マル屋
アルミ製の重い扉を開けると、薄暗くぼんやりとした玄関の静けさに出迎えられるのが、良平の常であった。良平にとって家の明かりは自らが点け、そして消すものであり、だからこそ帰郷して直ぐに自分の知らぬところで明かりが点けられているのに多少の違和感を覚えずにはいられなかった。とはいえ別段気にするようなことでもなかろう、と、良平は出迎えてくれた母に鞄を預け、リビングへと向かった。リビングでは父が安楽椅子に座りながら新聞を読んでいた。手足が痩せこけ、白髪頭に老眼鏡を掛けている父の姿は良平が覚えているよりもずいぶんとみすぼらしくなったようである。「ただいま」と良平が言うと、父はちらりと良平の方を見て「おう」と小さく返した。身体とは違い、声だけは威厳を残すものだ、と、良平が感心していると、母がぱたぱたと足音を立てながらリビングへと入って来た。良平は至極当然のように席に着き、茶の出てくるのを待った。母は健気にも湯を沸かし、程なくして良平と、その父に熱い茶を淹れてよこした。その頃になると父は新聞を読みつくしてしまったようであった。几帳面に折りたたまれた新聞は机の端によけられてしまったが、良平は特に興味なさげに茶に集中した。暫く茶の啜る音だけが室内に響いた。
「それにしても、良ちゃんの就職先が見つかってよかったわねえ」
ふと口に出した母に、父だけが「そうだな」と返した。
「そうよねえ。あたしも父さんも今年で定年だから、良ちゃんが稼げるようになってくれて助かるわあ」
母は何とも愉快そうにそう言ったが、言われた良平の方は少し居心地の悪いのを感じた。父と母がこれまで必死に働き、自分を立派にしてくれたのは十分承知しているのだが、しかし自分が必要以上に肥大してしまったかのように感じられ、それを全面的に肯定するのがどうも好ましくないものであるかのように良平には思えたのである。
良平は適当に相槌を打つと急に席を立ち、「少しばかり散歩してきます」と言ってその場を離れた。父と母は特に何と言うこともなく、ただ静かに良平を見送った。
その日は空風が強く吹いており、十分に厚着をしていても寒さがわずかな隙間から染み込んでくるようであった。良平は身を縮こまらせてゆっくりと歩いた。通りはやけに静かで、人もいなければ猫もいない。商店街の店は全て閉まっており、寂れた——と言うには些か小奇麗な道が続いていた。大晦日の夕方なのだから当然と言えば当然である。良平は一歩進む毎に自らの過去について、僅かばかりの記憶を頼りに思いを馳せた。坂を下り、川へ向かって並木道を歩く。特に義務があるわけでも無かったが、良平は何か宿命のようなものを感じて、横に続く小道へと入っていった。
良平はそれまで特に不憫な方でも無かったが、反対に恵まれている方でも無かった。ある程度身なりは整っていたし頭も悪くない。運動もそれなりにできる。しかしそんな良平は自分が特別な存在などでは無いということを、十にも満たないうちに悟っていた。また、だからこそ良平は自分と違う、特別な存在に強い憧れを抱いていた。秀作とよく一緒でいたのも、その憧れがあったからこそである。秀作は良平と違い、不憫な子であった。父母がどちらもろくすっぽ家に帰らないということだけは良平と同じであったが、金銭をはじめとした様々な素養に恵まれていなかった。秀作はいつもボロの服を着て、すり減って短くなった鉛筆を使い、また運動音痴の落第生であった。しかしいつでも努めて明るく振舞っていた秀作に、良平は少なからず畏敬の念を抱いていた。自分が同じ立場であったら果たして秀作と同じように明るく振舞えただろうか、と、そう疑問に思うくらいには、良平の抱える劣等感は根深い。
冷たい空気をかきわけ、良平は歩いていた。凍りつくような耳たぶを掌で温めながら、自分が今どこへ向かっているのかをはっきりと自覚させた。ただぼんやりと歩くのではなく、明確に其処へ向かっているのだと、——しかしなぜ其処へ向かうのか、良平の理性でそれを判断するのは些か難しいようであった。苦い思い出のある場所に。良平はただ訳のわからぬまま、せかせかと足を動かし続けた。
