2. On the Job Training(ブラックな匂い)

 目が覚めたら今までの一切が夢で、本当は実家のそれなりに清潔で整えられたベッドの上で寝ているかもしれない、なんてちょっとだけ期待したけれど、現実は甘くなかった。そこは、家賃滞納でどう考えてもまもなく立ち退かなければならない予定のワンルームでさえなく、繁華街の路地裏のシャッターの前だった。


 つまりは、意識を失う前と変わらない。一点だけ違ったのは、地面に寝転がっているわけじゃなくて、何だかあったかくて、硬いものに包まれていた。


「あ、目ぇ覚めた?」


 かけられた声に目を向ければ、薄暗い路地裏のぼんやりしたネオンでもはっきりとわかるくらい鮮やかな金色の瞳がこちらを見下ろしていた。暖かいのは座り込んだそいつに肩を抱かれているおかげで、硬いのはその腕も胸もがっちりと筋肉につつまれているせいらしかった。僕が意識を失う直前に、出血多量の憂き目に遭わせたその男は少し目を細めて、どこか安堵したような表情を浮かべている。


「いやー、急に意識を失っちゃうし、呼んでも返事しないから、俺の見立てが間違ってて誰か別のやつがお迎えに来ちゃったのかと思ったよ」

「別のやつ……お迎え……?」

「ちょっと出血しすぎた? もう傷口塞がってるし、あんま影響ないと思うんだけど。俺のお仕事、言ったよね? もう忘れちゃったとか? そんなんでうちの事務務まるかなあ。いや大丈夫だと思うけど、あんまり物覚え悪いと困るんだよね、俺が」


 こちらの身を気遣ってくれているのかと思ったが、まくし立てられるその言葉をよくよく聞いてみれば、こいつ自分の都合しか話していない。


 ——やっぱり屑だ。


 そう判断して、身を起こして逃げ出そうとしたのだが、ぐっと肩を掴まれた。

「離せよ」

「そういうわけにも、いかないんだよねえ」

 にっと笑った顔は決して悪人顔ではなく、どちらかといえば爽やかなのに、それでもその瞳と上がった口角の感じで、どうにも胡散臭さが拭えない。

「もう契約は済ませちゃったし、ちゃんとお仕事手伝ってもらわないと」

 何のことかと詳細を尋ねようとしたその時、仄暗いネオンに照らされて、薄く長い影が伸びてきた。目を向けると、ガタイのいい若い男がこちらを見下ろしている。

「こんなところでいちゃついてんのか?」

 わずかに呂律の回っていない喋り方と、明らかな酔眼で、相当に酔っ払っているらしいことが見てとれた。

「あいにく俺は、はちゃあんとベッドに優しくエスコートするタイプだよ」


 それに、抱きしめて可愛がるなら、やっぱりどっちかっていうとやわらかくて胸のあたりにボリューム多めの女の子の方がいいよねえ。


 聞いてもいないのに勝手に自分の性癖を開示しながら、僕の左腕をつかんで立ち上がらせる。ふと見れば、切り裂かれたはずの左手首は、はっきりと赤い線のような傷跡が残っているものの、完全に塞がっていた。

 驚いて男の顔を見上げて初めて気づいたが、この男、かなり背が高い。僕が男としてはすごく高い方ではないのは認めるが、それでも百七十センチ半ばはあるのに、それよりはるかに目線が高い。

「あんた身長いくつ?」

 この状況で訊くような質問ではない気もしたけれど、男は長い黒髪を揺らしてにこやかに答える。

「百九十五。ちなみに足のサイズは二十九センチ、好きな酒は日本酒とウィスキー、煙草は先月から禁煙中。好みのタイプは腰と胸がしっかりたっぷりしているで、初体験は——」

「聞いてねえよ!」

 一を聞いたら余計な情報が延々と垂れ流されて、慌ててそう遮ると、どうしてだかニヤリと笑う。

「そう? じゃあ、あと一つだけ。趣味はね——人助けと悪人退治」

 絶対嘘だろ、と僕が口に出す前に、男は僕の左手首を自分の口元に引き寄せて、傷口に唇を這わせる。


「これもその一環なんだけどねえ」


 こちらを見下ろす金の瞳と、ちろりと覗いた赤い舌がひどく艶かしく見えて、けれど、なぜか背筋がぞくりと震えた。すぐそばに立っている酔っ払いもぎょっとしたように声を上げたのが聞こえたから、何となく不吉さを感じたのは僕だけではなかったらしい。

 だが、酔っ払いの方はすぐに立ち直ったのか、僕らの方に足を一歩踏み出してくる。こんな夜更けに、こんな繁華街の暗い路地裏で、絡みにくる相手がろくでもないことだけは、僕にもわかった。すでにさっき体験済みだったので。


「いいから金出せよ、そうすりゃ、見逃してやる」

「何を見逃してくれるんだって?」

「何でもいいだろ、殴られてぇのか?」


 自分よりはるかに背の高い男を前にして、ずいぶん威勢のいいことだ、と他人事のように考える。どちらにしても、僕だったら他人の財布に手をつけようなんて、行き倒れそうになったところで考えもしないのだけれど。


「いいねえ、その屑っぷり。いやあ、ナギ、君ってばさすがだね」


 金の眼の男は初めて僕の名を呼びながら、くすくすと楽しげに笑い、よしよしとまるで子供を褒めるように頭を撫でて、それから不意にとん、と僕の背中を押した——酔っ払いの方へと。


