28 顔を見せないで頂戴

 月曜の必修語学の講義の前、私は玲子ちゃんから先週のノートを写させてもらっていた。


「ねえ、月乃ちゃん……。瀬戸くんと、婚約解消したって本当なの?」


 玲子ちゃんは遠慮がちに小声で尋ねてきた。


「本当よ。瀬戸くん、クラスメイトの女の子が好きなんですって。元々うちの父親が無理に進めていた婚約話だったし、年齢も釣り合う可愛い子の方に惹かれるのは当然だと思うわ。瀬戸くんに好きな人が出来たら、解消する約束だったしね」

「……月乃ちゃんは、それでいいの?」

「いいも何も、瀬戸くんに他に好きな人が出来たなら、私に縛り付けておくのは可哀想じゃない。ほとぼりが冷めたら、また父親が新しい婚約者を探してくると思うわ」


 私がそう言って、またノートを写し始めると、玲子ちゃんは黙り込んで携帯を弄っていた。



 語学講義が終わって教室を出ると、また制服姿の征士くんが待ち構えていた。どうしてこの時間、この教室で私が講義を受けていることを知っているのだろう。


「月乃さん、話を聞いてください!」

「……月乃ちゃん、少しお話聞いてあげなよ」


 私は隣で心配そうな顔をした玲子ちゃんを見た。情報漏洩は玲子ちゃんか。

 私は征士くんを無視して、玲子ちゃんに話しかけた。


「今日の必修は終わったから、もう帰るわ。家から迎えも来ているし。じゃあね」


 今日の後の講義は、レポートで単位が取れるものだ。

 私はさっさと大学を出て、車に乗り込んだ。



 次の日の能楽の講義は、玲子ちゃんは選択していない。私は他の友達と講義を受けてから教室を出た。さすがに今日は、征士くんはいないだろう。


「月乃さん!」


 来ていないと思ったのに、どうしてかいる。友達が不思議そうな顔をした。


「誰? 高等部の子? 月乃の知り合い?」

「ううん。知らないわ。何か間違えているんじゃない? 次の講義は八号館だから早く行かないと」

「そうだね、遠いもんね。あの教授、円座したがるから、早く行かないと教授の隣になっちゃう」


 私は友達を急かして、急いで八号館へ向かった。

 万が一、また講義の後待っていられると嫌なので、途中早退した。



 翌日はアメリカ人の先生の、何故か与謝野晶子研究授業。難しい日本語はよく知っている割に、却って簡単な単語を知らなかったりする面白い先生だ。今日も学生にフランクな日本語を訊いていた。


「相変わらず、面白い先生よね」

「『みだれ髪』なんて、すごく詳しいのにね」

「あ、早くサークル行かないと」


 玲子ちゃんとそんなことを話しながら、更衣室へ向かった。

 いつもの第二テニスコートへ行くと、制服姿の征士くんがいた。サークルまでついてくる気かしら、志野谷さんとはどうしたのかと思った。


 いつものストレッチ、ランニングの後、私と玲子ちゃんはスピンサーブの練習をした。それまで黙って練習を見ていた征士くんが近寄ってきた。


「スピンサーブ、教えましょうか?」

「…………」


 私は無視して、若竹くんのところへ行った。


「ねえ、若竹くん。スピンサーブのコツを教えてくれない?」

「おう、いいぞ。まずこう構えてだな……」


 若竹くんの解説はわかりやすく、私は下級生達と熱心に教わった。



 金曜のゼミの後、相変わらず征士くんがゼミ室の外で待っていた。私はさすがにうんざりして、彼を廊下の端まで引っ張っていった。


「あのね、どういうつもり? こんなに頻繁に大学へ来て、高等部の授業はどうしているの?」

「授業は抜け出してきています」

「抜け出していいものじゃないでしょう。大体私達はもう赤の他人でしょ? 二度と顔を見せるなって言ったはずよ」


 ここまでくると、ストーカーだ。私は溜息をついた。


「僕は、月乃さんの顔を見たいんです」

「こんな平凡女の顔を見てどうするの。可愛い彼女さんがいるでしょう。ちゃんと、そっちを見なさいな」

「それなんですけど、話を聞いてください」

「私は聞く話なんてないわ」


 もう来ないで、と言って立ち去ろうとすると、腕を掴まれた。


「お話を聞いてくれるまで、何度でも来ます」

「慰謝料の金額に関しては椎名さんとして。足りなければ後からいくらでも足すように、父に言うわ」


 私は腕を振り払って、家へ帰った。



 次の週も、征士くんは私の講義の後やサークルへやってきた。

 何度か私に話しかけたそうな素振りを見せていたが、私は全て無視した。

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