滴の音
昔から、お風呂場と言う
しかしこうした事を怖がるのには、何も根拠が無いわけではない。先述した二つの例にしても、共通しているのは、ほんの少し怪しい影が見えたり、
ここまでの内容を踏まえると、霊や化物の類はどれも、その人の心的な恐怖が現実の事物に結びついて表象されるものであり、その実在性はあやふやで、頼りなくなるほどか細いと推察できる。想像されているような心霊表象が、仮に何処かに存在しているとしても、それを明晰に知覚、証明することは困難だろう。心霊現象として報告される事象は、心的表象に伴う錯誤であり、よしんばその中に真に霊的な事象があったとしても、それはごく少数にすぎず、膨大な錯誤の中に埋もれて、見つけられなくなってしまう。
ところで、つい最近、私はある心霊現象を体験した。その場所と言うのがお風呂場で、その時は湯船に浸かって、リラックスしていたから何とも思わなかったけれど、後になって思い返してみると、恐ろしくて堪らないので、この稿を読んでいる諸君には是非とも、「それこそ心的表象による錯誤に違いない。そうなった原因は是々、こう言うことではないですか」と言って、私を納得させて、安心させて欲しい。以下は、その体験を思い出せる限り正確に述べるものである。
私は湯船に浸かるよりも先に髪や身体を洗う。身体の汚れをすっかり落として、湯に浸かっていると、シャワーの先やカランの先から、栓を締めた時に出て来そびれて水道の中に残ってしまったお湯が水滴となって、平生は不規則にポタポタ音を立てて、お風呂場の床に落ちる。湯船の中で温まっている間は、その音を聞きながらぼうっとしているか、とりとめのない事を想っているのだけれど、その時はどうしてか、水滴の床に落ちる音に合わせて、浴槽の淵を指の横腹で軽く叩くことに興じた。水滴の音は不気味なほどに一定で、心地よい四分のリズムを刻んでいる。八拍毎に装飾音が生じて、人間と一緒に演奏しているような錯覚に陥った。
ポタ ポタ ポタ ポタ ポタ ポタ ポッ ポッ ポ…… タポ タポ タポ タポ…………
シャワーやカランの中にあるお湯の量は水滴の音がする度に減っている筈なのに、あんまり長くテンポが狂わないでいたので、栓が締まりきらずにお湯が流れっ放しになっているのか知らと思って見てみると、シャワーやカランはおろか、手すりに掛けてあるタオルや、天井、或いは壁の淵の何処からも、水滴が垂れていないように見えた。床全体を見渡して、水滴の跳ねる場所を見れば、何処から滴っているのか見当がつくと思ったけれど、床は至って静かに平面であり、つまり水は跳ねていないと言うことになりそうなものだけれど、色々に目を配っている間も、水滴の音は途切れない。
ポタ ポタ ポタ ポタ ポタ ポタ ポタ ポ タポ…… ポタ ポタ ポタ ポタ…………
目を閉じて、鼻孔に空気をいっぱいに通して、その空気をその儘口から吐き出し、そんなこともある、何処かで何かが滴っているのだろうと思い、お風呂場から出て行った。
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