010 交流会
黄昏時、ホノルル港付近のコンサートホールを借り切って設けられた会場。日米双方の音楽隊による演奏会が実施されている。
自衛隊によるマーチングや、ギター片手の米軍男性によるアーティストのような独唱など、どれも見応えのあるモノばかりだ。
そんな賑やかな会場の中、まや型護衛艦〈たるまえ〉副長の渡辺は1人、物静かに食事を楽しんでいた。
「ヘイ、オヒトリデスカ」
一人の米軍兵が渡辺に声を掛ける。
年齢は同じくらいだろう。それなりの役職に就いていそうな振る舞いだ。
『ええ、こちらへ来て、どうぞ一緒に楽しみましょう』
流暢な英語で受け応える渡辺。
来る者拒まず。例え一期一会であれ、その場のコミュニケーションは大切にするのが渡辺流だ。
『感謝する。私はミサイル駆逐艦〈イーサン・ロドリゲス〉の艦長、ガドフリー・サンダース中佐だ』
『これはこれは、よくぞ声を掛けてくれました、サンダース中佐。私は渡辺啓輔、2等海佐です。〈たるまえ〉副長をしています』
〈イーサン・ロドリゲス〉は、現在世界最強とも言われているイージス艦〈アーレイ・バーク級ミサイル駆逐艦〉のうちの1隻だ。
本演習はあと7隻の同型艦が参加する事になっている。
『ハハハ、渡辺2佐、中佐同士で仲良くやろうじゃないか。調子はどうですかな』
『ハハハ、なかなかどうも、今回の演習は幹部使いが荒いと思いますな』
来週から演習工程が開示される。
毎週大きく内容が異なるとのことだ。
どのような指示であれ、昼夜を問わず的確に動けるよう常に気を張っておかなければならない。
これは中々肉体的にも精神的にもキツい所がある。
『フム。貴方もそう思うかね。まったく素晴らしい演習だよ、本当に……』
サンダースも渡辺と同じく、幹部としての重圧を背負いながらここに居る。
また、参加している30隻以上の艦艇それぞれに艦長や副長、その他幹部が大勢搭乗しているのだ。
せっかくの交流の機会、どのような面々が居るのかを見て回るのも悪く無い。
目の前のワタナベという男は、一見優男に見えてなかなか肝の据わった目つきをしている。
好きな目つきだ。彼と一緒に仕事をすれば、色々と楽しいモノを見れるかも知れない――。
『渡辺2佐、逃げたいと思った事は?』
『ありませんな』
敢えて主語を省き、漠然とした質問を投げかけたが、渡辺は迷う事なく返答した。
『……具体的に何から逃げるかは問うていないのだが、そんな答えで良いのか?』
『ハハハ、どのような場面でも、私に逃げるなんていう選択肢はありませんよ』
『……ほう』
意味が解らずに質問し返してくる者や、ここぞと言わんばかりに日頃の愚痴を垂れるなら下世話な会話に終始するしかない。
対して、自信満々に即答してくる人間はそれなりの信念を持っている事が多いのだ。より深く、渡辺の人間性を探りたくなった。
『どのような場面でも? 幼少期から果敢に困難へ立ち向かって来たというのかね?』
敢えて白々しく質問を続けるサンダース。彼は、時折こうやって初対面の人間に対して不毛な質問攻めをする。そうやって十人十色の反応を楽しみ、自分の価値観と相容れるかどうかを判断するのだ。
『ええ、幼少期から。解決するしないは別ですが、挑むという選択肢があれば迷わずそちらを選択しています。逃げようと思った事は記憶にありませんが、うーん……待ってください、思い出してみます』
渡辺は腕を組み、右手の指を顎にあてて考え込むような仕草を見せながら目を泳がせる。そして、ひと呼吸開けて長めの瞬きをしたあと、口を開く。
『……やっぱりありませんな』
期待通りとは行かないが、面白いベクトルの返答だ。渡辺はプライベートにおいても迷いが無く、優れた決断力を持っているという事だろう。
