6. 二度あることは(もう嫌だ)

 腕を引かれてビル横の非常階段を駆け上がる。窓枠の外れたフロアが何階だったのか、僕は意識さえしていなかったのに、金髪の死神は的確に把握していたらしい。古びたドアを蹴り飛ばして踏み込んだその部屋は、何かの事務所のようで、見事に正面の窓がなかった。


 お世辞にも整ったとは言い難い、古びたオフィスデスクに、日に焼けた黒いソファ。テーブルの上にはうっすらと埃が降り積もっている。およそ人の気配のないその部屋で、だが、耀は何かを探すようにじっと目をらしている。どれくらいそうしていたのか、ふっとその気配が緩んだ。ようやく誰もいないことを納得したのかと、僕も肩の力を抜いた時、不意に耀が近くにあったロッカーを蹴り飛ばした。ガン、という派手な音と共に、スチール製のそれがへこむほどの勢いで。


 途端、誰もいなかったはずの部屋の隅で、小さな悲鳴が上がった。すかさず耀がそちらに駆け寄る。ニッと笑った表情は全てを確信している様子で、見慣れた死神あいつとのそれとよく似ている。つまりは、絶対自分は敵には回したくないやつで。

「どういうつもりだ?」

 相手を捉えて喉元を締め上げながら詰問きつもんする声は、地の底から響いてくるように低い。なのに、明らかに楽しげな響きを含んでいて、冷酷でまさに死神っぽい。先ほどの落下物の恐怖を思えば、相手に同情の余地なんてなかったはずだ。けれど——。

耀ヨウ

 初めて名前を呼んだ僕を、死神が振り向く。何かに驚いたように。

「……何だ?」

 やけに戸惑いの浮かぶ顔に、僕の方も首を傾げながらも先を続ける。

「だめだ、そんな——女の子の首を」

 死神に喉を締め上げられているのは、先ほど目が合った女の子だった。柔らかそうな黒髪のポニーテールにTシャツと短パン。まだ幼さの残る顔は、せいぜい中学生ぐらいだろう。苦痛に歪むその顔に、こちらまで苦しくなってくる。

「いくら何でもやりすぎだ」

 だが、死神は冷ややかに言い放つ。

「馬鹿なのか? 見た目に騙されるな。こいつは俺たちの頭上にあんなものを投げつけたんだぞ?」

「馬鹿なのはそっちだ。そんな細腕でそんなことができるわけないだろ」


 正確に大きさや形を覚えているわけではない。でも、ぶちまけられた水の量と残骸から、それが金魚鉢サイズどころではなかったことだけは確かだ。それに、死神に締め上げられてだらりと下がった腕も体も驚くほど細い——病的なほどに。窓枠をぶち破ったり、水槽を投げ落としたりできるとは到底思えなかった。


「それとも、その子が怪力の死神だとでも?」

「それはない」

「とにかくまずは事情聴取だろ。凶器を持ってるわけでもなさそうだし、そんなに危険はなさそうだから——」

 手を離せ、と言おうとして、けれど続けられなかった。

「その手を離せ」

 そっくりそのまま、言おうとしたその言葉は、僕のすぐ後ろから聞こえてきた。怒りに満ちた声は、まだ若い。振り返ることはできなかった。喉元に突きつけられた、もう見慣れた三日月型の刃のせいで。


 暗い部屋の中で、銀色の刃と耀の瞳だけが妖しく光る。その手はまだ女の子の首を締め上げたままだ。というより、むしろさらにきつく締め上げている。

「手を離せと言っている!」

「なるほど、お前が黒幕か」

「うるさい、上にへつらうばかりの、死神の風上にも置けない犬野郎が」

 吐き捨てるような罵倒に、だが耀はむしろ楽しげな表情になる。

「へえ、残り物・・・の処理もまともにできないほどクレイジーな奴かと思えば、何だ、ただの無能か」


 ぎり、と歯を食いしばるような音が聞こえた気がした。ほんの少しだけ首を動かして見上げた先には、僕よりは背の高い、けれど随分若そうな黒髪の男が、険しい眼差しで耀を睨みつけていた。視線だけでころせそうなくらいの。

