滴の音

 昔から、お風呂場と言うところ無闇むやみに怖い。今でも時々怖がって、お風呂に入りたくないと思うことがあるので困る。きっかけは、今思い返してみるとほんの些細な事で、ある人が髪を洗っているとその最中に背後に化物が立っていて、身体中をこねられ洗われて死んでしまったとか、何処どこからか視線を感じると言うのは、ヒトの知覚出来ない領域から、何か人ならざるモノに覗かれている所為であるとか、そう言う、所謂いわゆる迷信とか、或いは非論理的な言説の類を耳にしただけの事なのだけれど、幼少の時分の、無邪気な脳をしていた内の事であるので、どれもこれもすっかり信じ込んでしまったのだろう。


 しかしこうした事を怖がるのには、何も根拠が無いわけではない。先述した二つの例にしても、共通しているのは、ほんの少し怪しい影が見えたり、あるいは、ほんの少し不審な物音が聞こえたりすると言うことであり、このために人々は化物の実在を信じ込んでしまうのであると思われる。何もかも感じ取れない事については、感じ取れないのだから、怖いと感じることも、それについて想いを馳せたり考えたりすることもない。薄暗い道を歩いていると何もかもぼんやりとしか感じ取れないために、遠くの角に立っている木を八尺の巨人と間違えたり、親爺が散歩中に足元を照らすために手に持っている灯りを遠目に、人魂がうごめいているように思うのと似ていて、曖昧に知覚されるがために、その全容を想像してしまい、また人間の生存本能から、その想像が自分のイメージ出来得る限り最も恐ろしい物に至るので、怖いと感じる。従って、子どもの内は夜道で化物に遭遇するのを案じ、大人になるにつれて、もっと現実的な、掏りや通り魔との遭遇を案じるようになるものと推測できる。


 ここまでの内容を踏まえると、霊や化物の類はどれも、その人の心的な恐怖が現実の事物に結びついて表象されるものであり、その実在性はあやふやで、頼りなくなるほどか細いと推察できる。想像されているような心霊表象が、仮に何処かに存在しているとしても、それを明晰に知覚、証明することは困難だろう。心霊現象として報告される事象は、心的表象に伴う錯誤であり、よしんばその中に真に霊的な事象があったとしても、それはごく少数にすぎず、膨大な錯誤の中に埋もれて、見つけられなくなってしまう。


 ところで、つい最近、私はある心霊現象を体験した。その場所と言うのがお風呂場で、その時は湯船に浸かって、リラックスしていたから何とも思わなかったけれど、後になって思い返してみると、恐ろしくて堪らないので、この稿を読んでいる諸君には是非とも、「それこそ心的表象による錯誤に違いない。そうなった原因は是々、こう言うことではないですか」と言って、私を納得させて、安心させて欲しい。以下は、その体験を思い出せる限り正確に述べるものである。






 私は湯船に浸かるよりも先に髪や身体を洗う。身体の汚れをすっかり落として、湯に浸かっていると、シャワーの先やカランの先から、栓を締めた時に出て来そびれて水道の中に残ってしまったお湯が水滴となって、平生は不規則にポタポタ音を立てて、お風呂場の床に落ちる。湯船の中で温まっている間は、その音を聞きながらぼうっとしているか、とりとめのない事を想っているのだけれど、その時はどうしてか、水滴の床に落ちる音に合わせて、浴槽の淵を指の横腹で軽く叩くことに興じた。水滴の音は不気味なほどに一定で、心地よい四分のリズムを刻んでいる。八拍毎に装飾音が生じて、人間と一緒に演奏しているような錯覚に陥った。

 ポタ ポタ ポタ ポタ ポタ ポタ ポッ ポッ ポ…… タポ タポ タポ タポ…………

シャワーやカランの中にあるお湯の量は水滴の音がする度に減っている筈なのに、あんまり長くテンポが狂わないでいたので、栓が締まりきらずにお湯が流れっ放しになっているのか知らと思って見てみると、シャワーやカランはおろか、手すりに掛けてあるタオルや、天井、或いは壁の淵の何処からも、水滴が垂れていないように見えた。床全体を見渡して、水滴の跳ねる場所を見れば、何処から滴っているのか見当がつくと思ったけれど、床は至って静かに平面であり、つまり水は跳ねていないと言うことになりそうなものだけれど、色々に目を配っている間も、水滴の音は途切れない。

 ポタ ポタ ポタ ポタ ポタ ポタ ポタ ポ タポ…… ポタ ポタ ポタ ポタ…………

 目を閉じて、鼻孔に空気をいっぱいに通して、その空気をその儘口から吐き出し、そんなこともある、何処かで何かが滴っているのだろうと思い、お風呂場から出て行った。

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