花見酒
一
代わり映えの無い日々を過ごすのは退屈であるが、何か事を為そうとするのは骨が折れるので、なるべく苦労無く手に入れることのできる刺激を求めて、
出かけたのは夜半少し前である。夕飯を済ませて風呂に入り、酒を飲んでから
家の前の道を通り、静まりかえった商店街に出る。街灯が誰もいない道を淡く照らしていた。商店街の裏路地に面したスナックから、低い調子で流行りの曲を歌う声が漏れて少し喧しい。
商店街を抜けた先にある坂道を下り、大通りに面した並木道に足音を響かせる。進む先には大川の土手があるので、そこまで行って引き返そうと思う。指先が段々冷えてきたように感じられたので両手をすり合わせながら大川の土手に辿り着き、川の流れる様子でも見ながら一服しようかと煙草を咥えたところで、火付けの道具を持っていないことに気がついたので、早々に
来た道をそのまま逆に辿り、それを帰る道とした。酔いの回っているときにあれこれ道順を変えてしまうと、ともすると迷子になりかねない。もちろん散歩の興を削がないために道草は食う。しかし来るときに下った坂を上り、商店街を通って自宅に向かうと言う大筋から逸れない程度に留めるべきである。
大川を離れて
坂道の下には用水路が通っている。用水路と言っても最近は使われておらず、坂下の並木道に面した陥没道のような様相を呈しているくらいのものであるが、樹齢八十年はくだらなさそうな見事な樹木が、
何よりも不思議なことは、見覚えの一切無い、怪しげな巨木がそびえ立っていることについて少しの疑問も抱かなかったことである。何も無かったところに突然巨大な木が現れたと言うのに、せいぜい道端に少し珍しい花が咲いていたくらいの淡い感動を覚えながら自宅に辿り着き、既に眠っている妻君の隣に敷いてある布団に包まれると、もう眠ってしまおうと言う気になった。
眠ってしまうと、今度は夢の中でその大木を見た。そのときは見知らない男に何かしら尋ねられたように思う。
二
次にその大木を見たのは二、三日後のことである。もう直ぐ桜の開花日で、
外は思いのほか暖かかったので、この前よりも背筋を伸ばしてみる。早咲きの
坂道を下って並木道を進む。春が本格的に来る頃には、この並木道を散歩の道順から外さなければならない。そうしないと、どうかすると空を見上げながら
途中、並木道を横道に逸れた先に見慣れない看板が立っているのが見えたので近くまで行ってみると、新しく入った酒屋の看板だったので嬉しくなった。今は営業していないので、今度、お昼に寄ってみようと思う。
大川の土手下には、立派な桜が三本、互いを見合うように生えている。三百年ほどの歴史があると聞くが、実際のところはよくわからない。三百年の歴史があると言っていたのは町長のマツノさんである。マツノさんは、「鼠が猫を食っているところを見た」だの「真っ青で具合の悪そうな月を見た」だのと、いつも適当な
下見を終えて、土手沿いに置いてあるベンチに座って一服してから大川を後にした。歩いているうちに、ふと、以前夢に見た大木が、大川の桜とだいたい同じ位の大きさであったことを思いだし、そうするとやはりあの大木は桜であったのだろうか、もう一度よく見て確かめてみたいと考えていると、坂道を上る途中で、その大木が立っているのに気がついた。前に見たときと同様に、枯れた用水路に根を張っている。用水路は埋められておらず、どう見ても陥没していた。
巨木の雄大さに見惚れていると、見知らぬ
「お前、あれが桜だと思うか」
「違うのですか」
「おれは違うと思う。あれは梅だよ」
「ははあ、梅ですか」
「花びらの赤色が桜よりも濃い」
「暗いせいで良く見えませんが、そうですか」
「今の時期を考えると梅で間違い無い。ホレ、もう一杯」
「ああどうも、有難う。しかしどうも僕はこんなに旨い酒を飲んだことは無い。あれが早咲きの桜だったらなあ。花見で一杯、具合が良いってことになるのに」
「それもそうだ。そんならやっぱりあれは桜と言うことにしておこう」
「良いのですか」
「梅より桜の方が具合が良い」
「なげやりだ」
「どっちにしても花を見て酒を飲んでいることに違いは無い」
「しかし本当のところはどっちなんでしょう」
「桜だよ」
「でも、梅のようにも見えます」
酒が無くなったのか、それとも気を悪くしたのか、そのうちに親爺は
三
もしかするとあの大木は夜半頃にだけ姿を現すのかも知れないと思い、もう一度見に行ってみることにした。東北の大学で
良い時間になったので千鳥足の赤樺君を外に連れ出した。赤樺君は寒いから出歩きたく無いと駄々をこねたが、それでは折角来てもらった意味が無いと言い聞かせた。それで商店街を通り過ぎて坂道に着いたけれど、もう夜半だと言うのに、例の巨木の姿はどこにも無かった。そのまま坂道を下ってみると用水路も埋められているのがわかった。狐につままれたような顔でいるところに、赤樺君がもう帰ろうと言った。判らないことがあると言うのは気持ちが悪いけれど、そもそも無いものについては何をすることもできない。
遠くで、酒を勧めて来た親爺が、こちらに気づいて慌てて引き返したように見えた。追いかけようかと思ったが、赤樺君がお土産に東北の地酒を持って来たと言うので、それなら早く帰ってそれを飲もうと言う気になった。
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