160.前世で変えようとした自分
朝。目覚ましとともに起床して、粗末な朝食をとり、身支度を整えた。
起きてから家を出るまでに二十分ほどの時間が経過。準備にかかるタイムをさらに縮めたいものである。主に俺の睡眠時間のために。
「行ってきまーす」
返事がないとわかっていても、つい口にしてしまう。
俺の名前は高木俊成。お一人様を楽しむしがないサラリーマンだ。
二十代の頃は結婚のことなんぞ考える暇がないほど、真っすぐ仕事に取り組んでいた。
三十代になると焦りが芽生え、婚活なんぞをしてはみたが効果はなし。異性に対する接し方を知らなかったことを今更ながらに思い知らされた。
四十代に突入した現在。諦めの境地に至ったのか、仏の心で日々を謳歌できるようになった。
電車に揺られ時間通りに出勤。会社では真面目に業務をこなし、できるだけ残業しないようにと心掛けている。
「ただいまー」
今日は残業することなく、定時に上がることができた。やり切ったという達成感のおかげで、出迎えてくれる人がいなくてもご機嫌でいられた。
「ふふふ。今日はご馳走だぜ」
スーパーで買った総菜をテーブルに並べる。お供にビール。完璧な布陣である。
プシュッと缶ビールを開けたのを合図に、テレビを眺めながらの憩いの時間の始まりだ。
酒を飲み、味の濃い総菜をつまみ、突っ込みを入れながらテレビを観る。俺にとって最高の時間だ。
部屋に俺の笑い声が響く。一人だけだからか、その声は思ったよりも小さい。
「はははっ」
つまみがなくなってもビールを追加。できるだけ長い時間楽しむ。
それが終われば、風呂に入って就寝だ。
そうして、また朝がきて、会社に出勤し、帰宅して一人の時間を楽しむ。それを当たり前のように延々と繰り返していた。
何度も、何度も、何度も、何度も、何度も何度も何度も何度も何度も……。俺は一人の人生を楽しみ続けた。
「こんな人生が楽しいわけねえだろうが!!」
同じ日々の繰り返し。それを共有できる人は誰もいない。何も変わらず、ただ老いていくだけ。
そんな自分を、テレビを観ているみたいに眺めるだけだった。何も変えようとせず、成長もなく、愚痴ばかりを溜め込んで何もしてこなかった。
このまま四十代が過ぎ去り、五十歳になっても六十歳になっても何も変わらない気がした。いや、その前に体を壊して誰にも知られることなく死んでしまうんじゃないか? そんな不安さえ芽生えてくる。
俺の人生こんなんでいいのか? いや、ダメに決まっている。ただ時間を浪費することがこれほど恐ろしいことだったなんて、若い頃は考えもしなかった。
緩やかな恐怖が迫りくる。現状維持は何もしないことではないと身に染みた。動かなければ失うばかりだ。いつまでも足元が崩れない保証なんてないのだから。
今更高望みはしない。まずは人との繋がりが欲しい。
四十歳になって、ようやく焦りから動き始めた。
「休みをください!」
勇気を振り絞って、溜めるばかりだった有休を使った。
人との繋がりを得るためにはコミュニティに入るのが一番だ。ネットに書いてあったことを信じるのに不安がないわけじゃなかったけど、やってみなければこれが正しいのか間違っているのかも判断できない。
何か趣味を始めるのだ。自分にできそうな趣味はないかと調べてみた。ネットはとても便利だ。
とはいえ、得意なことどころか自分の好きなことでさえ朧げだ。趣味らしい趣味を持っていなかったのが悔やまれる。俺ってやつは、なんで上っ面でしか人と接してこなかったんだ。
調べた先から無料体験を試してみる。けれどなかなかしっくりくるものが見つからない。
「スポーツジムか……。友達作りが難しくても健康やダイエットの役には立つし、ちょっと続けてみるか」
たくさん試してきた中で、スポーツジムは少し続けてみようと思った。たぬきのようなぽんぽこ音がする腹をなんとかすれば、少しは女性から興味を持ってもらえるのではなかろうかという下心があったことは否定しない。
こうして俺は、日々の生活の中にスポーツジムに通うというルーティンを追加したのである。
「そう! その調子ですよ俊成さん! もう一息! ほら、ファイトファイト!」
「は、はいぃぃぃぃ……」
インストラクターに見てもらいながら体を鍛えるのは、最初は少し恥ずかしかったけれど、慣れれば楽しいものだった。
運動部のノリというやつなのか、インストラクターは明るくてフレンドリーな人だった。初対面の自己紹介の時から「俊成さんと呼びますね」と暑苦しい笑顔で言われて面食らったものだが、そのおかげで俺も少しだけ砕けた感じで接することができている。
この調子でインストラクターと接していれば俺も明るい性格になるのかもしれない。そうやって自分を変えられれば人との繋がりもできるはずだ。そう信じたい。
さらに日々を積み重ねていくうちに体も引き締まってきた。鏡で見れば筋肉が浮き上がってきた部位もあって心が躍る。
「俺、けっこういい男になってきた?」
四十歳になって初めて自信が芽生えてきた。始めるのに遅いことはないってのは本当だったんだな。
若い頃はわざわざ金を払ってジム通いをする意味がわからなかったものだけど、今ならその意見をひっくり返せる。引き締まってきた体を褒められるのはいいもんだぞ。
俺がトレーニングの喜びを覚え、細マッチョへの道に片足を突っ込んだ頃だった。
その日はいつも俺についてくれているインストラクターがいなかった。他の人も忙しいらしく、俺は一人でトレーニングに取り組んでいた。
初心者用のプログラムに取り組むばかりだったけれど、これを機に他の部位を鍛えることにも挑戦したい。意欲が湧いている自分に気づき、なんだか誇らしくなる。
「おっ、外国人の女性とは珍しい」
黙々とランニングマシンで走っている銀髪の女性がいた。髪を染めている人はいるが、あそこまで綺麗な銀髪は初めて見た。
しかもその女性の走る速度はかなりのものだ。最近芽生えた闘争心が刺激される。
俺は空いている女性の隣のランニングマシンを使わせてもらうことにした。
チラリと横目で銀髪女性に目を向ける。
「……」
そこには息をのむほどに美しい、銀髪碧眼の美貌があったのだ。
汗がきらめいていて、素人目で見ても走る姿が綺麗だった。
女性は俺が隣に来ても気にもしていない。そりゃあ俺とは住む世界が違うんだろうしな。眼中になくても当然か。
美女に話しかける度胸はなくとも、ただ隣でいっしょに走れる幸運を噛みしめよう。俺はマシンのスイッチを入れて走り出した。
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