『人は物事を決断する際、大きく分けて二通りの判断をするのだと私は思っています』
『……ほう?』
聞いた事の無い話だ。サンダースは組んでいた脚をほどき、肩肘をテーブルに掛けながらやや前傾姿勢で、食い入るように渡辺の話を聞く。
『目の前の事柄について、それが”やりたい事”なのか、それとも”出来る事”なのか、という判断に絞られるという事です。”出来るけどやりたくない”と判断する癖がついてしまえば、何事も挑戦しない人間になってしまう。物心ついた時から、私は潜在的にそう感じていたと思います』
幼少期から好奇心旺盛だった渡辺。好きな事ばかりをやってしまうと、どうにも視野が狭くなるような気がして嫌だった。むしろ、やりたくないと直感した事柄にこそ率先して挑み、己の経験値として積み重ねて来たのである。
『それに、どのような選択肢であれ選ぶのは自分自身です。……うん、いつしか好奇心が責任感に変わっていた。後世に恥じぬよう、全ての決断に責任を持つのが今の私なりの人生観とでも言っておきましょう』
『……なるほどな。類稀なる責任感をお持ちのようだ。それはあなたの人生の賜物でもあり、どうあっても揺らぐ事は無い程に堅牢なのだろうね』
――良いじゃないか。
サンダースは満足げに笑みを浮かべ、渡辺に向けて拳を差し出した。
『ハッハハ、認めて頂けたと解釈して宜しいですかな』
そう言いながら、渡辺も軽やかな笑みを浮かべてサンダースと拳を付き合わせる。
『――この夕食会、思いのほか有意義なものだった。実は少し気が滅入っていたのだが、そうもばかり言っていられないな』
『同感です。一緒に頑張り抜きましょう、サンダース中佐』
小一時間の歓談を楽み、最後に2人でがっしりと握手を交わした。
辛いのは自分だけではない。皆で頑張り抜いて、このクソみたいな演習をグランドフィナーレに導いてやろう。
この夕食会は、そう再認識するのに丁度よい機会となった。
『ねえ、タクト、あなた犬は好き?』
昼間知り合ったばかりのアビー達と坂元達。
彼らはすっかり意気投合し、夕食会でも一緒の席を確保して、たわいない会話を楽しんでいる。
「ほら、ナオヤ、これくらいちゃっちゃと食べちゃいなさいよ」
「待て待て、量が尋常じゃねぇ」
但し、テイラーはずっと木村をイジり倒している様子ではあるが。
『そうだね、犬は従順で無邪気なところが好きかな。小学校の同級生の家が農場で、そこに居た牧羊犬とよく遊んでいたっけ』
『……へぇ、どんな犬かしら? 写真はある?』
坂元は、特段犬好きな訳ではないが嫌いでもない。
むしろ動物は全般的に好きである。
ただ、犬好きガチ勢であるアビーと上手く話を合わせられるかはあまり自信が無い。
『うーん、小学生時代のアルバムを引っ張り出せばあるんだろうけどな。……そうそう、子豚が主人公の映画に出演していた犬の子供だったんだよ。地元で話題になっていたなあ』
『……! ねえ。それなんて映画……?』
『ええっと、確か”ブーベ”だったかな――』
坂元の返答を聞いた瞬間、アビーは興奮冷めやらぬ様子となる。
『っ! それ、ひょっとしてボーダーコリーじゃないっ?』
そう言いながら、アビーはスマホに保存している愛犬、トーマスの写真を坂元に見せた。
『あっ! そうそうこの子と同じ犬種だよ』
坂元が小学生の頃、子豚が牧羊犬に弟子入りするといったコメディー映画がそこそこヒットしていた。
そこに出演していたボーダコリーの子供を、地元の農場で預かっていた時期があったのだ。
『……すごいわ。なんて奇跡なの』
