3. もっと厄介な人々(類友だらけ)

 白河しらかわとユキが出ていってからかれこれ小一時間。驚くほど他のお客が来ない。まあ大雨だから閑散とするのはそれほど不自然ではない気もするけれど、いくら平日とはいえここまで閑古鳥が鳴いている状態はさすがにまずいんじゃないだろうか。


 づきさんはと言えば、さして動じた風もなくグラスを磨いている。赤や水色が鮮やかで、シャープな形が印象的なそのグラスは北欧の普段使い向けのブランドらしい。


「どうしたの?」

「いや、暇ですね」

「まあ今日分の売り上げの半分くらいはあの人たちが払ってくれたし、そんなに気にしなくてもいいかなって。それにしても雨、ひどいわねえ」


 ざあざあと降りしきる雨は窓ガラスの向こうを白くけぶらせるほどで、台風のようだ。今出たらまたずぶ濡れになるのは間違いない。水難の相はこの夏も健在のようだ。ため息をついた時、またカラン、と入り口のベルが鳴った。雨宿り目当ての客だろうか、とバックヤードのタオルを準備するかと腰を上げた僕の耳に、悲鳴のような声が飛び込んできた。

「助けて——!」

 振り返った先にいたのは、先ほどの僕よりもさらにぐっしょりと全身濡れ鼠の女の子、その後ろには何やら黒い影。

 気がついたのは多分、夏月さんの方が先だった。でも、ほとんど脊髄反射で僕は飛び出していた。


 女の子の上に振りかざされた光る物が、弧を描く三日月のような巨大な鎌だと認識するよりも先に。


 対処できる自信や策があったわけじゃない。それでも、アレは僕が関わる世界のモノで、あんなに華奢な女の子がその身に受けていいものじゃない、という強い確信だけがあったのだ。


 ぎりぎり二つの影の間に滑り込んで見上げた相手は男だ、というのだけはわかった。短い黒髪から雨の雫を滴らせてこちらを見下ろす瞳は鮮やかな金——に微かに濁った赤い色が浮かんでいる。確実に正気マトモじゃない。そうはわかっていたけど、とっさに手が届くところにを守るものは何もなかったから、もう諦めて両手の拳を握って腕で顔を覆う。せめて、あの痛そうなものが後ろで震える子に届くことがないように。

 風を切る音に、反射的に目を閉じた。痛い思いをする経験はずいぶん積んでしまったけれど、それでも慣れることはないから。


 でも、いつまで経っても痛みはやってこなかった。その代わりに聞こえてきたのは獣じみたくぐもった悲鳴だった。恐る恐る目を開けて腕の隙間から見えた光景に、目を開けなければ良かった、と一瞬だけ後悔したけれど、それどころじゃないと気づいて後ろで身を屈めていた女の子の腕を掴んで後ろに下がった。

 ごとり、と鈍い音が響いて、血溜まりが広がる。後ろからひっと息を呑む音が聞こえて、なるべく視界を塞ごうとしたけど、僕の体も強張っていたからあまり上手くはいかなかった。

 目の前で落ちた首が驚いたように僕を見つめて、それからふっと、血溜まりごと消えてしまった。


「え……?」


 思わず声が漏れた。落ちた首も残った体も、そこにあったはずの血溜まりさえも何の痕跡もない。僕の目がおかしくなったのかと、恐る恐る膝のすぐ前に流れてきていた血の痕を探すように床に触れたけれど、ただ木目の微かに雨で濡れた感触があるだけで、まとわりつくような血の匂いも何もなかった。


「相変わらず無茶をするよね、君は」


 呆れたような声に目を上げると、先ほど見たばかりのものと同じような三日月型の鎌を肩に背負った、声と同じくらい呆れた顔がそこにあった。


「……今回は、登場が早いじゃん」

「君の無茶が加速してるせいじゃない?」


 すっと相変わらず非常識に鎌が消えて、腕を掴んで引き寄せられる。シルバーフレームの眼鏡を外した奥の金色は、いつになく何だか真剣な光を浮かべていた。うるさかった心臓の音がその静かな色で鎮まってきて、ほっと息を吐く。押しつけられた胸からは音が聞こえなくて、そういえばこいつ死神だったな、なんてことを改めて確認したりする。

