Ch 2. Summer Vacation

1. 地獄で仏(それとも?)

 大学生になって初めての夏休みがやってきた。受験に追われていた去年とは違い、同級生のみんなはバイトだサークルの合宿だ、あるいは大学デビューでできたてほやほやの彼氏彼女と夏の楽しい思い出づくりだとそれぞれなかなか忙しそうである。


「……不毛だ」

「何が? その毛ばたき、新調したばっかりでなかなかいい触り心地だと思うんだが」

 相変わらず本物だか贋作がんさくだかわからない壺を丁寧に磨きながら笑うのは、僕が居候している骨董店の店主、すず鹿だ。和服姿にもともと短かった髪をさらに刈り込んで、どこでつけてきたのか薄いながらも頬に傷まであるその様子は、完全にの人だ。

「あ、凪くんそういう視線は傷つくぞ。これは可愛い猫ちゃんにつけられたんだ」

「比喩ですね?」

「察しが良いことで」

「わかるわそんなもん!」

 こんな男でもそれなりに相手がいるのに、僕ときたら怪しい骨董店で怪しい美術品のほこりを払う日々。僕の心にも埃が降り積もってしまいそうだ。

「そういえばここ数日あいつの姿を見てないが、か?」

 出張、の二文字に何やら意図のありそうなアクセントがつけられていたけれど、よくわからなかったので首を傾げる。

「知りませんけど、出かける前に何か外に出るなって言われて、それっきりですね」

「ふーん、あいつにしちゃあ過保護だなあ」


 ニヤニヤと笑う顔が不愉快だ。鈴鹿はこの春以降僕が出会った人々の中では比較的マシな方だが、それでもカタの商売人とは到底言えないし、この男のせいでこうむった些末ながらも地味にダメージを受けた面倒事の数々はもう片手の指では足りない。とはいえ、居候の身だからあんまり大きなことは言えないけれど。

「あ、そういえば今月分の家賃」

「え、まだ払ってませんでしたっけ?」

「いや、あいつから三ヶ月分まとめてもらってる」

「え?」

「いや、言ってみたら二重払いしてくれるかな思ったら、本当に受け取れそうだな。凪くん、ちょっと隙だらけすぎないか?」


 流石のクズムーヴだ。隙を見せたらやられる。


 ため息をついて毛ばたきを放り出す。家賃は払っているとのことなので、あんまりタダ働きもよくない。宿題でもやっておこう。そう決意したけれど、鈴鹿は気にした風もなくこちらを見やってニヤリと笑う。

「ま、学生の本分は学業だからな。でも本当に、オレオレ詐欺とかに遭わないように気をつけろよ」

「電話かけてくるような身内いないんで大丈夫ですよ」

 しれっとそう答えると、鈴鹿が目を見開いて、気まずそうに視線を逸らした。こういうところは、まあ根はいい奴なんだろうな、とは思う。


 やむなくフォローの言葉をかける前に、鈴鹿はがしがしと頭をかいてふところから財布を取り出し、ひらりとお札を僕の前に差し出してきた。しかも、コーヒーとちょっとしたスイーツ代くらいのお小遣いかと思ったら、万札だった。びっくりして固まっていると、鈴鹿は綺麗にお札を折り畳んで手のひらに握りこませる。

「ちょ、鈴鹿さん……⁉︎」

「悪かったよ。そういえば、まだ寂しいお年頃だったよなあ」

 そのままでかいガタイに抱き寄せられそうになって慌てて逃げ出す。この男、わざとやってるのか腕力が馬鹿みたいに強いので、前回同じことをされた時は背骨が折れるかと思った。大袈裟じゃなくて、加減を知らないのだ。

「凪くんが細すぎるんだろ? 女の子だったらこうもうちょっとむっちり柔らかい方が俺としては——」

「前提がおかしいし、マジでそういうのいらないんで。とりあえずお小遣いはありがたくいただいておきます」

 何とか大男の抱擁をかわして、ソファの上に放りっぱなしだったボディバッグを掬い上げて店の外へと飛び出す。後ろから含み笑う声が聞こえてきたから、まあわざとやっているんだろう。何だかんだ、甘やかされている自覚はある。


