2. 契約条件の提示と締結(きっと後悔する)

 ずっとじゃなくていいの、と彼女は言った。ただ、おなかの中の子が無事に生まれて、せめて独り立ちできるまで、育ててあげられれば、と。それは人並で月並みなごく普通の願いで、けれど彼女の生い立ちを思えば、それこそが何よりも彼女にとって価値のあることなのだろうと容易に理解できてしまった。

「贅沢なんてできなくてもいい。大変なのはわかってる。でも、きっとこの子は私を必要としてくれる。大きくなったら離れてくれていい」


 でも、一度くらい、ちゃんと誰かを必要として、必要とされる、そんな生活をしてみたいの、と。


 それは言葉だけなら依存相手を求めているようにも聞こえたが、その表情はただ純粋な希望と慈愛に満ちていて、だから彼女はきっと良い母親になるだろうと、多くの凄惨な人生も見てきた彼は思ったのだった。そうして、得てして彼のそういう勘は外れない。


 ——寿命じかんさえあれば。


 明希は期待に満ちた眼差しで彼を見つめている。まるで、彼がを知っているかのように。けれど、それは彼にとって大きなリスクを伴う行為だ。彼女のためにそこまでする理由がどこにある? そう自分に問いかけて、問いかけている時点でもう負けなのだと、内心でため息を吐いた。

「死神と契約する覚悟があるのかい?」

「私は何を差し出せばいいの?」

「俺に従属すること——俺が何かお願いしたら、必ずそれを聞くこと」

「……参考までに、最初の『お願い』が何か聞いてもいい?」

 どんな無茶なお願いをされるのかと、その瞳は明らかに躊躇いを浮かべている。そして、彼の理性は、ここでやめておいた方がいい、と明確に告げていた。


 人間には寿命が定められている。それは、定められているのだ。彼女の寿命がまもなく尽きるのは、それが、だ。


 そうわかっていたが、彼は懐から一冊の古びた手帳を取り出して、彼女に手渡した。彼女は少し首をかしげながらも、彼が促すままにそれを開く。そして、驚いたように目を見張った。

「……これ、全部あなたが——殺した人たちの記録?」

「それが俺のお仕事だからね。ただ、俺はあんまり事務処理が得意じゃない。だから、君にその記載をお願いしたい」

「あなたが殺した人間の概略と、罪の詳細を?」

「そう」

「胎教にはよくなさそうねぇ」

 まもなく生まれてくる子供をそのはらに宿した状態で、ひたすらに死を記録し続ける、というのは、どう考えても妊婦としては不健全だろう。

「だろうね」

 片眉を上げ、口の端だけで笑みを浮かべて肯定を示した彼に、明希は無意識なのか、その細い指で唇に触れながら視線をさまよわせた。それからゆっくりと顔を上げて、彼の金の双眸そうぼうをまっすぐに見つめる。

「でも、あなたと契約すれば、私の命を約束してくれる?」

「本当はイレギュラーだけどね。できるかできないかでいえば、できるよ」

 断ってくれればいいのに、と頭の片隅でそう考えていた彼の内心など知らぬげに、明希はややしてこくりと神妙な顔で頷いた。その表情は確かに戸惑いを浮かべてはいるものの、怯えは見えない。彼女が自分に従属する決断をしたことを、彼自身も喜んでいるのか残念に思っているのか、判別がつかなかった。


 彼は明希の腕を取り、おもむろに懐から銀色に鋭利に輝くナイフを取り出す。そうして、一息にその手首を切り裂いた。突然のことに、明希はただ呆然と深く切り裂かれた自分の手首を見つめている。後悔してももう遅いよ、と内心でだけ告げて、彼は自らがつけたその傷に唇を寄せる。


「アキ、君を俺の従属者Followerとして認める。せいぜい俺の役に立っておくれ」


 傷口がふわりと光を放ち、流れ落ちる血がこぼれてシーツを汚す前にくうにかき消える。細いその手首には、薄く赤く盛り上がったあとだけが残っていた。明希はその傷痕をまじまじと見つめている。

「不思議……」

「俺が死神だって実感した?」

「そうね」

「じゃあ初仕事だ」

 彼はそう言って、懐から一つの小瓶を取り出して彼女に差し出した。手のひらに収まるくらいの小さなその瓶の内側では、何かが淡く光っている。明希は受け取って、そうして小さく声を上げた。彼と契約した者にだけ読み取れる、膨大な量の「獲物」の情報を注ぎ込まれて。


