4. いつかまた(そんな日は来ない)
それから一週間ほど、上司からの命令で紛争地帯へと「出張」し、再度彼が明希の元を訪れた時、彼が目にしたのは空っぽの病室だった。
訪れたのは夕刻——消灯時間はまだ随分と先のはずなのに、部屋の中は真っ暗で、彼女の名前が掲示されていたはずの
出産が早まってもう退院してしまったのだろうか。ぼんやりとそう考え込んでいた彼に、顔馴染みの看護師が声をかけてきた。彼女からの預かり物がある、とナースセンターまで引っ張ってこられ、手渡されたのは、きっちりと封のされた、厚い茶色の封筒だった。
「この度は、本当にお悔やみ申し上げます」
「……え?」
間の抜けた声を上げた彼に、看護師は痛ましいものでも見るような目を彼に向けた。彼の不在の間に予定よりやや早く産気づいた明希は、だが容体が急変し、男の子を出産後、そのまま帰らぬ人となったという。
「そんな……」
はずはない、という言葉を何とか呑み込んで、口元を押さえた彼に、看護師は小さく頷いた。
「私も、信じられない思いでいっぱいでした。ずっと安定していたのに、急にあんなことになって……」
でも、と彼女は少し何かを考え込むようにゆっくりと言葉を続ける。
「生まれたばかりの赤ちゃんを抱いて、明希さん何だかとっても幸せそうでした。すごく穏やかで……なんていうか、初めからもうわかっていたみたいに」
どくん、と彼の心臓がおかしな音を立てた。明希は死にたくないと、そう彼に願ったはずだった。なのに——。
「元々手元では育てられないから、と里親を探されていたことが、不幸中の幸い……というにはあんまりですね」
「……里親?」
「ええ、当日も駆けつけてくださって。手続きも全て済んでいたそうですから、そのまま引き取っていかれましたよ」
そんな馬鹿な、と思わず呟いた彼に、看護師が怪訝そうな視線を向けてくる。だがその動揺を友人を失った悲しみと受け取ったのか、彼女はもう一度憐れむような眼差しを向けてきた。
「改めて、心からお悔やみ申し上げます。あなたがいらっしゃるようになってから、明希さんもとっても楽しそうな明るい表情をするようになっていたのに。本当に、残念です」
それだけ言って、彼女は一礼をして去っていった。
茶色い封筒を握りしめ、彼はしばらくそのまま呆然と立ち尽くしていた。やがて、身の内に湧き上がる激しい感情に気づいて歯を食いしばる。そうしなければ、その場で叫び出してしまいそうだった。
その激情を何とか抑えつけて、足早に屋上へと続く階段を上がる。幾度も侵入経路として利用したそこは、今は鍵がかかっていた。強引に扉を押し開けると、外は穏やかに晴れて鮮やかな夕陽が空を朱く染めていた。端まで歩いていって、柵にもたれるようにその場に座り込む。
彼がしてきたことは一体何だったのだろうか。多くの人間をその手にかけて命を狩り、小瓶に閉じ込めた。それもすべて彼女の願いを叶えるため。そのはずだったのに、彼女の命脈は唐突に尽きてしまった。
突然、集めていた砂粒がすべて手のひらからこぼれ落ちてしまった。そんな感覚に囚われて深く息を吐く。それから、封筒の封を切った。中から出てきたのは、彼の渡した手帳だった。そこには、几帳面な字で多くの凄惨な事件を引き起こした彼の「被害者」の来歴が記されている。ふと、それぞれの名前の横に、小さな丸がついていることに気づいた。ページを
同時にはらりと一枚の紙が手帳から滑り落ちた。嫌な予感しかしなかったので、拾い上げるかしばらく悩んで、それでも一陣の風がそれを攫っていきそうになる直前で拾い上げた。そこには、手帳と同じ几帳面な字で、短い言葉が記されていた。
優しい死神さんへ
色々考えたのだけれど、私はもう大丈夫。
だから、どうかもう無理はしないでね。
たったの三行。だが、彼には彼女が何を考えたのか、明確に伝わってしまった。
それがいつだったのかは今となってはもうわからない。とにかく彼女は気づいたのだろう。彼女の命を長らえるという約束が、彼が余命の長い悪人を狩ることと関係していることに。
手帳を見れば明らかだが、彼はそれまでほとんど積極的に「狩り」をしてこなかった。その必要もなかったし、他の死神たちのように、人を殺すことに快楽を見出せなかったからだ。彼が余命を多く持つ若い「悪人」を狩り始めたのは、彼女と出会ってから。
だが、彼女は一つ、大きな誤解をしていた。彼が心優しい死神で、だから人殺しなど望まないだろうと。それ故に、
「アキ、君は馬鹿だなあ」
どれほど取り繕ったとしても、彼は人殺しを
彼の差し出すコーヒーの意味にさえも気づいていたのかもしれない。元々彼が見た彼女の寿命は残り半月ほど。それから何度かはそのコーヒーを飲むところを確認していたから、半月は延びた。だが、おそらく彼女は、それ以上は飲まなかったのだろう。
愚かにも死神の心などを思いやって、自分が生きる
そんなことを彼は微塵も望んでいなかったというのに。
ぐしゃりとその小さな紙切れを握り潰して立ち上がると、懐からいくつもの小瓶が零れ落ちた。僅かな光を受けて、きらきらと輝くそれを一瞥し、革靴で踏み潰す。
かしゃんと儚い音を立てて砕けたそれらを、さらに念入りに靴底で砕くと、やがて小瓶の欠片ごと灰になり、風に吹かれて跡形もなく消えていった。彼が狩ることで失われた人間の未来も、糧となるべき余命も、全てが無為に帰す。それでも彼の心はそんなことには、わずかも震えもしないのに。
ただ、彼女を失ったことに、まるで心臓が血を流しているかのように、胸を抉られる。
「……あれ、馬鹿だったのは俺の方かな」
彼女の命を
運命が彼女を攫ったのは、彼女の純粋な心がそうあり続けるためには、そうするしかなかったからではないのか。長く生きれば、その純粋さも失われる。まして、汚れた魂の
そんな風に、神だか何だかが判断したのだとしたら。
「冗談じゃ、ないよねえ」
懐から煙草を取り出して火をつける。人間たちにはめっきりと忌避されるようになったその悪癖は、健康被害など考えずに済む死神たちの間では、まだごく当たり前のように受け入れられている。
紫煙をくゆらせながら、彼はぼんやりと星が輝き始めた空を眺める。もう彼女はいない。だから悪人どもの「狩り」を続ける必要はない。今まで通り、のらりくらりと暮らし、時折老人たちからその余命を掠め取ればいい。
——けれど。
「俺はこれからも屑みたいな連中を狩り続けるよ。平然と、いくらでもね」
誰もいないその場所で、もういない彼女に誓うように。
「いつかまた君に出会えた時のために。俺が人殺しとして君を救うことに、君が何の悩みも苦しみも抱かないような、残酷で屑みたいな死神としてね」
いつの間にか日は既に暮れ、街には明かりが灯っている。かけていたシルバーフレームの眼鏡を外すと、
「さあ、お仕事だ」
何もない空間にすい、と彼が手を振ると三日月のような鋭く大きな鎌が現れる。本当は、そんなものを誇示する必要はないのだけれど。
「この方が、雰囲気出るよねえ」
眼鏡を懐にしまって、ニヤリと死神らしく不吉に笑った彼は、そのまま身を翻して闇の帷が下りた街へと消えていった。
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