蒸発

昭和の時代、連絡が取れなくなり、行方知れずになることを

蒸発したと言った。

東北から東京へ出稼ぎに出た人たちが、

仕送りが出来なくなったり、様々な事情で故郷との連絡を取らなくなって

蒸発する人は多かったという。

私の父親も蒸発した。

父親は、出稼ぎに出ていたわけではない。

なぜ、蒸発したのか、私は何も知らない。

母に父親のことを自分から聞いたことは、ほぼない。

父親が、普通に家を出て、戻って来ないことは、よくあることだったらしい。

半年も戻らないこともあったという。

母は、それを

「放浪癖」と言っていた。

病気なのだと。

当時、貸本屋を営んでいて、雑誌や書籍の代金を先にもらい、

仕入に行くと言っては、賭け麻雀につぎ込んでいたらしい。

金を払ったのに、本が届かない。

当然、顧客からは催促が入る。

その度、母は、借金をして、注文の本を仕入れて顧客に届けていたようだ。

持ち逃げだ。

田舎で商売を続けるために、母は頭を下げて歩いたことだろう。

そんなことが何度あったのか、

ある日、母は、父親に

「今度家を出た時は、二度と戻らないで欲しい。」

と言ったと聞いた。

それは、随分後の話だが。

かくして、私が2歳の春、父親は家を出て二度と戻って来なかった。

もちろん、私にはその記憶はない。

最後の父親を見たのは、すぐ上の姉T子だ。

その日は、T子の小学校の入学式。

お父さん子だったT子は、父親と手を繋いで入学式へ。

いざ帰る時になって、教室にも校庭にも父親の姿はなかった。

近所の人が、

「お父さん、先に帰ったんかも知れんから、おばちゃんと一緒に帰ろう。」

と連れて帰ってくれたそうだ。

その日から、姉のT子は、

夕方になると家の前で父親が帰るのを待っていたという。

私の微かな記憶では、母は、父親のご飯茶碗と箸を陰膳として置いていた。

龍の絵が描かれた立派な茶碗だった。

私の記憶の中に父親の姿はない。

声も知らない。

「お父さん」

という言葉もなかった。

蒸発した日から、私の親は母だけになった。

私は、三人姉妹の末っ子。

母の側を離れない甘えん坊だ。

最後の蒸発の時も、父親は、顧客の預かり金を持ち逃げした。

本の代金だけでなく、個人に借金をしていたことも、

後々判明する。

農協に借入を打診するも、

連帯保証人を立てるように言われ、途方に暮れた。

親戚や知人に頼れる者もいない。

しかし、2人の人が保証人になってくれたという。

借りたお金で、本を仕入れて謝罪して回り、

個人の借金も出来るだけ返したという。

その後は、借りたお金を返さねばならない。

連帯保証人になってくれた人に迷惑はかけられない。

母は、身を削り、命を削って働き続ける人生となったのだ。

誰の責でもない、父親の責だ。

母に申し訳ない気持ちもあって、

父親との馴れ初めや父親がどんな人だったのかも聞いたことがない。

怖かったのかも知れない。

母から父親を軽蔑する言葉を聞くのが…

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