3. 類は屑を呼ぶ(どんどんひどくなる)

 ふと意識が浮上して、それでもまぶたが重くて、そのまま闇の中で耳をすましていると何かを話し合うような声が聞こえた。


「……どっからさらってきたんだ、この子」

「攫ってきたんじゃないよ、見つけたんだ」

「何それ運命的な?」

「そうそう、そんな感じ。俺の事務処理ペーパーワークをタダ働きで助けてくれる最高の救世主だよ」


 おいちょっと待て。タダ働きって何だ。確かになんかそんなことを言っていた気もするけれど、正式に契約内容の合意はまだ取れていないはずだ。

 そう声をあげようとしたけれど、ひどく体が重くて、口の中も粘ついて舌が張りついたように動かず、声にならなかった。


「お、気がついたみたいだぞ?」

「ああ、おはよう。ずいぶんとゆっくり寝てたもんだねえ」


 少し離れたところから投げかけられる声は呆れたような響きを含んでいた。まるで、仕事をさぼって寝ていたサラリーマンを責める上司みたいな。なったことがないから実際のところ、本当にそんな上司がいるかどうかはわからなかったけれど。

 ようやくなんとか重い瞼をこじ開けると、えらくごつい男がこちらを見下ろしていた。刈り込んだような短い髪に、何だか博物館の剥製で見た鷹を思わせるような鋭い目。どう見てもカタギには見えなかった。


「大丈夫か?」


 そう言っていまだに起き上がれない僕の背中に手を差し入れて、半身を起こすのを手伝ってくれた。寝かされていたのはどこかの事務所のような部屋のソファの上で、壁には何とも言い難い子供の落書きみたいな絵がかかっている。

「ほら、飲むといい」

 口元に差し出されたペットボトルを受け取ろうとしたが、相手が首を振るのでそのまま口を開けると、勢いよく傾けられたせいで、口どころか胸元までがびしょびしょに潤されてしまった。おかげで口の中の粘つきは、ある程度はましになったけれど。

「何やってんの、お前」

 少し離れたところから、はっきりと小馬鹿にするような声が投げかけられる。目を向けると、昨夜会ったばかりのあの怪しい男がデスクの前で、立派な椅子に腰掛けてこちらを見つめていた。

「いやでも、今のは不可抗力だろ?」

「どこらへんが? とりあえず素直に謝ったらどうなのよ」

「そんなこと言ったってよ……」

「あの、別に服くらい、大丈夫ですから……」

 僕の背中を支えていてくれた男は、僕のその言葉にほっとしたように表情を緩めて、そうして突然手を離した。結果、予期せず支えを失った僕は後頭部をソファの木目が美しい手すりに強かに頭を打ちつけた。

「ッ痛ぇ……」

「あ、悪ぃ!」

「何してんの、本当に」


 呆れたように言いながら、その男が歩み寄ってくる。襟元が開いたシンプルな白いシャツに、黒いスラックス。並ぶともう一人の男の方がさらに背が高く、全体的にいかついが、この男もしなやかに全身に筋肉がついていて、艶やかな長い黒髪が背を覆うほどに長くさらりと揺れているが、なよなよした感じはかけらもない。

 先ほどと異なるのは、彫刻めいた端正なその顔に、シルバーフレームの眼鏡をかけていることだろうか。変光グラスらしいそれのせいか、瞳の色は曖昧でよくわからない。

「大丈夫?」

 僕の後頭部に手を伸ばして、こぶでもないかと探るように柔らかく触れて、もう一度上半身を起こされる。

「大丈夫そうだね、よかった。もしこれで記憶喪失とかになったら、さっきの奴の事務処理、俺がやらなくちゃいけなくなっちゃうからね」

「……はい?」

 相変わらず、この男、自分の都合しか話していない気がする。

「はい、君の初仕事」

 そう言って齧られた林檎がトレードマークの銀色のラップトップを差し出してくる。

「新品だよ。君が寝てる間にすぐそこの正規店で買ってきたんだ。経費で落とすから代金は気にしなくていいよ。こないだまで持ってたやつはバッテリーがヘタってて、突然シャットダウンしてデータが飛んだりしたからさあ。まあ、俺が自分でやらなくていいなら本当は別にどうでもいいんだけど」

「いやちょっと待てよ、僕はまだ……」

「まあまあ」


 こちらの抗議などまるで聞く気がないらしい。ラップトップを開いて僕の膝に置く。起動後のロックスクリーンには、ニワトリの写真がアイコンに設定され、その下には「NAGI SURUGA」と表示されている。どう見ても、完全に初期設定が済んでいる。

 ソファの手すりに腰掛けてこちらを見下ろしているその顔を見上げれば、にっこりと笑いながら、君の指紋は寝ている間に登録しておいたから、と個人情報の尊重も保護も何もないことを平然と言う。それから、男は僕の右手を取って、右上の角に丸みのある小さな四角いボタンに人差し指を触れさせる。秒でロックが解除されたそこには、何かの入力フォームが表示されていた。


『名前、年齢、出身地、学歴、職務経歴』


 まるで履歴書のような項目が並んでいて、事務職というのは嘘じゃなかったのかとちょっと安堵したのだが、次に続いていた項目で、僕は比喩でなくあんぐりと口を開けた。


『生命中途刈取許可対象項目』


「……何これ?」

「ああ、そこ必須項目だから、なるべくたくさん書いてね。最低でも赤字下線付は全部。あと赤字はなるべくカバーしてもらって、余裕があったら太字以外のそれっぽいのも書いておいてもらえれば」

