3. 勤労状況と報酬について(気づくのが遅過ぎる)

 それから数週間、彼はさしたる感慨も感動もなく、毎日のように悪業を犯し続ける人間を淡々といた。今も、何人もの女を食い物にした挙句、都合が悪くなれば下っ端に始末させていた男が、目の前で唖然とこちらを見つめていた。

 彼はすい、と手を振って何もない空間から三日月のような大きな鎌を取り出す。


「何か言い残すことがあれば、一応聞いてあげるよ?」


 大鎌を肩に担いでそう言った彼に、男はがたがたと震えて座り込んだまま、ずりずりと後ずさった。女たちには、まるで残酷な神の如く傍若無人に振舞っていたというのに。後ろにはもう壁しかないことに気づいて、男の顔がさらに醜く歪む。


「な、何なんだよお前⁉︎」

「ご覧の通り、死神さ。他に言い残すことがないなら、もうおしまいにするよ?」


 鼻水を垂らして泣き出しそうな男の顔など、さすがに不快なだけだった。彼は無感動な表情のまま、鎌の刃を壁と男の首の間に滑り込ませ、ぐい、と手前に引く。死神の鎌の切れ味は物理法則とは無縁に、あっさりと骨も肉も断ち切り、ごとりと黒い塊がその胴から離れて落ちた。

 首からも胴からも、赤い色が流れ出ている。なるべくそれらを踏まないようにして、彼は恨めしくこちらを見上げる顔の口に、小瓶を突っ込む。ふわりと白く濁った光がそこに閉じ込められた。

 その光は濁ってはいたが、強く濃い。光の強さは余命の長さに比例する。あれほどの悪行を犯している人間でも、長生きはできるのに——とふと、らしくもない感傷と苛立ちが湧いてきた。


 こんな悪人でも、彼が狩りさえしなければ、もっと長生きしたことだろう。翻って、彼女には、たった二十四年しか定められていなかったというのに。


 胸の内に沸いた苛立ちのままに、地に転がっているその生首を蹴り飛ばすと、その拍子に彼の黒い革靴にまで血が跳ねた。幸いにも防水加工のおかげですぐに流れ落ちたけれど。

「さて、まだ早いし、今日は届けにいってみようか」

 むかむかと胃もたれのように腹の中に渦巻く、誰に対してのものかわからない怒りと焦燥をねじ伏せて、あえて明るくそう声に出して呟いたが、それはひどく空虚に響いた。



 初めは深夜に、数日おきに闇に紛れるようにして彼女の元に訪れていたが、やがて忍び込むのも面倒になっていった。今では「余命入り」のカフェインレスのコーヒーと花束を手土産に、まるで見舞客のように日中に訪れるようになっていた。


「綺麗ね」


 花束を受け取ると、いつも彼女は少し驚いたように目を見開いて、それからふわりと心の底から嬉しそうに笑う。彼が理由を尋ねると、花などもらったことがないから、と恥ずかしそうに答えた。それで、なんとなく毎回花を持参するようになっている。

「でも、こんなに毎回いらないよ?」

「真面目にお仕事に励んでくれるお礼だよ。せっかく買ってきたんだから、ちゃんと飲んでくれよ」

 そう言ってサイドテーブルにコーヒーを置く。明希はそちらにちらりと視線を送ってから、どこか曖昧に笑う。

「いつもありがとう……。あとでいただくわ。迅は飲まないの?」

「あいにくコーヒーより紅茶党でね」

 今は金の双眸を隠すための眼鏡をかけているから、明希の余命はわからない。人工物を通すと不思議と視えないのだ。けれど、少なくとも彼女に不調の翳りは見えない。はたから見れば仲の良い友人が訪れているように見えるだろうか。


 数日おきに、花を持って彼女をおとなう。それはまるで——。


「迅?」

「……いや。そういえば、一週間ほど出かけなくちゃいけなくなったから、出産の日には来られないかもしれない」

「そうなの? まあ別に立ち会ってもらうわけでもないしね」

「さすがにぞっとしないね。縁起が悪すぎるだろう」

「どうかしら、そこまでいったらむしろラッキーじゃない? ゆりかごから墓場まで見守ってもらえそう」


 相変わらず平然とそんなことを言う彼女に流石に呆れて顔を顰めると、明希はこたえた風もなく、くすくすと笑う。それから、彼をじっと見つめて、手招きする。首をかしげながらベッドの端に腰掛けると、眼鏡を取り上げられた。じっと彼女の黒い瞳が彼の金のそれを覗き込む。どうしてだか、余命は見えなかった。

「綺麗ね」

 先ほども聞いたのと同じ言葉を、同じように繰り返す。

「ねえ、迅」

 間近に顔を寄せたまま、明希が彼の名を呼ぶ。

「何だい?」

「子供の名前、何かいいのないかな?」

「……まだ考えてなかったのか」

「候補はいくつかあるの。でも決定打がないっていうか……」

「例えばどんな候補が?」

「なんとなくだけど、私がこんな人生でしょう。だからせめてこの子には穏やかな、そんなイメージの名前がいいかなあ、なんて」

 波瀾万丈な、まさに荒波のような人生を乗り越えてきた彼女の子供に相応しい名前。静かで、穏やかで——ふと、一つの文字が彼の脳裏に浮かんだ。その手から眼鏡を取り戻し、掛け直しながら、耳元に口を寄せる。


「なら——なんてどうだい?」


 何かの秘密を共有するようにそう囁くと、明希は少し考え込んで、それからふわりと綺麗に笑った。

「いいかも。候補に入れておくね」

「何だ、決まりじゃないのか」

「だって、やっぱり顔を見てから決めないと」

 赤ん坊の顔を見て、そんなにも変わるものだろうかと思い、ついでにその子供は、父親にも似ているのだろうかと余計なことを考える。自分でも思って見なかったほどに無造作に問いが口から溢れ出た。

「何でそんな男と一緒にいたの?」

 そんな、と評しても明希はもう彼の能力について嫌と言うほど知っているせいか、そこについては何も言わなかった。ただ、少し困ったように笑う。

「そんなに悪い人じゃなかったのよ。落ち着いている時は優しかったし」

「そういう男に引っかかった女の子が言いがちな台詞だね」

「意地悪ね……。わかってますよ、ダメ男だったって。でもね、この人、私が離れたらひとりぼっちになっちゃうんじゃないかなって。同じことを他の人にも繰り返して、しまいにはどうしようもなくなってしまうんじゃないかって」


 そう思ったら、そのそばを離れられなかったのだと。

 まるでそれは、人々の罪を贖うために犠牲になった、どこかの国の神の子のように。


「……まあ、向こうが勝手にいなくなっちゃったんだけど」

「もう、その辺はちゃんと見極めるんだよ。君を必要とし、大切してくれる人を最優先に、ね」

 だって君はもう一人じゃないんだからね、と何気なくそう言った彼の顔を、明希は何か不思議なものでも見るように、まじまじと見つめる。

「どうかした?」

 そう尋ねた彼に、明希はしばらくそのまま彼を見つめ続けていたが、やがて、そうね、と頷いた。

「本当に、そうね」

 どこまでも静かなその響きに彼の心臓がおかしな鼓動を打った。心の奥底までを見通そうとするような透き通ったその眼差しに、それまで感じたことのない、黒く靄がかかったような奇妙に落ち着かない感覚を覚えた。不意に迷子にでもなってしまったように。


 その正体に見当もつかないまま明希を見つめ返したが、彼女はただやわらかく微笑むばかりだった。

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