161.前世で舞い上がった自分

 綺麗なフォームで走っていた銀髪碧眼の美女の名前は、木之下瞳子という。外国人ではなく、ハーフの日本人とのことだ。

 最近スポーツジムに入会したらしく、まだ慣れていないからかインストラクターくらいとしか会話していないようだった。少なくとも俺は他の人と楽しくおしゃべりしている彼女を目撃していない。

 女性もそれなりにいるとはいえ、男女比で言えば男が多い。あれだけの美女なら男に言い寄られることがたくさんあるだろうし、警戒しているのかもしれない。


「高木さん、ストレッチは大切よ。もっと真面目にやりなさい」


 そんな警戒心の強い彼女は、なぜか俺によく話しかけてくる。


「ご指摘ありがとうございます。よければ木之下さんといっしょにストレッチしてもいいですか?」

「……別に構わないけれど」


 にへらと笑いながら誘ってみれば、意外にも木之下さんは応じてくれた。

 今更俺が美女と良い関係を築くことなんてできないことをわかっている。だからこそ、木之下さんのような女性相手でも平常心でいられた。

 それにしても、彼女はなんで俺に話しかけてくれるんだろうね?

 思い当たることがあるとすれば、あれかな。初めて木之下さんと出会った日、ランニングマシンを二人並んで走った。その時に言葉を交わしたわけじゃなかったけど、何かもの言いたげな顔をしていた。きっと俺をライバル認定してくれたのだろう。

 体を鍛えるのは自分との闘いと聞くが、競争心を持って取り組んだ方が効果が上がるとも聞く。何事もライバルの存在が自身を高めるのだ。

 そうか。ライバルか……。そう思ってもらえるのなら光栄だな。

 良きライバルになれるように、木之下さんとは誠実に付き合っていこう。俺としても張り合いがあるし、スポーツジムに通う楽しみがまた一つ増えた。



  ※ ※ ※



 自分を変えようと動き始めてから半年が過ぎた。少しずつ日常が変わり始めた気がした頃のこと。


「あれ、木之下さん?」


 朝早起きして、通勤も運動のため少し遠くの駅まで歩いていた。

 その途中で見慣れてきた銀髪の女性を見かけた。道端でうずくまっているものだから、体調でも悪いのかと心配になる。

 とにかく駆け寄って声をかけてみることにした。


「木之下さん……ですよね? 何かありましたか? 体調でも悪いんですか?」


 少し緊張しながらも話しかける。

 顔を上げた彼女はやっぱり木之下さんで、間違えていなかったことに安堵した。

 木之下さんも通勤の途中だったのだろう。いつもスポーツジムで会っていた時とは違い、スーツ姿が新鮮に映る。カッコいいキャリアウーマンって印象だ。


「あ……高木さん。おはようございます」

「あ、おはようございます」

「……」

「……」


 あいさつを交わしてだんまり……。え、この流れはなんでうずくまっていたのか説明してくれるところじゃないの?


「あの、うずくまっていたように見えるんですけど、どうかされましたか?」

「いえ、別に……」


 木之下さんはそう言って視線を落とす。俺もつられて足元に目を向けた。


「あれ、その靴……。ヒールが壊れていませんか?」

「えっと……」


 失態を見られて恥ずかしいとでも思っているのか、木之下さんは言葉を濁す。

 困っている時。素直に助けを求められる人とできない人がいる。

 木之下さんは素直に「助けて」と言えない側の人なんだろうな。

 俺がそう思うのは失礼かもしれないけど、そんな彼女に共感してしまった。


「すみません。ちょっと失礼しますね」

「え? な、何を」


 俺は屈んで木之下さんの足元を観察する。ヒールが折れた拍子にケガをした可能性があったけど、どうやらその心配はいらないようだ。


「これならなんとかできますよ。ジム仲間のよしみです。俺に任せてください」


 顔を上げて笑いかける。木之下さんは真っ赤になってかわいらしい表情を見せてくれた。



  ※ ※ ※



「高木さん、本当にありがとうございました」


 木之下さんが深々と頭を下げる。とりあえず立って歩く分には大丈夫そうだ。

 早い時間でなければ靴を買いに行けばいいだけだったんだけど、店が開いていないのなら仕方がない。手持ちの道具にプラスしてコンビニで買い足せばなんとか応急処置ができた。瞬間接着剤って想像以上に種類があるよね。


「いえいえ、困った時はお互い様ですから。靴の修理技術を学んでいてよかったです」

「靴に関するお仕事をされているのですか?」

「そういうわけじゃないんですよ。ただの趣味といいますか……、趣味作りの一環で試しにやってみたことがあっただけなんですよ」


 やっててよかった靴のお直し体験会。本当に知識や技術ってどこで役立つかわかんないな。


「趣味作りの一環……?」


 木之下さんの頭にクエスチョンマークが浮かんでいるのが見えるようだ。口が滑って変なことを言ってしまったな。


「無趣味な男のあがきと言いますか……いや、忘れてください。それにこれからお互い仕事でしょう。急がなくていいんですか?」

「そ、そうですね。お時間を取らせてしまって本当にごめんなさい。今度お礼させてくださいね」

「ははっ、それなら今度いっしょに食事でもどうですか?」


 何の気なしに誘ってしまった。言ってから心臓がバクバクする。

 自分から女性を食事に誘ったことなんかなかったのに……。どうした俺? 木之下さんを助けた気になって調子に乗ったか?

 不安で圧し潰されそうになりながら木之下さんに目を向けた。


「高木さんが……それでいいのなら……」


 戸惑った様子を見せながらも、木之下さんは小さく、だが確かに頷いてくれた。

 え、あ? ほ、本当にいいのか? 今、確かにオーケーしてくれたんだよね?


「で、ではっ、また日にちを相談しましょうねっ。あたしは急ぐので失礼しますっ」


 木之下さんは慌ただしくこの場を後にした。それはもう素早すぎて、俺が口を挟む隙がなかったほどだ。


「これ、夢じゃないよな?」


 お約束のように頬を引っ張る。当然痛い。痛みを感じるにつれて、喜びが段々と込み上げてきた。


「よっしゃ」


 拳を握って喜びを表す。控えめな感情表現だけど、心の中では嬉しさのあまり踊り狂っていた。

 聞く人によっては気持ち悪がられるかもしれないが、異性と二人きりで食事するのは初めてだった。この歳にもなってお恥ずかしながら、思春期男子のように舞い上がっていた。

 しかも、相手は通っているスポーツジムでマドンナ的存在になりつつある木之下さんだ。自分なんかが手の届くはずのない高嶺の花だとわかっていただけに、降ってわいたような幸運に感謝せずにはいられない。


「よし。今日は充実した気持ちで仕事ができそうだ」


 さすがに今から彼女とどうこうなろうとまでは考えられないが、おっさんをときめかせてくれただけで「ありがとう!」と両手を広げて感謝したい。

 美女と食事の約束をしただけでこれほど気分が上向くのだ。人生には潤いが必要なのだと、その言葉の意味をようやく実感できた日になった。


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