彼女が生まれた年くらいに上映されていた映画だったが、物心ついた頃に買い与えられたDVDを観て以来〈ブーベ〉の大ファンとなっていた。
『ああ、なんていうことなの。私あの映画大好き! 子供の頃に100回は観たわ。子豚ちゃんが「オイオイオ〜」って鳴くの』
『ははっ懐かしいなあ』
世代も、生まれた国も違う2人。奇跡的な偶然が重なり、同じ映画について話に花が咲く。共通の話題があった事に感謝する坂元であった。
『そういえば、それはキミの家? 彼はパパ?』
先ほど坂元に見せていたのは、空母で受け取った手紙に同封されていた写真である。
アビーはあの後すぐにスマホでスキャンし、保存しておいたのだ。
『そうよ、パパもトーマスもとってもカワイイんだから』
屈託のない笑顔を魅せるアビー。
無邪気で小柄な金髪美女が放つ笑顔の破壊力は凄まじい。
坂元はそんなアビーに少し見惚れてしまった。
『……? どうしたの?』
『――あ、いや何でもないよ。過ごしやすそうな家だね』
『そうよ、アイオワだもの。広くて空気が綺麗なの! 今度遊びに来てよ。ていうか、アナタの昔のアルバムも見たいわ。フフ、交換留学ね』
それはそれはこの世のモノとは思えないほどに美しく、可愛らしい笑顔で受け応えるアビー。
――彼女は本当に軍人なのだろうか。天使ではないのか。
坂元は少し頬を赤らめてしまう。
『……あら? タクト、熱があるの? 大丈夫?』
『い、いやいや、そ、そうだ料理が美味しすぎて感激したのさ……』
当たり障りない感じで危機回避を試みる坂元。
あまりにも不自然な切り返しであるが、もはやそれが精一杯であった。
『そうね、どれも美味しいわ。私、ビュッフェって大好きよ。楽しいし美味しいんだもの』
そう言いながら幅の広いフォークでコブサラダをつつくアビー。
野菜も肉も好き嫌いなく食べる彼女に、やはり見惚れてしまう坂元。
料理好き男子からすれば、何でも美味しそうに食べる女性というのは何気にポイントが高いのだ。
『帰国して、休暇が取れたら教えてね。これからもずっと友達よ』
昼間、〈ハワユ〉という無料通話アプリをアビーから勧められ、連絡先も既に交換してある。
彼女が使う絵文字や
――なんだこの可愛い生き物は。
改めて坂元は思う。
――やはり天使ではないだろうか。
楽しそうに語り続けるアビーをチラ見しながら、坂元はもはや正常な思考が出来ないでいる。
おかげで、昼間食べたロコモコの味を忘れてしまった程だ。
『そろそろ終わりそうね』
アビーが呟く。
演奏会も終盤に差し掛かっており、夕食パーティは間もなくお開きの時間だ。
ビュッフェはもうほとんど残っておらず、まだまだ食べ足りない隊員達は、各々でコンビニやレストランを探し始めた。
明日から6日間、任務の無い者は原則休暇扱いとなる。
それぞれが好きな事をしながら身体を休め、大規模演習に向けて英気を養うのだ。
『ねえ、今日は楽しかったわ! 明日は少し任務があるから会えないけど、また一緒に遊びましょうね、タクト』
席を立ちながら、アビーは坂元に別れの挨拶をする。
『それまでにナオヤを鍛え直しておいてね、タクト』
漫画レベルの山盛りパスタを平らげて顔が緑色になっている木村。
坂元は木村に肩を貸し、アビーとテイラーに見送られながら自衛隊チャーターのシャトルバスへと向かう。
「……しっかりしろ、木村」
「んもえぇ……木村直也はもうダメであります……しぬ」
明日は木村の介護で忙しくなりそうだ――そう思う坂元であった。
「うっし、吉岡、このあと飯いくっしょ?」
「あっハイ。何がありますかね? 佐々木1尉」
1日目の夕食パーティも終わり、撤収を始める音楽隊員達。
