死神の共謀者

橘 紀里

Ch 1. The Grim Reaper's collaborator

Episode 1. 僕らのはじまり

1. 不幸な出会い(多分)

「あーもう最悪」

 そう口に出して言ってみたら、殴られた口の端がものすごく痛かった。口だけじゃない、身体中があちこち、少しでも動かすたびにズキズキビシビシと、人間の体ってこんなに痛点があったんだとむしろ感心するほどに痛い。


 初夏の風薫かぜかおさわやかな五月の夜。繁華街——新宿歌舞伎町の一本入った暗い夜道。閉まったシャッターにもたれたまま空を眺めれば、淡くおぼろづきが浮かんでいる。なんだかもう涙が出るほどに美しい、と思ったら、実際に頬が濡れている気がした。頬に触れるとぬるりとした感触がある。涙かな、と思って手で拭ったら、色がついていた——赤いやつ。

 自覚した瞬間によりいっそう痛みが襲ってきた。流血沙汰なんて人生初だから、それがどの程度の怪我なのかもよくわからない。ただひたすらに、痛いし、しんどい。

 起き上がって、交番に駆け込むとか、無理ならせめて誰かに助けを求めるとか。そういう一切が、脳裏には浮かぶのに、痛みのせいというよりは、必然性が見つからなくて、動く気力が湧かなかった。


 ——どうせ、僕が生きてたって死んだって、誰も気にしやしない。


 このままここで目を閉じて、目が覚めなくても、悲しんでくれる人はいない。家賃の支払いが滞ったままの不動産屋の迷惑そうな顔だとか、入学したばかりなのに休学手続きを手伝ってくれた大学の事務職員のおばちゃんの憐れむような顔くらいしか浮かばないのがリアルに侘しい。

「別に、いっか」

 もたれた体を支えることさえ億劫おっくうになって、そのまま横に倒れ込むと、不意に空の月を遮って、二つの金色が目の前に現れた。


「ねえねえ、君、もしかして行き倒れ中?」


 客引きみたいな軽い口調で、それでもえらく響きのいい低い声でそう言われた言葉の意味を理解するまでに、しばらくかかった。その金色が人の瞳だと気づくのにもさらに数十秒。猫のように光るその瞳は、どうしてだか楽しげに細められ、こちらををじぃっと興味深げに見つめている。

 長い指が伸びてきて、僕の額の傷口に触れる。それから頬、口の端に。

「ずいぶん手酷くやられたねえ。綺麗な顔が台無しじゃないか」

 触れる指先はごつごつとして、確かに男のものなのに、整えられた爪と労働なんてしたこともなさそうな、なんて言うんだっけ——ああ、白魚しらうおのような手。


「生きる希望も気力もありゃしないって感じかい?」

「……あんたには関係ないだろ」

「ところがどっこい大ありで」

 歌うように言ってにっこり笑った顔は、どうにも国籍不明だが彫刻のように整っていて、なんと言うか悪魔的な魅力をたたえている。見つめているうちに惹き込まれてしまうような。

「今ねえ、事務員を探してるんだよ。でも、なかなかいい人材が見つからなくて」

「この不況の世の中、有効求人倍率考えたらいくらでも応募はくるんじゃねーの?」

「なかなか選り好みが激しくってねえ」

「誰の?」

「そりゃもちろん俺の」

「はい?」

「ということで、君、俺と契約してうちで働かない?」

 突然のスカウト話にただぽかんとするばかりの僕に、相手はさらに無邪気な笑みを浮かべる。

「他にあてがなければ、ぜひ」

「何で僕?」

「だって、君、行き倒れてるし、なんか助けてくれる身内とか友達もいない感じでしょ?」


 実のところそれは図星で、全力で心細い気持ちを刺激されてついうっかり優しげな顔に目を向けると、まるで慈悲をかける神父みたいにそっと手が差し伸べられる。その手を掴むべきかしゅんじゅんしていると、男は言葉を続ける。


「だから、俺が優しくしてあげたらきっと感激して、給料なんかなくても衣食住完備三食昼寝付きとかで十分真面目に働いてくれるんじゃないかなあって」

「……え?」

「行き倒れて死んじゃったりしたら、公共機関おそうじの手間も暇もかかるけど、俺のところで無償労働に奉仕してくれたら誰にも迷惑かけないし、俺もハッピー。WIN-WINでしょ?」

 屈託なく笑って全く悪びれもせずにそう言った顔はそれでもちゃんとまだ端正イケメンに見えるし魅力的だ。だが僕は気づいた——気づいてしまった。


 あ、こいつクズだ。

 