 ともあれ外はまだ朝早いのに、じっとりと茹だるような暑さだった。近くの小さな公園から流れてきているのか、ミーンミーンという夏の風物詩の声も少し遠くから聞こえてくる。

 とりあえず、チェーンのコーヒーショップにでも行くかと路地を曲がった瞬間、ガツンという音がした。ちょっと遅れて痛みがきて、殴られたんだな、と他人事みたいに認識する。こういう事態が多すぎて、どこかで感覚を分離する癖がついてしまっているらしい。

 すかさずやってきた次の一撃をなんとか身をよじってかわす。がつん、と響いた次の痛そうなそれは、血走った目をした男の拳が閉じたシャッターに叩きつけられる音だった。

 結構な騒音だったから、近所の誰かが顔を覗かせるか通報でもしてくれることを祈ったけれど辺りは静まり返っている。聞こえるのは走ってきたわけでもなさそうなのにやけに荒い男の息だけ。なるべく刺激しないように、両手を上げてそうっと問いかける。

「何かご用ですか?」

かね

 シンプルなご要望だ。この辺りの治安悪すぎじゃないだろうか。だいたい鈴鹿の客だって堅気じゃなさそうな連中も多いが、それでも普通の客も来ているようには見えるのに。


 これが、僕のニュー日常ノーマル生活ライフだ。


 うんざりしている暇もなく、男が僕の襟首を締め上げようと手を伸ばしてくる。僕だっていい加減経験値を積んできていたから、その手を振り払ってぐっと睨みつけた。

 ここのところしばらく篭りがちだったから、外に出た解放感を邪魔された苛立ちと、せっかくもらったばかりの小遣いが何だかんだ惜しかった気持ちもあったかもしれない。つまりは、ちょっといつもより警戒心とか慎重さが足りなかったわけで。


 男が懐からバタフライナイフを取り出した時、ようやく本能が警告を発する。どんな形であれ、刃物を持って歩く奴はヤバい。それを人に向ける奴はもっとヤバい。慌てて駆け出そうとしたけれど、竦んだ足がうまく動かず、その隙に喉元を掴まれて後ろのシャッターに叩きつけられる。

 ぐっと呼吸が詰まって、何とか振り解こうとその腕を掴んだけれど、丸太みたいな腕はびくともしない。

「よく見ると変わった色の目をしてんなあ。えぐり取って飾ったら綺麗かもな?」

 ニィッと笑った顔は、完全にサイコパスな感じで、僕はいい加減自分の危機管理能力のなさとこの体質にうんざりした。そういえば、外に出るな、と言われていたことも今さらのように思い出して。


 ゆっくりと近づいてくる刃物があまりに非現実的で、目を閉じるのもままならない。そのまま、本当に刃先が眼球に触れる——その直前、不意に喉への圧迫が消えた。同時に目の前にぱっと赤い色が散る。反射的に身を引いたけれど、頬にかかった鉄錆てつさびのような匂いに慌てて口元を押さえる。

「朝から随分お盛んだな」

「馬鹿言うな、来るならもうちょっと早く——」


 来いよジン、ともう呼び慣れてしまったその名前を口にしようとして、けれど目を上げた先にあった全然違う色合いに思わず声を失った。


 夜そのもののようなあいつの黒い長髪とは対照的な、ビルの隙間から降ってくるささやかな太陽の光でさえ鮮やかにきらきらと光る短い金髪。カジュアルなTシャツの上からパンツまで、淡い色で綺麗にまとめられていて、大きめのバックパックを背負った姿はパッと見、海外旅行客だ。


 ——その手に馬鹿でかい、そればかりは見慣れた三日月型の鎌を握ってさえいなければ。

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