162.前世でやらかしてしまった自分
木之下さんとのディナー当日。
二人で日時を相談し、どんな店がいいのか調査し、当日にどうエスコートするのかと何度もイメージトレーニングした。
経験がないなりに準備したつもりだ。当日着ていく服を何着も購入して悩みに悩んだ。女性に受け入れられる話題作りをするために会社で様々な人に話しかけた。
その甲斐もあって、木之下さんとのディナーはおおむね成功したと言ってもいいだろう。
「高木しゃ~ん。もう一軒行きましょうよ~」
……誤算だったのは、木之下さんがとてつもなく酒に弱かったことである。
大人の食事だ。もちろん酒もある店を選んだ。
木之下さんも「では少しだけ」と言って飲んでいたものだから、酒に弱いだなんて考えてもいなかった。
最初は顔色に変化はなかったし、話しぶりも問題なかった。俺の方が酔いを感じていたほどだ。
なのに、店を出たら突然ろれつが回らなくなったのだから驚いた。もしかしたら彼女も俺と同じくらい緊張していて、店を出た瞬間にその緊張の糸が切れてしまったのかもしれない。なんて、こんな美女にそんな初心な部分があるわけないか。
「木之下さん、タクシーに乗りましょう。俺家まで送りますから」
「やーだー。あたしはまだ高木さんといっしょに飲みたいの。あと一軒、あと一軒だけでいいから~」
まさかあの真面目な木之下さんが聞き分けのない子供みたいに豹変するとは……。酒は飲んでも飲まれるな。彼女の姿を見て、教訓にせずにはいられないだろう。
「わかりました。あと一軒だけですよ。だから次の店を出たらすぐに家に帰ること。いいですね?」
「わかった~。ありがとう高木しゃ~ん。大好きぃ~」
木之下さんが俺の腕を抱きしめた。女性特有の匂いと柔らかさに、体中の血流が速くなる。
しかも「大好き」だなんて初めて言われた。それもこんな美女に。酔いもあって夢の中にいるのかと錯覚しそうになる。
これ、木之下さんの酔いが覚めたらどうなるのだろうか? 最初は酔っぱらった自分の姿を思い出して恥ずかしがるだろうけど、最終的には絶対に怒るだろうなぁ……。
木之下さんが記憶を残しているのかいないのか、それが問題だ。どちらかによっては、今後の俺の人生に関わる。できれば五体満足でいたいものだ。
「ふふふんふーん♪ あたしの行きつけのお店に案内しますよ~」
鼻歌を歌う木之下さんはとてもご機嫌だった。ただ足元はそうもいかなくて、フラフラするものだから思わず肩を抱いてしまった。
くっ、女性の匂いはなぜこうも男を狂わせようとするのか……。これは不可抗力と自分に言い聞かせながら、木之下さんに肩を貸しながら歩いた。
必死に理性を保ちながら、木之下さんの案内に従ってその店に辿り着く。
「えっと、スナック?」
辿り着いた店はこぢんまりとしていて、目立たないところにスナックの店名があった。
真面目なキャリアウーマンって感じの木之下さんが行きつけという店だ。もっと高級感のあるおしゃれなバーを想像していた。まあスナックとバーの違いを説明しろって言われてもできないんだけどさ。
でもスナックって女性が接客してくれる店じゃないのかな? 木之下さんとスナックというイメージがなかなか結び付かない。
「いらっしゃいませ。あら、瞳子ちゃんじゃない」
カウンターから綺麗な女性があいさつしてくれた。年齢は……おそらく木之下さんと同じくらいだろうか。
本当に営業をしているのかと疑うほどガラガラだった。客どころか、店員もカウンターにいる女性一人しか見当たらない。
「ママ~。飲みに来たわよ~」
「はいはい。すぐにお水出してあげるからね」
ママと呼ばれた女性は酔っぱらいと化した木之下さんの扱いに慣れているようだった。
こんな状態で来店したにもかかわらず、驚くことなく対応してくれる。その落ち着きのある行動に、俺はようやくほっと一息つけた。
水を持ってきてもらう間に、木之下さんをカウンターに座らせる。座った瞬間ぐでーと突っ伏した。本当に大丈夫だろうか?