マル屋という駄菓子屋があった。看板に「〇屋」と書いてあることから近所の子どもらにそう呼ばれていたに過ぎないが、少なくとも良平にとって其処はマル屋であった。秀作にとっても同じである。良平と秀作は何かにつけてこのマル屋に通った。小遣いを握りしめ、いくつかの駄菓子を選んで買い、また玩具で遊ぶこともあった。店の番にはいつも、皴の深い婆さんが一人でいるのみであった。婆はいつも優しく話し相手になってくれた。婆と話をする、包み込まれるような心地良い時間が良平は大層好きであった。
「なあ、今日なあ、おれ、ちょっと盗んでみようと思うんだ」
ある日、秀作がこんなことを言った。
「盗むって何をさ」
「駄菓子だよ。マル屋でさ」
「でも、盗むのはいけないんじゃないかい」
「硬いこと言うない。おれはいつも良ちゃんのより少ない量しか買えないもんだから悔しい思いをしてたんだ。なに、心配しなくても、十円や二十円のものを盗ったところでそう変わるもんでもないさ」
頑として盗みをすると言い張る秀作を止めることなど、良平にはとてもできなかった。それどころか盗みをしてはいけないという漠然とした教えよりも、秀作の悔しいという気持ちの方を尊重するべきであるようにも思えた。少なくとも後者の方が説得力のあるように感じられたのである。良平はそれ以上何も言うことができず、しかし秀作を見限ることもできず、ただ一度ためらいがちに頷いてから黙って秀作について行った。
秀作の盗みは実に巧妙で鮮やかなものであった。番をしている婆の目を盗んで一つ二つと駄菓子を懐にしまうと、いつも買っている分だけ婆のところへ持っていき会計を済ませたのである。良平は、それを止めることのできない自分の無力さを呪い、全く気づいていない様子の婆をも呪った。若し婆が秀作の犯行に気づいていれば。悪事を許さぬ正義が秀作を咎めていれば。しかし、ここでの正義とは、他ならぬ良平の勇気であった。良平はそれと知らず、ただただ秀作の悪事を見ているしかできなかった……。
久しぶりに来たマル屋はもはやその面影がわずかに残るばかりで、営業はおろかもう何年も人の手が入っていないようであった。看板の塗装は剥がれかけ、店先のベンチには泥がこびりついていた。妙に頑丈そうな扉だけは記憶にあるままである。ふと、良平は背後に人の気配を感じて振り返った。其処には秀作が立っていた。良平ははじめ自分が幻覚を見ているのかもしれないと思った。秀作も良平と同じく少し驚いたようであったが、すぐに柔らかな笑顔を見せた。「久しぶり」と言う秀作に、良平も「久しぶり」と返した。良平はそれからまた、マル屋の看板に視線をやった。秀作は不思議そうにそれを見ていたが、やがて得心がいったようで、「ああ。マル屋な、潰れちまったみたいなんだ」と極めて明朗にそう言った。潰れちまったみたい? 良平は一瞬理解が出来ずに、秀作の方を見た。それから胸に静かな憤怒が燻ぶっているのを認めた。若し秀作が少しでも後ろめたさを感じていたならば沸き上がらなかったであろう怒りである。それは義憤であり、また良平の個人的で利己的な正義の怒りである。秀作は、自分が犯した罪について何の感情も抱いていなかった。誰からも罰を与えられてこなかった。結果として婆を苦しめた。婆を? ——いや、良平は何よりも自分を苦しめたことに怒っていた。なぜ自分がマル屋について苦い思い出を抱き続けなければならなかったのか。良平の中で、自分の正義が段々と膨れ上がってきた。その正義は言うまでもなく、目の前の悪を撃ち滅ぼすために膨れているのである。
「秀作よ。お前、ここで盗みをしたのを覚えているか」
「盗み……? そんなことしたっけな? よしんば盗みをしたとして、小僧が駄菓子を盗るくらい、大したことじゃないだろう」
「大したことじゃない? 大したことじゃないか……。そんならこっちが今からすることも、大したことじゃない」
良平はそう言って、秀作の左頬を力任せに打ち叩いた。秀作は不意を突かれて尻もちをつき、鼻と口からは血がどろどろとあふれ出した。そんな秀作のことなど見向きもせず、良平は秀作に背を向けて歩き出した。良平の手には、その正義の拳には、殴った感触と共に得も言われぬ充足感が満ちていた。空風がまた強く吹き、枯れた葉が一枚空へ舞った。その後良平がもう一度マル屋へ訪れることは、一切無い。
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