8. 契約内容及び締結条件について 〜後編〜

 包丁男がどういう末路をたどったのかについては、朝ごはんが入らなくなるのでもう思い出したくもない。というか、実際のところ、ユキが置いていった高級で美味しそうなパンでさえも、その日の午前中に僕の食欲を回復するには至らなかった。


 奇妙に低い声で凄んだ死神は、笑顔のままいつも通りの「仕事」をこなし、あの小瓶に白い靄を閉じ込めると意気揚々と僕を抱えて——跳んだ。それを跳ぶと言っていいのか、他の言葉で表すべきなのか、僕にはわからなかったけれど、気がつけばどこかの屋上にいた。街がよく見下ろせる場所で、むせ返るような血の匂いから解放されて、ようやくほっと息を吐く。


 鳴神は、フェンスにもたれて懐から何かを取り出すと、ぺりぺりと表面を剥がしてそれをくわえた。何かと思えば棒付キャンディロリポップ、それもよく見るメーカーのあれじゃなくて、どこのものともしれないようなやつ。

 訝しむような僕の視線に気づいたのか、振り返ってニヤリと笑う。今は眼鏡をかけていないから、その金色の瞳が日の光の下でさえ、鮮やかに見えた。

「なんで飴?」

「禁煙中でね」

 飴をくわえるその横顔はただ飄々としていて、ついさっき虫けらみたいに人の命を握りつぶしたようには到底見えない。

「大丈夫かい?」

「に見える?」

「まあ、一応は」

 包丁男につけられた首の傷は、思っていたより深くて、僕はまた「お願いします」と言わざるを得ない状況に追い込まれた。

 それで契約期間がさらに延びて、この死神の思い通りになったことも、助けに来てくれることを心のどこかで期待していて、そしてそれに安堵してしまったことも、本当は何もかもが気に入らない。でも、結局僕には選択肢なんてなかった。

「もしかして、怒ってるのかい?」

「別に」

 僕が怒ろうが怒るまいが、この男には関係がない。こいつはただ自分の仕事を楽にするために——エサとしての僕を利用したいだけで、別に僕自身を必要としているわけじゃない。


 そこまで考えて、まるで恋人に縋る情けない男になったみたいに感じて、思わず頭を抱えた。いつから僕はこんなに弱くなったんだっけ。いろいろあったけど、父は優しくてしっかりしていたし——借金まみれなのは想定外だったけれど——それなりに幸せに過ごしてきたと思う、のに。


「なあ、これ……一生治んないの?」

「まあ、病気じゃないからねえ」

「お祓いとかで何とかならない?」

「さあ、試してみたら?」

 鳴神は肩をすくめてそう言って、でも、と続ける。

「もうちょっと現実的で、手っ取り早い解決策を提示したつもりだけど?」


 ゆっくりとこちらに歩み寄ってきて、僕の顔を覗き込む。百九十センチ越えのその身体は大きくて、けれどすらりと均整が取れているせいか、そこまで威圧感はない。頬に伸びてきて触れた手は暖かくて、でも、その金の瞳は相変わらず面白そうな光を浮かべているだけで、だからきっとこいつにとっては、やっぱり僕のことなんて瑣末事トリビアなんだろうと思った。


「……僕の人生だ。自分で決める」

「まあ、君がそう言うならそれでもいいけどね」


 肩をすくめて笑いながら、懐からもう一つ飴を取り出すと、表面を剥がして僕の口につっこんだ。唐突なその行為に驚いて、抵抗もできずにそのまま思わず味わってしまう。すごくシンプルに甘い砂糖の塊みたいな味がした。


「とりあえずは、向こう三ヶ月の契約は有効だから、継続するかどうかは、そのあと考えたら?」

 どこかのサブスクリプションサービスの営業じみた提案に、だけどベタベタに甘い飴の糖分のおかげか、僕はふとあることを思い出した。

「そういえば、まだ昨日契約したばっかだから、クーリングオフが有効なんじゃね?」

「死神との契約に、そんなのあると思う?」

「あんたの胸先三寸なんだろ、どうせ」

 さっき「二時間無事に過ごせたら帳消しチャラにしてやる」と言っていたのを僕は覚えていた。だから、契約といってもそれほど厳密なものではなく、任意で解除ができる程度のものなのだろうと。

「おや、気づいちゃった? 意外と賢いねえ」

 迂闊な君なら気づかないかと思ったのに、と爽やかな表情で十分な嫌味を含んだその声は、けれど、どこか楽しそうだった。

「あんた、詰めが甘いんだよ」

「よく言われるんだよねえ」


 悪びれもせずにそう言うその顔は楽しげで、嫌味だけど、悪意はない。だからだと思う——こいつと過ごすのは、そんなに悪いことでもないんじゃないか、なんてうっかり考えてしまったのは。


