Episode 0. いつかまた奈落の底で会う君のために

1. 不幸な出会い(過去は変えられない)

 ああしまった、と思った時にはもう遅かった。通常案件レギュラーケースの回収を終えて、白く光る小瓶を持って部屋を出た時に、うっかりその相手と目が合ってしまった。

「……何、してるんです?」

「いや別に」

 彼自身、我ながらまずい対応だと思ったが、どうしてだかいつもの軽口が出なかった。ここは産婦人科病棟、基本的には看護師と医師と妊婦しか出入りしない。面会時間も過ぎたこの時間に、黒いコートに身を包んだ男が歩き回るには、あまりに不自然な場所であった。


 今回に関して言えばやましいところは何もなかったから、そのまま何事もなかったかのように立ち去ればよかったのだ。だが、暗闇に佇むその相手は、さして驚く風でもなく彼をじっと見つめ、首をかしげた。


「もしかして、死神さん?」


 唐突に本質を言い当てるその言葉に、思わず呆気に取られていると、相手はあら図星なの、と目を丸くする。

「……何でそう思うんだい?」

 なるべく平静を装ってそう尋ね返すと、彼女は間近に歩み寄ってきて、不意に彼がかけていたシルバーフレームの眼鏡を取り上げた。ただただ驚く彼に、彼女は悪戯に成功した子供のようにくすりと笑う。

「だって、こんな夜中にそんな黒ずくめの格好で、おまけにその眼。どう見ても普通じゃないでしょう?」

 変光グラスを取り上げられた彼の瞳は、闇の中でも鮮やかに光る金。人ではありえないその色に、普通の人間は怯えて固まるか、一目散に逃げ出す。だが、彼女はただ平然とこちらを見返している。なぜ、眼鏡を取る前にそれに気づいたのかはわからなかったが、あまりに動じないその様子に、却って彼も調子を取り戻してきた。

受胎じゅたい告知こくちをしにきた天使かも?」

「あいにくと、ここにいるのはちゃあんと人間の父親がいる女性ばかりよ」


 それがまともな男か、ろくでなしかは別としてね、と彼女は少しだけ遠い目をして言う。それだけで、彼女もまた何がしかの訳ありなのだろうと想像がついた。


「わざわざ声をかけてきたってことは、死神に何か御用かい?」

 眼鏡を取り戻しながらそう尋ねると、彼女は表情を改めて、静かに問い返してきた。

「私、死ぬの?」

「さて、どうだろうね。出産予定日はいつ?」

「来月の初めの頃」

 あと一月というところだ。普通は出産当日に陣痛が進んでから入院する。一ヶ月も前から入院していると言うことは、何らかのリスクを抱えているのだろう。

「何かあったのかい?」

「切迫流産でね。もうダメかと思ったんだけど、何とか持ち直してくれて……こうして歩けるまでに回復したの」

 すごいでしょう? と愛しげに腹部を撫でながら言う様子は、希望に満ち溢れている。


 その翳りのない笑みに、けれど彼はほんの僅か、気づかれない程度にそっと眉を顰めた。なぜなら、彼には見えてしまっていたからだ。腹のあたりに淡く光るもう一つの小さな命もろとも、彼女の寿命がそう長くないということが。


 不審を抱かせないように、そして、可能な限り優しく見えるように微笑んで、そっと頬に触れた。その瞬間、彼女に関する情報が流れ込んでくる。


日向ひむかい 明希あき。二十四歳。東京都某区出身』


 明るい字面の名前と、天真爛漫に見えた雰囲気とは裏腹に、彼女の人生は、なかなかに壮絶だった。


『生まれてすぐに両親が相次いで病に倒れ、死別。母方の祖父母に引き取られるが、三歳の時に交通事故に遭う。本人だけが生き残り、施設に預けられた。その後、奨学金等を利用し、大学に進学、卒業後、某大手企業の研究所に勤務するが、付き合っていた男性から頻繁に暴力を受けながらも交際を続け、妊娠。現在は切迫流産の恐れで入院中。交際していた男性は妊娠発覚後、消息を絶っている』


「……君、本当に産む気なの?」

「だって、子供に罪はないでしょう?」


 今度こそはっきりと顔を顰めた彼に、彼女はにっこり笑って肩をすくめる。彼が何をどう読み取ったのか、まるで当然のように理解して。つける薬もない、と彼は深いため息を吐く。

「もう少し自分を大切にした方がいいんじゃないかい?」

「あら、死神なのに優しいのね」

「俺は紳士だからね」

 とりあえずその冷え始めた肩を抱き、病室を尋ねてから歩き出す。明希の病室は個室だった。

「相部屋がどこもいっぱいで。本来なら別料金なんだけど、病院の都合だからって差額なしなの。ラッキーでしょ?」

「ずいぶん前向きだね」

「暗くなっていたって、いいことなんてないもの」

 ゆっくりとベッドに上がると、少し疲れた様子で横になる。よく見れば、枕元のわずかな明かりでもわかるほどにその顔は窶れて蒼白い。二十四歳というデータが正確なことはわかっていても、それよりは遥かに幼く見えた。

「ねえ死神さん」

「俺の名前は迅だよ。疾風迅雷の迅」

「ずいぶん格好いい名前ね」

「だろう? 君は?」

 知っていたけれど、一応そう尋ねると彼女はもう一度首をかしげた。

「知ってるんじゃないの?」

「……どうしてそう思うんだい?」

「だって死神なんでしょう?」

「死神なら、世界中の人間全員の名前を把握しているとでも?」

「でも、リストとかがあるんじゃないの? じゃなければ、間違えて連れて行ってしまったりするんじゃない?」

 彼女には彼女なりの世界観というか、死生観があるらしい。実のところ、彼女の認識はさほど事実から離れていなかった。けれど、それを語ることは許されていなかったので、彼はただ肩をすくめて見せる。

「まあ、いずれにしてもハジメマシテの後は、お互い名乗るのが普通じゃないかな」

「あら、普通っていい響きね。私は日向明希。日に向かう、明るい希望って書くのよ」


 にっこりと笑ってそう答える笑顔には一点の曇りもない。どうしたら、そんなに純粋な笑顔を浮かべられるのだろう。あれほどに苛酷な過去と、ろくでなしの男の子を孕むという厄介な現在いまにおいてさえ。

 実に彼らしくないことだが、じわり、と何か心の奥が疼くのを感じた。


 それでも、そんな感情に見て見ぬふりをして、彼はただ穏やかに優しく笑って見せる。

「いい名前だね」

「ありがとう。ねえ、迅。私、お願いがあるの」

「何だい?」

「あのね、まだ死にたくないの」

「そりゃあ、人間は普通みんなそうだろうね」

 揶揄やゆするように言った彼に、けれど明希は少し困ったように首を横に振った。しばらく何かをためらうように視線を宙にさまよわせて、それからふと彼の手を握る。

「温かいのね」

「冷たいと思った?」

「死神も人と変わらない?」

「まあね」

「恋をしたりもするの?」

 唐突な問いに、咄嗟に答えあぐねていると、彼の戸惑った顔が余程におかしかったのか、明希は思い切りふき出した。大きなお腹を抱えて、笑い続けるその顔は、それでも、あまりにも綺麗で、どうしてだか儚く見えた。


 恐らく、そんな些細なことが、全ての始まりで、終わりだった。

 取り返しがつかないほど後になってから、彼はようやくそう気づいたのだった。

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