彼らは、日本各地の海上自衛隊音楽隊より選抜された、特別編成の〈演習艦隊音楽隊〉だ。
吉岡と佐々木は共に横須賀音楽隊所属であるため、馴染みがある。
「あ、隊長! 私達も行っていいですか?」
「よいとも、皆川3曹! うっし、せっかくだし皆も一緒に行こうか」
舞鶴音楽隊所属の皆川が飛び入りし、全会一致で他の隊員も全員加わる。
演習が終わればまた離れ離れになるが、この機会に各地の音楽隊員と意見交換するのも有意義であると思う佐々木であった。
「私、ちょっとあそこの人に聞いてきますっ」
そう言うと、皆川は近くを歩いている米兵へ向けて一目散に駆け寄る。
190センチはあるだろう。サングラスをかけたガタイの良い男で、正直あまり声をかけやすい部類とは言い難い。
この人口密度から躊躇なく彼を選んだ皆川に、佐々木達は少し呆気にとられた様子だ。
「Excuse me sir!」
皆川は英語で元気よく米兵に尋ねる。
マレーシア人の母を持つ彼女は小さい頃から英語が堪能だ。
学生時代は吹奏楽部にも打ち込んでおり、語学力を活かしてさまざまな国で活躍できる仕事を夢見ていた。
そんな彼女は高校生の頃に海上自衛隊音楽隊の存在を知り、卒業すると同時に海上自衛隊音楽隊のオーディションを受けたのだ。
狭き門である音楽隊。落選する度に音楽隊への憧れが強くなり、終いにはバイトで生計を立てながら5年間かけて念願の入隊を果たした。
周囲からは無謀とも言われ続けていたが、己の信念を曲げない努力家でもあるのだ。
「……あの子、行動力はあるのよね。ちょっと無鉄砲だけども」
「そうですね。皆川3曹はちょっと突っ走りやすいのがネックです」
「まあ、実力はあるんですがね」
佐々木の呟きに、皆川と同じ舞鶴音楽隊出身の隊員2名が頷く。
『よぉ、音楽隊の制服だね。とても良い演奏だったぜ』
『フフフ、自衛隊の音楽隊員は優秀でしょう』
無邪気な笑顔で受け応える皆川。米兵のドスの効いた威圧感のある声を気に留める様子も無い。
『……あんた、楽しくてしょうがないって感じだな、良い表情だ。生き生きとしているね』
『そうよ! 私、今とっても充実しているのっ。アナタはどう? こんな暗いのにサングラスは変よ』
特別編成ではあるが、皆川はこの〈演習艦隊音楽隊〉を気に入っている。
選抜された身という緊張やプレッシャーはあるものの、それ以上にやり甲斐と楽しさが色濃いからだ。
『ハハハ、楽しそうで何よりだ。……俺は軽度の白内障でね。サングラスは必需品なのさ』
『あら……ごめんなさい』
時折、自分の無鉄砲さで人を傷つけてしまう事がある――今回もやってしまった。皆川は申し訳なさそうな表情を浮かべ、しょんぼりと肩を落とす。
『おいおい、俺は気にしちゃいないぜ。ところで俺に何か用だったのかい?』
米兵は軽く皆川の肩を叩き、彼女の落ち込んだ雰囲気を払拭するかのように話題を戻す。
『あ、ありがとう。そうだ。近くに、この人数が入れるレストランはある?』
そう言いながら、皆川は少し離れた場所から傍観している音楽隊メンバーを指差した。
『やあ、大所帯だね。そうだな……ここの、〈カイ・ピア・ザ・モアナ〉なんてどうだ。徒歩圏内だし、海も見えるぜ』
米兵は自身のスマホで周辺のレストランを検索。
自分が行ったことのある所をピックアップする。
『まあ、素敵なお店じゃない。お酒は飲めるの?』
すっかり元のテンションに戻り、一緒にスマホ画面を覗く皆川。
突如として顔を近づけたため、ほんの少しだけ米兵はのけぞる。
レストランのクチコミ写真が多く、見たところ料理は美味そうだ。
しかし、メニューを見る限り、飲み物はソフトドリンクしか見当たらない。
『ああ、ここは