ジン

 初めてその名を呼んだ僕を、彼は少し驚いたように見返す。それから、飴をがりがりと噛み砕いて棒を口から取り出してから、何だい、と首をかしげた。

「あんたは僕の存在があんたの役に立つって言ったよな、相互利益関係WIN-WINだって」

 一方的に庇護されるような、そんな関係じゃなく。そう言った僕に、鳴神は口の端を上げて頷く。多分、僕が何を言おうとしているのか、全部お見通しみたいな感じで。

「まあ、言ったねえ」

「なら、タダ働きはしない」

「……へえ?」

「あんたの記録係になるし、ろくでなしを引き寄せるための囮にもなってやる。だから、その代わりちゃんと対価を払ってくれ」


 家族を失って、どこにも行く場所を見いだせない僕は、多分誰かに必要とされたかったんだと思う。でもそれが叶わないなら、せめてするだけの価値が僕にあることを、確認しておきたかったんだろう。期間満了おわりを迎える時に、怯えなくていいように。結局のところ、甘ったれた子供じみているのは、変わらない気はしたけれど。


 死神は、やっぱりそんな僕の考えをお見通しだとでも言うように人の悪い笑みを浮かべて、それでも問い返してくる。

「具体的な要求はあるのかい?」

「時給千円くらい?」

「東京都の最低時給は千十三円だよ」

 微妙に僕の提示額の方が低かった。でも僕が働いてた店、もっと低かったような気がするんだけど。そんな僕の様子には構わず、鳴神は少し何かを考え込んだ後、にっこりと笑った。どこかちょっと怪しい感じの。

「じゃあ、時給千百円で換算して、平日はまあ無理として、土日はフルタイム八時間。だいたい月当たり七万円ちょいでどう? 食事と寝るところは別途保証」

 あまりに好条件すぎて却って怪しい。そんな思いがありありと顔に出たのか、鳴神はもう一度笑う。

「俺にとっては、それくらい価値があるってことだよ。何しろ月に二日働くだけで、残りは遊んで暮らせるからね」

 確かにリターンが大きそうだ。ふと、暇な時間、こいつは何をしているんだろうと疑問が浮かんだ。でも、プライベートに踏み込むような間柄でも——少なくとも今は——ないから放っておくことにした。そして、もう一つだけ、気になっていたことを尋ねる。

「平日は無理って?」

「だって君、大学があるだろう?」

「あー……学費、払えるあてもないしなあ」

 言いかけて、まさか、と思って目を向ければニヤニヤと嫌味な笑みを浮かべている。

「本当に、察しが悪いよねえ。まあ、学生なら勉学に励んでおきたまえ」

「……マジでどんな裏があんの?」

「さあね」

 ただまあ、と鳴神は続ける。

「君は俺の従属者Followerじゃなくて、共謀者Collaboratorだからね。ある程度高く見積もっても、苦情は出ないだろうさ」

「何それ?」


 従属者は庇護される者。何らかの理由があって、一方的に死神の命を聞くように契約で縛られた者。

 共謀者は共に死神が命を狩るのに協力する者。


 歌うように言って、目の前からその姿がかき消える。

「こんな風にね」

 不意に後ろから声が聞こえて、心臓が止まるかと思った。

共謀者Collaboratorは、相性があってね。誰でもなれるわけじゃない。君と契約したおかげで、こんな手品もできちゃうってわけだ」

 いわゆる瞬間移動、みたいな。

「普通はできない?」

「命を刈り取る以外は、基本的には人間とあまり変わらないからね」

 そう言う横顔は嘘をついているようには見えなかったけれど、こいつは呼吸をするように嘘をつくから、信じてはいけないと僕の本能がどこかで警告する。鳴神は、そうそうその調子、となぜか愉しげに笑った。


「素直で可愛いのは君の美徳だけど、その体質で生き抜いていくつもりなら、俺みたいなのに心を許さないようにね」


 その顔に浮かんだ笑みに、どうしてだか胸が締め付けられるような気がした。

 もう一度、頬に触れた手が顎に滑り降りてきて、間近に造作だけは端正な顔が迫る。強いその眼差しに思わず目を閉じると、低く笑う気配がして、ややして額に柔らかい感触が触れた。ふわりと、体が浮くような感覚がしたけれど、目を開くと、人の悪い笑みと、吸い込まれるような金の瞳があるだけだった。


「契約完了だ。改めて、俺の共謀者Collaboratorとして、これから末長くよろしくね、ナギ」


 言って、僕の背中をとん、と押す。何だよ、と声を上げる間も無く、この屋上へと続く扉が開いて、黒いスーツ姿の男が見えた。その手にある黒光りするものは、なんか昨日見たナニに似ているように見えるけれど、気のせいだよな?


「ああ、そういえば、契約は土日だけだから、それ以外で助けが必要な時は、またちゃんと『お願いします』って言ってね。助けた分は、時給換算で天引きしておくよ」


 タダ働きはしない主義でしょ? お互いに。


 秀麗な顔に、これ以上ないほど嫌味な笑みを浮かべて言うそいつに、やっぱり僕は確信する。そして今度こそ声に出した。


「こんの……屑ヤロー‼︎」

「お褒めに預かり光栄だね」


 そんな風にして、僕と屑男との関わりは、決定的に始まってしまったのだった。

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