3. 蛇の道は蛇(そんなの知らない)

 ブラックアウトして意識が回復した時に、事態が好転していたことなんてまずない。だから今回も覚悟を決めるより他なかった。例えばコンクリートの上に転がされているとか、もっとひどいと、自分のしゃぶつの中に顔を突っ込んだ状態だとか。


 なのに、漂ってきたのは馥郁ふくいくと薫る——これはコーヒーだろうか。これもやっぱり夢な気もしたけれど、いつまでもうじうじ悩んでいても仕方がない。そう覚悟を決めて目を開けると、茶色い天井が見えた。クラシックな色とりどりのガラスのランプがいくつも吊り下がっている。さほど明るくはないけれど、窓からの自然な採光で穏やかな雰囲気だ。


 ゆっくりと起き上がり、あたりを見回すと、シックな茶色のカウンターといくつかのテーブルが見えた。寝かされていたのは、キャメル色のソファの上だった。

「……おしゃれカフェ?」

「ようやくお目覚めか?」

 聞き覚えのある声に、反射的に体がこわばった。口の周りを手のひらで拭ったけれど、特に不快な感触はなかったから、さっきのあれは夢だったのか、あるいは誰かが綺麗に拭いてくれたのか。


 僕の内心の声が聞こえたのか、あるいは口からダダ漏れていたのか、相手は口の端を上げて皮肉げに笑う。

「誰かって何だよ。この状況下なら俺に決まってるだろう?」

「通りがかった親切で可愛い女の子の方がまだ確率高そうワンチャンだし」

「憎まれ口を叩くのはこの可愛い口か?」

 ぐいと顎を掴まれて間近に端正な顔が近づく。鮮やかで冷ややかな月のような瞳が面白そうに僕をじっと見つめる。顔だけは見惚れるほどいいのに、さっき「移動」したときの不快感が蘇ってきて、反射的に思い切り手を振り払ってしまった。不穏な相手に最適な対応じゃなかった自覚はあったけれど。

「嫌われたものだな」

「あんな目にわせといて、好かれるとでも?」

「死神と好き好んで契約を結ぶような変わり者だ。そういうのにも慣れてるのかと思ったが、意外と大事にされてるんだな。まあこの平和ボケした国ならなおさらか」

「好戦的な国よりよっぽどマシだろ」

 こちらを見つめる金色の眼は、ますます不穏な光を浮かべている。迅はどちらかと言えばいつもからかうような表情ばかりしていて、残忍な行為をするときでさえ薄ら笑っているような男だから、死神というものはみんなそんなものだろうとどこかで思っていたのに。

「人間風情が、とは言いたくないが、なかなかいい度胸だな。まあいい。君の言う通りだ。無為な人死には俺たちにとっても手間を増やすばかりで、長期的に見れば効率が悪い」

「効率?」

「そう、俺は効率重視でね。治安が悪くなれば住みにくくなる。結果俺たちも過ごしにくくなる。そういうのは避けたいわけさ」


 人の生き死にを効率云々で片づけることに引っ掛かりを覚えないわけではなかったけれど、死神相手に死生観を語るのは分が悪そうだったからやめておく。相手は黙り込んだ僕にやや怪訝そうな眼差しを向けてきた。

「まだどこか具合が悪いか?」

「いや、目眩も治まったし、吐き気もないから大丈夫だと思う」

「ほーんとよかったよかった。耀ヨウが血相変えて心配するくらい弱ってたから、一時はどうなることかと思ったけど」

 不意に割り込んできた陽気な声に驚いて目を向けると、カウンターの向こう側からやけに綺麗な女の人が姿を見せた。ふわふわとした柔らかそうな少し淡い色の髪をゆるくアップにして、黒いTシャツとジーンズというラフないでたちだが、柔らかく微笑んだその顔に、いかつい不機嫌な金髪男を見た後だと目が幸せを感じてしまう。


 女性はすたすたと近寄ってくると、僕の額に手のひらを当てた。柔らかい感触に、どきりと心臓が鳴ったのは、年頃の男子としては致し方あるまい。女性の年齢はよくわからないけれど、僕よりは少し上、二十代半ばから後半といったところだろうか。

「顔色はだいぶ良くなったね。どこか痛いところとかは?」

「も、もう大丈夫です。あの……お世話になっちゃいました?」

「あたしじゃないわ。全部、耀がやったの。まさかあんなことまでするとは思わなかったから、びっくりはしたけど」

 くすくすと口元に当てて笑った爪の先は綺麗なライトブルーに染まっている。

「あんなこと?」

「口を挟むな、カヅキ。今は仕事の話をしている最中だ」

「あれも仕事の一環、なんでしょ? だったら別に話したっていいじゃない」

「黙れ」

 男がごく冷ややかな声で言い放ったけれど、女性はあんまり堪えた風でもなかった。はいはい、といなしながら僕の顔を覗き込んでくる。

「効率厨で性格ねじ曲がってるけど、根はそこまで悪い奴じゃないから、許してあげてね?」

 全然信用ならない感じの人物評を聞いた気がするけれど、ウィンクして離れていく背中をぽやっと見つめてしまった僕を責めないで欲しい。ここのところ屑連中しか会ってなかったから癒しが必要なのだ。