「瞳子ちゃーん、お水とおしぼりだよー。あなたもどうぞ座ってくだ──」
ママさんは俺と目を合わせた瞬間、ピタリと固まってしまった。
綺麗な黒い瞳が俺を映している。彼女の吸い寄せられるかのような魅力を持った大きな目。どこかで、見たことがある気がする。
「あ、その、どうぞ座ってください。瞳子ちゃんが男の人を連れて来るだなんて初めてだったから驚きました」
「あ、ああ。そうだったんですね」
促されるまま木之下さんの隣に腰を下ろした。
ママさんは木之下さんに負けず劣らずの美しい女性だ。艶のある黒髪に端正な顔は、美しさとかわいらしさをバランス良く両立させていた。
それにスタイルがとてもいい。洋服越しでもわかるはっきりとした膨らみ……。おっと、これじゃあエロオヤジみたいだ。まあおっさんなんですけどね。
「えっと、何か注文していいですか?」
「無理しなくてもいいですよ。瞳子ちゃんに連れて来られたんですよね? あなたも飲んでいるみたいですし、お水を出しましょうか?」
「あ、すみません。お願いします」
ママさんの気遣いがありがたい。
スナックに来たのに飲まないのは失礼と思って注文しようとしたが、俺は酒豪と呼べるほど酒に強いわけじゃない。これ以上飲むと、木之下さんのように潰れかねなかった。
「どうぞ」
「ありがとうございます」
水とおしぼりを出してくれた。ただそれだけのことなのに、笑顔を見せられるとドキリとしてしまう。これがスナックのママか……。
別に見ている人もいないのに、ハードボイルドを気取っているつもりでコップを傾ける。酔いが回った体に水が染み渡るぜ。
「瞳子ちゃんもお水を飲んで。そのままだと気持ち悪くなっちゃうよ」
「う~ん。飲ませて~」
「もう、しょうがないんだから」
木之下さんが酔っぱらった姿にギャップを感じたけど、ママさんの前だとさらに進化して甘えん坊になるようだ。
「あの、ママさんは木之下さんと親しいようですけれど、お知り合いなんですか?」
ママさんは俺を見つめてきょとんとする。隙のある表情を見せられてドキリとさせられた。って、さっきからママさんにドキドキさせられてばっかりだな。
「あ、ごめんなさい。ママさんって私のことですよね?」
「すみません。名前をおうかがいしていなかったものですから。なんとお呼びすればいいでしょうか?」
彼女はしばらく目を伏せていた。何かまずいことを聞いてしまったかと心配になっていたら、顔を上げてニッコリ笑いかけてきた。
「私のことは……葵、と呼んでください」
「葵……ママ」
「ママはつけるんですね」
「す、すみません」
別に怒られたわけでもないのに謝ってしまう。この人、かわいらしい笑顔なのに迫力があるんだよなぁ。
葵ママ。いや葵さんと呼ぶべきか。……葵?
名前を聞いて、誰かを思い出しそうな気がして、葵さんの顔を凝視する。
なんだか、どこかで会ったことがある気がする……。最近ではなく、もっと昔に……。
脳裏に過ぎったのは一人の女の子。印象は違うけれど、共通点も多いように思えた。
「あの、つかぬことをお尋ねしますが」
「はい?」
「もしかして、宮坂葵さんですか?」
「っ!」
葵さんは大きな目を見開いた。決して大げさな反応ではなかったけれど、確かに驚きを見せていた。
それで彼女が宮坂葵なのだと確信できた。
さっき以上にドキドキしながら、自然と口が動いていた。
「俺、高木俊成です。たぶん覚えていないと思うけど、小・中学で君と同じ学校だったんだ」
「覚えていますよ。高木くん……。同じクラスになったこともあったよね?」
前のめりになる俺を、葵さんは柔らかい笑顔で押し止めた。
宮坂葵。そうだ、幼いながらに彼女の可憐さを意識していた。間違いなく、葵さんはあの頃の俺のマドンナだった。
もう何十年も前の話。子供の頃の思い出だった少女。その女の子が目の前にいて、俺を覚えてくれている。これほど嬉しいことはない。
別に仲良しだったわけではない。それでも、同じ時間を共有していた人と再会できた。
たったそれだけのことで、心までもが若い頃に戻ったような気になれた。
「懐かしいなぁ。葵さん……って呼ぶのも変な感じだ。ははっ、なんて呼んでいいものか。君があの頃とあまり変わってなくて驚いたよ」
「変わってない……かな?」
「あ、いや、もちろん大人になっているんだけど。あの頃のかわいい感じがそのままというか……。変わらず美人だと思って」
