7. 契約内容及び締結条件について 〜前編〜
放り出された先は、渋谷の駅前から少し離れた路地裏のビルの前だった。新宿からここまでどうやって運ばれたんだろうと首をかしげたが、何しろ死体を消してしまうような非常識な相手だ。人一人抱えて空間を飛び越えるくらい朝飯前なのかもしれない。いや、すごく理不尽だけど。
そんなことを考えながら、とりあえず駅の方へと足を運ぶ。路地裏や人気のないところのリスクが高いのは既に昨日実証済みだ。平日の午前中の街は、それでも人通りが多くて、いつまで経っても人混みに慣れない僕のような人間にとっては、正直しんどい。よく考えたら昨日からろくに食べていないし、ついでに手ぶらで放り出されたことを思い出して、ちょっと絶望する。もうお呼び出しをする時間じゃない? いや、それは嫌だ、絶対。
「あれ? さっきの」
脳内の悪魔と天使の囁きに耳を傾けていた最中、どこかで聞いたことのあるような声に目を向けると、先程の般若お姉さんの標的となっていた青年がこちらを見下ろしていた。さっきも思ったけど、やっぱり目線が十センチほど僕より高い。
「あ……ユキさん、でしたっけ?」
「こんなところで何してるんですか?」
何をしているんだろう、と自分でもよく分からず言葉に詰まった僕に、ユキは静かな眼差しを向けてくる。
「もしかして、お金、ないんですか?」
「……わかります?」
「わかりますね」
経験から、と冷ややかな目で見つめられ、どうにも相手の経済状況にしか興味のなさそうなその様子から、あっさりと立ち去るのかと思いきや、不意ににっこりと笑いかけられる。
「俺も朝飯まだなんで、一緒に食べます?」
「あ、でも……」
「そんなにいいものは奢ってあげられないですけど、パンはお好きですか?」
食べさせてくれるなら、否やのあろうはずもない。こくこくと頷いた僕に、ユキも頷いて二人で歩き出す。連れてこられたのは駅から少し離れたパン屋というにはおしゃれすぎる店で、中にはちょっと目眩がするような値段のパンが並んでいる。
「……ユキさん、あの、僕」
「大丈夫ですよ。これくらいなら俺でも払えるんで。好きなものを選んでください」
そうは言われても、何しろこちらは文無しだ。とはいえ腹は空いている。全力で空腹を主張する腹の虫に、ユキは少し笑ってから、いくつかのパンをトレイに載せると、そのまま会計を済ませて僕を外へと促した。僕は心の中で、屑だなんて思ってごめんなさい、と謝った。
——のだけれど。
「あの、ユキさん」
「何です?」
「僕たち、朝ごはんに美味しいパンを食べようとしてたはずですよね」
「そうですね」
「何で、目の前に、包丁持った男がいるんでしたっけ?」
ユキと再会して、パンを買ってもらって、彼に連れられて路地裏の建物の前までやってきた。ここまでおよそ二十分。目の前には何やら血走った目で荒い息を吐いている男が、ぎらぎらと光る出刃包丁を構えて僕たちを睨みつけている。
「うーん、ここが俺の職場の事務所の前で、俺がこの人の彼女と寝てるからですかね?」
「……お知り合いでしたか」
「はい、俺の事務所の先輩です」
「何でそんな人の彼女に手を出すんだよ⁈」
「いやあ、なんか最近物足りないって言うから、じゃあ俺とちょっと試してみようかって」
「ちょっとじゃねえだろ!」
怒号に目を向ければ、包丁を握る手がぷるぷると震えている。男は顔を真っ赤にしていて、おまけにどう見ても
緊張感が高まる中、不意にぴろりろり〜んとどこかで聞いたような緊張感のない音が響く。ユキは平然と懐から黒いそれを取り出すと、耳元に当てた。
「え、お仕事ですか? 今ちょっと立て込んでるんですけど……報酬は? ああ、なら、すぐ行きます。少々お待ちください」
それから僕の方に向き直ると、電話口を押さえたまま、首を傾げる。
「俺、すぐに行かなきゃいけなくなったんですけど、ここ、お任せしても大丈夫ですか?」
「大丈夫なわけねーだろ‼︎」
「あ、でももう決まっちゃったんで」
「いや、っていうかあんた電話、あいつんとこに落としてなかった⁈」
「あ、あれプライベート用その一で。ちょっと厄介な人に番号知られちゃったから、置いてきたんですけど、そっちも大丈夫でした?」
——意図的だったのか。