「歯は、食いしばった方がいいと思うよ」


 最後に耳元に流し込まれたその言葉を吟味する間もなく、ふらりとバランスを崩した僕の顔を酔っ払いは慣れた仕草で、ほとんど条件反射のように殴りつけた。痛みというよりは熱さを感じて目の前が真っ赤になる。とっさに食いしばったおかげで、何とか舌を噛まずには済んだけれど。

 特に深い意味や動機がなくても、暴力的な行為に及べる人間がいるのだということを実感するのは、今日はこれで二度目だった。人生において、たった二度の経験を、ほんの数時間のうちに。


 殴られた反動で後ろに倒れそうになった背中を力強い腕が受け止めた。朦朧とする頭で見上げれば、にぃっと先程までのまだ人の良さげな表情をかなぐり捨てた、獲物を前にした獰猛な獣のように鋭い眼差しと、愉しげな顔がそこにあった。


「はいご苦労さん。これで正当防衛が成立だ。手を出したのはあっちが先だからね」


 すい、とその手がくうを切って、一瞬の後に、信じられないほど大きな三日月のような弧を描く鎌が現れた。その刃は、安っぽいネオンの光を受けてなお、鋭利に輝いて、目を奪われるほどに美しい。

 男は僕の肩を抱いたまま、その鎌の刃が刺さっている柄の先で軽く酔っ払いの胸を押した。

「な、なにしやがんだ……ッ」

 尋常ではない得物えものおののいた男がそう声を上げたが、僕はそれどころじゃなかった。


『瀬上 岳、二十六歳。千葉県某市出身、地元の高校を卒業後、東京で就職』


 まるで、履歴書のデータベースを覗いているように、個人情報がテキストで脳裏に流れ込んでくる。基本的には白地に黒い文字で。

 膨大な情報は次から次へと流し込まれて、追うだけで精一杯だ。文字を見るとついつい読んでしまうのは僕のさがだったけれど、流石にこの情報量は処理しきれない。文字の奔流に悲鳴を上げそうになって、でも途中でいくつかの文字列が太字ボールドで強調されているのに気づいた。


『上司とそりが合わず、すぐに退職し、夜の街の住人に。そこで出会った女性と結婚。だが、妻および近隣住人への暴力沙汰でたびたび警察に通報される』


 次に目に留まった文字は太字の上に赤字で強調されていた。


『泣き止まない生後二ヶ月の息子を殴った後、一メートルの高さから落下させて死亡させた。逮捕されたものの、証拠不十分で不起訴』


 それからいくつもの細々とした日常と、妻や同僚、通りすがりの人間に対する暴力が太字で流れていく。最後に流れてきた赤文字は、ご丁寧に下線アンダーラインまで引かれていた。


『三月十五日。口論の末、妻を殺害。山中に埋めたが未だ発覚せず』


「うん、完璧だ」

 鎌を持つ男が嬉しそうに、僕の肩に置いている手に力を込める。

「な、何がだよ……」

「俺は死神で、お仕事は人の命を刈ることなんだよね。でも、誰でもいいわけじゃない。真っ当に生きてる人間の命を奪うなんて非人道的だろう? だから、あんたみたいに死んでも誰一人後悔しないような、悪党の命をいただくんだよ。余命が長ければ長いほどいい。その寿命が俺たちの賞与ボーナスになるからね」

 嬉しそうにそう言う死神に、目の前の男は明らかに酔いも覚めた青ざめた顔で、ただ固まっている。

「な、何を……」

「大丈夫、苦しくないよ。ああ、ナギ、もしかしたら君は目を瞑っていた方がいいかもしれないねえ」


 そう言って、死神と名乗ったその男は、悪党と断じた相手の首に鎌の根本を押し当て、すい、と静かに引いた。何の抵抗もなさそうなその動きで、ごとり、と黒く丸いものが地面に落ちる。首を失った体は、しばらく戸惑うようにそのまま立ちすくんでいたけれど、やがて膝から崩れ落ちて地面に倒れた。ころころと足元に転がってきた、さっき僕を殴った男の顔は、目を見開いてとても驚いているようだった。


 分かれた胴からも首からも、驚くほど大量の赤い液体が流れ出ている。殴られて僕が流した血の量なんて比較にならないほどの血溜まりと、むせ返るような鉄錆のような匂いは、それでもあまりに現実感がなくて、だから僕はそれは手品か何かだと必死に思い込もうとした。

 けれど、死神と名乗った男は、僕の肩を抱いて、何かを憐れむように優しく笑う。


「残念だけど、これは現実だよ。俺は、今この男を殺した。君に惹かれてやってきた、この誰が見ても立派で純粋な悪党をね」


 そう言いながら、転がっている男の頭の髪の毛を掴んで拾い上げた。その首からも口からも、まだぽたぽたと血が溢れている。死神はその口に何かの小瓶を突っ込むと、そこからふわりと何か白く光るものが飛び出して、瓶の中に閉じ込められる。


「はい、おしまい」

「何……それ」

「魂だよ。ねえナギ、かつて魂はどこに宿るかって実験をした奴がいるらしいよ? 死にゆく人間の重さを予め測っておいて、心臓か、脳か、どちらかが軽くなればそこに魂が宿っていたはずだ、ってね。俺の見立てだと、こうして首を落とすと、魂は口から出てくるから、どっちかっていうと脳の方が正解なのかもねえ」


 愉しげにそう言いながら、恨めしそうにこちらを見つめる生首を、僕の顔の前に突きつけてくる。


 そうして、何とも情けないことに、僕はその日、二度目の気絶をした。

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