「ふふっ。ありがとう」
なんだか社交辞令で褒めたみたいになっちゃったな。彼女も流した感じだったし。
「私も」
「え?」
「私も、あなたのこと名前で呼んでいいかな? ほら、葵さんと呼んでくれているのに『高木さん』と呼ぶのはなんだか変な気がして……」
「あ、はい、いいですよ」
「じゃあ……俊成くん、で」
葵さんに名前で呼ばれて、むずがゆいような、でも温かな気持ちが込み上げてきた。
バラ色の青春なんぞ送ったことはなかったけれど、この甘酸っぱさは青春を謳歌する青少年のときめきと似たようなものではなかろうか? そう思うほどに嬉しさで表情筋が緩んでいく。
テンションはMAX。今になって酔っぱらったみたいに口が回り始める。
小学生時代の話。中学生時代の話。共通点がある話に花を咲かせた。
友達のこと。先生のこと。あんなイベントやこんな行事があったよね。元が仲良しの関係ではなかったけれど、同じものを体験してきたからか、話が盛り上がった。
思い出話をしているだけで童心に戻っていくような感覚になる。
懐かしくて、懐かしすぎて、大したことのない少年時代が今になって彩りを見せてくれる。
「小川真奈美ちゃんって覚えてる? 真奈美ちゃん、子供が五人もいるんだって。パワフルだよね」
「そうなんだ。佐藤一郎って覚えてるかな? あいつは子供二人なんだけど、こんな稼ぎで大学行かせられるのかって漏らしてたよ」
「あははっ。羨ましいけれど、子育ては大変そうだよね」
「だよな。あれ、葵さんは結婚はしていないの?」
空気が凍りついた……気がした。
女性に結婚の話をする時は細心の注意を払うべし。木之下さんの時は注意できていたのに、ここへきての失言。冷や汗がぶわっと一気に流れた。
「しているように、見える?」
別に怒ったわけでも取り乱したわけでもないのに、葵さんから冷気のようなものが放たれているように感じる。
「いや……、少なくともモテないようには見えないよ」
できるだけ明るく笑いながら返答する。口元がひくついていないかが心配だった。
「そっか……。うん、よかったらお酒飲みながら話さない? こんな機会ないから、もっと俊成くんとお話したいな」
「よ、喜んでっ」
昔憧れていた女の子。そんな女性に誘われて、断る選択肢なんかなかった。
それに、俺も葵さんともっと話したかった。きっとこんな機会は二度と訪れない。この楽しい時間は永遠ではないのだから。
「う~ん……。高木しゃ~ん……」
ここへ連れて来てくれた木之下さんに感謝したい。小さく寝言を呟いている彼女に、後で全力で介抱することを誓った。
※ ※ ※
チュンチュンと、雀のさえずりで目を覚ました。
「もう朝か……?」
気だるさを覚えながら体を起こした。最近は規則正しい生活をしていたおかげで倦怠感なんてなかったのに、今日はやけに体が重い。
「ああ。けっこう酒飲んだんだっけか……」
木之下さんとのディナーで飲んで、その後も中学の同級生だった葵さんと再会して飲み直したんだった。楽しくて酔っぱらった感覚がなかったけど、明らかにいつも以上の酒量だった。
そりゃあ気だるくなっても不思議じゃないか。
俺はベッドから降りようと手をついた。
「え……?」
手が「ふにょんっ」と擬音がつきそうなほど沈んで驚く。俺のベッドはこんなにも手触りが良くないし、柔らかくもない。
「ん……なあに……?」
突然、俺ではない女性の声がした。寝惚け眼のままでいられるほど、俺の心臓はタフにできていない。
もぞもぞと布団から顔を出したのは葵さんだった。しかも下着姿。肌色が眩しすぎた。
「ほわあああああああああーーっ!?」
驚愕から奇声を上げてしまう。
のけ反った拍子に思いっきり何かを掴んでしまう。「ひあっ!?」と、またもや女性の声だった。
恐る恐る声の方を向く。反対側の布団がもぞもぞと動いて、びっくりした表情の木之下さんが顔を出した。
こちらも下着姿だった。白い肌が美しい……。なんて呑気な感想を抱いている場合じゃない!
「も、もしかして……俺……俺っ……?」
美女二人とベッドを共にした。それが事実だ。ここから導かれる答えを、大人なら想像できないわけがないだろう。
あまりの事態に、俺の意識は現実逃避してしまった。
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