一瞬でもいい人だと思った自分を殴りつけたいほど、海よりも深く後悔する。わなわなと震える僕などお構いなしに、ユキはそれじゃ、と言って本当に駆け出して行ってしまった。空腹な上に、連続する屑行動に頭がついていかない。気がつくと、出刃包丁が喉元に突きつけられていた。
「お前、あいつの何なんだよ?」
一瞬、横浜の港のナニが脳裏に横切ったけれど、それどころではない。
「た、他人です!」
「どう見ても他人じゃねえだろうが。女以外に興味がないあいつがやたらに可愛がっていそうだし……まさかそういう関係か?」
そういう、が何を指すのかは何となく分かったけれど、首を横に振りたくともぴたりと喉元に突きつけられた刃は鋭く、下手に動かせばすっぱりと切れてしまいそうだ。
「あの……何にしても僕は、あなたとあの人のプライベートには関係ないと思うんですけど」
そう言った僕に、だが男はなぜか不穏な笑みを浮かべる。ぐい、とその刃が僕の喉元にめり込んだ。薄い痛みが走る。
「包丁ってのは、真っ直ぐ押し込んでもなかなか切れない。けど、こう——」
言いながら、ほんの少しだけ横に引く。その瞬間、さらに痛みが強くなる。
「引くと、あっさり切れるんだよ。俺、副業は板前でな。大将から道具の手入れだけはきちんとしておけっていつも言われているからよ、切れ味は保証するぜ?」
「きっと、野菜の切り口も綺麗なお料理ができるんでしょうね……?」
「ああ、肉もよく切れる」
「ちょ、ちょっと待って。こんなところで僕をお料理しちゃったら、板前さん続けられなくなっちゃいますよ⁈」
なるべく相手を刺激しないように、声を抑えてはみたものの、震えるのはやむを得ない。相手は酔眼をとろんとさせたまま、どうしてか悲しげに笑う。
「俺にとっちゃ、あいつが命みたいなもんだった。板前として一人前になって、あいつと所帯を持って……」
「立派な志だと思います!」
「フラれたんだよ」
「はい?」
「あの男のせいで、俺みたいな無骨な野郎は、もううんざりなんだそうだ」
「ええと、それで……?」
「で、勢い余って殺しちまった」
この包丁で、と言う。綺麗に研がれていて、その刃には曇りひとつないのに。
僕の内心の声が聞こえたかのように、男は歪んだ笑みを見せる。
「ああ、滅多刺しにした後、きちんと研いだからな。脂がついちまって大変だったが、丁寧にやればこの通りだ」
さすがは職人さんですね、とかお見事ですね、とか脳裏には色々な言葉がよぎったけれど、結局のところ、こめかみに脈打つどくどくとうるさい心臓の音と、喉元のはっきりとした痛みのせいで、声にはならなかった。
現状は見事にあの死神の言った通りになっていて、だからきっと呼べば来てくれるんだろうと、そうわかってもいたけれど。でも、同じことを繰り返すのなら、そうすることに、何か意味があるんだろうか、とふと思ってしまった。
あいつが気まぐれで僕を助けてくれるとしても、それだっていつまで続くかわからない。というか、あいつは期限を明示していなかったっけ。契約期間は二月、じゃあそれが終わったら?
二ヶ月先にもこんな地獄みたいな状況に追い込まれているなら、別に今、ここで消えてしまっても、変わらないんじゃないだろうか。
抵抗しない僕に、何が楽しいのか男はにぃっと口の端を歪めて笑って、僕の頭を掴んだ。
「そうそう、無駄な抵抗をしなけりゃ、すっぱり切れてすぐに終わるさ。安心しな」
まるで死神みたいなことを言う男に、僕はもうただひたすらにうんざりして、視線を足元に落とした。その先に、綺麗に磨かれた黒い革靴が見えた。
「……呼んでないだろ」
そう言った声は、自分の声じゃないみたいに掠れていた。
「うん、でもまあ、特別サービス、みたいな?」
もう聞き慣れた声は平然と笑って、それから気がつくと、僕の喉元にあった包丁が消えていた。正確に言えば、消えたんじゃなくて、腕ごと切り落とされて、僕の足元に落ちる。靴に刺さりそうになったのを慌てて避けた。
それから、そいつは僕を引き寄せると、首筋の傷を確かめてから男に向き直る。
「さて、どんな死に方がいい?」
そう言って、猫のように目を細めて、にぃっと笑う。
——前言撤回。本物の方が、圧倒的にヤバい。
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