『うう〜ん、明日以降は皆用事があるのよね……そうだ! コンビニならお酒も売っているでしょう?』
『うんっ? どういう事だ?』
そんな佐々木の発言に、片手で軽く空を仰ぎながらキョトンとした表情で聞き返す米兵。返答に困っているようにも思える。
『そうね、暖かくて気持ち良い夜空だし、食後はこの辺りの公園でお酒を飲みながら語らうのよ』
――やれやれ、やっぱりそんな事か。
そう言わんばかりに米兵は両手を広げ、肩をすくめながら口を開いた。
『アンタ、自衛隊では事前に説明されなかったのかい? ここはハワイ州だぜ。公共の場やリカーライセンスの無い場所での酒飲みは違法だよ。このパーティだって酒は出ていなかっただろう?』
彼は呆れたような語り口調で、それでいて優しく説明する。
そう言われると、出航時の打ち合わせで聞いていた事を思い出した。
選抜された特別編成の音楽隊という任務にかまけるあまり、事前の注意事項を失念していたのだ。
皆川は冷や汗にも似た感覚を覚える。
『話しかけたのが俺で良かったな。……ハッハッハ、俺は心地よい演奏に酔っていて誰とも会話していないさ。そう、アンタともね』
そう言い放ち、米兵はニヤリと笑みを浮かべながら拳を突き出した。
『……ありがとう。感謝してもし切れないわ』
出された拳に自分の拳を突き合わせながら、感謝と謝罪の入り混じった返事をする皆川。
気が滅入るとはこの事だろう。二度も失態を犯してしまった。そして二度も彼に救われたのだ。
『私、本当に自分の性格が嫌になるわ』
『……おいおい、気にするなよ。軍人たる者、それくらいの度胸を兼ね備えてないと務まらんと俺は思うね。むしろここに居る連中に見習わせたいくらいだ。ウアッハッハ』
失態を笑い飛ばすくらいに気持ちのよい説教だ。確かに、皆川は持ち前のバイタリティで実力を身につけて来たのは間違いなく、無鉄砲は短所であり優れた長所とも言えるだろう。
『アンタ、良いモノ持ってるぜ。これからもその調子で頑張ってくれよ』
『……あ、ありがとうっ――』
感謝の言葉も出ず、皆川はホッとした表情で米兵を見つめている。すると、米兵は満足気な笑みを浮かべながらくるりと踵を返し、本来向かっていた方向へ歩き去って行った。
「――皆川3曹、どうだった?」
「……吉岡さん、ハワイって、お酒飲みながら歩いたらダメなんですね……」
米兵との会話を終え、佐々木達のもとに帰ってきた皆川。
同じ3曹である吉岡が声を掛ける。
「……うん、ダメでしょ」
本気で残念そうに落ち込んでいる彼女の姿に、心底呆れながらツッコミを入れる吉岡。
隣に居る佐々木の表情は少し険しい。
「……わりと厳重に周知しておいたはずなんだけどな。皆川3曹、やはり注意力が足りないよ」
まだ本格的な演習の開始前であるが、佐々木はやるべき仕事を見つけた。
他の隊も含め、同じ考えの隊員が出ないように改めて周知徹底に努める必要があると判断したのだ。
ちょっとした事でも穴埋めしないと気が済まない佐々木は、食事会の参加を見送って仕事を優先する。
「あなた達でそこのレストランに行ってきなさい。そしてしっかり楽しむのよ。わかった?」
現時点ではインシデントとも言えない程度の小さな出来事だ。
なので佐々木が皆川を咎める事は無い。
隊員同士でしっかりと英気を養い、音楽隊としての結束を高めてもらいたい所だ。
「うう……でも隊長がいないと――」
「これは命令よ。いつまでも気にしていたってしょうがないからさ、気楽に楽しんで来なさい」
仕事を完璧にこなす隊長、佐々木久美佳1等海尉。
親しみやすい性格ながら抜け目のない所があり、隊では今や頼れる保護者のような存在だ。
「了解です。申し訳ありません……」