 ともあれ、カウンターに呼び寄せられて、こんがり焼けた厚めのトーストとスクランブルエッグ、カリカリに焼けたベーコンプラス挽きたてのコーヒーという完璧な朝ごはんをいただきながら、聞かされた話に僕は思わず目を丸くした。

「連続不審死?」

「そうだ。都心の繁華街でドラッグの常習者に人買い、傷害事件の常連、札付きのワルみたいな、まあ一般人からすれば迷惑な連中ばかりだが、ごろごろ死体が上がってる。なのに目撃者がほとんどおらず、同一犯なのか集団なのかもわからん。共通しているのは、どの被害者も二十台半ばから三十歳前ということで、まあ余命はたっぷりありそうな若者ばかりだってことだ」


 彼はその不審死を調べるために、はるばるアメリカからやってきたのだという。


「何で? 実は国際警察インターポールとかCIAのエージェントとか⁉︎」

 俄然ワクワクしてしまった僕に、男は鼻で笑う。

「それはそれで面白そうだけどな。人間たちの殺し合いには俺たちは不干渉が原則だ。今回はどうにも死神が関わってるんじゃないかってことで、《上層部》から派遣されたんだ」

「死神が? でも悪人を狩るのって死神の通常業務じゃないの?」

 少なくとも、迅は僕に襲いかかってくる人間を平然と殺すし、この目の前の男だってそうしていた。

「死神がなぜ人の命を刈る——あるいは狩るのか、知っているか?」


 唐突な問いに、思わず相手の金の目をまじまじと見つめる。そんなのは、死神なのだから当たり前だと思っていた。特に目的があるだなんて、考えたこともなかった。

「死神の相棒なら知ってて当然だと思ってたが、そうでもないのか」

「その子は共謀者Collaboratorなんでしょ。だからじゃない?」

「どういう意味?」

 口を挟んだカヅキ——づきさんが僕におかわりのコーヒーを差し出しながら説明してくれる。

「死神のパートナーには二種類、共謀者Collaborator従属者Followerがあってね、どっちも一応死神を視認できる瞳を持っていることが最低条件なんだけど」

「え、でも普通の人にも普通に見えてますよね?」

 迅なら鈴鹿をはじめ、ユキやド派手なスーツのおっさんたちにも、なんなら一緒にご飯を食べるくらいには見えているのだ。

「それは、彼らが見せる・・・つもりのときはね。そうじゃなく、闇に潜んでいるときでも見えちゃうんだって。わかる? 私の瞳、ちょっと紺色がかってるでしょ?」

 まっすぐに見つめられて、ちょっとドギマギしながらも言われてみれば、虹彩の部分が普通の日本人なら茶色ベースなのに、不思議な色合いをしている。

「君もだよ。鏡見ても意外と言われないと気づかないけどね」

「え、そうですか?」

 今度鏡でじっくり見てみよう。そのせいで僕はこんな厄介ごとに巻き込まれることになっていたとは。

「あたしもそうなんだけど、従属者っていうのはその言葉通り付き従うだけだから、大したことはできないんだよね。死者の記録と、あとは主人となる死神のサポート。といっても何しろ人じゃないから意思疎通が図りにくい。だから、従属者になるとある程度、主人の内心を読めるようになる」

「え?」

「全部が全部じゃないけど、わりと詳しい事情とか、本人が気づいてない望みとか、そういうセンシティブなものもね。死神の中にはそういうの、気づいてない奴も多いみたい。気づいても気にするほど繊細にできてないっていうのも多いみたいだけど」

「へえ」

 ちらりと夏月さんが視線を向けた先の男は気にした風もなくコーヒーに口をつけている。一応これでも僕と迅のような間柄なのか、それとも従属者というのは全然違うのか、説明を聞いてもやっぱり良くはわからなかった。


 それに迅の内心なんて、僕には全然わからない。なぜ僕に外に出るなと警告したのかも、今どこにいるのかも。ちりと胸のどこかに変な感覚が走ったけれど、とりあえず気づかなかったふりをする。


「……死神が命を狩るのは、基本的には必要だからだ。己の命を繋ぐためか、パートナーを養う・・ためか。そうしてそれが真に必要かどうかを判断するために、必ず記録レポートを残す。従属者か共謀者がな。そして——」


 もう一度、耀は僕の顎を掴んでまっすぐに僕の目を覗き込んでくる。


「君には、大量の余命の投与の痕跡がある。なのに、君自身は狩られた命の記録を知らない、そうだな?」

「何を——」

「今現在君のそばにいない死神。どんなやつかは知らないが、そいつが俺にとって今のところ最も有力な容疑者だ」


 何の冗談だ、と言おうとしたのに、けれど強い金の眼差しのせいで、喉に何か詰まったみたいに声にならなかった。

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