岩城いわしろ 義明よしあき。九十八歳。埼玉県某市出身。幼少期は戦後の混乱の中、家族を失うが、友人及び師に恵まれ、のびのびと育つ』


「ずいぶん平和な感じね?」

「大往生した爺さんの魂だからね。俺の取り分も少ないし、ほとんどただ看取っただけだから、今回は名前と出身地と『大往生』って書いといてくれればいいよ」

 明希の視線が手帳に落ちている間にそっと小瓶の中身を紙コップに、さらに枕元においてあったペットボトルの麦茶を注ぐ。

「はい」

「……え?」

「妊婦さんは水分多めに取った方がいいんでしょ?」

「うん、そう言われてるけど……」

 明希は唐突に渡された紙コップにやや戸惑った様子を見せていたが、それでも一息に飲み干した。それから、ふと呟く。

「麦茶って美味しいよね」

「カフェインレスだし、完璧だね」


 小瓶の中に入っていたのは、魂そのものではなく、その魂を刈った時に残った「余命」だ。いかなる仕組みでその小瓶に概念としか思えない曖昧なものが閉じ込められるのか、その原理は不明だ。それでも、いずれにしても、死神はその淡い光とも液体ともつかないそれを啜って生きる。

「迅?」

 彼の視線に気づいたのか、明希が彼を見上げ、怪訝けげんそうに眉根を寄せる。その様子は先ほどまでと何も変わらないように見えるが、その本質の一部は、先程の契約によって決定的に変質してしまっている。


 従属者Followerとなった人間の特性は二つ。


 死神が獲物と定めた相手、もしくはその命の残火を閉じ込めた小瓶から、生前の情報を読み取ることができる。

 そして、もう一つは、死神が獲物の余命を分け与えることで、本人の寿命を引き伸ばすことができる。それは、せっかく手に入れた子飼いの手先が、あっという間に死んでしまっては困るからだろう。


 だが、余命を摂取した明希の寿命はほとんど伸びていない。多く見積もっても数時間といったところだ。あの老人に残されていたのは数日だったから、明希のそれが二時間延びたとしたら、秒換算で七千二百秒。一日は八万六千四百秒だから、三日で二十五万九千二百秒。「原料」のおよそ二パーセント程度しか還元されないことになる。恐ろしく効率が悪い。


 実際どれほどの「余命」が死神の命を繋ぐために必要なのかは、彼自身にもよくわかっていなかった。だが、今回のように、老衰で死ぬ人間の、残り僅かなそれを、月に一度摂取するだけでも平然と生きていけるから、かなり変換効率はいいのだろうと思っていた。だが、あくまで死神にとっては、という限定事項だったことが明らかになってしまった。


 死神は、日々の糧として、老い先短い人間の命を刈り取ることを許されている。さらに、それとは別に「世界の秩序を守るため」というよくわからない理由のために、悪人の命なら狩っても良い、という規則がある。「悪人」の判断基準は明確にはされていないから、詳しいことは不明だが、あまりに理不尽に狩り過ぎた死神の姿を急に見なくなることがあるから、まあと彼は考えている。

 それに、よほどのことがなければ無闇に悪人を狩る理由も、必要性もないのが現状だった。

 だが、わずかな余命では彼女の寿命が伸びないとわかってしまった今、彼は彼女との約束を果たすために、多くの人間をに殺さなければならないのだ。彼女との契約を履行するためにはどれほどの命を——しかも余命の多い者を狩らねばならないのかと考えると、今さらのように後悔が湧いてきた。


 じっと彼女の顔を見つめたまま、小さく彼がため息を吐くと、ほんの少し不安げにその眉が寄せられる。

「私の顔に何かついてる?」

「いや、可愛いなあと思って」

 にっこりと笑ってそう言ってやれば、素直にその頬が真っ赤に染まった。まもなく母親になるはずの女性にしては、あまりに物慣れない様子に、ざわざわと不穏な音を立てた心に蓋をして、密かに胸の内でこれからの算段をする。


 自分の命を繋ぐために多くの犠牲が必要なことを、彼女は理解しているだろうか。


 一瞬だけ、彼はそんなことを考えて、小さく頭を振る。どちらにせよ、契約は成立してしまったのだ。本人が望むと望まないとに関わらず、死神かれには従属者を義務があった。

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