「聞こえないのは君が聞く気がないからでしょ」

「え、そういうもんなの?」

「器官としては、ほとんど人間きみたちと変わらないからね」

消えるのに?」

 こぼれた問いに、ジンが低く笑う。自嘲するみたいな苦い響きに驚いてもう一度顔を見上げると、何だか困惑したような曖昧な笑みを浮かべている。

「消えたのは俺のだよ。知ってるでしょ」

 言われて始めて気がつく。そういえば、以前、僕に襲いかかってきた鬼女みたいなお姉さんの首を絞めた後、その体が跡形もなく消え去ったのを。

「ああやって移動させられるなら、人ごと飛ばしちゃえばいいんじゃないのか?」

「逃したところで原因が解決しないでしょ、それじゃ」

 物騒な解決方法を取るのは死神のルールなのか。ともあれ、助けられたことは確かだけど、そもそもあいつは何者だったんだろう。それに、とようやく思い出した。


「あ、そういえば——!」

「大丈夫よ」


 振り向くと同時に夏月さんの静かな声が応えてくれる。見れば、ずぶ濡れの女の子はまっさらなタオルごと、夏月さんの腕の中に包まれていた。小刻みに震える肩と、噛み締めた唇の赤さが対照的で、見ているこちらの胸が締め付けられてしまう。まああんなのに追いかけられた挙句、惨殺シーンを見せられれば仕方のないことだろう。


 迅の腕から抜け出て、少し離れたところに膝をつく。雨で張り付いた髪は肩くらいの長さで、背格好からして年は僕と同じか少し下だろうか。いろいろ尋ねたいことはあったけれど、夏月さんは小さく首を横に振って、彼女をバックヤードへと促した。

 そのままでは風邪を引いてしまうだろうし、首を落とした金眼の死神はきっと彼女を追いかけていたあの謎の男と同じくらい刺激が強そうだったし。


 まだ少し混乱したままその場にへたり込んでいると、迅が僕の脇をすり抜けてカウンターに腰を下ろした。

「コーヒーひとつ」

「……高価たかいぞ、ここのは」

「さっきの貸しと相殺そうさいで」

「助けてくれなんて言ってないだろ」

「まあ、そりゃそうだね」

 くつくつと笑う顔はもういつも通りの嫌味なそれで、だから僕ももう一つため息をついてから、立ち上がってカウンターの中に入る。

 習った通りにサイフォンに水を入れて、コーヒーをセットする。コーヒー豆を挽くのはまだ修行中なので、予め挽いてあるものを使用した。ガスのスイッチを入れる。ゆらめく炎と、コポコポと湧いてくるお湯の音を聞いていると、さっき見た光景が幻のように思えてくる。

 そうじゃないことは、眼鏡をかけた死神の表情で明らかだったけれど。


 二つのカップにコーヒーを注いで、一つを迅の前に置く。カウンターの内側で、僕も腰を下ろしてカップを手に取ると、迅が面白そうにこちらを覗き込んでくる。


「高いんじゃなかったの」

「バイト特権。それに一杯作るなら二杯も三杯もそれほど変わらないんだってさ」

「へえ、だいぶ板についてきたね」


 いい香りだ、と珍しく素直に褒められて背中がむずむずする。だいたいこいつは嫌味な顔か残虐表現スプラッタなことばかりしているから、こういう穏やかな場所で向き合うことがほとんどなかったせいかもしれない。

「で、あいつ一体なんだったんだ?」

 落ち着かない気持ちを誤魔化すようにそう尋ねると、迅は軽く肩を竦める。

「さあ? 俺は君の危機に気づいて駆けつけただけだし、あいつの正体になんて興味はないねえ。追いかけられてたあの子に聞いてみたら?」

 自分が首を落として遺棄した相手に興味がないなんて、さすがに死神だ。あいつが握っていた鎌と、濁った赤い色に染まっていた金色の瞳。ふと、もう一人の金髪の死神の声が脳裏に蘇る。


 ——何が原因なのかはわからないが、突然人間を殺すようになり、人の世さえも騒がす。俺たちはそういう存在をOOOトリプルオー、と呼んでいる。


「Out of Order……」


 呟いた瞬間、迅がぴくりと肩を震わせた。見開いた眼鏡の奥の眼に、何か見慣れない色が浮かぶ。それは——怒り、だろうか。

「迅?」

 問いかけた時にはその色はもう消えていて、いつも通りの飄々とした顔に戻っている。けれど、どこかその身にまとわりつく気配が尖っている。こいつが不穏なのなんて、いつものことのはずなのに、その違和感が拭えなくて顔を覗き込もうと立ち上がった時、鈴を鳴らすような声が聞こえた。


「あの——さっきは、ありがとうございました」


 振り返ると、夏月さんと夏月さんの服に着替えたらしい女の子がこちらを見つめていた。まだ髪は濡れているけれど、少し落ち着いたらしく血の気を取り戻した頬はふっくらと柔らかそうで、唇も綺麗な桜色に戻っていた。


 夏月さんに促されて、カウンターの向こう側の席についた彼女は可憐で可愛らしい。日頃、顔は良くても性格の歪んだ相手ばかり——以下略、などと考えながらまじまじとその顔を見つめて、ふと僕は気づいてしまった。


 その子の瞳が、わずかに紺がかった——ちょうど夏月さんや僕と同じ色をしていることに。

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