佐々木に言われた「楽しめ」をしっかりと遂行するため、意気消沈した皆川を連れて隊員達はレストランへの移動を開始する。
「んぬぬう、むぎい」
「……稲村2曹、どうしたんです?」
何やら一点を凝視する女性自衛官、稲村由利2等海曹。
今日は部下と一緒に食事を楽しんでいたものの、ずっと気になっている事があった。
「うぅ橋谷、どう思うよアレ」
両腕を組みながら仁王立ちし、顎で指すような仕草をする稲村。
その先には、2人の男性自衛官に笑顔で手を振る金髪美女とラテン系美女が見える。
「ううん、そうですね。羨まし――」
「どっちが?」
グイッと顔を橋谷に近づけ、化け猫のような形相で問いただす稲村。
橋谷は若干焦りながらも、率直な感想を答える。
「自分も、あんな金髪やスタイルの良い人と仲良くなりたいで――っふんぐゎ」
見事なスリーパーホールドが決まり、橋谷は声が出せない。
稲村はもはや般若の形相となっている。
すかさず橋谷は稲村の腕をタップし、ギブアップの意を示した。
「……っはぁ、どっどうしたんすか。急に」
苦しそうによろける橋谷。
突然の稲村の行動に理解が追いつかない様子だ。
「ぐぬぬぅ、アイツよアイツ! 坂元ぉー!」
「うん、いや、誰すか、坂元さんって……」
「っふ……そうだね、橋谷は知らないよね」
ひと呼吸あけ、稲村は落ち着きを取り戻す。
もともと、稲村と坂元は高校の同級生であり、日頃から仲良くつるんでいた。
坂元は料理の専門学校を目指しており、稲村も追いかけるように同じ専門学校を志望していたのだ。
しかし高校3年の秋頃、突如として坂元は「俺、海上自衛隊に入る!」などと言い出した。稲村は困惑する。
自衛隊なぞ進路として検討したことも無かったし、全くイメージが掴めない。
そのまま進路を決めかね、結局稲村は専門学校へ進学する事になる。
対して、坂元は見事に海上自衛隊への入隊を果たし、たまに連絡を取り合った時には写真を送りあう事もあった。
海上自衛隊にはさまざまな仕事があり、まるで冒険をしているかのように色々な体験ができる。
坂元の話は専ら海上自衛隊の素晴らしさを説くモノばかりだ。
よほど充実しているらしい――稲村はそう感じた。
およそ2年間、そんなやりとりが続く。
二十歳となった稲村は専門学校を卒業。就職先はやはり、海上自衛隊であった。
結局、未だ坂元を追いかけ続ける自分に可笑しくなりながらも、自分の選択に悔いてはいない。
確かに大変な部分はかなりあるし、坂元が言っていたように充実感を得られる仕事でもある。
2曹となった今ではそこそこの収入も得られているし、何だかんだ今の仕事を気に入っているのだ。
願わくば坂元と同じ護衛艦で勤務できればと思っていたが、流石にそこまで上手く行く事は無かった。
現在、稲村はあたご型護衛艦〈たいせつ〉の給養員として働いている。
そして、今回の大規模演習へ参加することが決まり、坂元が乗っている〈たるまえ〉も艦隊に含まれると聞いたので意気揚々としていたのだ。
たまには2人でゆっくりと一緒に食事でも――と思っていたのだが、何やら見慣れぬお邪魔虫と一緒だったため近寄れなかったのである。
「あぁ〜、なるほど。追っかけみたいなもんスね」
「そうそう、追っかけも大変なのよ。解ってくれるかい、橋谷」
軽くため息を吐きながら、しっかりと橋谷にスリーパーホールドを決めている稲村。
必死にタップしている橋谷は顔が青ざめている。
ともあれ、坂元の元気そうな顔が拝めただけでも良かった――そう思う稲村であった。
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