「ちなみに面接がわりにちょっとだけ軽く自己紹介をお願いしても?」

 ひたいからはまだ流血したまま地面に転がっている相手に、平然とそんなことを言う。いくらその顔が見惚れるほど端正でも、絶対に関わり合いにならない方がいいに決まっている。そう理性は告げているのに、気がつけば僕は身の上を語り出していた。


 後になって、海よりも深くそのことを後悔することになるのだけれど。


駿河するがなぎ、十八歳。大学一年生だけど、唯一の肉親の父親が先月他界して、ついでに借金まみれだったことが発覚して相続放棄したらほとんど何も残らなくなって仕方ないから一旦休学した。さっき残金五万円をATMで引き落としたら、通りすがりの乱暴な若者たちに没収カツアゲされて、全財産が四十円だ。家賃を払えるあてもないし、このままいけば立派な行き倒れが完成予定」

「母親は?」

「十年前に他界済み」

「他に親戚等は?」

「いるのかもしれないけど少なくとも僕は知らない。念の為言っておくと、兄弟もいない」

「お友達は?」

「あいにく不器用に生きてきたもんで」

 少なくとも、文無しになった今、転がり込むことができるほどに親しい相手に心当たりはなかった。

「おやまあ、立派な天涯孤独っぷりだねえ」

 びっくりするくらい明るい能天気な声で、目の前の男はそれはそれは嬉しそうにそう言った。多分、もう少し体力と気力があったら一発くらいは殴ってやりたいと思うくらいの無神経さで。


 それからもう一度、それじゃあ、と手を伸ばしてくる。今度は反応しなかった僕の意思などお構いなしに、腕を掴んで半身を引き起こされ、男も目の前にしゃがみ込んだ。

 そうして、その猫のような金の双眸そうぼうを細めてにっこりと笑う。


「じゃあ、契約、しちゃおっか」

「……何の?」

「うちの事務員。さっきも言ったけど、給料は出ないけど衣食住は保証してあげるし、仕事もそんなに難しいものじゃないから、君みたいな行き倒れちゃう要領の悪いお人好しでもきっと大丈夫」

 紡ぎ出される言葉の端々に引っ掛かるところがないわけではない——どころか引っかかるところしかなかったが、その声の響きの心地よさで何だか全部誤魔化されてしまいそうになる。

「契約って、どうすんの?」

「あ、その気になってくれた。いいねえ、その無警戒で無計画な感じ。よし、気が変わらないうちにやっちゃおう」

 言って、男は僕の左手をとると、懐から光るものを取り出した。それは小さな銀色のナイフで、ぎょっとして目を剥いたが抵抗も抗議もする間もなく、すっぱりと手首を切り裂かれた。


「な……ッ」

「あー、ちょっと痛い? 平気平気、すぐ収まるから、ちょっとだけ我慢しようねー」


 幼児に言い聞かせるようなその声は変わらず穏やかだったが、どこかその口調は獲物を捕らえた肉食獣のように不穏だった。手を引こうとしたが、思いの外、強い力で握り込まれてぴくりとも動かせなかった。切り裂かれた手首から、赤い色が盛り上がり、肘まで伝ってぽたぽたと流れ落ちる。

 呆然とする僕をよそに、男は傷口に唇を寄せ、歌うように楽しげに、何かを宣言するように言葉を紡ぐ。


「ナギ、君を俺の共謀者Collaboratorとして任命する。これから獲物をよろしく惹きつけておくれ」

「共謀者って……獲物って何だよ⁉︎」


 どう考えても事務職員の職務内容お知らせにしては不穏な単語の並ぶそれに、そう抗議の声をあげたのだが、流れ出る赤い色を見ているうちにくらりと目眩がして、意識が朦朧とし始める。

 不本意ながらも男の肩に頭を寄せてもたれかかる形になった僕の耳に、あれえと軽く困惑するような声が届いた。


「おっかしいなあ、血、止まらないねえ。契約が締結された時点で傷口も綺麗になくなるはずなんだけど……またあいつに、詰めが甘いって言われちゃうかねえ」


 頬をかきながらのんきにそんなことを言う男に、何とか抗議の声を上げようとしたが、実際に流れ出ている量が多いせいなのか、あるいはそれを見ているショックのせいなのか、目の前が網目がかかったようにちかちかとおかしな色合いになり、そして視界が暗くなっていく。その襟元をなんとか締め上げてやろうとしても、手が震えて縋り付く程度にしか力が入らない。 


「あ、言ってなかったけど、俺のお仕事、死神なんだよね。だからまだ君が死なないのはわかってるから、まあ安心して」


 朗らかに言う顔は悪気の欠片もなくて、とにかくも意味わかんねえ、とか、ふざけんな、とかその類の罵倒を投げつけてやろうと思ったのだけれど、その前に、不意に僕の意識はそこで途切れてしまった。

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