花見酒

   一

 代わり映えの無い日々を過ごすのは退屈であるが、何か事を為そうとするのは骨が折れるので、なるべく苦労無く手に入れることのできる刺激を求めて、しきりに散歩をする。時間は日によって夜半やはんだったり明朝だったり、あるいはお昼だったりと様々であるが、大まかな道順はなるべく変えないようにしている。同じ道でも通る度に新しい発見があるのは、同じ空を見ていても常にその顔つきが違っているのに似ている。あるいはまったく同じ道を通るのではなく、そのときの心のままに、気になった脇道に逸れて道草を食うことができるのも良い。

 出かけたのは夜半少し前である。夕飯を済ませて風呂に入り、酒を飲んでからぐに寝てしまうのが勿体ないような気がしたので、寝間着のまま外に出ようと決めた。少し肌寒いけれど、夢中になって遠くへ行き過ぎずに済みそうなのでその方がむしろ良い。

 家の前の道を通り、静まりかえった商店街に出る。街灯が誰もいない道を淡く照らしていた。商店街の裏路地に面したスナックから、低い調子で流行りの曲を歌う声が漏れて少し喧しい。

 商店街を抜けた先にある坂道を下り、大通りに面した並木道に足音を響かせる。進む先には大川の土手があるので、そこまで行って引き返そうと思う。指先が段々冷えてきたように感じられたので両手をすり合わせながら大川の土手に辿り着き、川の流れる様子でも見ながら一服しようかと煙草を咥えたところで、火付けの道具を持っていないことに気がついたので、早々にきびすを返した。煙草を咥えたままでいるのは、人によっては未練たらしく感じるのかも知れない。もちろん未練が無いことも無いが、一度箱から取り出したものを戻すのが気持ち悪いと言うことが理由の大半である。雨が降っていなくて良かったと思うが、雨が降っていたらそもそも大川まで歩こうなどと考えることも無い。

 来た道をそのまま逆に辿り、それを帰る道とした。酔いの回っているときにあれこれ道順を変えてしまうと、ともすると迷子になりかねない。もちろん散歩の興を削がないために道草は食う。しかし来るときに下った坂を上り、商店街を通って自宅に向かうと言う大筋から逸れない程度に留めるべきである。

 大川を離れてしばらくすると酔いが醒めてくる。それまで鈍く感じていた肌寒さにより一層敏感になり、何となく歩くのが速くなる。例の坂道を上る頃には、酒はすっかり抜けきっていたように思うのだが、しかし、そこで妙なものを見た。

 坂道の下には用水路が通っている。用水路と言っても最近は使われておらず、坂下の並木道に面した陥没道のような様相を呈しているくらいのものであるが、樹齢八十年はくだらなさそうな見事な樹木が、悠然ゆうぜんと、その用水路に根を張っているのである。並木道の木々のどれよりも巨大で、その木々たちを従えているようにすら感じられる。坂の上に立ってみてもまだその樹木の方が背が高く、コンクリートに覆われた住宅街には不釣り合いな、力強く生き生きとした枝々からは、赤色の小ぶりな花がいくつも顔を見せている。

 何よりも不思議なことは、見覚えの一切無い、怪しげな巨木がそびえ立っていることについて少しの疑問も抱かなかったことである。何も無かったところに突然巨大な木が現れたと言うのに、せいぜい道端に少し珍しい花が咲いていたくらいの淡い感動を覚えながら自宅に辿り着き、既に眠っている妻君の隣に敷いてある布団に包まれると、もう眠ってしまおうと言う気になった。

 眠ってしまうと、今度は夢の中でその大木を見た。そのときは見知らない男に何かしら尋ねられたように思う。吃驚びっくりして目を覚ますと既に日が昇っていた。妻君さいくんにその木のことを尋ねてみると、そもそも用水路自体が昨年の工事で埋められている上に、そんなに大きな木なんて見たことが無いと言う。また、昼間にもう一度坂道に出てみると、妻君の言ったように用水路は埋められており、辺りには並木の他に大きな木の一本も見当たらなかったので、昨日見たことの一切が、初めから何もかも夢の中の出来事だったと言うことで納得した。


   二

 次にその大木を見たのは二、三日後のことである。もう直ぐ桜の開花日で、妻君さいくんが今年も是非花見をしたい、親戚も呼んで盛大にしたいと言うので、それなら大川の土手下にある広場が良いだろうと思い、下見と散歩を兼ねて家を出た。時分は前と同じく、夜半少し前である。少し酔いが回っていて、火付けの道具を忘れてしまいそうになったが、出かけに妻君が気づいて持たせてくれた。

 外は思いのほか暖かかったので、この前よりも背筋を伸ばしてみる。早咲きのすみれがブロック塀のすき間から顔を出していた。つぼみの時期を見逃してしまったのを勿体なく思う。スナックからは、微かに、誰かの笑う声が聞こえた。誘蛾灯が青白く光って眩しいけれど、集められる蛾は一匹たりともいない。