 だが、耀は少女の首を締め上げたまま、むしろ嘲笑うように平然と口の端を歪める。

「まだ新人ルーキーだな? 大方、若くて余命の短い人間を哀れに思って従属者として契約したはいいが、刈り取るだけでは稼ぎ・・が足りなくて、『狩り』に手を出したか。だが、後始末をするだけの力もない。散々食い散らかして足がつきまくり、いよいよ上の目に止まったわけだ」


 こんな状況下でよく喋る。僕に聞かせようとしているのか、あるいは時間を稼ごうとでもしているのか、どちらなのかはよくわからない。


「『狩り』の条件は事故に見せかけるなどの適切な死体の処理を行うか、あるいは戦場のように死体が見つかっても不自然ではない状況下のみに限られる。どちらもできないくせに、手を出したのが運の尽きだ」

「人間に擬態して調査だなんて、卑怯な真似を」

「擬態……?」

 思わず口を挟んだ僕の喉元に、ぐい、と刃が押し込まれる。ぴりぴりとした痛みで、浅いながらも出血があるだろうことが見なくてもわかる。それくらいには、もう切り傷には慣れてしまっていた。全然嬉しくないけれど。

「死神には人間の寿命がえる。最近周りをうろちょろしているこいつにもたっぷりの余命が視えたから獲物にしてやろうと思ったのに、死神だったなんて——」

「その程度の偽装も見抜けないくらいの低脳だから、こんな真似をするしかなかったんだな。まあ、予想の範囲内だが」


 全然話が見えない。けれど、耀は明らかに何かを事前に知っていて、僕には話さなかった。ふと、耀の手首に目が惹き寄せられる。初めて会った時もそうだった。記憶の隅から浮かび上がってきたそれは、淡く光って見えた。


「擬態って、それ?」

「ああ、『狩り』で手に入れた余命を凝縮させて変形させたものだ。その分だけ、身につけていれば余命があるように偽装できる」

「……何かの役に立つの、それ?」

「役に立っただろ」

 相変わらず全然わからない。まあ今朝会ったばかりだから、詳しい事情なんて聞く暇がなかったとも言えるけれど。ただ、一つだけ言えることは、結局のところ、僕はいつも通り・・・・・、巻き込まれただけだった。

「お前らのんきに話してる場合か! いいからセツを離せ!」

「そうもいかない。こいつの命が惜しかったら、先にそっちが引け」

「こいつがどうなってもいいのか!?」

「俺の最優先事項は事件の犯人おまえの確保だ。それにそいつは俺の大事な相棒パートナーってわけでもないしな」


 既視感デジャヴのある台詞だ。そして、前回それを聞いた後に起こったことを思い起こせば、次の展開はもうお分かりだろうか?


 ぐっと刃が喉にめり込む感覚に、とっさに肘打ちを入れて半身を捻って抜け出せたのは、ほとんど奇跡に近かった。のんびり構えていたら、その先には、自分の体と頭が綺麗に分かれてこんにちはする未来しかないことを、もう数々の経験から知っていたからだ。

 ぎりぎり首が落とされなかっただけでもマシかもしれないが、それでも首の辺りに急激な熱を感じてふらつきながらも何とか踏み留まる。反射的に押さえた左の手のひらのべったりと濡れた感覚で、何が起こっているのかを正確に理解した。

ナギ!」

 それまで聞いたことのない切羽詰まった声に、あれ、と違和感を覚える。けれど、思考がまとまるより先に、視界の端で人質を放り出してこちらに駆け寄ってくる姿と、それを見てニヤリと笑う若い死神の横顔が見えた。


 ——ああそっか、こっちの死神の方がちゃんと・・・・クズだったんだな。


 そう内心で呟いた途端、さあっと血の気が引いて視界が網目がかったように点滅し始める。意識を失う兆候サインだとわかっていたけれど、もうできることは何もなかった。ただぼんやりと、僕を斬りつけた死神が女の子に手を伸ばすのを眺めていた。

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