18 敗戦の理由

「どうしたんだ、瀬戸の奴。絶不調じゃねえか」


 私と若竹くんはコートのフェンスの向こうで、試合を観戦していた。

 他のダブルスとシングルスの試合は美苑の圧勝。唯一、シングルス1の征士くんの試合だけが負けていた。

 スコアは2─5。征士くんは2ゲームしか取れていない。


「あんな相手、俺なら楽勝だぞ。瀬戸はどこか怪我でもしてるのか?」

「さあ……」


 若竹くんは眉をひそめている。私だって、あんな征士くんはおかしいと思う。

 サービスは入らないし、打ち合いにも力がない。相手のスピンサーブも打ち損ねてアウトになってしまっている。

 結局2─6で負けてしまった。

 私のところに、深見くんが駆け寄ってきた。深見くんは副部長になっていたはずだ。


「虹川先輩、瀬戸に何かあったかご存じですか? どこか見えない部分を怪我しているとか?」

「知らないわ」

「そうですか。次の試合、どうしよう……。あんな瀬戸じゃ出せません」


 若竹くんと三人で顔を見合わせる。そこへ要くんもやってきた。要くんはこの試合には出ていなかった。征士くんの姿に要くんも不安そうだ。

 深見くんは苦渋に満ちた顔をした。次のシングルス1は相当強い相手が出てくるらしい。本来ならば征士くんが当たる相手だ。


「仕方ない。若竹お前、次の試合ダブルスな。俺がシングルス1に回って、瀬戸をシングルス2に回す。虹川先輩、まだ次の試合まで時間があるから、出来たら瀬戸から話を聞いてやってください」

「そう言われても……」

「頼みます。虹川先輩にしか頼めません」


 深見くんの懇願に私は根負けした。征士くんを探すと、コートの隅で一人でタオルを被って座っていた。

 私はその横に腰を下ろした。


「征士くん。どこか怪我してるの?」


 躊躇いがちに声をかける。返事はなかった。


「ねえ、本当はどこか痛いんじゃないの?」


 辛抱強く返事を待っていると、しばらくの間があってから、征士くんは掠れた声を出した。


「……若竹先輩といなくて、いいんですか?」

「若竹くん? 今は関係ないわよ。それより征士くんがどこか痛いのか……」

「……痛い、ですよ……」


 タオルが揺れる。表情は見えないけれど、ひどく辛そうな声。やっぱりどこか痛めていたのね、と私は心配になった。


「どこが痛いの? 次の試合シングルス2だって言ってたけど、やっぱり出ない方がいいんじゃ……」


 私がそう言って顔色を見ようと近づくと、急に手首を強く掴まれた。


「……月乃さんのせいで、痛いんです」

「え、私? 足とか踏んだっけ?」

「違いますよ。心が痛いんです」


 ますます強く手首を掴まれる。痣になりそうな痛さだが、私は我慢した。


「婚約者、誰でもいいんでしょう? 僕じゃなくても」

「……婚約者の話? さっきの?」

「僕よりも条件がいい人がいたら、乗り換えるんでしょう? 例えば、すぐに結婚出来る人とか」


 僕はまだ十五歳だから、結婚するにしても最低三年はかかる、と血を吐くような声で言った。

 私はその台詞を聞いて心底驚いた。まさか婚約話を気に病んでいるとは、思いもしなかった。

 私はしばらく考えて、言葉を選びながら答えた。


「あのね。婚約が決まるまでは、父が決めた人が絶対だと思っていたわ。でも征士くんに決まって、おしゃべりとか、お出かけとか、テニスとかして婚約者が征士くんで良かったって思ったの」


 征士くんは何も言わない。黙って、ただぎゅっと私の手首を掴んでいる。


「おしゃべりしていて楽しい。お出かけしても色々気遣ってくれる。優しいし、格好良いって思っている。テニスも上手だし頭も良くて、私が釣り合わないなあって、呆れられていたらどうしようっていつも考えている。だから」


 私はタオル越しだけど強く征士くんを見つめた。掴まれていない方の手で、征士くんの手を握る。


「もし征士くん以上の『資質』の人がいても、私は婚約を断る。征士くんが別の人を好きにならない限り、私は征士くんの婚約者でいたい。それじゃ、駄目かしら」


 長い沈黙が落ちた。

 別のコートでボールが跳ねる音が聞こえる。

 ふと、私の手首を掴む手が緩んだ。


「…………駄目じゃ、ないです」


 小さな小さな声。それでも間近にいる私には聞こえる。


「他に、好きな人なんて、出来ません。…………月乃さんの、婚約者が、いい」

「そう。私もあなたが婚約者でいてくれるなら幸せよ。他の婚約者なんて、絶対いらないわ」


 タオルから地面へ、ぽたりと雫が落ちた。私が握った手を、強く握り返される。

 手が緩まるのを待ってから、私は立ち上がった。座り込んでいる姿に、微笑みかけた。


「さあ、もうすぐ次の試合じゃないかしら。格好良い婚約者の、上手なテニスが観たいわ」

「…………はい!」


 私がコートの外へ出る為に歩き出すと、背後でゆっくり立ち上がる気配がした。

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