「書いておくって何を……?」

「え?」

「え?」

 そんなこともわからないのか、と雄弁に語るその顔に、発せられた一文字をそのまま返してやると、秀麗な顔がこれ以上なくうんざりしたように歪められた。

「俺の職業、覚えてるかい?」

「し、死神……?」

「正解、じゃあ次」

「ちょ、ちょっと待てよ。死神って職業なのか? 属性とか種族とかじゃないのかよ⁉︎」

「あー、そういう意味で言うと、属性兼種族兼職業かな。死神を職業として選択できるのは死神の属性があって、死神っぽい種族だけだから」

「死神っぽい種族って何だよ⁉︎」

「そりゃあ、人の命を刈るのが楽しくて仕方がない、ちょっと普通の人間よりはいろいろできる連中のことだよ」


 連中、と言ったが自身も含まれているのではなかろうか。声に出す前に、目の前の男はその問いを悟ったらしく、やれやれとこれ見よがしに肩をすくめてため息をつく。


「思ったより物分かりが悪いなあ。とりあえず、君のお仕事は、俺が殺して寿命を刈り取った奴の情報をここに記入すること。That's all. Any questions?」


 最後は流暢な英語でそう締めくくられた。聞き取りリスニングはできても、あまりの内容にいつも見ている「即レス英会話」も役に立たない。ただただ困惑していると、突然くしゃくしゃと頭を撫でられた。見上げると、さっき僕をびしょ濡れにしてくれた短髪のいかつい男が、何だか憐れむような表情を浮かべてこちらを見下ろしていた。

「ジン、もうちょっとちゃんと説明しろ。そんなんじゃ、できる仕事もできなくなっちまうぞ?」

「そりゃあ困るなあ。じゃあお前が説明しといて。俺は夜通し勤勉に働いて疲れたから、寝てくるわ」

 そう言ってひらひらと手を振りながら、奥の階段を上がっていってしまう。残された僕と、でかい男は顔を見合わせて、それから深いため息をついた。互いによく分からない者同士だったが、あの男のせいで迷惑を被っているという一点において、共感が得られたのはよかったのか悪かったのか。


 ともかくも、僕はいったんラップトップを目の前のローテーブルにおいて、体を伸ばしてみる。あちこちまだ痛かったが、触れた頬や額には大きな絆創膏が貼られていた。

「まだ痛むか?」

「あ、これ、あんたが?」

「ああ、あいつときたら気を失ったお前さんをそこに放り投げて、そのまま飲みに行こうとしてたからな」

「……ありがとう、ございます」

 頭を下げると、目の前のでかい男はにかっと笑う。そうすると、印象がガラリと変わって、近所のスポーツが得意なお兄さんみたいに見えてきた。

「俺は鈴鹿すずか光章みつあき、職業は一応古美術商。みっちゃんと呼んでくれていいぞ」

 男は僕の手に漢字を書きながら、そう自己紹介した。

「……鈴鹿さん。僕は駿河するがなぎ、です」

 初対面の、しかも明らかに年上の男をみっちゃん呼ばわりするのはさすがに憚られれたのでそう言った僕に、だがなぜか彼はとても不満げな顔をする。

「せめて、光章と呼んでくれ」

「何でです?」

「苗字は呼ばれ慣れてないし、なんか他人みたいによそよそしい感じがするだろう?」

「いや、僕ら完全に赤の他人ですよね?」

「え、でもお前さんあいつのナニなんだろ?」

「ナニって何ですか……⁉︎」

 何だかその響きからは嫌な予感しかしなかったので、そう叫んだ僕に、鈴鹿は顎を撫でながら首をかしげている。

「だって——」


 だが、鈴鹿がそう何かを言いかけた時、ドカドカと凄まじい足音が聞こえ、ガシャンと何かが砕けるような音がして、後ろの扉が開いた。


「鈴鹿ァァ! 貴様、この俺にこんなものを売りつけやがってェェ!」


 叫び声と共に、僕の耳の脇ぎりぎりをかすめて何かが飛んできた。鈴鹿は事もなげにそれを受け止める。手の中にあるそれは、古びた茶碗だった。

 振り返って見ると、目がチカチカするような紫色のスーツに身を包んだ小柄な男がこちらを睨みつけていた。シャツが黒で、ネクタイがネオンイエローという徹底ぶりだ。男を見て、鈴鹿はあまり悪びれた風もなく肩をすくめる。

「あれ、もうバレたのか?」

「バレるに決まってるだろうが‼︎ 茶会の席で、俺がどれだけ恥をかいたか……!」

 男は真っ赤な顔をして、怒髪天をつく、という表現がぴったりくるほど怒り狂っている。

「だからあの時、自分で選んでいいよって俺は言ったんだけどなあ」

「二択で選べとは言ったが、贋作を平然と売る奴がどこにいるんだ!」

「ここに」

 にこやかに答える鈴鹿の表情で、またしても僕は気づいてしまった。


 屑の友は屑。


「だって自分で真贋が分からないなら、どっち売ったってかわんないだろ?」

「俺はわからんでも、俺の客はわかるんだよ!」

「ああ、自分の審美眼のなさには自覚があるんだ」

「うるせえ! 今度という今度はもう許さねえぞ!」


 言って、男が取り出したのは黒光りする拳銃だった。

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