴まれた。

「無茶をするよね、君は」

「さっきも聞いた。おおむねあんたのせいだろ」

「人のせいにしないで欲しいね。むしろ24時間365日トゥウェンティフォーセブンで専門サポートもびっくりの駆けつけサービスしてるんだから、感謝状をもらいたいくらいだよ」

「どうせ無料じゃないんだろ」

「それはそう。お互いそういう契約やくそくだったでしょ」


 眼鏡をとって平然と言う金の眼差しはいつも通り嫌味な色を浮かべている。和香の話も、そしてこいつが何やらそれに衝撃ショックを受けていた理由も何一つわからない。それでも、怒りや悲しみみたいな人並みの感情に呑まれているより、尊大で不遜な顔をしている方がこいつらしいし安心だと思ってしまうのだから、僕も大概だ。それを今さらどうこうするつもりにもなれないのも。


「迅、和香とあんたの上司が何を企んでるか心当たりは?」

「さあねえ。当たりはつくけど、詳細は締め上げて聞いた方が早そうだ」

「逃げ出したくせに?」

 そう言ってやると、いつも通り皮肉を返されるだけだろうと思ったのに、ぐっと珍しく迅が言葉を詰まらせた。

「え?」

 ごく珍しい事態に思わず声を上げた僕に、迅は心底嫌そうな顔をして、それから僕の頭をその胸に引き寄せた。

「君にはわからないし、わからなくていい」


 ——少なくとも今は、まだ。


 どこか切実で、やけに似合わない真摯な声に顔を上げたけれど、もうその時にはいつも通りの表情があるだけだった——どころか。


「聞きたいことはたくさんあるんだろうけど、まずはお客様ゲストご対応アテンドが先かな」

 不穏に笑った視線の先にあったのは、黒い影。ちょうどさっき見たようなやたら整って秀麗だけれど、びっくりするくらい顔色が悪くて嫌な気配を全身に漲らせている男が屋上へと続く扉から滑り出てきた。異形バケモノに見えるのに律儀に扉から出てくるあたり、そう大事じゃないのかもしれない。なんてのは、僕の希望的観測に過ぎなかったけれど。

 錆びた鉄のような濁った色の瞳の男の手に、巨大な鎌が現れる。同時に迅も面倒そうにしながらも同じものを握りしめた。いったいどこから取り出してるんだか、一段落したら聞いてみよう。ともあれ、鈍い錆びついてさえいそうな相手のそれと違って、迅の鎌はあくまで鋭利で冷たい輝きを放っている。


 不穏で物騒で嫌な予感しかしなかったけれど、それでもまあ、と隣を見上げながらニッと笑って見せる。


「なんとかしてくれるんだろ? どうやらあんたのご同輩おなかまみたいだし」

「あんなのと一緒にされるのは願い下げだけど、まあ降りかかる火の子は振り払って叩き潰しておく主義ポリシーではあるね」


 そういえば、と思う。不測の事態に後からこいつが突然現れたり、ほぼ不意打ちで余裕綽々のまま相手の息の根を止めることはあっても、こんなに戦闘モードの迅を見るのは初めてかもしれない。


「あんまり君に見せたいものじゃないけどねえ」

「何で?」

「繊細すぎる君が、精神的外傷トラウマになって、お仕事できなくなると困るから」

「ようやく調子戻ってきたじゃん」


 軽口を叩いていられたのは、そこまでだったけれど。

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