 坂道を下って並木道を進む。春が本格的に来る頃には、この並木道を散歩の道順から外さなければならない。そうしないと、どうかすると空を見上げながら欠伸あくびをしたときに、木の葉で休んでいた毛虫が油断して、口の中へ滑り落ちて来るかも知れない。むかし友人にそう言う話を聞いてから、しばらくの間並木道の下を歩くのが怖かった。しかしどうやっても葉と葉の風で擦れる音を嫌いになれそうに無い。

 途中、並木道を横道に逸れた先に見慣れない看板が立っているのが見えたので近くまで行ってみると、新しく入った酒屋の看板だったので嬉しくなった。今は営業していないので、今度、お昼に寄ってみようと思う。

 大川の土手下には、立派な桜が三本、互いを見合うように生えている。三百年ほどの歴史があると聞くが、実際のところはよくわからない。三百年の歴史があると言っていたのは町長のマツノさんである。マツノさんは、「鼠が猫を食っているところを見た」だの「真っ青で具合の悪そうな月を見た」だのと、いつも適当な法螺ほらを吹く。先週は大川で河童かっぱを見たと鼻息を荒くしていた。そうすると、大川の桜に三百年もの歴史があると言うのも矢張り法螺話ではないか知らと思う。

 下見を終えて、土手沿いに置いてあるベンチに座って一服してから大川を後にした。歩いているうちに、ふと、以前夢に見た大木が、大川の桜とだいたい同じ位の大きさであったことを思いだし、そうするとやはりあの大木は桜であったのだろうか、もう一度よく見て確かめてみたいと考えていると、坂道を上る途中で、その大木が立っているのに気がついた。前に見たときと同様に、枯れた用水路に根を張っている。用水路は埋められておらず、どう見ても陥没していた。

 巨木の雄大さに見惚れていると、見知らぬ親爺おやじに声をかけられた。何を見ているのか尋ねられたので、あの桜を見ているのですと答えると、親爺は木の方をちらりとも見ず、また何を思ったのか酒を勧められたので、断ろうと思ったけれど、親爺の持っている酒瓶から旨そうな香りが飛んできたので、つい飲み交わすことにしてしまった。親爺の顔は既に赤みがかっていたが、一合ほど飲んだくらいでどちらも同じくらいの色合いになった。

「お前、あれが桜だと思うか」

「違うのですか」

「おれは違うと思う。あれは梅だよ」

「ははあ、梅ですか」

「花びらの赤色が桜よりも濃い」

「暗いせいで良く見えませんが、そうですか」

「今の時期を考えると梅で間違い無い。ホレ、もう一杯」

「ああどうも、有難う。しかしどうも僕はこんなに旨い酒を飲んだことは無い。あれが早咲きの桜だったらなあ。花見で一杯、具合が良いってことになるのに」

「それもそうだ。そんならやっぱりあれは桜と言うことにしておこう」

「良いのですか」

「梅より桜の方が具合が良い」

「なげやりだ」

「どっちにしても花を見て酒を飲んでいることに違いは無い」

「しかし本当のところはどっちなんでしょう」

「桜だよ」

「でも、梅のようにも見えます」

 酒が無くなったのか、それとも気を悪くしたのか、そのうちに親爺は忽然こつぜんと姿を消したので、梅なのか桜なのかわからない巨木に背中を見送られながら、おぼつかない足取りで帰宅した。


   三

 もしかするとあの大木は夜半頃にだけ姿を現すのかも知れないと思い、もう一度見に行ってみることにした。東北の大学で教鞭きょうべんをとっている、植物分類学を専攻している友人の赤樺あかかば君を呼んで、今度こそ梅なのか桜なのかはっきりさせようとも思った。赤樺君に休みを取らせ、夕方頃から家に迎えてご馳走し、夜半まで時間があったので酒も出した。赤樺君は白樺の木が好きで、背がむやみに大きくて、青白い肌をしているくせに酒を飲むと直ぐに顔が赤くなるので赤樺君と言う。

 良い時間になったので千鳥足の赤樺君を外に連れ出した。赤樺君は寒いから出歩きたく無いと駄々をこねたが、それでは折角来てもらった意味が無いと言い聞かせた。それで商店街を通り過ぎて坂道に着いたけれど、もう夜半だと言うのに、例の巨木の姿はどこにも無かった。そのまま坂道を下ってみると用水路も埋められているのがわかった。狐につままれたような顔でいるところに、赤樺君がもう帰ろうと言った。判らないことがあると言うのは気持ちが悪いけれど、そもそも無いものについては何をすることもできない。

 遠くで、酒を勧めて来た親爺が、こちらに気づいて慌てて引き返したように見えた。追いかけようかと思ったが、赤樺君がお土産に東北の地酒を持って来たと言うので、それなら早く帰ってそれを飲もうと言う気になった。

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